「神が失われつつある時代」にメンヘラはいかにして生きるか? 『さよならの朝に約束の花をかざろう』レビュー

著者:匿名。読了目安:10分。

 

女とは驚くべき存在だ。何も考えていないか、それとも別の事を考えているかのどちらかだ。(アレクサンドル・デュマ

 

◆序◆

 

神なき時代に照らし合わせて現代を語られることが多いが、本作はまさに「神が失われつつある時代」に現代的な感性を持った人はどのように振る舞うのかが描かれている。

 

メザーテと言われる王国が周辺王国への権威誇示として利用していた古の巨獣が、謎の病気である赤目病を発症しメザーテ王国はたちまち権威の失墜に悩まされる。

 

また、周辺王国のメザーテ王国に対する反乱意識を押さえ切ることができずに、たちまち一国によって統治されていた社会システムは崩壊する。

 

このようなメザーテ王国の情勢の中で、数百年を生きる長寿の一族「イオルフ」の少女マキアとレイリアは、運命を振り回されることになる。

 

彼女たちはその特殊な生態から、絶対的な価値(彼女たちにとって一番大切にすべきもの)と常に迫られる忘却(「イオルフ」は他の一族と交わってはならないという掟)の中で生きなければならなかった。

 

本稿は「神が失われつつある時代」を迎えたメザーテ王国で、絶対的な価値を信じ続けられない現代的なメンヘラと言える彼女たちに焦点を当てていく。レビューの形式を取るため、散漫な文章構成や、本論を展開する上で必要な場面の抽出にご容赦いただきたい。

 

(特にネタバレを気にする方は、まず映画をご高覧いただきたい)

 

◆1◆

 

さて、「イオルフ」の少女であるマキアとレイリアをメンヘラと位置付けたのは、彼女たちが「本来的な意味で母親になっていなかった」からである。

 

マキアは息子として育てるエリアルを身籠っていないだけでなく、数百年という人並み外れた期間をほぼ同じ姿で過ごす特殊な生態から、後にエリアルの母親という役を放棄せざるを得ない状況を迎える。

 

マキア自身、エリアルの面倒を見続けることに精を出していたが、母親という役割に対しては寛容だった。「子供扱い」に反抗したエリアルに対して、マキアは自分自身の役割について問い続ける。マキアはエリアルの面倒を見るために、「母親」という役割を一時的に用いていたのだった。

 

対してレイリアは、一度は娘を身籠もるがメザーテ王国の企図により子育てをさせてくれない。娘であるメドメルとの隔絶を余儀なくされたレイリアは、成長を目にできないメドメルの姿を乞いながら孤独に生き続けるしかなかった。

 

彼女たちが「本来的な意味で母親になっていなかった」ことを象徴するセリフが、マキアとレイリアに共通して存在する。

 

炎の上がった赤いカーペットの横で、レイリアがメザーテ王国の軍人であるイゾルにすがる。そして、今までメザーテ王国での軟禁生活に耐えてきたのは、自分の娘であるメドメルがいたからだと告白する。

 

母親としての大義にふさわしいこのセリフは、一方で彼女たちがいかにエリアルやメドメルに依存してきたかを物語っている。

 

つまり、メンヘラは母親になれないということではなく、彼女たちは誰かへの依存を通じて生きるしかなかったという意味でメンヘラであり、母親としての存在意義に疑問符を投げ続けなければならなかったのだ。

 

◆2◆

 

本作では、マキアとレイリアを通して複数の家族の姿が描かれている。特にマキアは住居を転々とするシングルマザーとなり、レイリアは娘との隔絶によって幻想となった家庭に悶絶する。

 

十代なかばの若い姿で生きる彼女たちは、開放的な暮らしを送っていた故郷を去って「母親役」としての自立を余儀なくされる。この過程は、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』(2012)とは逆の方向性を貫いていると思われる。

 

おおかみこどもの雨と雪』では、狼男と人間の間で生まれた雨と雪が、周りの人間とは違う境遇に悩みながら自分の人生の指針を見つけ出していく。

 

すなわち、おおかみこどもの雨と雪』は子供達の母離れに焦点を当てていたのに対し、本作は母親たちの子離れを中心に描かれていたのではないか。

 

もちろん、この過程における母親(役)の成長や、子供達の自立を無視することはできない。母親と子供は、同じ時間を生きる中で常に表裏一体の関係にある。

 

しかしながら本作のマキアは、数百年という長い寿命の中で奔放な少女としての面を忘れていなかった。

 

場面が大きく切り替わる所で、特に別れを伴うシーンにおいて、似たような絵の構図を目にするだろう。

 

最初に挙げられるのは、マキアが古の巨獣に絡まった布に捕まりながら故郷を離れていくシーンだ。夜への別れを告げながら正面に昇りゆく朝日が、山々を目下に見下ろしながら新天地へ進む古の巨獣を照らしている。

 

そして象徴的なのは、足に怪我を負って倒れていたエリアルに別れを告げる時のカットだろう。薄く水を張った城の一角に足を入れたマキアは、アーチを描く石橋の桁下から覗く太陽に向かって歩いていくようだ。

 

これらの構図は、別れを通じて(そして、どちらも朝である!)彼女が持つ新しい世界への憧れを描いているとしたら大袈裟だろうか。

 

絶望的な状況であれ、自分が生きる意味を未来に托すマキアの姿は、忌々しいメザーテ王国での記憶を「忘れたがって」いるレイリアとは対照的である。

 

◆3◆

 

長寿の一族「イオルフ」を考える上で、ある重要な慣習について最近のアニメ映画と比較しながら考察を深めたい。

 

それは、序盤とエンディングで用いられていたヒビオルという機織のモチーフである。イオルフの長老によれば、「イオルフ」の織る白い布では縦糸は流れ行く月日、横糸は人のなりわいを表しているという。

 

日本で空前の大ヒットとなった新海誠監督の『君の名は。』で、宮水神社で織られている組紐とは、神の力による「結び」を意味していた。

 

糸を繋げること、人を繋げること、時間を繋げることは全て神の力であり、組紐(または、話題を呼んだ口噛み酒)の奉納は神に身を委ねる人々が代々続けてきた因習である。

 

私たちはここで、糸を紡ぐことにおける異なる二つのスタンスを目にしている。

 

本作においては止まらない時間の流れによる永遠性と、人間社会の流動性や断続性が機織に結実している。『君の名は。』においては、神の力による「結び」がのちに時間と空間を超える二人の運命を結びつける。

 

すなわち、君の名は。』においては「結び」による神の力を信じること、運命に身を預ける人々の姿が描かれていたのに対して、本作においては運命を見届けるイオルフたちの姿が浮かび上がるだろう。

 

