なんでキミ恋愛依存なんやろな

サークラアドベントカレンダー外伝

読了目安時間:15分 / ちか@ChikaQrqr

以下の文章は「恋愛依存」を拗らせた私の自分語りです。なぜ拗らせ、どう解決していくのかを自分なりに書いた長ったらしいものですが、よろしくお願いします。

---------------------------------

私は東京で生まれ育った。一般家庭とは言えないかもしれないが暖かい家庭環境に恵まれた。ひとりっ子で両親は共働きだったが私が学校から帰る時はいつもどちらかが家にいてくれた。

おっとりとした性格に育った。ぼんやりとも言えるだろう。私もそれなりに勉強して大人になって結婚でもするのかしらと思っていた。リビングの40インチのテレビでは浅田真央トリプルアクセルをして喝采を浴びていた。

小6の時に父が病気になった。正確にはもっと前から肺がんに侵され余命も宣告されていたが、この頃から目に見えて具合が悪くなっていった。

母は介護で、父は病で日に日にやつれていった。部屋は日に日に医療用の得体の知れないチューブなどが増えていった。

それでも2人は気丈に振る舞った。私には病気のことははっきりとは言わなかった。父の口癖が「孫が見れるまで元気でいないと」が「花嫁姿」になり、「大学生」になり、「彼氏が出来る頃」になり、「中学生」になっていくのに、私はどうしたら良いのかわからなかった。

私は荒れていった。学校ではクラスメイトにすぐに感情的になったし家では物に当たり散らしていた。

買い物依存症にもなった。所詮小学生なのでクレジットカードは使えなかったが、貯金していたお年玉8万を数ヶ月で使い切った記憶がある。名探偵コナンの同じ巻を何冊も買っては読んだり投げ捨てたりしていた。

お金が足りなくなって親の金にも手を付けた。もちろんすぐにバレた。本屋のレジで会計していた時振り向くとそこに母がいた。私は絶句した。母も何も言わなかった。家に帰って母がごめんねとポツリと言った。私は無視して自分の部屋に戻って布団の中で泣いた。それからはこのような買い物をするのはやめた。

それでも私は反抗的だった。親も教師も無視した。家のカーテンを鋏で少しずつ切り刻んでいた。現実を見たくなかった。家に帰った時ふと見るとベッドの上の父が天井の辺りを見つめていた。その絶望的な瞳を今でも憶えている。私は見なかったふりをして黙ってコンビニに行った。

その数日後の朝「行ってらっしゃい」とゆっくりと手を振った父を無視し、学校に行った後そのまま彼は還らぬ人となった。

葬式では一滴も涙は出なかった。じっとお坊さんの木魚を見ていた。お通夜では私は明るかった。無理に明るく振舞っていたのではなく明るかった。大人達に偉いねとかお労しいとか言われたがピンと来なかった。単に久々に友人と会えて嬉しくて明るかった。闘いが終わったという謎の安堵もあった。現実をそのまま受け入れることを私自身が拒否し、日常に無理矢理戻ろうとしていたのだろう。

会場の1階のエントランスにある自動販売機の前に行くと、そこには幼稚園の時仲の良かった「あおちゃん」がいた。数年ぶりの再会だった。

後日あおちゃんから映画に行こうというメールが来た。平日は学校も違うので会えなかったが、毎週末どこかに誘ってくれた。隣街の教会に行くこともあった。父のことには何も触れなかったが、沢山の話をしたり外に連れ出したりと色々と私の気分転換になるようにしてくれた。

天真爛漫な彼女は私の心の支えとなった。父が引き合わせてくれたと感じた。彼女はダッフィというクマの人形をひどく欲しがっていたし、クレープが好きなのに生クリームが苦手で「クリーム食べて〜」と可愛らしい笑顔で私によく言っていた。

そんな彼女も父の死から約2ヶ月後に急死した。11歳だった。死因はシンキンエン。

私のせいで皆死んで行くんじゃないのかと本気で思った。生きてるだけで迷惑をかける自分を呪った。一方で妙に冷静でもあった。あおちゃんの母親には隣に彼女がいるように見えるのか、ずっと彼女に話しかけていた。あおちゃんに近しい人は皆同情していたが、私はそれ以上に狂気を感じていた。

その数ヶ月後に東日本大震災が発生し、私も母も大きな病気を患った。やっぱり皆死ぬのかという絶望のもと1年間東京の女子校の中学に通い、私は「大都会」と揶揄される程の西日本のど田舎に引っ越した。

母と私の2人だけ、親戚すらいないこの場所、誰も私を知らないというのが本当に心地よかった。ど田舎パワーのおかげか病気もかなり改善した。やっと私は辛かったのだ、今もまだ辛いのだと気付く余裕も出来た。

