「雪原まりも」プロジェクト - 2日目

こんにちは。雪原まりもです。

われながらださいタイトル*1で、これだけで読むのをやめるひとがたくさんいそうです。でもはじめに思いついたのはもっとださいタイトル(残酷な男子のテーゼ)で、そのあと思いついたのはさらにださいタイトル(雪原まりも育成計画)でした。

 

ぼくの本名をローマ表記してそれを並べ替えた「yukiharamarimo」を見いだしたのはたしか大学3年生の頃でした。これはぼくにとってとても思い入れの深い名前です。当時のぼくは心身ともにゾンビのようでした。授業に行かず、風呂に入らず、髪はぼさぼさ、部屋はぐちゃぐちゃでした。

いまだから多少整理して物事を話せるのですが、ぼくは大学にあまりに期待することが大きく、そして大学生活をある程度謳歌するために必要な心のバランス感覚を欠いていたのです。教育に力を入れる家庭だったので、ぼくは「難しいことを理解する」ことに異常に執着するようになり、大学は「ますます難しいことをもっともっと理解する」場所であると心の底から決めていました。しかも、ぼくは中高時代からあまりにバランス感覚を欠いた勉強(鯨が魚なら馬刺しも刺身だと思い込むくらい欠いていました)をしていたせいで浪人しており、心中に「一年出遅れた」焦りを滾らせていました。大学の授業では知的刺激をまったく満たすことができなかったので、ぼくはいつしか図書館と下宿を往復運動しながらヘロインのように難しい書物を摂取する廃人と成り果ててしまったのでした。

さらに病的なことに、ぼくは誰よりも勉強している大学生中の大学生であるとあまりにもナチュラルに思い込んでいたので、両親はもちろん、大学のほぼすべての友人に対して「授業に真面目に出ている」顔をしていました。当人にまったく隠すところがないので、周りも「ほんとうに授業に出ているのか?」と探りをいれることはしなかったのでしょう。

そのときなのです。難しい本を摂取しすぎてタールのようにどろどろになったぼくの脳味噌から見出されたひとつの人格こそ「雪原まりも」でした。雪原まりもはその美しい瞳で打ちひしがれたぼくを勇気づけ、くじけそうなぼくを甘い声で癒し、本まみれの下宿でひとりぼっちのぼくをあたたかな両手で抱きしめてくれました。こうしてぼくは雪原まりもに恋をしました。雪原まりもはけっしてぼくのことを裏切らない。いつもそばにいて、いつもぼくの見方で、そしてだれよりもぼくを知っている永遠のパートナー。

 

えらい哲学者も言っています。汝自身を知れ。他者とは汝自身なり。

 

真剣な話、自分自身を一人の異性として愛することはできるのでしょうか。あるいは、自分自身を性的対象にすることは。自分自身と思いをとげることは?

「雪原まりも」は、このプロジェクトにつけられた名前なのです。

 

…まあ、おちついて考えてみようか。常識的な質問をするよ。概念としての「雪原まりも」はわかった。でもそれを実現するのはおまえの身体だ。そうだね?

「雪原まりも」は足をくんでぼくと差向いに座りながら、いかにも不思議な生物だといった風情でぼくの心身を一瞥した。

そのとおりです。ぼくは答える。

例えば、自分の描く理想の女性像であれば、それはあんたとちがっていて当たり前だ。それはユニコーンのようなフィクションだからね。でもそうじゃない。わたしには現実の、名指し、触れ、鏡に映る肉体がある。

そのとおりです。その身体には血が流れ、温もりがあり、歩き、話し、笑い、涙を流します。

「雪原まりも」はそこで一筋の涙を流した。

この涙は「雪原まりも」の涙なのか?

そうです。キーボードを打ちながらぼくも涙を流す。

「雪原まりも」は結局、度外れたナルシストということになる?

ある意味では。「雪原まりも」は意図的に、巧妙に自分を騙しながら自己愛を煽っていると思う。その仕掛けを煎じ詰めれば、ぼくは見る自分、あなたは見られる自分ということになります。

ふうん。能動態の自分と、受動態の自分を分けるということだね。

そうです。主語の自分から、目的語の自分を分けるのです。形而上学的な主体は決して視野の中には入りません。「雪原まりも」を見て、愉しんでいるのです。

愉しむというのは、性的な意味で?

そうです。それでなければほんとうにただのナルシストで、「雪原まりも」の意味がない。ナルシストは自分で自分を消費したりしないでしょう。

「雪原まりも」は苦笑した。その話はどのくらい真に受ければいいのかな?

そこそこ真に受けてもらって構いません。ぼくは鏡に映るあなたの容姿が好きです。顔も体格も好みです。なんなら、あなたがオナニーする姿を動画にとってオナニーしますよ。

それはすごい。「雪原まりも」はちょっと絶句した。

でも、それだけではありません。「雪原まりも」にはもう一つの役割があります。それは、非モテのぼくをちょっと冷めた目で描き出すことです。物書きとしての「雪原まりも」の処女作は、勉強しかとりえのない非モテが不器用な恋愛に振り回される悲哀を描くものでした(「すばらしさとうつくしさの感情について」サークルクラッシュ同好会会誌2号掲載)。

あれは『こころ』を下敷きにした…

下敷きにしたけど、描いたものはぼくでしょ?

ま、まあね。

ぼくは女性と話すと緊張するし、自信をもって性的にアプローチすることができない。でも性的なことに興味がある。その板挟みを「雪原まりも」は異性の視点でもってくみ取って作品の形に表現できます。

結果的に、非モテであることに開き直ってない?