しかしながら、これは人間離れした特殊な境遇にあるイオルフだけの話ではない。勿体無いと評される、エリアルの子供が生まれるシーンを思い起こそう。

 

勿体無いと評される理由は、赤ん坊が生まれるショットと、反乱によって人が殺し合うショットを交互に入れることによって、生と死の二項対立を明確にしたからだ。

 

特に序盤から殺人や老衰による死が繰り返し登場し、マキアやレイリアを戸惑わせる。

 

生と死の連続を乗り越える中で、家族の形や異族種による交流に物語の焦点を当ててきたことを考えると、この演出は惜しいと言わざるを得ないだろう。

 

さらにこのシーンを家庭という視点から見れば、反乱で死と向かい合わせになって戦うエリオルの男性的役割と、赤ん坊を産むために奮闘するマキアたちの女性的役割を端的に描写している。同じ場面で苦しみ続ける両者の姿は、ジェンダーバイアスに対してどのようなメッセージを投げかけているのだろうか。

 

このシーンから浮かび上がるのは、機織のヒビオルが象徴する永遠性が持つ残酷な二面性である。

 

止まることのない時間の経過の中で、「人の排除と歓迎の繰り返し」が人間社会を成立させている。そこに経済や政治、宗教が発生するからだ。生態学的に述べるならば、死の連鎖と生の連鎖が人間社会を発展させるための必要条件なのである。

 

生と死の連鎖はランダムに、そして確実に訪れ人間は逃れることができない。

 

本作で描かれる人間たちは、「神が失われつつある時代」において、箱庭の中で蠢き続けるように、人間を操り続ける不可解な運命の下で人生を全うしなければならないのだ。

 

ヒビオルを織り続ける長寿の一族「イオルフ」は、このような人間の姿をただ眺めることしかできない。

 

マキアが人間の生誕から死去までを見送る時、神の視点を獲得したにも関わらず涙を堪えることができない。それは私たちが悲しい出来事に立ち会った時、または過去を振り返る時に、「ただ傍観者としてしか存在できない」私たちの苦しみを体現してはいないだろうか。

 

◆4◆

 

さて、マキアとレイリアが合流するシーンで、故郷を離れた後の出来事を忘れるか否かという会話がある。

 

忌々しいメザーテ王国での記憶を忘れたいと述べるレイリアに対し、マキアは忘れないと力強く宣言する。母親としての役割を離れた彼女は、記憶への依存を肯定せざるを得ない運命を受け入れていた。

 

筆者は、この態度は違った意味で彼女の人間(?)性を明らかにしているのではないかと考える。

 

そもそも、故郷を離れたマキアは自身の生業を失い自分の存在意義を問われることになった。

 

しかし盗賊に襲われ全滅した流れ者の部落で、刺殺された母親らしき人が抱いていた赤ん坊を引き取る為、赤ん坊を押さえる彼女の指を一本一本力を入れて曲げていく。

 

バロウの忠告をよそに、彼女は「おもちゃじゃない」と主張しながら赤ん坊を抱きしめた。これは、他の部族と会ってはならないという「イオルフ」の掟を犯す行為であった。

 

しかしながら、◆1◆で述べた通り彼女は一時的に「母親」という役割を用いたにすぎない。

 

彼女は人間とは違う生態から、歴史の傍観者として赤ん坊を見ることしかできない。

 

そして、その赤ん坊へ依存していくしかない彼女は「本来的な意味で母親になっていなかった」。

 

貧しい環境で生きざるをえない赤ん坊、すなわちエリアルの成長と衰弱の中で、彼女はただ自分の存在意義を見つめ続けることができたのだ。

 

まさしくエリアルはマキアによる人文科学的な観察対象であり、その意味で皮肉にもマキアはエリアルを「おもちゃ」として見てきたのではないか?

 

この説は一族の掟を破った彼女の主観的選択から導かれる、一つの結果論であると言えよう。

 

しかし、SFと社会の関係を巡るよくある通説に従えば、私たちの社会が悪くなっていくこと、すなわちSFで描かれてきたディストピアの世界が現実味を帯びているのは、私たちの主観的選択の結果だからである……

 

ここで『君の名は。』における重要な展開、「結び」によって起きた主人公たちの体の入れ替えを思い出すのは有益だろう。

 

体が入れ替わった後で、温情を理由にして彼らは入れ替わった相手の人間関係を変えてしまう。

 

例えば、男子高校生である瀧と入れ替わった三葉が、瀧が勤めるバイト先の先輩である奥寺先輩とのデートをセッティングする。

 

初めてのデートに緊張し戸惑う瀧は、会話を続けることができずに、奥寺先輩から「別に好きな人がいるみたいね」と言われ別れてしまった。

 

この場面では、三葉が瀧の姿を借りて「奥寺先輩が興味を持つ瀧の像」を演じることにより、幸せを手にする瀧の像に理想を見出していた。

 

そして、糸守町で起きた彗星を巡る事件を機に、時空と現実を超えたカタワレドキの瞬間、三葉は「理想としていた瀧の像」に出会う。それは、もう手に入れることの出来ない、そして記憶に残すことも出来ないかもしれない他人の像だったからこそ理想として輝いていた。

 

したがって、二人の体の入れ替わりが招いたのは、運命的な出会いではなく、相手の「人となり」を操作し他人からの見え方を変えること、つまり他者の仮面を巡る闘争だったのではないか

 

非現実的な境遇を理解していた三葉にとって、瀧と出会うことは「理想としていた瀧の像」に対峙すること、すなわち自分の垢にまみれた仮面を取り戻すことを意味していた。

 

これは、カタワレドキという瀧の像に対する理想が最も崇高な形で成立する時に実現したのだ。

 

君の名は。』で起きた体の入れ替えは、入れ替えの記憶を通じて「求めざるをえない相手」を探し続けること、すなわち運命に身を委ね続けることで、逆説的に主観的選択としての未来を避けることができた。

 

しかしマキアは、歴史の傍観者あるいは運命を見届ける人として母親の役を引き受けていたにも関わらず、ある意味反現実主義者のように主観的選択に身を託した。だから、子育てや人間社会の生業を通じて壁にぶつかった。

 

自分の主観的選択によって巻き込んだ人間の運命を、科学の枠組みで捉え直すこと……これは彼女だったからこそ人間社会で行使できる、特権的な振る舞いだったのではないだろうか。



参考文献

岡田麿里(監督・脚本)、2018、『さよならの朝に約束の花をかざろうP.A.WORKS

新海誠(監督・脚本)、2016、『君の名は。コミックス・ウェーブ・フィルム

細田守(監督・脚本)、奥寺佐渡子(脚本)、2012、『おおかみこどもの雨と雪スタジオ地図




※本稿は、2018年2月に公開された岡田麿里初監督作品『さよならの朝に約束の花をかざろう』のレビューである。特に友人Kには、有益なアイデアを頂いたことに感謝する。




