あなたは人生への私の小さな天使です、私はあなたが私を好きだと誓います、そして私はあなたを愛しています

私はあなたに真実を話すつもりです、あなたは嘘つきです、そして私は自分自身を愚か者にするつもりはありません、あなたは知っています、私はあなたが好きです、そして私はあなたがいなくて寂しいです、私はあなたにたくさんの大きな大きな抱擁を与えます、私はあなたが最も幸せであることを誓います、そしてあなたは私の人生です、そして私はあなたをとても好きです、そして私はあなたに誓います、そしてあなたは私を幸せにします、私はあなたを美しくします、そしてあなたは人生への私の小さな天使です、私はあなたが私を好きだと誓います、そして私はあなたを愛しています



おまえ、ハタチだっけ?若いなぁ。

おれさ、明日で25歳なるんだけどさ。
うん、20代折り返しだよ。


いや、まだ社会人じゃない。大学生。大学入ったのは22歳の時。
その期間?いやー、実は17歳で高校中退してさ。
5年くらいニートだった。ははは。


なに?笑わないんだ、おまえ、いい奴だな。
おれが5年間、何してたか知りたい?
興味なさそうだな、まぁ聞いてくれよ


高校辞めたのはいじめとか嫌がらせはなかったけれどね
あ、おまえも高校中退?そっかぁ


しんどいよな、学校って
でさ、朝起きられなくなって出席するのもやめた。


んー、親には止められなかったかな。
父親はおれには無関心?っぽくて喋りすらしなかったよ
小5の頃から家にいなかったし。


おまえ、大学行ってないんだっけ?あーそっか。
高校と大学は全然違うよ
大学に入っちゃえば割と自由だったな。


サークルクラッシュ同好会ってサークルがあってさ。
あー、それそれ。前言ったっけ?
前も話した?おれ、サークラのこと好きなんだな。


でさ、そこで会ったYさんって人、前喋ったよな?
ワナビー文化人みたいな人で
本書いたり演劇出たりしててさ。


でもその人、後悔してるみたい。
20代のうちに正社員になれば良かったって。普通になれば良かったって。
人生ってわからないよなぁ


まぁ、サークラにはいろんな人がいるね
大学生じゃなくても入れるから、今度行ってみたら?
ツイッターで例会の告知やってるよ?ほら


おまえ二十歳でしょ?
将来に不安がない二十歳なんて相当な馬鹿だけだよ。
おれだって不安だし。


おれたちは初対面だが
おれたちは肩を叩きあった



 

UPS が切れる前に、未解決の質問で終わっているこの文書を見てください。」

 (たとえば)これらのいくつかの根本的に異なる探究ジャンルは、人間とは別に自然についての異常な西洋の概念の形成にどのような役割を果たしたのでしょうか?
UPS に変更して、その世界を変更しますか?
あるモードと、より分析的なレベルの発電機の轟音が、このプロジェクトは、15 階建てのオフィスであるバーナード・ウィリアムズの真実性の概念を上下に呼び起こします。

夜通し働くこれらのスタイルは「自己認証」的であり、根拠がないという考えを説明する人がますます増えているようです。
理解できるように戻ってきました。
そしてすぐにそれは起こりました。

私たちのような種の突然の沈黙、地球ではエアコンがシャットダウンし、このように続いて、大きなビープ音の一斉射撃によっていくつかの一般的な戦略を展開し、デスクトップが切り替わり、夜明けまで続きました。
ヨーロッパの科学の誰もが数時間眠れるというアプローチは、恥ずかしがらずに気まぐれです。
剥奪の出現は、これらのスタイルのあまり魅力的ではなかったが、レヴィエル・ネッツが認知史と呼ぶものを費やす見通しの一部であり、 フェイエラベントのアナーキズム以後、フセインまで暗闇の中で汗を流し、ポールの色合いが数分以上続くことはないだろう。
停電を見つける方法。

編集者は必要性と決定によって定義されておらず、3日目の十分な条件で取られましたが、広範囲にわたる人類学的スタイルの中で、イフタール後の仕事を開始するラムザンを認識することができ、そのスタイルはStreetSmartオフィスでもあります。
ジャンルや雑誌の発電機のガソリンが切れるたびに、それがわかります。
A.C.クロンビーの負荷軽減は、予定よりも6つの基本的に異なるテンプレートからなるテンプレートを早めに開始したようで、エアコンの効いた涼しさが哲学的なツールに変わった。
12階でちょうどフセインから電話があった。

彼は列に並んでいる。

「この論文は、その起源をたどる」
「スタイルプロジェクトのガソリンポンプの前で、当初は最後の 20 分として提示されました。しかし、彼は『科学的推論のスタイル』と言いました。『科学的思考と行動の負荷を軽減する前に彼がここに来るスタイル』がキックオフです。」
より良いラベルの周りでため息が上がりました。


あとがき

このブログの投稿者の新(あらた)です。
instagramhttps://www.instagram.com/artmki/


この記事は、本文の詩とおまけのカットアップのふたつで構成されています。
カットアップとは:カットアップ - Wikipedia

カットアップの素材には、下の二つのテキストを使いました。

9/11 stories: Our Dead, Your Dead by Kamila Shamsie | September 11 2001 | The Guardian

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0039368112000441

Webのカットアップツールを使って英文を生成した後、機械翻訳で日本語にし、一部を修正しました。



私のサークラに入った理由

この記事は、2023年サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12日目の記事です。

 

サークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2023 - Adventar

 

はじめまして、うとうとです。

サークラに入ったばかりで、アドベントカレンダーに参加するのは恐れ多いと思ってましたが、枠が空いていたので参加しました。

 

皆さんもお気軽に参加してみてください。

 

サークラに入った理由の自分語りでもしようかな、と思います。

 

サークラを知った理由

私がサークラに入ったのはついこの間、今年の12月初めです。ですがサークラ自体は3年ほど前から知っていました。知ったきっかけは、自分でもあまりいいきっかけではなかったと思います(自分にとって苦い思い出になったとか、そういう意味ではありません)。

 

5年ほど前から死にたいと思っていた私は3年ほど前に、自死したネット有名人を調べていました。その時に、ホリィ・センさんが書かれたメンヘラ神さんとの思い出についての記事を読んだことがサークラを知るきっかけでした。メンヘラ神さんは2013年に自死しており、生前は明るいメンヘラ系ネタツイートをしていました。

 

僕の人生を大きく変えたメンヘラ神との思い出 - 落ち着けMONOLOG (hatenablog.com)

 

この記事では当時の未来のことをすぐに知ることができるため、ホリィ・センさんの当時の今の感情や行動との間に、私の中で不謹慎にもプラスのギャップが生まれたのかもしれません。

 

それからメンヘラ神さんのツイートや、いつでもどこでもリストカッター南条あやさんの本を読み、私は精神科入院した際の記録を主にしたコピー本を文学フリマで売るなど影響を受けていました。

 

入った理由

まず、文章を書くことにコンプレックス(劣等感)をだんだん感じ始めたことです。

 

昔は文章をよく褒められていただけに、ここ数年の入試などでの評価のされなさはショックでした。

自分の文章を見直すと、とても主観的で、かっこつけているわけではないのにかっこよく書こうとしている感じがするというか……標準レベルの語彙に中身が追い付いていない感じがしました。

(会誌に寄稿したいとかそういうわけではなく、あくまできっかけとして感じたことです)

 

他にも、コミュニケーションの経験不足、アイデアが思い浮かばないため要領が悪いこと、返答が思い浮かばないため話し合いが苦手なこと、これらを楽しみながら改善できるのでは、とサークラに期待しました。

 

今もこの文章を一定の知名度があるところに載せて大丈夫だろうかと緊張しています笑(wordで書いたものをコピーしたのに編集ページで2時間半経過笑)。

サークラのツイートにコピー本や絵を載せることに使った創作垢を載せないのは、わりと頑張った本や絵に自信がないから見られたくない、これまたコンプレックスです。

隠す行動をしていますが、例えばバイオリンを弾いたことがない人が「練習しているわりにバイオリン下手だな……」とならないように、少しは自分が動いたという、自分の中での証拠でもあるからね!

 

口頭で言われたことに返事を返す時に、人よりも時間がかかる「タイムラグ」と周りから言われているものは、キャッチ(?)に捕まった時に話して3分くらいで指摘されたのでもう諦めたいです……。「タイムラグがなくなるから!」と飲み会ではいつも最初だけお酒をハイペースで飲んでいます……。

 

次に、変人やメンヘラへの耐性がありそうだと思ったからです笑。

 

「天然」から始まり、「宇宙人」「バレンタインのチョコに経血いれてそう」「地縛霊」「特級呪物」と周りから言われると、自分が多少変わっているのだろうと思います。言われる言葉は変人を表す鉄板の言葉って感じですけどね。ちなみに呪術廻戦はわかりません。

 

「何考えてるかわからない」に関してはわかられる方が怖くないですか。だって「君が買うか悩んでるアダルトグッズ使ってみたけどよかったよ!」なんてアダルトグッズのことを誰にも話していないのに言われたら怖いでしょう。何考えてるかある程度読み取れるって意味難しいですね。

 

そして、この後に少しだけ触れるのですが、最近サークルを1つ辞めたことで人との関わりが減ったからです。

 

入り続けている方のもう1つのサークルは、他の会員と一緒に動くことが少なく、私が所属する大学の人のみで構成されているのに、誰の本名も覚えていません。

 

まぁ、

就活と重なって忙しいサークルの活動はできないけど、少し他の活動したいなー。

そういえばサークルクラッシュ同好会ってあったなー。

メンヘラ系の!文芸サークル!しかも口頭で会話をする機会も少しありそう!いいじゃん!

です。

 

入った理由をテーマにしておきながら、ありきたりな理由ですみません。

 

入ってみて

正直まだ実態は謎だと思っています。

サークラのことをあまり知らない人間がサークラについてはプラスの印象を語っていますが、ネガティブな印象が大きいサークルにはなかなか入らないでしょう。入る前や入った直後の印象なんてこんなもんだと思っています。

 

サークラ当事者研究での誰もが当事者、という考え方は印象深いです。誰もが被害者であり加害者、という言葉よりも被害と加害を同時に捉えやすいと思いました。

 

サークルって意外と友達できなくない?でも入らないともっとできなくない?