転校は初めてだったけれど「聞くちから」や「100%好かれるコツ」のような自己啓発本を読み漁ったのが功を奏したのかは知らないが、比較的すぐに馴染むことが出来た。

そして私は「恋愛」を知った。

1年間女子校にいて男子と離れていただけなのに、小6から中2の間にこうも皆色気付き、異性を意識してドギマギするものなのかと驚いた。

女子校時代の部活の先輩が鬼みたいに恐ろしくて2度と部活に入らないと神に誓っていた私は暇だった。何もしていないと、ふと父やあおちゃんのことを思い出してしまうし、誰か他の人のことを考えていたかった。何かに夢中になりたかった。こうして私は恋愛に依存し始めた。

「男子は下ネタ、女子は恋バナで仲良くなる」というのは当時の私にとって万国共通この世の真理と言っても過言ではなかった。クラスの女子と馴染むには恋愛をしないとというプレッシャーにも押し潰されそうだった。

また私は父親が亡くなっている事を誰にも知られたくなかった。ひとりっ子と言うだけで、じゃあきっとワガママなんだねと即答されるこの地で、母子家庭というだけで同情されたり貧乏なのかと思われたりするのは耐えられない屈辱だった。それ以上に、亡くなっていると口に出したら、現実の事として私の前に立ちはだかるという恐怖が私を硬直させていた。目を逸らしているが故にぼんやりとした、ふわふわとした、でも確実に私を突き刺すであろう恐怖。

この恐怖は高校生になってもつきまとっていた。素晴らしい友人に恵まれたが、彼女達にも「父は東京で単身赴任している」と唯一嘘をつき、大学生となった今でも訂正する機会を逃している。(これが今回ブログを書いた理由の1つでもある)

話は戻るが中学生は家族の話に特になりがちで、兄弟がどうとかお父さんがキモくて同じ洗濯機を使いたくないなんて話がよく出てきた。家族の話になりそうになっただけで私は冷や汗が止まらずトイレに駆け込んで吐いたこともあった。そんなことよりB組のワタナベ君、かっこいいよね。ミサキちゃんもアヤカちゃんも彼のこと好きらしいよ。へえモテるんだね。実は私も気になってるの。………

悩みがあることすら察されたくなかった。「明るくて元気で悩みごとのなさそうなチカちゃん」として見られようと必死だった。

私は「人は皆んな誰にも知られたくない過去や悩みがある」と強く思っていた。だからこそ他人から「じゃあお前の悩みはなんだ」と思われている、知られたくない、でも何か自己開示らしいことしないと仲良くなれない…という葛藤に苦しんだ。

「あなただけに私の好きな人教えるね。」恋バナは自己開示としてとても手っ取り早い手段だった。それに異性の好意を得ることに成功したら承認欲求が満たされるし、恋人が出来れば寂しさが紛れる。

大学生になり、サークルクラッシュ同好会と出会った。得体の知れないこの空間で、自分の悩みを言ってみよう、ダメなら立ち去れば良いと思い、一部の会員に話してみた。彼らはよく話を聞いてくれた。案外あっさりと受け入れられたと感じた。サークラ内部の人間関係に嫌気が差す時もあるが、それでも私の悩みを受け入れ、恋バナをしなくても友人が出来る体験をさせてくれたサークラは私の居場所となった。

幾度となく彼らと話しているうちに私が恋愛にどっぷりはまっているのは「何か」から目を逸らす為だとやっと気付いた。その「何か」とは先ほど述べたことが原因の孤独感や父性愛の量的不足だった。

メタ視することが出来たおかげで恋愛への執着が少しずつ溶けてゆく。これからどうすれば良いんだろう?

そうだ、「恋愛」ではなく「慈愛」をしよう。

だから私はシェアハウスの6号館を作る。穏やかな家庭を渇望する私の作る穏やかハウス。

だから私はネパールの孤児院を訪れる。彼らが可哀想だからではなく、私が世界を変えるという意識高い系だからでもなく、彼らにただ会いたい。

だから私はサークラのお母さん的存在になりたい。相手を見捨てるでも甘やかすでもなく、慈愛を持って接したい。

どれも実現は困難を極めるし、そもそも方向性自体も間違っているかもしれない。慈愛と言いつつ単なるエゴでしかないかもしれない。それでも不安定ながらも少しずつやっていきたいと思っている。慈愛とエゴとの平和的解決。

まだまだ未熟な私をどうか見守っていて。

長い話を最後まで読んで下さってありがとう。2018年も素晴らしい年になりますように。