セックスをするのでヤリマンと呼んでください

 

正直ヤリマンという呼称は物凄く嫌いだしどちらかというとビッチという呼称を使っているけど、今回は

http://circlecrash.hatenablog.com/entry/2017/12/10/212528

に対する返答記事としているのでこのタイトルを採用しました。なおこれ以降の表記はビッチで統一したいと思います。

 

さて、初っ端からぶちかまそうと思います。私はビッチです。

カプリスくんもやっていたように、自己語りから始めたいと思います。

 

承認欲求が強く、そのくせ自己肯定感が低いこと、コミュニケーションがうまく取れないこと、なんかが私の拗らせですね。コミュニケーションに関しては自身のアドベント外伝で散々語ったので割愛気味に。

詳しくは

 http://ikita-kiroku.hatenablog.com/entry/2017/12/22/022337

http://ikita-kiroku.hatenablog.com/entry/2017/12/08/223730

こちらをお読みください。

 

私も割とコミュニケーションを拗らせていて、どこからもふわふわふわりと浮いているような感覚で暮らしていました。

性別が女であるため、より他人に気を配ったコミュニケーションが求められていたものの、私生来の気質が割と男っぽかったからか、特に同性に好かれにくかったです。

私は保育園から小学校に上がる頃に隣の学区に移ったため、小学校のスタートダッシュに転びました。盛大に。

思えば勉強とか遊びとか、一生懸命注目を引こうとし始めたのはこの頃だったと思います。

小•中はいじめられていました。小学校では男子から、中学校では女子から。一番酷かった時でも陰口、菌扱いとか程度だったのでいじめられた中では軽かったのでしょう。心に傷を残すのには十分でしたが。

で、そんな状態で全くモテ/恋愛と遠いところにいました。中学入った時にはキスで子供ができると思っていたくらいですので、性とも遠いところにいました。

 

さて、自己の性語りを掘り下げる前に私の中の「ヤリチン」と「ビッチ」の定義について書きたいと思います。
私にとってこれらの言葉は経験人数も頻度もあまり関係ないものとしています。
「ヤリチン」は初めて関係を持つ人相手に自分の快楽を求め始めたら、「ビッチ」は性交時など嫌になったときに断れないこと、だと考えています。
モノガミーだけが愛の形でないのに、同時に複数がダメ、なんておかしいなと思うのです。
性交は女性にリスクの高い行為です。その中で自分の欲だけでしようと思あ、実行するのであればそれはヤリチンなのだと思います。相手を気持ちよくさせる、相手との理解を深めるために自然と気持ちが盛り上がって、したいと思ったならいいんじゃないでしょうか。
女性は妊娠や病気などリスクを負う以上、嫌と言えなければビッチだと思います。
とはいえ、これは精神的な話になってしまうので短期間に複数の異性と関係を持てばその蔑称で呼ばれても仕方のないことなのかな、と思っています。

 

中学からは演劇部に所属したのですがその入ったのも間違いだったのかもしれません。先輩達がBLやエロい話が大好きで、エロい話が分かると、先輩に仲間に入れてもらえました。生来真面目であった私はネットで色々と調べるなどしてどんどん知識を増やしていきました。

そこでなんとなく、セックスを経験してみたい、と思うようになりました。

初めてした時は身体中筋肉痛になり、性交痛も酷く何回も何回も抜いてもらいました。よく中折れもせず付き合ってくれたものだなと思います。

そこから何が開花したか、セックスに目覚めました。とはいえ、カプリス君の場合より少し特殊で「童貞」とすることにばかりこだわっていました。

 

他の誰も知らない人の、初めての相手になること。

 

これはとっても承認欲求を満たすことができました。それと同時にこんなことでしか承認欲求を満たさない自分に虚しさを強く感じていました。

頻度で言うと恐らく私は初体験以降今に至るまで献血出来なくなっているのではないでしょうか。とはいえたまに聞かれるけれど経験人数は20人もいっていません。が、下宿していたらそれくらい増えていただろうな、と思います。

  

カプリス君に関して、寂しさを満たす、承認されるためのセックスってところ、とても共感していました。だからこそこの記事に関して失望したところではあります。

これは私の持論になってしまうので、あくまで自己語りと思ってくだされば良いのですが、性行為で繋がる以上、悪評や蔑称とも真摯に向き合うべきだと思うのです。例えば、同じ界隈の友達同士として、その間で隠してしてたのがバレたりしたらそれだけでヤリチン扱いになってもしょうがないのです。そのリスクを取らずに自己開示したところで、あまり意味がないと思ってしまいます。

 

さて、童貞とすることで承認欲求を満たされる私ですが、最近あまりいい恋愛を出来ていません。高校生の頃の初めての恋人以上にお互いを大切に(私がうまく大切に出来ていたのか分かりませんが)できる相手がいないのです。

それに関して多くの方から自己肯定感低すぎる、恋愛のステップがおかしいと指摘をいただきます。


私はビッチですが幸せになりたいのでそろそろある意味「ちゃんと」生きたいとは思っています。それが難しいのですが。

 

 

寂しくていいね

この記事はサークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2017の25日目の記事です。

 

“1人にしてほしい 1人でいたくない”

 

 

・高校生のとき、いつも一緒にいる仲良しグループはなかったけど別によかった。

1人でスマホを見てたし、親友は各々でやっていっていた。

でも1人教室でぼんやりしている時間は寂しかった。

 ・放課後は1人にしてほしい。

寄り道をしたいし、街を冒険したい。教室でなんとなく雑談に混ざってしまい、抜けるタイミングを逃しちゃうのは避けたい。

でもまたねも言わないでその場から消え去るのはいつも少しだけ寂しい。

・好きなバンドのライブには1人で行きたい。

そもそもそのバンドを好きな人が周りには見当たらないし。ライブ会場では1人なら立つ場所とかで困らないし、途中、移動をしてもいいでしょ。

でも会場で誰とも喋らないで帰るのは寂しい。

・大学では1人で講義を受けたい。

どこに座るかは毎回気分で決めたいし、授業中に隣を気にしたくない。

言っちゃえば移動も1人でしたい。

ちょっと購買寄るとか、ちょっと図書館寄るとか。突然何らかの行動を入れたくなるから。

でも大学でずっと1人なのは寂しい。

・飲み会で1人でいる時間は嫌いじゃない。

他の人が他の人と喋るのを見て、表情の動きとか見るのが好き。誰かが注文しようとしてお店の奥を見やっているところとかを見るのが好き。どこかの会話が耳に入ってくるのも悪くない。