私は恋愛感情によるサークルクラッシュを見たことがありませんが、上下関係でのサークル内のこじれを経験しました。

 

昨年、上記の辞めた方のサークルの幹部を務めていました。

しかし3人いる幹部のうち2人が辞めてしまい、下級生から幹部になってもらう人を辞める前の2人だけで決めており、私も少人数の方が話し合いで決定しやすいことから他の会員の意見を聞かずに決めすぎていまい、下級生の中でサークル活動をしても評価をされない不満を感じさせてしまいました。

 

サークルに尽くしてもその分評価がされない悩みは他のサークルでもよくあることではないでしょうか。

 

私にとっても、あれだけ活動をしてもサークルでできた友達は片手の指で数えられるほど、しかも全員他の大学で、自分の大学の人と遊んだことがないのは悲しいです。

 

一度の遊びで終わらず、その後まで関係が続く友達ってどうやって作るんでしょうね。「友達になってください」「いいよ」で友達を作れると思っていた時期もありました。

 

今年の年末は一人で過ごしますかね、久々にテレビをつけようか。

あまり記念日を意識しすぎるとその日に元気じゃなかった時に余計落ち込むので、さらっと流したいですね。クリスマスに食べたいチキンには目星をつけていますが。

 

かなり脱線してすみません。

 

 

明日はホリィ・センさんです。お楽しみに!

サー同会誌編集後記

サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12/8(金)の記事です。

12/8が前日になっても空いていたので枠を取りましたが間に合いませんでした。すみません。

 

会誌編集に携わっている者です。2020年くらいからやっています。

今年も無事会誌を発行できました。寄稿者のみなさん、会誌編集チームのみなさん、ありがとうございました。今年は編集期間に出張と旅行の予定が入ってしまったため、短い作業時間でしたが、ご協力のおかげでなんとか間に合いました。

サークラアカウントに会誌の感想メールが届いたという旨も耳にし、とても嬉しかったです。送ってくださった方、本を手に取ってくださった方、ありがとうございました。

 

編集係として、今年は全ての文章に目を通しました。人それぞれの切実さが感じられて、よかったです。本当は感想とか書きたかったけど無理だったのでやめます。

編集作業中に友人の死を知りました。最後に会ったのは2年前?3年前?のニセNFのときで、最後にLINEしたのは去年の会誌作成時だと思います。そんな関わりの薄い自分がなにか言うのは憚られるのでなにも言いませんが、言及だけでもさせてほしいというエゴがぬぐえません。せめて知ったよということはここに書きたいと思います。

 

自分は就職後文章が書けなくなってしまい、当アドベントカレンダーでも結局なにも書けませんでしたが、編集という形で会誌に関わることができてありがたいです。

 

来年以降もご寄稿よろしくお願いいたします。

若者の感情離れ

この記事は、2023年サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー9日目の記事です。

https://adventar.org/calendars/8608

こんにちは、とうふわかめです。

なんか枠が空いてたので書いてみました。

みなさんも気軽に書いてみてください。

タイトルが一般論っぽいですが、単なる自分語りです。

 

†††

 

中学のころからラジオが好きです。一番好きなのはお姉さんが雑談をしつつヒットソングを流してくれるような番組です。僕はかわいい男の子が好きですが、ラジオのパーソナリティーに関しては女性の声が好きだったりします。

 

大人になってからはドライブのお供にラジオを聴くことが増えました。あとは寝るときに音を最小にして聴きながら寝ます。寝るときにラジオを聴くメリットとしては①余計なことを考えないで済む②アパート暮らしなので隣の部屋の雑音が気になってしまう、ことがあります。朝の早い仕事なので、最近ではTOKYO FM系のスクールオブロック(22時~24時)という番組を聴きながら寝る日々です。

 

ところが先週かな、ちょっと聴いているのがつらくなって消してしまいました。いつものスクールオブロックがラジオドラマ風の展開だったのです。確かに今までもラジオを聴いていて、ラジオドラマが始まったら別の局に変えていましたが、深く考えたことはありませんでした。

 

(再現)COCO教頭「えっ、ここはどこ? 暗い。校長はどこ? うわっ、冷たい、寒い><」

 

ラジオドラマってずいぶんと「感情」が凝縮されていることに気付きました。これが苦手に感じる理由だと思いました。ふつうの会話でここまで感情が表現される機会はありません。自分に感情がないというよりは、他者の感情をどう受け入れれば良いかわからない。

 

スターバックスの公式ページでは(しあわせは、ありのままの気持ちをあらわすこと)と訳されている

 

 

国会の前でデモをしたり、沖縄の辺野古基地の前で座り込みしている人は高齢者が多い印象です。若い人は別に政策に賛同しているとかではなくて、自身のお気持ちを表明すること自体がタブーになっている気がします。上司向けのアドバイスでも「若者を人前で褒めてはいけない」と言われます。人と違うことを避けるのが処世術です。

 

僕はすでに職場で超絶浮いているので、今さら周りに合わせようなんて考えはありません。でも群れている人たちは自分の意思がないのか、気になります。

 

とりとめのない文章ですみません

あすはいちさんです。お楽しみに  ☆ミ

 

ずきんは京都へ行くぞっ

①自分語り

 


こんばんは。サークルクラッシュ同好会では初めて文章を書かせていただきます。ずきんと申します。どうぞ宜しくお願いします。ずきんという名前の由来は、本当は"すずきんぐ"(鈴木+キング)という名前にしたかったのですが、とても烏滸がましいと感じたので最初と最後の文字を一文字ずつ取って、ずきんという名前にしております。昔のアカウント名はLiNGだったのですが、今はとある事情があり使っていません。またいつか使えるようになるといいな。いまだに リングさん と呼んでくれる方もいて、なんだかんだ好きな名前だったからちょっと嬉しかったりする。

 


それはさておき、私のことをご存知ない方がたくさんいらっしゃると思うので今回は私という人間を知ってもらいたいです。そして仲良くしていただけたら嬉しい限りです。ちなみに最近は大阪から京都へ引っ越しをする準備が忙しいです。京都の良い物件を紹介してくれたホリィセンさんありがとう。ついにグループホームという施設を出ることができる。本当に感謝しか無いです。大阪の支援者にはとても反対されたけど、なんとか押し切った。12/20に引っ越し予定。他の住人さんと仲良くできるのか・福祉の支援の更新はうまいことできるのか、などなど不安はたくさんあるけど、ちゃんと生活できたらいいな。

最近はそんな感じです。

ちなみにホリィセンさんは尊敬しているので敬称をつけてホリィセン"さん"と呼んでいるが、いつか ホリィセン と敬称なしで呼びたい。そういう日が来るといいな。多分まだまだ先だし、ずっとさん付けかもだけど。

ちなみに最近ホリィセンさんが出てる演劇を観に行った。とても良かった。演技上手だった。みんなでチェキも撮った。家宝にします。

 

 

 

 


話変わりますが、孤独耐性が皆無な私は、京都に行ったらひとりぼっちだな とか考えて実は毎晩泣いている。どなたか私の涙を止めてください。また1からいろいろ頑張らなくちゃ。京都に住んでいらっしゃる方、ぜひ仲良くしてください。今後はサークラの活動や読書会など積極的に参加するようにしたいです。

 


サークルクラッシュ同好会に来てくれた人列伝

 


私はホリィセンさんがサークルクラッシュ同好会に誘ってくださったので、よくわからず入会させていただきました。何名かとは新歓のときにXで繋がり、LINEを交換したのですが、今回は自己紹介(?)をします。結構重いかもしれませんが、引かないで欲しいです。

 


まず私はあまり嬉しく無いですが、今月12月14日で30歳になります。(本当に嬉しく無いけれど、ここまで生きることができて逆にすごいと思っています)

 


私は高校1年の頃、両親が離婚して父親に18歳まで育ててもらいました。弟2人も一緒でした。私は高校2年からグレて学校に行かなくなり、Twitterなどインターネット漬けの毎日を送っていました。それから私は福岡出身なのですが、家を出たい、でも地元の友達とは定期的に会いたいということで大分(福岡の隣)の大学に進学しました。大学では寮に入っていました。しかしとにかくお金がなかった(親からの仕送りなし、奨学金とバイトのお金で暮らしていました)ので、大学2年の中頃から体調を崩してしまいました。講義中も起きているので精一杯で内容は全く頭に入らなかったです。そんなこんなで内科的に何か問題があると思い、約10件ほど内科に行きましたが、何も異常がなく、最後に行った内科でメンタルクリニックを紹介されました。当時の私は本当に受け入れるのがつらくて仕方なかったです。そこでついた診断名はうつ病でした。しかし、のちに診断名は統合失調症にかわりました。そんなこんなで私は、障害者手帳を取得して、障害年金を主な収入として生きています。

 


それから、私の初恋の人はインターネット(Twitter)で知り合った人なのですが、その人と結婚をしました。当時(10年ほど前)のいわゆるインターネット婚・Twitter婚は現在よりだいぶ珍しく、周りからはかなり反対されたけれど、私の人生は私のものだ!と思い、結婚しました。ちなみに反対していたのはリアルな知人たちで、インターネット上の人やTwitter仲間は応援

してくれました。それと、自分自身初めての恋愛(それ以前は学生生活などで恋愛のれの字もなかった分際)で4年半付き合って、振られるのが怖かったこともあり、私がプロポーズしました。精神科入院明けのプロポーズの内容は「結婚してくれないと、ここで今から死ぬから!」と、10歳年上の相手に電車の踏み切りの前で言いました。我ながらかなりのメンヘラだなぁ…。でも当時の私も本当に生きるのに必死だったんですよね。それは今も変わらないですが。

 


そんなこともあり、学生(正式には精神科閉鎖病棟入院患者)から主婦へ。しかも場所は福岡から大阪へ。最初はお姑さんとうまくいかなかったり、喧嘩したり大変でした。でももっと大変だったのが、夫がアル中で記憶をなくすこと。