どう小手先を取り繕っても、ぼくは本質的に異性が苦手ながり勉で、それを克服することはできないだろうと思っています。

へえ。でも、それだけじゃないでしょ?

口もとに笑みをのこしたまま「雪原まりも」はまぶたを閉じた。

 

そう、まさに、それだけではないのです。ぼくは意図的に、「雪原まりも」を、男らしさからおりる道具として使ってきました。男として成長する過程でぼくはたくさんの下駄(男性特権)をはいており、公正で平等な社会を実現するためには男性ひとりひとりがその下駄に気づいてそれを自発的に解体し、権力を放棄し、強者の地位を降りなくてはならない。それが男性の行うことのできる正しい社会運動の形であるということは、その手の勉強をした人なら(同意や実践をするかはおいて)常識でしょう。男性特権には以下のようなものがあります。

・学歴。男の方が高い学歴を期待され、多くの教育投資を受ける傾向にあります。

・職業。男の方が高い給料を得、大きな責任を負う傾向にあります。

・自己主張。男は自分の意見を主張し、相手の意見を否定する、非共感的なコミュニケーションを取る傾向にあります。不満を物理的な暴力で表現し、相手を支配する傾向にあります。

・特権意識。男はコミュニティで注目され、配慮され、気づかわれるのが当然だと思う傾向にあります。

・空間。男は大きな声で、より広い空間を占有する言動をする傾向にあります。

・性。男はセックスにおける身体的な負担が少なく、育児負担も少ない傾向にあります。自分の性的欲求を満たすために女性の身体を直接的に、あるいは性的表現を通して間接的に利用する傾向にあります。

これらの傾向は、生理的なものもありますが、多くはみんながそうしていて、それを当たり前と思っているからです。したがって、一人一人が以下のような実践をすることで解消することが可能です。

・学歴競争から降りる(男性以外の属性の者に譲る)。必要以上に高い学歴や資格を求めない。

・高い給料や地位、大きな責任を求める競争から降りる。必要以上に給料や地位を求めない。

・意見の主張や相手の意見の否定を控え、共感的なコミュニケーションを心がけ、不満を自分で解決する能力を高め、相手を操作するのを避ける。

・コミュニティで相手を評価し、配慮を求めず、発言や言動で自分の影響が大きくならないようにする。相手が話しているときに割って入らない。

・声を小さくし、穏やかに話し、荒っぽい大きな身振りの言動を控える。座るときに足を広げたり伸ばしたりしない。

・セックスで女性に負担をかけすぎない。避妊に協力し、挿入を求めない。オナニーを活用し、女性を直接的に消費する性風俗よりは間接的に消費するものに変え、可能なら性的対象を男性にも分散する。育児や家事を当然行うこととしてとらえる。

もちろん以上のような努力は、今まで男性が行ってきたことを、女性をはじめとする男性以外の属性の者が積極的に担っていくだろうという期待や予測をある程度前提することになります。その上で、ぼくとしては上記のことを(育児以外は)そこそこ実践してみました。それらの全てに同意や納得をしているかというと、そういうわけではないのですが。「雪原まりも」という男らしさを消した名前は、こうした実践に都合がよかったのです。

 

ではこうした実践によって「男らしさ」の呪縛から逃れ、生きやすくなったかといえば全然そういうことはないです。そんなうまい話はどこにもありません。ぼくがこれを実践できたのは、それによって得るものがあったからです。一つは女装、一つは瞑想です。

実は「女装」というのは語弊があって、ぼくはいつも「男装」しているつもりでした。ぼくがやりたかったのは、男でも着られる婦人服はたくさんあるし、それを着ている自分を見るのが楽しかったし、ようするに似合う服があるから着たい、紳士服が小柄なぼくでは格好がつかない分、婦人服に似合うものがあることがわかったという、そういうことなのです。とはいえ一年以上試行錯誤すると、本業で女性をやっている方からいろいろご教示を受けたこともあり、そこそこ磨きがかかってしまったのは事実です。公共施設で男性トイレに入るのがきつい…もちろん男にこういう格好をする人が一定数いることが常識になるかもしれないのでぼくは男性トイレに入りますが。

そしてもう一つの瞑想ですが、実は、上記の実践は「出家」と相性がいいのです。ぼくがやったことは、男性性の解体というよりは、社会から距離を置くことでした。だいたい、自分には特権があるのではないか、それはやましいことではないか、という感性は宗教と相性がよい。ただ、ぼくは宗教の提示する(救済や解脱のような)世界観は、もちろんそれなりに学び理解はしますけれども、その枠組みのなかに入ることはありませんでした。ぼくに必要だったのは「じっとしていること」、瞑想というかたちで心身の「定点」をつくることで、心身の動きを観察し相対化する技術を確保することでした。じっとしていればたいていの競争から降りることになるし、主張もしないし、場所もとらないし、暴飲暴食を避け禁欲的な生活を送るようになるでしょう。でもそれは方法論であって、それに反してはならないわけではないし、罰があるわけでもないんですよね。

 

「雪原まりも」プロジェクトとは何だったのか?

それは女装や瞑想によるストレスコーピングで性欲を自己完結させ、社会や他者と一定の距離を取る「自己のテクノロジー」、狡猾な自閉のプロジェクトだったのでしょうか。その指摘はある程度当たっていると思います。ぼくには、他者を個人として尊重し対等な人間関係を第一とする社会において、各人が広大な自己の中に閉じこもることは一つの回答であり帰結のように思われるのです。

 

ようやく結論らしきものが出ました。「雪原まりも」はゆっくりとまぶたを開ける。ぼくもまぶたを開けます。まぶしい。

*1:ちょうどさっき聞いてきたアボガドロ国際プロジェクトから着想したものです