でもずっと1人はやっぱり寂しい。

・電車は1人で乗りたい。

私はトイレが近いから、電車に乗る直前にトイレに行きたい。それを言い出すのは勇気がいるし、やっぱり恥ずかしいし、電車に乗ってもトイレに行きたくなったらどうしようという不安でつらい。1人なら好きに途中で降りられるのに。

でも1人で移動する時間はちょっと寂しい。

・好きなアイドルのライブにも1人で行きたい。

上のバンドと同じ理由もあるし、アイドルを見ているときの自分の表情は多分だらしないから恥ずかしいし。

でも普段の人との会話で好きなアイドルの話ができないのは寂しい。

Twitterでリプライが来るのが苦手。

知らない人から来たら特に。返信を送るということがどうしても下手で、どうも相手と同じノリになれてない気がしている。

でも一切来ないのは寂しい。

・LINEの返事が苦手。

気を抜くとすぐに「うーん……」とだけ送っちゃう。何か具体的な内容のある返事を書くのがどうも苦手。

でも誰からもLINE来ないのは寂しい。

TwitterのリプライやLINEで適当な雑談をするのも苦手。

自分が面白いと思って送っても思いっきりスベってるかもしれないし、相手が僕のように返事が苦手な人だったらと思うと送れない。

でも誰とも会話しないのは寂しい。

・夜は早く1人になりたい。

誰かといると自分の振る舞いに気をつけなきゃいけないし、相手の挙動にも気をつけなきゃいけない。自分のしたいようにできないのが嫌。私だけの夜は好き。

でも夜に1人はちょっと寂しい。

 

 

これらは救いようのない寂しさだ。一緒にいてくれる人ができたら1人にしてほしくなるだろうことが自分でも目に見えている。

 

オタクが羨ましかった。なぜか友達ができない。オタクになれなかった。正確には誰かと趣味を共有できなかった。「わからない人はそれでよろしい!」のスタンス、当然誰も反応してくれなかった。いや、わかっても私と君は親しくもないのだから君が反応を返すことはなかっただろうし、もし君から何か反応が来てたら私はその返事を書くのを面倒くさがっていただろう。

 

今や大学1,2回生がやるようなTwitterのノリがすっかりできなくなった。いや、したいなんて思わないし、私は今の自分のTwitterのスタンスがそれなりに気に入っている。でも人と気軽にやり取りする様子を見ると、たまに羨ましくなる。それになりたいとは思わないけど、羨ましくなる。

 

気づけばいつも一緒にいる人、なんていない人生だった。

いつも気兼ねなく喋る友達、なんていなかった。

数少ない友達は私とは別の、大切な場所がいつもあった。それは私も同じだ。

それなりに親しい(とこちらが思っている)人は、自分とは生きる場所が違う。お互いの場所でそれぞれ頑張って、たまに会って話すぐらいで、私はそれでいいと思っているし、これぐらいの距離感が結構好きだ。親友と思っている人とも1か月に1回ぐらいしかLINEをしていない。もう何か月も連絡を取ってないけど親友だと思っている人もいる。これでいい。これでいいはずなのに、たまに寂しくなるのはなぜだろう。

 

深夜に漠然と浮かんでくる「誰かと何かを話したいけど、話したいことなんてない。話したい人もいない」という寂しさ。

 

これでいいと思っているはずなのに、それでもどこかでこれではつらくなってしまう。自分の生き方を大きく変えることはできない気がする。この生き方、距離感を好きだと思う自分がいるから。でもこのままだと私は一生寂しいままなのだろうか。いいと思っている自分がいることを私はわかっている。これが私だと思っているのだから。それでもどうか、いつかの私はこの寂しさに押し潰されませんように。寂しさすら愛せてしまえますように。寂しくていいね。

 

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 

お疲れさまでした。サークルクラッシュ同好会会長のかしぱんです。12月1日からたくさんの人間が書き続けていた「拗らせ自分語り」も僕のこの記事をもってひとまず終了です。(書き終わっていない人がまだ追加してくれる可能性はあるけど。)書いてくれた(書こうとしてくれた)人たち/読んでくれた人たちに感謝を伝えたいと思います。書く人も、読む人もいなければ成立しなかった出来事です。

 

今回のアドベントカレンダーは「拗らせ自分語り」というテーマで各人が自分なりの「拗らせ」を言ってきたわけですが、改めて「拗らせ」ってなんでしょう。最後に「拗らせ」に対する私の考えていることを書いてみようと思います。

 

私は「拗らせ」の核にあるのは「つらさ」だと思います。*1*2(私の上の文章で言えば寂しさになる。)たとえば「拗らせ女子」という言葉が発明されるきっかけとなった(と私は思っている)雨宮まみさんの『女子をこじらせて』では、自分が女性であることを上手く引き受けられない(女性性の発露にどうしても違和感を覚えてしまう)体験談が書かれているわけですが、元をたどれば「この状況がなんかつらい」というのがあったのではないかと思います。「つらい」からこそ「このつらさはどうして生まれたのだろう?」「どうすればつらさが解消されるのだろう?」「そもそも自分はどうしてこうなってしまったのだろう?」といったように考えを巡らせるようになります。この巡っていくさまが「拗らせ」として考えられるものではないかと思っています。

小津君の記事の比喩を借りれば、靴紐が絡まっていてなんとなく歩きづらくなっている状況、この「歩きづらさ」にこそ「拗らせ」の根源があるんじゃないかなって思います。「歩きづらさ」の原因を考えてしまったり、それでも歩こうと何とか解決策を考えたりしますが、やはり「歩きづらさ」は残り続ける。じゃあ次はどうすればいいんだろう?こうしてみよう。やっぱりだめだ。。。こういう「つらさ」が続いていくことが本人の「拗らせ」になるんじゃないかなあって思います。

はい、考えは以上です。以下はおまけです。

 

この「つらさ」は消えないものでしょうか。生きづらさと向き合う作業はそれ自体が「つらい」です。それでもその生きづらさに向き合って拗らせの原因にある「つらさ」をよく見ていくと「そもそも自分がそのように生きてきた/生きてこざるを得なかった」というような状況が見えてくるのではないでしょうか。それがわかったときに、ではそのように生きてきた私を簡単に捨て、新しい私として生きていけるのでしょうか。それは難しいと思います。難しいからこそ「拗らせ」るんだ!