私もたまにプチODしたことはあったけれど、そんなことがちっぽけに思えるぐらいの感じ。今でも脳裏に焼き付いて離れない。警察沙汰になって真冬の真夜中に瓦礫を片付けたこと。救急車の中で離婚したいと大声で叫び続けられたこと。

 


今は別居してなんと家庭裁判所で円満調停中です。…何故円満調停なのかはここでは伏せておきますが。

 


別居のきっかけはたくさんありますが、一番は私が夫の両親から ◯◯(ずきん)ちゃんが良いサンドバッグになってくれていて助かるわぁ と軽く言われ、 あぁ、終わった…と悟り、近くの警察署に駆け込みました。

うろ覚えですが、帰るところがありません!助けてください!と言ったはず。

 


それから一時保護施設(いわゆるDVシェルターというもの)を経て、グループホームという障害者施設へ。門限は夜9時。第三者を入れてはいけない。そんなさまざまなルール・制約があるところ。めちゃくちゃ破っていたけど。

 


こんなこと書いて、夫に見つかったらどうしよう、グループホームの人に見つかったらどうしようと少しばかり…いや、実はかなり不安ではあるが、もういっか。そろそろいいよね。いつまでたっても臆病で小心者だなぁ。

 


このように、恥の多い人生を送ってきました(?)が、私はもうすぐ京都府民になる。

 


ずっと大変だった記憶しかない大阪から離れる。

 


さよなら、大阪。

 


これからは、心機一転、京都で新生活。

 


私の人生という長い旅はまだどうなるかわからないし、京都へ行くことが正解なのかも分からない。

 


しかし、私の人生はまだまだ続く。

 


少しばかりの後悔とたくさんの不安や弱さを抱いて。

 


(締めの文章が思いつかなくてそれっぽく書いたら、とてもキザなセリフみたいになってしまって恥ずかしいです)

 

みなさん、私はこんなやつですがどうぞよろしくお願い致します。

 


いろいろ誘ってください。

 


※ここに書いたことは、全部事実です。ノンフィクション!

 

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございます!

 


次回はふまさんです!

 

神田方、降車終了

この記事は、2023年サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー1日目の記事です。

https://adventar.org/calendars/8608

 

 

今年もサークラアドベントカレンダーが始まりました。2017年に始まり、今年で7回目を数えます。今年の進行役は、わたくしfinaが務めさせて頂きます。アドベントカレンダーには2020年以来、3年ぶりの登場です。そのときは自虐についてと旅行記を書きました。

本年のテーマは、「サークルクラッシュ同好会に来てくれた人列伝」です。サークラのブログに私の名義で投稿するのは2021年の金沢合宿レポート以来となりますが(昨年も一昨年もアドベントカレンダーの〆切を落としてしまい申し訳ありませんでした)、今回はその金沢合宿のお話をしましょう。やはり私は旅について書くのが好きなようです。ということで、今年のアドベントカレンダーは、旅行記からスタートします。(〆切に終われ、職場からの投稿です…全然推敲してません、ごめんなさい!)

 

この文章は、サークラ会誌Vol.12に寄稿した「明け日勤/fina」の前日譚です。大好きな大好きな恋人とはじめて出会った、彼女との馴れ初めのお話。

 

 

序章─アドベントカレンダー

僕がサークラアドベントカレンダーに初めて寄稿したのは2020年だった。当時高校4年生だった僕がサークラに入ったのは、言ってしまえばコロナ禍の暇潰し目的だった。学校が休校となった春先からDiscord例会に参加し始め、授業が再開したあともサークラの活動は面白かったので定着し、11月にはニセNFにも行った。そこで初めてホリィセンと会った。思ったよりおじさんだった。更には高校を中退して消息不明だった友人がフロントライン京都に住んでいることが判明し、旧交を温めるという一幕もあった。なお、この友人とは本カレンダー5日目に登録している「MSK」である。

かくしてサークラの実態を捕捉した僕は満を持してアドベントカレンダーに寄稿することになった。とりあえず登録したのはよかったのだが、このテの文章を書いたことがない。一時期ブログをやっていたが、そこではもっぱら旅行記や旅客営業規則についてを書いていたので、所謂メンヘラ文学とは縁が遠かった。

とりあえず、2017,2018,2019と過去の文章たちに目を通した。なるほどサークラの文章とはこういうものかと理解したつもりになって、自分なりに書いた文章がこれである。桐生あんずには「面白くて感性がみずみずしい子」と評され、アドベントカレンダー創始者に認められたのだとホッとしたものだが、実際のところはどんな文章が並ぶのかドキドキしていたものである。

 

そんな2020年のトップバッターは任意定数の「上野にて、感情」だった。こちらはホリィセンが大絶賛していた。文末に「池袋、池袋に到着です。」と書いてあって、ああこの人は東京の人なんだなとわかって、僕以外の関東勢の存在に安心した記憶がある。僕にとっては「理解(わか)りすぎる」ほどに見覚えのある情景だ。上野から乗ったってことは池袋着は6番線。反対番線にはホームドアがなく、発車メロディはせせらぎ。もはやフラッシュバックの域である。

でも、任意定数の文章はどこかいけ好かなかった。上野って別に、そんないい街じゃないし、だいたい上野の美術館群ってパターン化されたエモじゃん。パターン化されたエモでエモい文章を書いて、それでいいの?僕はだめだと思うんだけどなあ、と「ひねくれ陰キャ」のようなことを思った記憶がある。

これはシティーボーイかつ藝大崩れの僕のプライドだった。こちとら生まれも育ちも東京で、4代前から東京のど真ん中に住んでいる、生粋の山手っ子である。そして幼い頃から、藝大卒の祖父にしょっちゅう奏楽堂に連れて行かれて、そのたびに美術館に寄っていた。物心がついて藝大受験を意識し始めた頃には、「よい芸術に触れるため」に美術館に通っていた。そんな僕が上野でデートなんてしたところで露悪趣味になるだけだし、「ハイカルとサブカルってやつなんだな、所詮サークラサブカルに憧れたお上りさんが、サブカルのセンスが有る絶妙な東京近郊住みを絶賛するだけの集まりなんだな」と少しばかり失望した覚えがある。ホリィセン、お前のことだぞ。

まあ、恐らく任意定数は東京近郊育ちで、「都心」である上野の空気に恋愛の風を感じるんだろうな、と思った。うーん、品川のほうがいいと思うんだけどな………。

 

僕にとっての上野といったら藝大だが、もう一つ挙げるとすれば「13番線」だろう。かつての上野駅は「今の玄関口」として隆盛を極めた。上野駅といえばあの薄暗い地平ホーム。ずらーっと並んだ頭端式ホームは壮観で、全盛期はそこから何本もの特急列車が北へ向けて発着していた。はつかり能登、ときといった電車特急たち、そして、あけぼの、ゆうづる北斗星といったブルートレインたち…。どれも名だたる名列車である。石川さゆりの名曲「津軽海峡・冬景色」の歌い出しである「上野発の夜行列車降りたときから」の一節からも、当時の上野が東北方面への重要拠点だったことが伺える。要は、鉄道マニアにとっては「聖地」なのである。特に上野駅13番線は、客車列車の発着ホームとしてマニアの間では有名だった。「推進運転」はわかる人にはわかる、上野駅13番線の代名詞である。

そんな上野駅も、今ではすっかりさみしくなってしまった。東北新幹線の開業によりその役目を東京駅に奪われ、その後も残り続けていたブルートレインの発着駅としての役割も、車両の老朽化による各列車の引退とともに失われた。2023年現在、上野駅の地平ホームから発車する定期特急列車は一日10本に満たない。

 

おっといけない。ヲタク・トークになってしまった。僕はこの通り、どうしようもない鉄道マニアなのだ。ちなみに自虐について書いたあと、12月9日の枠が埋まらないということで急遽旅行記を一本書いた。内容は、「三江線に乗ったよ」というもの。

僕が鉄道に目覚めたときはすでに、上野駅はすっかりと荒廃してしまっていた。そんな僕にとっての上野は、得られることのできなかったエモーショナルが眠る駅。任意定数は「鉄道を知らない」から上野で感情ができるけど、僕は「中途半端に鉄道を知っている」からこそ、手放しに彼女の感情に共感できなかった。

なお、件のMSKは全盛期の上野を知る、数少ない同世代の人物である。せっかくだし、僕にも任意定数にも書けない上野駅の情景を、彼に書いてもらおうかな。うーし、5日目、任せたぞ。

 

 

第一章─発案

なんとかアドベントカレンダーへの寄稿を終え、すっかりサークラに棲み着いた僕は、ずっとDiscord例会だけでは退屈なので、対面企画をやりたいと思い立つ。どうやら、過去には白浜合宿をやったことがあるらしい。そのときの様子は当ブログやToggeterでまとめられている。とても楽しそうだったので、また似たような企画があれば参加したいなと思ったため、ホリィセンに「開催予定はないのか」と尋ねた。すると「企画する人がいれば…」という返事が返ってきたので、ならば僕がやろうじゃないかということで、「やります」と名乗りを上げた。

僕がサークラのグループLINEに入ったのは、このタイミングだった。「グループLINEに入ったら入会」というよくわからないルールが活きているのだとしたら、僕はこの時点で入会したことになるが、当時はDiscord全盛期だったので、Discordで事足りていた。そのためあまりLINEグループに入る意味を感じていなかったが、合宿をやるとなると流石に入らないと連絡のしようがないため、ホリィセンに招待してもらった。とはいえ、いきなり入ってきた人間が「僕と一緒に二泊三日で旅行に行きます」と言ってもビビられてしまうだろうから、ちょっと心配だった。まあ、それも杞憂だったのだが。合計15名ほどから参加希望のLINEが来た。そして、その殆どが関西勢だった。やはりサークラはあくまでも京都の集まりで、関東ではローカルなんだなと思った。けっきょく、関東から参加することになったのは二名だけであった。

 

二名のうち、もちろん一人は僕で、もう一人が、のちの交際相手となる「彼女」である。ここから僕たちの恋物語が始まった。

 

 