 

翻って他人の「拗らせ」が時折ひどく愛しく、愛らしく見えるときがあります。それはひたむきに自己と向き合っていくからです。(これはバカにしているとか、そういうのではないです。言葉にするのが難しいんですけど、「ああ、いいなあ」となんとなく思ってしまうような感覚を言っています。このアドベントカレンダーを読んできた人には少しでもそれが伝わるんじゃないかと思っています。)その人らしさ、その人のどうしようもなさみたいなものが「拗らせ」という状況ではあからさまになる。「君の言い訳は最高の芸術」です。君の「拗らせ」は君だけのものだよ。でもなぜだかそれは私でもあるように思えるんだ。

 

おまけも終わりです。

サークルクラッシュ同好会のアドベントカレンダー「拗らせ自分語り」もこれでひとまず終わりです。(明日以降も書ききれていない人の追加や、番外編の投稿があるかもだけど。)25日間ありがとうございました。

 

*1:私のこの考えは実は11月24日に東京大学駒場祭で開催された「こじらせ東大生の恋愛相談会」に参加した際に、登壇されていた熊谷晋一郎さんの「「こじらせ」って苦しいっていう状態がまずありますよね。」という言葉が印象的で、そこから考え至った(正確には「ああ、たしかにそうだなあ」と実感した)ものです。(これは私の記憶なので熊谷さんの発言はこのようなものではなかったかもしれません。事実と異なっていたらごめんなさい。)

*2:駒場祭のこの企画のために作られたHPも結構面白そう(まだ全部は私も読んでないけど。)きみも「こじらせ」てる?;東大生が恋愛の「こじらせ」を定義してみた【前編】 – こじらせ東大生の恋愛相談会

犬のうた

犬のうた

 

 ー

忠誠を誓いたかった。

 

いつまでも貴女に、一生この身を捧げたかった。

 

僕は今、岐路に立たされている。

 

ひとつは宿願の道。ひとなみの幸せ、ひとなみの関係。あるいは、ひとなみ外れた関係性。

 

もうひとつは、誇りの道。

 

貴女を主人と崇めたて、永続的な愛を注ぎ続ける。報われずとも、幸せな道。

 

僕は貴女の一挙手一投足に夢中だった。貴女が悲しめば、僕は悲しい。貴女が嬉しければ、僕もうれしい。

 

僕は貴女に永遠の愛を誓った。恋人ではなく、犬として。

 

不均衡な関係性が、僕は好きだった。ご主人様がかまってくれないのをじっと待ち、時々こちらに愛が向いた瞬間、この瞬間が、僕は大好きだ。

 

ご主人様の愛が減衰していった。捨てないよ、その言葉は維持されつつも、無条件から条件つきのものとなった。

 

それでも、ご主人様は僕を捨てなかった。僕がしゅきしゅきとワンワン吠えれば、呆れ顔で僕をなだめる。

 

僕は貴女に理解された。僕を貴女は必要だと言ってくれた。

 

閉じた世界で、2人きり。錯覚にすぎないが、僕の大切な思い出。

 

誇りを通すなら、僕はこのまま犬でいるべきだ。

 

一度誓った忠誠を、減衰させていいのだろうか。

 

愚問だった。良くない。

 

本来なら、この場で僕は忠誠宣言をするべきだ。

 

報われずとも、貴女以外目に入れない。

 

その物語をここで記すことで、僕は真に犬になれる。

 

本当なら、ここにそれを記すべきなのだ。

 

しかし、もう片方には宿願の道。

 

女性に縁がなかった僕が、初めて手に入れられるかもしれない関係性。

 

そして徐々に、その道も代替可能なものから非交換なものへと変わりつつある。

 

人が愛をもとめる理由のひとつには、自画像の安定があるらしい。

 

自分はこうだ、かくある、というイメージを、最愛の人から承認してもらうことで、はじめてそれがほんとうなのだと実感できる。

 

僕は犬である自分を、ご主人様に認め続けられていた。

 

恋人には決してなれなくても、たしかに僕は幸せだった。

 

今はまだ、結論が出ない、岐路の半ばで、僕はただ茫然と立ち尽くす。

 

贈与の愛を、僕は貴女に与えられていたのだろうか。

 

貴女を愛することが、僕はできていたのだろうか。

 

そうだった、と言い張りたい。

 

犬である権利を僕は失いたくはない。貴女が落ち込んでいるときに、ただそばにいさせてもらえるかもしれない権利を、僕は失いたくはない。

 

宿願の道は、ひとの道。犬としての自分は、放棄された道。

 

犬たる者、二君に仕えることがあってはならない。自分の好意がご主人様全てで占められていなくてはいけない。

 

ご主人様を変えるなど、原理的にありえない。

 

そもそも、ご主人様―犬という関係性とは、流動的な愛を打ち切るための機構であった。

 

彼氏・彼女という言葉を僕は憎む。

 

そこにはどうしても、流動的なニュアンスがつきまとう。

 

もっと別の関係性を求めて、「女神」と女性を崇めることもしばしばあった。

 

女神が仮想的な機構であったのならば、それが現実となったのが「ご主人様」でった。

 

ご主人様に愛を注ぎ続けることで、僕は軽佻浮薄な性愛を繰り返す若者とは分離された、ひとつの紳士になることが出来ていた。紳士とは、ドMのことを指していた。

 

貴女の話を僕は聞いた。そのすべてが魅力的で、僕は貴女の虜になった。

 

僕の話を貴女は聞いた。僕の今まですべての人生が、貴女の中に刻まれることで、すべての承認・赦しが得られたような気がした。

 

「許しましょう」それが貴女の口癖だった。ご主人様―犬の関係は、人間―女神の関係と相似にあった。

 

僕の罪は、貴女という神父によって、全てが許されていたのであった。

 

僕らの関係性の特異性とは、恐らくメタ的なコミュニケーションにあった。

 

数々の失敗と考察を重ねて、自分のメタ的な操作を多少なりとも出来るようになった僕と、数々の男性を虜にした経験と、先天性の察しの良さで関係性をメタにみる貴女。

 

メタレべル、具象レベル、ふたつにおいて、関係性は遊びと揺らぎをはらみつつ、僕の心を満たしていった。

 ―

宿願の道の果てには、何が待っているのだろう。その先は靄に霞んでまだ見えないが、おそらく二つに分岐する。

 

奈落の道。今まで歩んだ数々の道中と変わらず、結局は女性に愛されない。関係性は、僕の醜い身体性・無配慮・無能によって閉ざされる。

 

奈落の道に至った僕は、おそらく犬の道へと戻ろうとするであろう。しかし、少なくとも現状ではご主人様の僕に対する愛は減衰しているように思われる。ご主人様は、恐らく僕僕を蔑視する。お前にはもう犬たる資格もない。犬であることを忘れた、犬以下の存在。汚らわしい不要物。

 

かつて、あの幸福な夢においては、まだ赦しが得られたのかもしれない。ところが多分、今では僕は許されない。このまま過ちを犯さないことだけが、唯一の関係達成の条件ではなかったのか。

 