「お疲れ様です、◯◯です。私も参加させていただきたいです。」

グループで告知した直後、威勢のよいLINEが飛んできた。実は、彼女とはニセNFで少しだけ会っていた。Discord例会でも何度かご一緒していて、そこで自己紹介を済ませ元々Twitterでは繋がっていたが、改めてお互い「よろしくお願いします」といった感じだった。やはり、インターネットの関係においてLINEの交換というのはどこかギアを一段階上げる意味合いを持つのだろう。

無秩序な合宿とはいえ、8名が参加する大所帯の旅行は、とても一人では回しきれない。「手伝ってくれる人がいたら教えてください」とLINEグループで告知を打ったところ、彼女は真っ先に「手伝います、仕事があったら振ってください」と名乗りを上げてくれた。献身的な人なんだな、と素直に思った。本人はTwitterではやれメンヘラだリスカだとメンヘラ芸を展開しているが、そこからはイメージがつかない「真面目さ」がLINEの文面に滲み出ていた。きっとリアルでは真面目でなければ生きられない責務がある、だからせめてインターネットではメンヘラをやるのだろう。まあ腕を切っている時点でメンヘラムーヴに真面目なんだけど、そこも含めての愛嬌だろう。るるぶを買ったり、とても楽しみにしているようだったし、僕も頑張ろうと思った。

 

 

彼女とLINEを交換して数日後、「ネイルを塗るキャス」という配信をしていたので、遊びに行った。リスナーは僕以外誰もいなかったので、コラボ配信をした。結局誰も来なかったので、当時ハマっていた謎掛けを僕が延々披露する回になった。彼女からお題をもらって、僕がひたすら「ととのえる」だけ。彼女が「口紅」というお題を出してきたので、「口紅とかけて、モテない男のバレンタインと解く、どちらも『くれない』」と解いたところ、彼女はたいそう感心していた。そうそう、これは2月の話だったな。バレンタインを控えていた頃で、「時事ネタはポイントが高い」と絶賛された。

 

意味不明である。

 

第二章─計画

合宿で訪れる場所は僕の希望通り金沢となった。関西勢は18きっぷで京都から向かうようだが、我々は18きっぷで行くには遠すぎる。かといって高速バスもかったるい距離で、北陸新幹線が開業したいま、金沢へ行くには新幹線一択である。ただし、新幹線はカネがかかる。彼女が「なるべく安く済ませたい、米原経由で敦賀から合流しましょう」とか言い出すことを恐れていたが、あっさり新幹線案に同意してくれたのでホッとした。

そうすると、今度は18きっぷの関西勢に比べて早着しすぎてしまうという問題が発生する。京都から金沢は概ね4時間半から5時間。道中食事を摂るだろうから6時間と見積もり、更に朝弱いサークラの面々に対し合理的配慮を行うと、彼らの到着は少なくとも夕方になるだろうと見積もった。我々二人もそれに合わせてもいいのだが、せっかくの初日を新幹線に乗るだけで終わらせるのはもったいないので、先に現地入りして二人で観光することを提案したら快諾してくれた。

 

彼女は欲張りだった。「加賀温泉に行きたい」とオーダー。温泉が大好きなんです、と言っていた。まあ、行けなくはない。僕も鉄ヲタの端くれである。実はこのとき、最長片道切符の出発もまた3月に控えていた。旅行のプロになろうとしていたのである。旅行のプロとして、行きたいと言われたら、連れて行きたい。連れて行くしかないということで、行程を組んだ。しかし一回NFで会った程度の人間と異郷の地でマンツーマンで温泉旅行をしたいと言い出すのはなかなかリスキーな気もした(市内観光程度だと思っていた)が、そもそも「先に二人で観光しませんか」と誘ったのは僕なので、気にしないことにした。

 

この構想が浮上したのは、私が合宿免許から帰ってきた一ヶ月後くらいだった。免許取り立ての学生は「怖くて運転したがらない」と「さっそく運転したい」に二極化するが、僕は後者だった。もちろん、バリバリの初心者マークの人間が「運転できますよ!!!」などと言うわけにはいかないので、控えめに「いちおう取り立てほやほやの免許があります」と申告したところ、案の定「車はあると助かりますが慣れない道を運転させるのは申し訳ないです」という返答。当たり前である。普段からTwitterでは死にたいとは言っているが、得体の知れない高校生の運転に同乗して死にたくないだろう。「流石に死にたくないんだね笑」「当たり前でしょ笑」と言って笑い合ったのを覚えている。

車の利用は最後の最後まで保留されたが、結果、初日の夕食にて「寿司のテイクアウトをする」ということが決定し、我々関東組がその役目を担うこととなり、テイクアウトには車があったほうがよいということで、無事レンタカーを借りることとなった。ならば加賀温泉から借りて金沢市内で乗り捨てようということで、加賀温泉へ車で行くこととなった。

 

彼女なりに色々調べてくれたようで、軽自動車しか置いていない怪しい格安レンタカーを提案してきたが、慣れない道で軽はマジで怖かったのでやめにした。彼女は怖くなかったのだろうか。

 

第三章─通称丸南

あっという間に当日を迎えた。待ち合わせ場所は東京駅南乗り換え改札を指定した。緊急事態宣言のときほどではなかったが、全盛期の東京駅在ラチ内とは程遠かった。確かあのときはまん防期間だったはずで、「緊急事態宣言下と比べたら大いに賑わっているが、今思い返すとそれでもガラガラだった」というくらいの人出だったため、彼女をすぐに見つけることができた。

薄いベージュのオーバーコートを着て、黒いリュックを背負って待っていた。僕も待ち合わせ時間の5分前くらいに到着したけど、「ずっと前からそこにいたよ」と言わんばかりの雰囲気を醸し出しながら東京駅の柱と同化して佇むその姿は、絶対に遅刻しないという律儀さを感じさせた。

「あ、どうも。finaです、よろしくお願いします」

オフ会仕草を済ませ、新幹線ラチ内へと入場する。自動改札機にピピッとタッチ。予め彼女のSuicaには特急券を紐付けておいた。実は僕は根っからの「アンチ・チケットレス」だが、きっぷの発券とか受け渡しとか、万が一僕がコロナにかかったことを考えると受け渡しが不可能となってしまい、リスキーすぎるのでやめた。このあたりからも、僕の初対面の女性に対する誠実さが見て取れて、今こうして振り返ると笑ってしまう。「きっぷ」という男根のメタファーを、彼女に対して隠すということは、僕も無意識に彼女を女性として意識していたのだろう。

新幹線に乗り込み、二人掛けのD,E席に座る。彼女は窓側を譲ってくれた。鉄ヲタへの合理的配慮、満点。もともとキャスや通話等で駄弁っていたこともあって、打ち解けるのに時間はかからなかった。お互いが横になって並ぶという特急車両の特性は、恋愛工学的に言えばパーソナルスペースを強制的に縮める機能として作用する。すぐ隣りにいるのに、意識して振り向かないと、相手の顔を視認できない。自ずと相手の表情や目線を意識して読み取らざるを得ない状況が生まれる。彼女は頑なに僕に目線を合わせようとしなかったが、それでも必死に僕の顔を見ようとしていた。きっと目を合わせるのが苦手なのだろう。深掘りはしなかったが、それとなく彼女の表情をふんわりと掴む程度に留めた。

ちょうどこの日は彼女の大学の来年度の履修調整だったようで、履修可否のメールを首を長くして待っていたのが印象的だった。お互いの学校の話で盛り上がった。上越北陸新幹線は彼女にとっては高校時代のゆかりの路線らしく……おっと、彼女の個人情報がバレてしまう(笑)。

 

高崎を通過したあたりで、湖西線が強風でストップしたというショックな知らせが入った。京都出発組は足止めを食らっている。あわててJR西日本のホームページで在線状況を一緒に眺めていたが、どうやらこれはマズそうな状況だったので、「いやーまいったな…どうしようかな…いやー…」と独り言をブツブツ言っていたら、彼女は優しく「大変そうですねえ」と相槌を打ってくれた。鉄ヲタへの合理的配慮、120点。まあ、実際ヤバかったし、このせいで旅程は崩壊し彼らの到着時間は3時間ほど遅れることとなった。

長野駅を過ぎたあたりで、新幹線はトンネル地帯へと入り、車窓を楽しむこともできなくなる。気付けば、彼女は眉間にしわを寄せながらうとうとしていた。きっと昨晩は楽しみで眠れなかったのだろう。だとしたらかわいいもんだけど、いや、メンタルがヘラったから?まあいいや、なんであれ眠いんだなと思って、そっと彼女の寝顔から視線を落とし、再び北陸本線の運行状況を確認した。

カクンカクンと彼女の頭が揺れる。どうやら完全に寝落ちてしまったようだ。人間の頭はでかくて重い。座りながら寝ることは、その重い物体を首という支点で絶妙にバランスを保つことが要求されるが、彼女はそれさえ放棄してしまって、僕の座っていたE席を平気で侵害してきた。カックン、またカックンと、彼女の髪が不定期に僕の肩に触れる。列番で例えると8000番台。コトン、と後頭部が僕の胸元まで落ちてきた。こちらの頻度は9000番台。正直鬱陶しくて、おっさんだったらキレて起こすか車掌に言って座席を移動していたところだが、まあ許した。それにしても、よくもまあ初対面の男相手に無防備なツラを晒せるよなあと感心したものだ。本当に、掴みどころがあるんだかないんだか、不思議な女性だった。

 

第四章─レンタカー

金沢駅に到着したら、すぐに北陸本線普通列車に乗り換えて加賀温泉へと向かった。なんとか521系の座席に二人並びでありついて、「京都の新快速と同じだ」みたいな話で盛り上がった……訂正しよう、盛り上げてくれた。鉄ヲタへの合理的配慮、100000000点。

加賀温泉の駅は新幹線開業を控え、絶賛工事中だった。北陸新幹線は来春、敦賀まで延伸開業する。したがって、乗車した北陸本線の金沢以西も、来春には第三セクターへと転換してしまう。

加賀温泉の駅舎を出たら小雨が降っていた。僕は傘を持っていなかったが、彼女が「入りますか?」と提案してくれた。とことん優しい人だなと思った。レンタカー屋までの距離も雨量も大したことがないので固辞し、水たまりを避けながら歩いた。レンタカー屋に到着して割り当てられた車種は知らない車で、古そうなコンパクトカーだった。まあ乗れれば何でもいい。初心者マークをペタっと貼って、いざ出発進行。

最初の目的地は山代温泉の古総湯。カーナビにセットして、アクセルを踏む。細かい話をすると、レンタカー屋の敷地を出るまではクリープ走行なのでアクセルは踏んでいないのだが。県道に出て、アクセルを踏み込む。加速は普通だ。しかし、赤信号で止まろうとすると、これが全然止まらないのである。一昔前のガソリン車のオートマなので、全然エンジンブレーキが効かない。教習車はエンブレが効きまくるマニュアル車で、自家用車が回生ブレーキがよく効くハイブリッドだったので、ブレーキ感覚に非常に困惑した。

さっそくガクンと止まってしまった。まずい、こんな運転操作では彼女に不安を与えてしまう。とりあえず「ぜんぜんエンジンブレーキが効かないですねえ」と言い訳をしてみるが、彼女は無免であるため、言ったところで理解されない。まずい、まずいと焦りかけたが、焦ったところで事故るだけだという真理に気付いたら我に返ったので、「まあ、なんであれ安全運転でいきます、よろしくお願いします」とひと声かけたところで、青信号となった。

 

最初の方は慣れない道の運転に必死で、あまり会話ができなかった。まあ、彼女だって運転に集中してくれたほうが安心するに決まっているからそれでいいんだけど、やはり無骨な空間だったかもしれない。古総湯に到着した頃には、天気は大雨になっていた。入口のすぐ前に車を寄せて、彼女だけ降ろして駐車場へと向かった。

古総湯はとても立派な建物で、昔ながらの浴場の原型を留めており、ステンドグラスが非常に美しく、芸術性の高い建築空間だった。一つ気になることがあったといえば、客が僕しかいなかったことだった。一人で入るには、ちょっと広いし豪華すぎて、どこか落ち着かなかった。女湯と男湯の仕切りは天井部が吹き抜けになっていたので、どうせ貸し切りだし彼女に声を掛けてみようかと思ったけど、女湯には人がいるかもしれないので、やめた。

あとで聞いた話だと、女湯にもやはり彼女しかいなかったらしい。じゃあ話しかけたらよかったわと言ったら、「いや、やめてくださいよ」と爆笑された。だんだんと、鉄ヲタ以前に僕の頭がおかしいことも理解して、内面も打ち解けていったことを実感した。

 

面白かったのが、温泉を出てからだった。次はどこに行きましょうか、と聞くと、「九谷焼をお土産で買いたいので、このお店に…」とオーダー。ぜんぜん構いませんよと快諾し車を回した。すると、なんと目当ての店は閉店。しかし彼女は九谷焼を諦めきれなかったようで、「本当にごめんなさい、このお店もいいですか…?」と申し訳無さそうにお願いしていたので、特に断る理由もなかったので受けた。二軒目に到着し、彼女を降ろして車内で待っていたら、すぐに浮かない顔をして戻ってきた。

「すみません、ピンと来るものが無くて…」

心のなかで爆笑した。どんだけ九谷焼にこだわるんだよ。こうして無事三軒目の店に行くことが決定した。どうせ遠方まで来たのだから、くまなくお店を巡って一目惚れしたモノを買うというのは正しい。だいたい、そのために車を借りているのだから。とはいえ、免許を取って一ヶ月と少ししか経っていない、ほぼ初対面の人間にそれを要求しているのが面白い。要求の正当性をわかっていても笑ってしまう。

きっと彼女は、どこまでも愚直で素直な人なのだろう。その正直さを信頼することができたし、人間としての魅力を感じた。どうしても人は、よく知らない相手には建前に塗り固められた感謝や謝罪のコミュニケーションに走り、人格の自己防衛を行ってしまう。そこから徐々に本音をちらつかせ、段階的に親密圏を形成していくが、彼女にはそれがなくて、どこか懐かしさを覚える程に、よそよそしさの影に眠りながらも本質に迫る本音があった。

これをASDと評する人もいるかもしれないし、彼女は自分のことをアスペルガールだと言っているけど、僕はそうは思わなかった。ただ自分自身の人格に対して誠実に向き合っているに過ぎない。正直すぎるその姿勢はきっと生きづらいだろうけど、それでも僕は、彼女には報われてほしいなと思えた。

せめて彼女の「素敵な九谷焼に出会いたい」という気持ちが報われるように、安全運転に努めること。それが僕にできる誠実さの返事だった。

 

第五章─お化粧してもいいですか?

一通り山代温泉の観光を終えたので、いよいよ金沢市内へと移動する。温泉街の運転も緊張したけど、加賀から市内への長距離ドライブこそが、今回の任務の本領と言えよう。まあ50km程度の道のりなのだが、免許取り立ての初心者にとってはハードルの高い長旅である。国道8号には無料のバイパス区間があって、最高速度は80km/hと、ほぼ高速道路と言っても差し支えない道路だ。

長旅に緊張したが、ようやく運転操作にも慣れてきた頃で、雑談を楽しむ余裕も生まれはじめていた。思えば、「初めて助手席に乗せた女の子」どころか、教官と家族以外の人間ようは他人を助手席に乗せたこと自体、彼女が初めてだった。なるほど世の男性はこうしてドライブデートの雑談を楽しむのかと理解を深める。

小松の道の駅を過ぎたあたりのこと。

「すみません、お化粧してもいいですか?さっきの温泉でぜんぶメイクが崩れちゃって…」

いや、僕は別にいいけど、それでいいの!?たしかにすっぴんだったけど、そもそも僕の前ですっぴんでよかったの!?そもそも得体の知れない男の前でパフパフオケショーして、それでいいの!?確認しなければならない事項が多すぎたので、もはやそれ自体を放棄してしまったが、やはり彼女は面白い。絶対に人前で化粧することが許されなさそうな育ちの良さ、ズバリ言ってしまうと「清楚であれという毒親の呪縛」の自覚については本人も言及しているが、その反動形成なのかな、と思った。とはいえその呪縛はこんなにもあっけなく崩れ去るのかと驚きを隠せなかった。

もちろん合理的な判断だし、「ただでさえ長ったらしい風呂上がりの支度に時間を要しては、待たせてしまって申し訳ない」という彼女なりの気遣いであることは容易に理解できた。約一時間見込まれる移動中に必要経費を避けば、時間効率が上がる。裏を返せば、彼女の「限られた時間を最大限有効に使って、最大限旅行を楽しむ」という精神なのだろうと解することもできる。その全力エンジョイ姿勢は、見習わなければならないなと思った。

僕のように旅慣れてしまうと、旅行そのものの希少性が薄れ、どうしても惰性になってしまう。旅行中の動作一つ一つは習慣化され、どうしても無意識が多くなって、得られる感動に対する感受性も薄れてしまうだろう。もちろん僕はシティボーイハイカル人間としての自負があるので、旅に見出すエモーショナルは「反復し習慣化された無意識の上にこそ見出す」という哲学を確立して惰性に抗っていたが、彼女の全力投球は、また違った方向からのアプローチだなと思った。もっというと、メメントモリを体現しすぎていて、なんというか美しすぎる儚さに物悲しささえも覚えた。

 

ふと任意定数のアドベントカレンダーを思い出した。僕は、上野の街を習慣化している。いや、上野の街だけではない。今回の合宿だって同じだ。東京新幹線車両センター付近から見える萩の月のクソデカ看板も、荒川橋梁から見下ろせるグラウンドを走る少年たちも、高崎線併走区間から望む浅間山と時たま見える富士山も、すべてが「反復された、変わることなく記憶に刻まれた光景から見えるエモーショナル」だった。

でも、任意定数にとっての上野公園の静寂さ、アメ横の喧騒、山手線のアナウンス、これらすべてが「はじめての世界」だったとしたら。任意定数と彼女の影が、妙に重なった。刹那的で、いまこの瞬間を必死に生きる彼女たちにしか見えない景色。消えて無くなってしまいそうな、儚い美しさなのだと思った。

納得がいったと同時に、いま僕の隣で化粧に勤しむ彼女にとっては、この北陸の無機質で社会主義チックな鬱屈とした景色でさえも、きっと光り輝いているのだろうなと理解した。どこまでも純粋で、少年のような眼差しから見える世界は、いったいどんな景色なのだろうか。

 

車は無事、次の目的地だった寿司屋に到着した。予約時間に間に合って一安心。あとはスーパーで飲み物等の買い出しをして、一式を宿へ運んで、車を返すだけ。乗り捨てという制度は便利だなあ。

「僕はしっかりハンドルを握ってるので、寿司を託しますよ!」

「はい!」

寿司ごときでバカバカしいとはいえ、9人分の寿司である。僕たち二人の使命は重すぎる。一つくらい…食べてもバレへんか!