いや、だからこそ、僕はどんな条件下でもご主人様へと見返り不要の愛を与え続けることで、好循環は生まれ、今より更に愛してもらうということもあるのではないか。そして、その挑戦を放棄することは、単なる逃走にすぎないのではないだろうか。

 

栄光の道。僕はついに、長い愛をめぐる闘争を終えて、ひとつの安定と太平を得る。

まだまだ彼女のことは全然わからないが、なんかいい人そうである。ひょっとすると、徐々に惹かれていっている。

 

しかしそこで、ご主人様の幻影を振り切ることが出来るだろうか。彼女と一緒にいるときに、仮に、仮にもし、ご主人様が泣きそうな声で僕を頼ってくれることがあった場合(これ以上の至福があるだろうか!もしあったのだとしたら!)、

僕はご主人様の誘惑を振り切って、彼女を優先することが、出来るのだろうか。

 

―――

 

あの寒い日の夜、ご主人様は僕に言った。

 

あなたがどんなにダメでも、私はあなたを愛してあげる。

 

妥当性の限界を僕にだけ限界まで下げた、無条件の肯定。それが愛を示していると僕のメタ的思考は判断した。

そして何より、散文化不可能なもの。場面、声色、言い方。柔らかな言葉に、僕は「愛されている」ことを実感した。

 

僕は大粒の涙を流した。年甲斐もなく、泣きじゃくった。確かに愛されている感覚、それを僕は初めて、僕は体験した。

 

この先、僕とご主人様の関係がどうなっていくか、いや、僕がどうしていこうと思っているのか、僕はいまだ整理がつかない。ただ、関係性が切れるようなことは、あってほしくないと願っている。

 

大きな道の分岐が見えて以来、僕はご主人様にしゅきしゅきと言えなくなってしまった。

それは犬として不誠実であり、かつてのように純粋な気持ちで言うことが出来ず、罪悪感を伴う。

 

それでも、今、この場だけは許してほしい。

散文にならなかった思いをのせて。

 

 

ご主人様、愛しています。

また是非京都で、会いましょう。 

 

貴女の犬より 愛をこめて

あの素晴らしい恋をもう一度

サークラアドベントカレンダー 12/23日 新井(@willowfield2000)

読了目安時間:15分

Wordで書いてコピペしたら思った以上に膨らんでしまいました。

中高生での恋愛の規定力って高そうだよねというお話です。 

以下の文章は多分に偏見・脚色・誇張・拗らせを含んでいます。

↓本文

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ピンボケしていた僕がAVの扉を叩くまで

 

読了時間の目安:15分

 

 サークラアドべントカレンダー18日目。匿名の投稿になるが、自分の懺悔と発見を巡る性の話について語りたいと思う。



***



 中学時代、僕は特段にモテることもなく、また女子に嫌われているわけでもないポジションにいる少年だった。

 

 周りを見渡せば、モテている人は見事にキャラが立っていた。

 

 陸上部やサッカー部に入っている人らは、分かりやすいだろう。ハードな運動で肉体はゴリゴリに鍛えられ、そして見事に風格も備わっていた。野球部は別格だったと思うが。

 

 吹奏楽部は、他の部活に比べて異常な人数の男女比からか、ぬるま湯に浸かるように女子とちやほやしている男子がいた。バレンタインデーの日にはチョコレート交換と言いながら、数えてみれば運動部より多くもらっているはずだ。

 

 僕はといえば、何もなかった。

 

 「いい噂」があったわけでもなければ、僕自身、気になった人もいなかった。

 

 仲のいい女子は何人もいたし、授業でも休み時間でも冗談を言い合っていた。

 

 あの子のこういう所が可愛いよねと言って、何それーって返されて、みんなで笑った昼休み。同じ部活の後輩の女子と一緒に帰り道を歩いて、趣味や部活のとりとめのない話をした。

 

 ただ、年端のいかない男女で「恋人」という関係になって、何が楽しいのか分からなかった。

 

 捻くれていただけかもしれないけれど、カップルになるのは大変なのだろうと思っていた。お互いに相手のことを気遣わないと行けないし、からかってくる(僕のような)奴らのいじりに耐えないといけない。

 

 友達以上の関係を持つ人は、どこかで特別な関係に憧れているんだろうとぼんやり考えていた。恋に恋をしているという説明に僕は納得した。でも、その横でじっと他人の幸福を見ていた僕は、彼らとは違う現実を自分の手で変えようと思わなかった。

 

 ぼんやりとした女性関係には、いつからか興味さえ失っていた。ほどほどにスポーツに精を出すこともあったが、趣味の読書を差し置いて何かに熱中することはなかった。

 

 新しい春を迎え、教室も学校も毎年のように変わる。電車に揺られながらmixiTwitterの人間関係を眺め、カラオケでオタク仲間と束の間騒いだ。

 

 変わらなかったのは自分の部屋の間取りと、僕のどっちつかずな性格だった。



***



 大学一年の夏、僕は同じサークルの女子に告白をした。通っていた文芸サークルの中でちょっと浮いていた僕と気軽に話が出来る子で、僕は彼女をもっと知りたいと思っていた。

 

 ただ、この感情は恋ではないという割り切りが自分の中にあった。恋人らしいこともしてこなかったし、女性面では冴えない僕だけど、彼女ともっと話すきっかけをこのまま先送りにしたくなかった。

 

 純粋な恋愛ではなくても、僕は彼女に惹かれるものを感じたことは間違いなかった。それは僕の中で溜まっていた泥の河を、一本の橋が掛かっていくような清々しさがあった。

 

 テレビで流れる西野カナを聞いた時、異国の地で愛を叫ぶロミオとジュリエットを思い出した。半径3m以内にいる女子が共感している、好んでいることにリアリティがなかった。恋愛と自分の間でそびえていた、今まで見ようとしなかった河がいかに深かったのかを想像した。

 

 ただ、手探りでも恋愛に身を投じることは悪くないと思った。彼女がいないことへの目に見えない圧力には飽き飽きしていたが、友達とは違う何かがそこにあるんだろうと期待した。二人2人でどこかに行き、見た目のいいご飯を食べて、楽しく喋るのなら、「楽しい毎日」の延長線上として満足出来るだろうと思った。

 

 声を掛けてみることから始めようと思い、サークルや同じ授業の女子と話す習慣をつけるようにした。彼女たちとの会話は盛り上がったが、彼女たちのプロフィール、趣味や容姿ではなく性格や思考は判を押したように似通っていた。

 

 大学に通っていれば、モデルとして活動できそうな人や髪を緑に染めてビジュアル系の服を着る人など色々な人と会う。きっかけを作って話してみるが、いつの間にか彼女たちを性格のカテゴリで分類している自分に気づいた。

 