 

第六章─金沢合宿に来てくれた人列伝

17時過ぎに宿に到着し、彼女と荷物と寿司を降ろした。僕の名義で予約していたので、チェックインを済ませ代金を支払うべく車を降りて宿へと入った。客室へと案内されたが、とても綺麗で広々としていた。本来は共用部の、ドミトリーの一階部分を貸し切っている。寝室はまた別に二階にある。大きなダイニングキッチンがあって、リビングのテーブルも長くて、こりゃいいや。彼女のテンションも上がっているのがわかった。寿司を冷蔵庫に入れ、「それじゃあ車を返してきますね」ということで、彼女とは一旦解散した。

 

宿から返却店舗への道のりが最後の運転となる。日が落ち始めていて、いわゆる「薄暮」という運転には特段の注意を払う必要のある時間帯に突入していた。返却店舗は宿からすぐ近くにして正解だっただろう。慣れない街の夜道は非常に危険だ。慎重に慎重に、カーナビの指示に従ってハンドルを切る。なんとか返却店舗に辿り着いたが、どっと疲れてしまった。ガソリンを入れるのが怖かったので、キロ精算にしてしまったけど、割高になっちゃうなあ。彼女にガス代請求するのはやめておこう。でも、彼女のことだから律儀に払おうとするだろうなあ。帰りの新幹線でビール一本奢ってもらおう。

 

宿に戻ると、関西組も到着したようだった。湖西線の大遅延は相当堪えたようで、みな顔が疲弊していたが、同時に安堵の表情も浮かべていた。関西組は計6人。うち京大生4名。高学歴すぎる。加えて現地参加者が1名いた。

食事の支度が整ったところで、無事寿司が振る舞われた。「寿司争奪戦ドラフト会議」は大いに盛り上がったし、自己紹介も各々が楽しそうに自分語りをすることに成功していた。ほとんどオフ会のような旅行で、どのような雰囲気になるか非常に心配だったが、アイスブレイクとしては大成功だった。

初日の食事のセッティングについては、彼女とずっと相談していた。今回は前回の白浜合宿と違ってほぼ全員が初対面で、どんな空気になるかわからないから、初日の食事は肝心であるという見解が一致し、そこから議論の末に「寿司テイクアウト」の結論へと至った。彼女と二人になったとき、「うまくいってよかったですねえ」とお互いの安心を相互確認した。こうしてふたりとも胸を撫で下ろし、初日の日程はトラブル無く終了した。

 

食事の後はそのままシェアハウスのような雰囲気で、リビングで各々が寛いでいた。流石はサクラ荘を展開するホリィセンが回しているだけある。その力量はホンモノだな、と直感した。いろいろな催しが開かれていたが、ウクレレを持ってきている人、某アカペラサークルに入っている人、そしてミニキーボードを持ってきた僕とで簡易セッションをしたのは印象的だった。サークラは広く開かれているとはいて、どうしてもアカデミア前提のサークルという側面もある。僕だけ高校生で、圧倒的最年少で、遠くの東京に住んでいて、そもそも高校だって定時制のようわからんところだし、大学生の集まりに一人混ざってよいのかという不安は常につきまとっていた。その点で彼女は、同い年かつ同郷という意味では、安心材料の一つだったかもしれないが。

あの合宿のあの空間は、そんな僕を出迎えてくれたわけでもなく、一方で僕が馴染むための努力をしたわけでもなく、自然と「良い空気」が醸成されていたのだと思う。うまく言い表せないが、とても居心地が良かった。

 

こうして全員の親交が非常に深まり、この合宿は大いにサークラの親睦を深めることに寄与したのだが、のちにクラッシュの運命を辿ることとなる。しかも、結果として三つのクラッシュが巻き起こった。

まず一つ目が、BおよびSの男性二名、そしてRの女性一名との間で発生した三角関係。まさに恋愛を巡って発生したクラッシュで、サークラ的にはお手本のような事例なのかもしれないが、非常に悲しい結末でもあるため、あまり言及されてこなかった。これについては、いつかほとぼりが冷めた頃に、ホリィセンあたりが言及することだろう。というか、そうあってほしい。「いつか笑い話に」なってほしい。

二つ目が、SとNが運営方針を巡って対立し、Nがサークラの脱退を余儀なくされたというクラッシュ。これも悲しい事件だったが、最近の出来事であるため、多くは語られていない。これについても、ほとぼりが冷めた頃にホリィセンあたりが言及するはずだ。

そして三つ目が、僕と彼女の恋愛。これは本当に本当に、悲しい結末を迎えてしまった。この結末こそが、今年の会誌に私が寄稿した文章の全容である。これは厳密にはクラッシュには分類されないかもしれないが、クラッシュということにしておこう。

 

第七章─乗り遅れ

二日目はグループを分けての観光とし、彼女とは別行動だったので、本文での言及は避けよう。ちなみに、ホリィセンと一緒のグループになって、市内観光をした。二十一世紀美術館の謎展示を「女性器のメタファーだ」とか言って、ゲラゲラと下品な笑いで盛り上がったのは特に覚えている。

 

三日目は帰りの電車の時間だけを決めた自由行動とした。ほとんどの参加者は連日の深夜に及ぶ飲み会のせいで限界まで寝ていたためチェックアウトギリギリまで粘っていたが、彼女は早起きして早朝の市内へと出掛けたようだった。チェックアウトのときに集合写真を撮ったのだけど、彼女はそこには写っていない。ちょっと残念だった。

そういえば、彼女は連日一足先に寝ていたな。いつも先に寝室へと上がっていた。別に何時に寝ようと自由だし、飲み会も強制参加ではないので問題はないが、どこか一歩距離を置いているように見受けられた。

僕も彼女とは初日にたくさん話せたので、他の参加者とのコミュニケーションを優先していたが、もっと「彼女が環に入れるような配慮」をすべきだったのかもしれないなと思った。でも、それを露骨にしてしまうと、いわゆる「オタサーの姫と理解のある彼くん」になってしまうし、逆に「東京から来たお二人は仲良しでいてはりますなあ」と京大生諸氏に思われても癪なので、あくまで静観が正しい対応だったのだろう。複数人のコミュニケーションへの参加は本人の意思に委ねるのが確実だ。

まあ、帰りの新幹線も一緒に指定席を取っていたので、またその時に話せばいいや、と思った。幸い初日の時間でかなりお互い打ち解けているので、ふたり合宿反省会も捗ることだろう。

 

そして僕は富山に住んでいる菊池あき氏とふたりでランチをしてから、七尾線に乗りに行った。菊池氏とは芸術や医学の権威性についての話をした。美味しいお店に連れて行ってもらって、とても感謝している。

この合宿最大のお目当てが、七尾線413系だった。あと二週間ほどで引退してしまう車両なので、惜別乗車というわけだ。満を持して、乗り鉄の本領発揮である。国鉄時代から走る同車両の漂わせる風情を堪能し、爆音モーターに耳を傾けながら、だだっ広い能登半島を北へ北へと向かった。

しかし、この時点で僕は既に取り返しのつかないミスを冒していた。時刻表を読み違えており、このまま終点の七尾まで乗った場合、金沢まで引き返したとして指定していた新幹線に間に合わないのだ。えきねっとで予約した割引きっぷなので、後続の自由席にも乗れず乗車券部分のみ有効となってしまう。

このミスに気付いたときには時すでに遅し、もうどうしようもなくなってしまった。乗り遅れや時刻表の読み違いは何度も経験しているが、一人旅だからリカバリが効くのであって、今回はそうもいかない。一気に背筋が凍った。これはまずい、きっと彼女も困惑してしまう。実は二年前に七尾線に乗ったときも時刻表の読み違いで派手に乗り遅れ特急券をドブに捨てている。呪われているなと思った。

とりあえず彼女に連絡をした。彼女は「とりあえず指定しているかがやきで一人で帰ります」とのこと。乗車変更もできないのだから、当たり前である。ふたり反省会の目論見があっけなく崩れ去ってしまって残念だったが、同時に自分も純粋に彼女と話したかったんだな、と気付いた。ただでさえ一人旅が好きな僕である。たぶん彼女と反りが合わなかったら「のびのびと一人で帰れるしむしろよかったな」くらいの温度感だったかもしれないけど、ここまで「やってしまったなあ」と焦るほどには、彼女と二人で話したいと念じていたのだと思う。

待っててくれなくて残念とか、「馴染めていなかったかもしれない彼女が心配だ」とか、そういった類の性愛的感情も無意識にあったのかもしれないけど、何よりも彼女と一緒に新幹線に乗りたかった。九谷焼に異常にこだわって、助手席にで化粧をして、早起きして一人だけ先に出発する彼女には、僕の知らない北陸の景色を見せてもらった。だから、せめてもの恩返しとして、僕の見ている世界を、おすそ分けしたかった。

レンタカーで爆走することも考えたが、初心者マークを貼っつけている自分の運転技術で追いつくことはまず不可能だし、事故ったら本末転倒である。大人しく次に来る金沢行の七尾線を待とう。

こうして、ガソリン代がわりのビールを奢られることに失敗した僕は、渋々東京までの自由席券を別途購入し、ついでにプレモルを一本自腹で買った。

 

第八章─北陸ロマン

かがやき号は全車指定席なので、自由席のあるはくたか号に乗らざるを得なかったが、はくたか号は北陸新幹線区間は各駅に停車するので非常にかったるい。まあ乗り遅れた僕が悪い。乗車した自由席は始発の金沢発車時点で4割ほどの乗車率だった。平日の17時台でこれか。やはりコロナの影響は大きい。

高架の上から見下ろす夕暮れの金沢市内の景色は、やはりいつも通り変わらず鬱屈としていた。彼女の目には、この車窓がどう映ったんだろう。復路は窓側を譲る気でいた。一緒にビールで乾杯したかったけど、一人の晩酌で我慢する。まあ一人旅は僕らしくていいじゃないか。

E7系かあ。上越新幹線なら風味爽快ニシテなんだけどなあ。上越新幹線E7系はピンクの帯が入ってて好きなんだよな。まあプレモルも美味しいからいいんだけどね…」

いつも通りオタク思考に耽りながら、テーブルを広げプレモル缶を乗せたあたりで、車内チャイムが流れ、自動放送が続く。

 

今日のチャイムは、北陸ロマンだった。なんと!W7系を引き当てたのだ。

 

解説しよう。北陸新幹線の車両は、E7系W7系の二種類がある。前者がJR東日本、後者がJR西日本の所有という違いだ。北陸新幹線は、JR東と西の二社にまたがる路線であるため、車両にも所属が存在する。外見はほとんど同じで見分けがつかないのだが、車体側面のロゴマークに「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」「WEST(以下略)」と表記されているため、そこで区別することができる。EとWはこの頭文字というわけだ。

そして、この両者は流れる車内チャイムの楽曲が異なる。E7系は「TR-12」、W7系は「北陸ロマン」がそれぞれ流れるので、ロゴを見なくても区別できる。

TR-12も好きだけど、あくまで僕の認知の中でのTR-12は上越新幹線と紐付いているし、あくまでJR東日本の楽曲なのだ。金沢はJR西日本管内だから、JR西日本の車両に後ろ髪を引かれるように旅行の余韻に浸りたい僕にとっては、北陸ロマンはこれ以上ないエモーショナルだった。

それに、そもそも曲が良い。哀愁漂う旋律と、はっきりと聴こえるベースライン。作曲したのは谷村新司、あの「いい日旅立ち」を世に送り出した作曲家である。もともと同楽曲は2015年の北陸新幹線開業キャンペーンソングとして書き下ろされた、比較的歴史の新しい楽曲ではあるが、たった5年10年でら鉄道マニアの間では「北陸の顔」として定着しているのだ。きっと末永く「北陸への旅の象徴」として君臨することだろう。

北陸ロマンから始まった自動放送と肉声放送が終わったあたりで、思わず泣きそうになってしまった。「ああ、僕は北陸に来ていたんだなあ、もう終わってしまうんだなあ」と痛感した。金沢は何度も来ている街だし、いま乗っているW7系は一日に何度も東京と金沢との間を往復していて、そのたびに北陸ロマンを流している無機質な存在だけど、そこに今いる僕は、極めて有機的で得難い経験をしたのだ。

無機物の反復、繰り返される習慣にエモーショナルを見出す姿勢が変わったわけではない。でも多分、この合宿は僕にとって、「全力でいまを楽しむこと」という、大切な気持ちを学ぶ時間になった。するとどうだろう、今まで無意識にエモさを感じていた旅路が、いっきに有機的に見えて、溢れ出す感情がそこにはあった。ふと窓を見ると、もう真っ暗で、自分の顔だけが映った。相変わらずバカな顔をしているが、いつにもなく増して疲れ切った顔をしてきた。合宿の主催を務め上げたんだから、そりゃそうだ。

 

ああ、彼女にもこの景色を見せてあげたかったなあ。ふたりで一緒に窓に映りながら「飯山トンネルは長いねえ、何も見えませんねえ」とトンネルについてのウンチクを語るついでに、碓氷峠の話をしたかった。どうして乗り遅れちゃったんだろうなあ。後悔が止まらなかった。

そろそろプレモル缶を開けよう。プルトップに指を掛けて引く。いつもと変わらない「プシュッ」という音とともに、少しだけ泡が溢れ出た。ちょっとぬるくなっちゃったかな、まあいいや。

北陸ロマンに乾杯するという意味不明なオタク仕草を見せたと同時に、たった350mlのビールで一気に酔いが回ってしまった。それほどには疲れていたのだろう。思えば慣れない運転から始まり、緊張の連続だった。疲れきった顔を彼女に見られるのも少し恥ずかしかったので、結局のところ一人で晩酌しながら帰るのは正解だったのかもしれないと、急に現実主義的な思考に転換してしまった。あー、思考がぐるぐるする。

 

終章─あゝ、上野駅

すぐに酔いが回った分、覚めるのも早かった。高崎あたりで完全にアルコールが抜けてしまった。乗車したはくたか号は本庄早稲田停車便だったので、うげ、と吐き捨てたくなった。正直かったるい。行先に「東京」を冠している時点で、僕の旅はもう余命宣告を受けているに等しい。旅の余韻だって大事だけど、本庄早稲田のようなしょうもない駅に停まられると、「早く殺してくれ…」と思ってしまうのは鉄ヲタの性だろうか。なぜか憂鬱になってしまった。隣にいるはずだった彼女がいないから寂しいのか、本来乗るはずだったかがやき号のスピードに及ばないから手持ち無沙汰なのか、はたまた無駄金を払わされたからなのか。きっと全部なのだろう。憂鬱さの裏に、少しだけ刹那的な美学が芽生えた気がした。 

僕は、夜の大宮駅が好きだ。下品に輝くラブホのネオン、野田線ホームに停まるボロボロの8000系、たまに貨物列車も見れたりする。なんというか、雑多で洗練されていなくて、さいたまのダサさを濃縮したような空気が好き。それを言ったら、大宮以南が全部好き。ちんたら埼京線の横を並走する赤羽までの区間は、埼京線各駅で電車を疲れた顔をしながら待つ乗客たちを眺めるのが楽しい。荒川も昼間とは全然違って、中途半端に高いタワマンの光をぼんやりと映している。赤羽を過ぎると、やたらと豪華に光っている萩の月が見えてくる。一連の車窓が「帰還の儀式」であり、感情が旅行の終了へと移ろうべく準備を始める。

かつての東北・上越新幹線の終着駅は大宮だった。それが上野まで伸びて、最終的に東京に繋がった。平成以後に開業した東海道新幹線の品川とはまるで対称的な歴史を持つ。つまり東北新幹線を東京まで乗ると歴代の終着駅を総なめにできるというわけだが、各駅に歴史と個性が眠っているから面白い。

上野駅は前述の通り、かつては北の玄関口として栄えていた。その当時に書かれた「あゝ上野駅」という演歌がある。集団就職のために上京してきた少年たちを描いた同曲は、上野駅のシンボル、ひいては東北のシンボルとして、長らく愛され歌い継がれてきた。上野駅には歌碑が立っており、いまでは発車メロディにも採用されていることからも、上野のメタファーであることが伺える。

全盛期の姿など、今は見る影もない上野駅。でも、きっと昔は北の玄関口の名に相応しい活躍だったのだろう。「あゝ上野駅」で歌われる哀愁は、上野駅から故郷を思う気持ちに他ならなかったのに。それが今では、上野駅そのものの過去の栄光へと思いを馳せる哀愁となってしまった。これも一つの時代の流れなのだろうけど、時間というのはなんと皮肉なものだろう。

 

あゝ上野駅。新幹線ホームは地下深くにあるので、ほとんど誰も使わない。直前までは地上を走っていたのに、急に地下深くへと潜ってしまう。急に異世界へ迷い込んだ感覚へと陥るのだ。僕にとっての上野駅は、「誰も使わない新幹線ホーム」であることもまた思い出した。藝大と、13番線と、深すぎる新幹線ホーム。すべて、結局は僕とは縁遠い場所であることに違いない。本当は故郷になるかもしれなかったのに、遠く遠くへと行ってしまった。いや、心の故郷であることは間違いないのである。でも僕は藝大に進学しなかったし、上野駅13番線から発車するブルートレインに乗ることはなかったし、僕たちの旅が上野駅から始まることは、もうない。

彼女と待ち合わせた東京駅丸の内南口。これが令和の象徴なのだ。僕たちは今この時間を生きなければならない。

彼女は一切の疑念も抱かず東京発の北陸新幹線に乗って、僕と一緒に旅に出た。任意定数は、廃れ切った上野駅でY君と待ち合わせた。MSKは、新幹線を上野で降りて常磐線へと乗り換える日々を送る。そこには確かに「廃れ果てた上野駅の実存」が存在すると同時に、いまを生きる人たちの実存がある。

 

「いつ死んでもいいように、いまを全力で生きること」

九谷焼に異常にこだわって僕の隣で化粧をする彼女に教えられたと同時に、任意定数のnoteの真意がようやくわかった。あれはまさに、任意定数にとっての「あゝ上野駅」だった。いけ好かないと思った根源は、僕の上野へのコンプレックスだった。いつまでも藝大に囚われてはいけない。あけぼのへの未練を垂れてはいけない。MSKに「ブルトレに乗ったマウント」を取られても、健気に生きなければならない。

僕の旅は、もう上野駅で終わらない。令和の時代、終わりを遂げるのは東京である。

 

「まもなく、終点、東京です。」

最後の北陸ロマンが流れ、自動放送が旅の終わりを告げる。もう終わってしまうけど、僕は前向きだった。彼女の美学に触れられたのが、嬉しかった。だからせめて、僕の美学でこの旅を終えよう。

 

「神田方、降車終了」

毎日繰り返される、変わることのない無機質な業務放送。東京駅に到着したW7系は、これを合図にドアが閉まる。こうして僕の合宿は幕を閉じた。

つぎは彼女と一緒に、「神田南了解、ITVよし、出発よし」を聞けますように。

 

 

 

 

P.S.

今では任意定数もMSKも僕も大の仲良しだ。今年の夏、上野駅120周年の特別企画として、13番線から発車する青い客車の臨時列車が何年ぶりかに設定されたのだが、三人で乗りに行ったほどの仲である。

という余談で本稿を〆ようと思う。

なお、飲酒の描写があるが、留年に中退を繰り返しているため、高校生ながら既に成人済みであるので、誤解なきように。

 

明日は雪原まりもさんです。どうぞお楽しみに。

 

中学受験の呪縛

私は浪人を一年、留年を一年してもうじき二十四になる。バイセクシャルの男性で、京大に籍を置いている。学部卒業の見込みは立っていない。少なくとも来年は六回生として居座るつもりだが、その後どうなるのかはわからない。どうしたいということもないし、どういう選択肢があるのかもよくわかっていない。今の学部では学習への意欲はてんでわかないが、かといって辞めてしまう踏ん切りもつかない。学費だけはひとまず何とかなりそうなのをいいことに、のらりくらりと時間稼ぎをしている。

 勉強というものにこれほど意欲がわかなかった経験はこれまでにないと感じているけれど、ときどき本当にそうだろうかと懐疑的になる。この歳になって今さら恨み言のようにこんなことを書き連ねるのも情けないが、大学に入るまでにしていた勉強は外圧に強いられていたものだったような気がする。私立の一貫校に通っていた中高時代は、自分では時期にもよるがそれなりに意欲を持って勉強していたつもりだけれど、成績が落ちて怒られたり習熟度別のクラス分けで最下位になったりすることへの恐怖が強かったような覚えもある。とにかく生徒数に対して教師が少なく、根性論的な詰め込み一辺倒で丁寧な指導などする気のない、ろくでもない方針の高校だった。

 だから浪人することになって駿台に通い始めると、ビジネスとして提供される手厚いサポートがどれほど心強かったか。おかげですさまじい熱意を維持することができ、特に夏からは毎日朝の九時から夜の九時まで勉強していた。もちろん途中に昼食や昼寝や散歩をはさみはしたけれど、それすらすべて勉強のパフォーマンスをあげるためという認識だった。さほどスポーツはやらないし当時はスポーツに熱心な人たちのことを見下していたけれど、それでもときどき信じられないほど勉強に熱中している自分が『黒子のバスケ』だったかなんだったかで知った「ゾーン」という状態にあるように思えた。手厚いサポートはしょせん親が払った授業料の対価だし、そんな社畜みたいなメンタリティーは健全だとは思えないけれど、その甲斐あって憧れの京都大学に合格できたのだから結果よければすべてよしだと考えている。学歴コンプレックスなんて抱えなくて済むなら抱えない方がいいと思う。ちなみに留年に関してはコンプレックスにはならなそうだから幸いだ。