 人生の夏休みと称するにはどうしようもなく、大学生はロボットに近い生き方をしているのだろうと思った。創造性も、まして説明能力さえも足りていない大量の人間が大学に集まっていた。綺麗なものに綺麗と言い、可愛いものに可愛いと呟くプログラミングを埋め込まれている彼女たちと付き合いながら、自分の未来像がぼやけていくのを感じた。

 

 ただ、僕の希望は潰えることはなかった。感じたことをちゃんと話してくれる、ものや人に対する感性が豊かな子を発見した。女性としても人としても魅力的だと感じ、趣味や性格も自分と不都合がなかった。

 

 彼女を誘って入った渋谷の喫茶店で、僕はじっと告白するタイミングを伺っていた。

 

 今読んでいる本や、次に行きたい旅行について会話しながら、少しずつ夜が更けていくのを感じた。静かに紅茶を飲む彼女の表情から、機があるのかを探るのは難しかったけど、僕に迷いは無かった。

 

 NOの結果を突きつけられたとき、僕は自分の体が冷めていくのを感じた。

 

 僕の言い方、誘ったきっかけが悪かったんじゃないかと自問自答した。そもそも彼女にしたい理由が間違ってるんじゃないかと後悔した。

 

 考えるたびに、恋人になることの意味が手からこぼれ落ちていくようだった。

 

 サークルのメンバーに当たったために、告白の代償は大きかった。周りのメンバーが僕を見る目が変わったのは明白だった。そのサークルからじりじりと距離を置くようになった。

 

 学部の仲間や、他のサークルの中でいくつもののもカップルが生まれては別れた。

 

 少し大所帯のバドミントンのサークルで、唯一僕と同じ学部の先輩は常に自分の彼女への不満を冗談にして僕に聞かせた。LINEの即レス(すぐに反応すること)は当たり前、毎日似たような言葉を並べて、週に何度かはイベントを作る。たまに二人で抱き合う写真が流出するのも、イベントの一種のようだった。

 

 「付き合うのは大変だよ」と嫌味のように言って、同学年の先輩にツッコミを入れられていた。サークルのみんなで笑い飛ばして、僕自身も嫌になることは無かったけど、なんで二人は付き合っているのかまで理解できなかった。

 

 男女比が半々の学部では、グループワークやゼミで男女入り混じって話す機会はそこそこあったし、サークルの女子とも多少の冗談を言い合えるほどの仲になった。

 

 だから、誰かにアタックする機会はそれなりに存在した。ヤリマンや彼女を取っ替え引っ替えしている人とは風格が違うけど、彼女が欲しいならあまり悩む必要が無かった。

 

 それでも、自分の中のスイッチが入らない。

 

 彼女を持って、それからどうするのかがイメージできなくなってしまった。それを楽しんでいる自分なんて、見当もつかなかった。

 

 失敗を繰り返すよりも、自分の内面をもっと知ってからトライしたい。そう思うようになった。



***



 友人に勧められ、人生で初めての風俗を体験した。

 

 歌舞伎町一丁目のメイン通りから少し南に下がったところにあるラブホテルの一室で、僕は風俗嬢が来るのを待っていた。

 

 友人は重度のピンサロ通いで、わざわざネットに日記をつけて面白おかしく書いていた。店員にうがいを催促されても少し焦らすだの、有名人のこの子に似ているだのと、どこから湧いたのか分からない自信に満ちた内容だった。

 

 ただ、女性とそういうことが出来る世界があることに興味を持った。1818歳を超えているし、自己責任で飛び込んでみるのも悪くないと思った。

 

 ドアベルが鳴る。扉を開けると、サイトで見た写真以上に可愛いと思える子がいた。

 

 部屋に招いて、ここは寒くないかと聞く。

 

 ありがとうと言って、僕の頰にキスをする。

 

 評判通りの「可愛っ子ぶり」だった。

 

 僕は自分の好みや趣向について、少しずつでも手がかりを集めようとしていた。自分にとって謎の多い子ではなくて、いっそ誰からも認められるような「可愛い」そぶりをしてくれる子はどうだろう。清楚を求めなくても、素直にイチャイチャ出来る子だと僕に合うだろうか。

 

 お店に電話を入れて、シャワーを浴びる。出会った時には重く緊張していた僕の口調も、シャワーを浴び終える頃にはなめらかだった。明らかに、この状況を楽しもうとしていた。

 

 洗面台の上に置かれた重油のようなうがい薬をコップに垂らし、蛇口をひねると色が希薄になる。淀んだコップ一杯の水で、口内の雑菌を洗い流した。

 

 手筈は整った。僕は彼女を布団に招いて、両腕で包むように抱きしめ、引き寄せられるようにキスをした。

 

 彼女は終始笑顔を絶やさず、僕の目を見ていた。二重のクリクリした目が、収まらない僕の鼓動を見透かしているようだった。

 

 特別なお願いをしたわけではないが、彼女は僕の気分を察してその場その場でプレイをアレンジしてくれた。それは、ラブラブな雰囲気を維持したい彼女なりの配慮なのだろうと思った。

 

 その気持ち良さとは裏腹に、自分の神経系が鈍りつつあることを悟った。自分の口から漏れる声は、喘ぎ声ではなく彼女とのコミュニケーションの一形式になりつつあった。

 

 部屋の暖房が目標の気温に近づくにつれて、反比例するように僕の興奮が冷めていく。

 

 仰向けになっても、仁王立ちしても、四つん這いになっても、心のどこかで自分の格好の滑稽さを笑っている自分がいた。

 

 皺の寄った毛布が、すべからく時間の経過を告げていた。11分11秒が沈黙と静かな熱気の中で溶けていくようだった。

 

 彼女はその手を止めると、僕とまた毛布に入ろうと言った。彼女の疲れたと言う声の重さと右腕で、僕は肩の荷がさらにのしかかるのを感じた。

 

 時間がどれほど経ったのかわからないが、折り変えさないといけない局面に来ていることを察した。黙って僕の横で寝ている彼女も、おそらくその機会を狙っていたのだと思う。

 

 わざわざベッドの上で仁王立ちになって、彼女に目で合図した。彼女は背筋を伸ばして、ラストスパートに望もうとしていた。

 

 二人の息が合い展開が加速する。残り10分を告げる携帯のタイマーが鳴り続けても、僕たちは無視した。目の前の人間とのやりとりに集中しようとすればするほど、22つの部品がただピストン運動をしているように見えた。

 

 彼女が動く人形に見えてしまう自分が情けなかった。雰囲気やプレイで僕を楽しませようとしてくれる彼女は、間違いなく人間だった。木偶の坊は僕の痩せ気味な肉体だった。

 

 いっそ鏡越しに性行為ができたらいいのに、と思った。彼女ではない彼女を見ながら、僕ではない僕が他人を満足させようとせっせと励んでいる姿の方がどれほど良かっただろう。

 

 ホテルから出る別れ際、迎えの車を横目に僕たちはハグをした。彼女のコートと僕のジャンパーの厚みが合わさって、お互いの身体を抱いている感触のない、ただの社交辞令になってしまった。

 

 結局、数万円のお金と夕方の一刻を使って得たものは、現実の時間を忘れてしまうような感覚と、僕を付きまとって離れない現実の発見だった。

 

 女性に対する興味はあっても、生身の肉体に対する執着心がまるでなかった。それはAVやエロ漫画の見すぎなどではなく、自分を興奮させてくれるものに対する信頼の欠如だっただ。

 

 彼女の温度を感じながら抱き合っていたとき、蟻地獄のように布団の中に沈んでいく自分がいた。彼女の質感を確かめながら、僕の中にこみ上げてくるものが何もなかったことに虚無感を拭えなかった。

 

 誰も本当の意味で他人を満足させることは出来ないのだと思う。満足という小箱を送りあって、ふたを開けたら煙を浴びて余計に年をとる。寿命から考えて残りが60年以上もある僕の人生は、箱の開封作業に消費されていくのだろう。

 

 僕は、僕自身の身体を客観的に見る必要があると思った。

 

 何かがおかしいという直感と、もっと知りたいという好奇心がない交ぜになって僕の中のエンジンを回していた。そして、彼女のような経験をする人をもう出したくなかった。

 

 自分が満足することを諦めることができても、誰かを満足させることにわずかな希望を持っていた。性的衝動に駆られながらも、誰かに熱を上げられる経験が僕と生身の女性を繋ぐ最後の生命線だと思った。

 

 他人を満足させながら、自分の身体を客観的に見ることが出来る場所。AV男優の募集を見たのは、風俗に行ってから11ヵ月後のことだった。



***



 月曜から重い話になりました。次回の予定は、tosei0128 さんの「アルコール依存症一歩手前だった私が酒をやめた話」です。お楽しみに。




凍結保存

※当記事はサークラアドベントカレンダーのために執筆されています

adventar.org

 

 

自分語りをすることよりも、それを聞くことのほうが好きです。聞いて、自分との共通点や違いを考えるのが僕は好きだし、様々な形の自分語り(例会、会誌、このアドベントカレンダーの記事自体、など)に接することが出来るのが、ここサークルクラッシュ同好会にいるメリットだと思っています。思ったっきりで別にその感想を長々と語ることはほとんど無く、5*140字を超えることはまれなのですが、何を考えているのか分からないと言われるのが最近つらくなってきました。今回は記事の形にしてみようと思います。

こじらせという言葉を、思考を重ねすぎて自分自身ですら理解しがたくなってしまった状態、異常な思考回路にたどり着いてしまった状態、という意味で僕は解釈しています。遠くへたどり着けるのは素敵な能力だと思います。


自分をモテない男、恋愛経験の少ない男と称して悩みを語る人は多くいて、彼らはよく、そもそも好きな相手がいないということに思い当たります。確固たる理想像があってそれに合う人が見当たらないから好きな相手がいない、ということではなく、割と誰でも良い、自分を好きになってくれる人がいたら好きになる、という発言を多く見ます。
僕も恋愛の能力がかなり低いタイプですが、しかしこれは共感できたことがありませんでした。好きな相手がいないという時期はほぼ無いと言ってよいです。常に誰か一人を好きな人間として設定していました。自分は内向的ですぐに閉じてしまう人間なんだ、油断していたらすぐに何もしなくなってしまう、好きな相手という設定に従って、好意があったら何もせずにはいられないはずなのだから行動せよ、と、自分を煽って過ごしていました。恋愛の能力が無いので大した行動はできませんでした。高校のころのAさんとは、登下校や授業の合間などの時間で接点を増やしたり、部活に複数所属しその一部を彼女と重複させたりしました。単に会話をするだけでしたが、Aさん以外と話さなさすぎて異常なコミュニケーションだったと思います。Aさんも異常なコミュニケーションをしてくる人で、よくシャープペンシルで指を刺されたり、名前をわざと忘れられたりしました。会って数週間で告白したのも異常だし、その時は翌日はいかに酷い言葉で振ればよいか友人と考えてきたと喜々として教えてくれました。数年前はBさんに憧れていました。面と向かって話すことを嫌われていて、顔を隠して話したり、目を逸らして話したりしていました。大学や勉強に関する、若干暗くてネガティブな話をし続けて、夜を明かすこともありました。ツイッターでの空中リプライだけで会話するのも楽しくて、鍵アカウントまで作ってしまいました。これは関係の無い話ですが、僕とBさんが親しげに話していると思い込んで、Bさんを慕う別の人が諦めてしまった、という出来事があったようです。人間関係のさなかに自分がある実感をくれる、好きなエピソードです。Cさんはいわゆるメンヘラっぽい人で、苦しい感情やそれに伴う異常な行動について語ってくれるところが好きでした。ただその苦しみとセットで、それをいつも特定の男性に救ってもらっていて申し訳ない、ということも語っていて、それが非常につらくありました。Dさんは憧れてくれていていいよと言うので好き勝手に好んでいました。好んで良いというのが保証されているのは存外楽でした。別に向こうから好かれる必要も感じないため、嫉妬も感じずに済みました。時間の経過とともに、話す回数や会う回数が減少して、興味が薄れました。好んでいるという設定だけがあっても、どこにも進んでいる感覚がありませんでした。Eさんのことは初めから友人として好むということにして、これはかなり良い相手との良い関係性だと思っていますが、進展の可能性が友人から親友まで程度の幅しか無いということを常に意識してしまいます。現在の人は省略します。


進展に対して気持ちが盛り上がるのが速すぎるのです。どの時点での好意や嫉妬、その時々の気持ちについても、もう終わったことであっても、鮮明に思い返すことができ、全く減衰せず凍結保存されている感覚があります。覚えているというだけで、再びそのような感情になることを避けています。何も起こっていなくても、凍結保存された感覚を思い出してしまい、それを感じないようにする、ということを繰り返して、何も起こっていません。
交際していく中で気持ちが変化していく、というような感覚が、まだ分かっていないのだと思います。進展が無いときの楽しい思い出はたくさん挙げられるし、どれも良い経験だったとは思うけど、進展した先にたどり着けていないし、想像もできていない。進展した後の気持ちこそがより本質的なものであり、それに比べたら自分の今までの体験や、保存されている気持ちには何の意味があったのか、と考えてしまいます。年齢に対して積み重ねた経験が薄すぎてつらくなってきた。

 

僕からは以上です。17日目の担当は、まくはりうづきさんです。お楽しみに。