 学歴コンプレックスというものに多少苦しんだことはそれまでに一度あって、それが中学受験のときである。ろくでもない中高一貫校は第二志望で、第一志望には落ちたのだった。今から思えば第一志望の方は修学旅行もないし校舎も狭くて汚いし、何に惹かれたのかわからない。母方の六つ上の従兄が通っていたから、母がそれとなく薦めたのかもしれない。それくらいしか理由が思いつかないが明確に薦められた記憶はないので何とも言えない。第二志望の方は父の母校だがそんなことは関係なくて、登山合宿やらスキー研修やら農村体験旅行やらと毎年宿泊行事があるのが小学生にはとかく魅力的だった。

 第二志望の学校は他にもろくでもない点が山ほどあって、その一つが頭髪に関する規定だった。男子は三ミリ刈り、女子は肩につかない長さ、という文言が今でも一言一句変わらず守られているらしい。ジェンダーフリーの時代にとんでもない話だと思うが、自民党の元幹事長と懇意な寺が経営しているような学校なのだから仕方がない。

 三ミリ刈り規定のせいで私はバイセクシャルを拗らせたのだ。拗らせたというとまるで病気のような口ぶりじゃないかと怒られそうだが、そのように旧弊な環境で育てられていた当時の私は確かにそんな感じ方をしていた。

 中学受験をしていた頃、塾に好きな男の子がいた。好きといっても恋愛感情というほどの認識はなく、ただ仲良くなりたかった。成績順で決まる席がたまたま近くなったときなどはそれなりに会話を交わしたけれど、それがとても嬉しかったのを覚えている。今から思えば立派な恋愛感情だが、当時はまだ小学生にホモセクシャルなんてものを教える時代ではなかった。

 それにしても小学生の男同士の仲というものは基本的には趣味とノリの合う合わないで自然と決まっていくわけで、なぜそうならなかった彼に対して特別そんな感情を抱いていたかというと見た目が好きだったからだ。死んだ魚みたいなガキどもが缶詰めになっている塾というところにあって、彼だけは目や口が大きいおかげで表情が豊かで、肌も周りのモヤシとは違ってほんのり焼けていてつややかだった。よくサッカーのレプリカユニフォームやスポーツブランドのジャージを着ていて、間違いなく学校では一軍的存在なのだろうと察せられた。私は学校では一軍でも二軍でもなく浮いていたが、一軍といわれるような部類の人たちが嫌いなわけではなかった。

 好きだった彼は少し髪が長くて、いつも耳や眉毛が半分隠れるくらいだった。当時はその髪型について何か魅力を感じていたわけではないが、トレードマークとしての認識はあった。だから好きな彼を真似してスポーツブランドのシャツを買ってもらったことはあったが、髪を長くしようと思ったことはなかった。彼は成績が秋ごろから落ち始めたらしく、結局別のクラスに移った。それ以来音信不通だが、風の噂にとある遠くの学校に受かったと聞いている。

 中学二年生になって部活で市総体の開会式に出た。水泳部に所属したもののやる気がなかったので試合には一度も出ないまま退部したのだが、開会式は全部員が出なければいけないということで運動公園にいやいや出向いた。すると会場となっていたスタジアムで、件の彼にそっくりの後ろ姿の、どこぞの学校のサッカー部員がいた。思わずその姿を目で追ったところしばらくして彼が振り向いた。その人は顔が件の初恋の人とはまったく違ったのだが、すっと通った鼻と切れ長の瞳はそれはそれで魅力的で、そのせいでそういう髪型は魅力的な同性のアイコンのように刷り込まれてしまったし、そうなると自分でも真似したくなる。しかし例の校則のせいでそうはいかなかった。おかげでせめてもの目の保養にそういう髪型の同世代を街で見かけたら目で追う癖がついてしまった。異性にそんなことをすることはほとんどなかった。

 今でも異性と付き合うとすれば外見はどうでもいいけれど、同性と付き合うならかっこいい人がいい。あまり男らしい見た目はいやで軟弱そうなマッシュとかがいいのだが、それで眼鏡だと中学受験生みたいだから嫌だ。日焼けはどちらでもいい。

 ただ私が好きになった男性が同性をそういう目で見られる人である可能性はかなり低いので、同性と付き合いたいという欲求はまったくない。世の同性カップルには幸せになってほしいが、自分自身が同性と付き合っても幸せになれると到底思えないのはまさかまだ運命の人に出会えていないからだというわけでもないと思う。ろくでもない学校によって掘り起こされてしまった性的志向なんて認めないで済むなら認めずにいたい。

 あと親の偏見も深刻である。なにせ中学生の私に向かって、我が子がそうとはつゆ知らず、同性愛者がテレビタレントとして成功することがいかに少子化を助長するか説いたような人たちなのだ(それをいうなら自分たちも一人しか子供を産んでいないくせに)。私はその点について自分自身の偏見を棚に上げて、両親とくに教育者としてそれなりの地位にある父を深く軽蔑しているのだが、かといって自分自身の性的志向すら認められないままに他人を説得できるとも思えないので試みる気もない。

 中学受験は表向きその軽蔑すべき父の意向だったのだが、実際のところは妻である私の母の意向を忖度していたのかもしれない。私自身の希望はまったく聞かれることがないまま、気がつけば塾が私の居場所になり成績競争が私の生き甲斐になっていた。お前は手先が不器用だ、運動ができない、などと言われて育ったので勉強だけは胸を張ってできることだという自信があったのだけれど、親は子供にそんなことを言うなら責任を持って子供の運動能力や手先の細やかさを鍛えてやるべきである。

 父は週末など時間のあるときにキャッチボールにつきあってくれたが、私は全然楽しくなかったし父もまったくそうは見えなかった。母に言わせれば口に出さないだけで息子が可愛くて仕方ないのだというが、そうは思えない。父とだけは感情を共有した経験がほとんどないので、根っから他人に関心がない人なのだろうと考えている。とある大学で教員をしているが、あそこまで他人に関心がない教員は少ないのではないか。とはいえ研究バカというわけでもなさそうで、学内の委員やら学会の運営やら雑用を率先してやっているようである。

 大学に入ってから祖母に、家での父の様子を聞かれた。あんたのお父さんは家ではどんな父親なの、ちゃんとマイホームパパをやってるの、というような聞き方だったと思う。その頃にはもうほとんど父とは会話をしなくなっていたので、高校時代までの様子を話した。祖母は温かい家庭の話を期待していたのだろうから悪いことをしてしまったけれど、私としては特に愚痴をこぼしたつもりもなく、何の感情もなく淡々と話したのだった。

 それを聞いた祖母はひとこと、あの子はマイホームパパ的な父親に憧れてるんだろうねえ、と呟いた。どういうことなのか尋ねると、祖母は息子への懺悔のような内容を語った。いわく父の父、つまり私の祖父は昭和の父親らしく、家庭にほとんど関心のない人だったという。だが父が小学生の頃、父一家は五年ほどアメリカに住んでいた。これがいけなかった。当時のアメリカというのは日本人がテレビや映画で見て憧れるマイホーム文化の国である。周囲の温かな家庭を見て父は疎外感を覚えて、それを再現しようとしたのではないか、と祖母はいう。それが半ば義務的なキャッチボールだったり、後述する深夜までの勉強の監督だったりである。素敵なマイホームパパになりたいけれど、自分がそのような家庭に育っていないので結局うまくいかなかったのではないか、というわけだ。

 その時は父も大変なんだな、としんみりしたけれど後からゾッとした。その理屈でいくと私だってうまくいかないかもしれない。マイホームパパになりたいとは思わないけれど、子育てという連鎖において与えられなかったものを与えることが叶わないのであれば、私もまた楽しくキャッチボールしたり感情を共有したり、子の特殊なアイデンティティーを認めてやったりできないということになる。

 深夜までの勉強の監督というのは中学受験のときの話だ。塾が終わって父の車で家に帰り着くのは十時過ぎ、それから夜食を取ったり風呂に入ったりしていると十一時を回る。そこから宿題タイムがはじまる。

 父は毎晩私の隣に座って、模範解答を見ながらちくいち指導してくれた。指導は深夜の二時まで続いた。私の物分りがあまりにわからないと怒り、ときには机を叩いて怒鳴りさえする。私が生まれる前から十四年間飼っていた猫が死んだ晩ですら指導はしっかり二時過ぎまで続いた。私は勉強しながら泣いていたし、それ以上に母の嘆きようが尋常ではなかった。その晩母は私を部屋で一人で寝かせず、自分の布団に入るよう促し、寄り添って寝てくれた。父はよくいうと気丈に振る舞った。通り一遍の悲しみしか見せなかったともいえる。後日動物霊園で猫の位牌をもらってきたが、それに神妙な面持ちで手を合わせている父の後ろ姿だけは一度遠巻きに目にした。少なくとも私にはそんなものは猫の身代わりだとは思えなかったし、父は別に熱心な仏教徒というわけでもない。なにせ墓参りにすら寺に呼ばれてしぶしぶ腰を上げるような家庭だ。

 そんな父でも二年後に祖父が亡くなった時だけはほんの少し目が赤くなっていた。私は祖父にずいぶん可愛がってもらったけれど、亡くなる間際に大量の蔵書を譲り受けることを約束したので、それが心残りを断ち切る役目を果たした。だから涙は出てこなかった。読書は祖父の唯一の趣味だったが、祖父の子と孫のうち好き好んで本を読むのは私だけなのだ。

 母は本の虫で気難しい義父を生前悪く言うことが多かったが、それでも納骨のときには人並みに涙ぐんでいた。それが真っ当な人情というものである。

 大学受験に備えて文理を決める時、私は文系がよかったのだが、父は理系にせよと強硬に主張した。理由はもっぱら二つ、理系的思考は役に立つ、と、お前は昔から理系の思考回路を持っているように見える、というものだけだった。それから文系とされるあらゆる分野、職種を腐してみせた。それは私もそのような進路を選んだら軽蔑されるようになるということを意味する。理系の方がいいという主張自体には母も同調したし、学校の進路指導も当てにはならなかったので、結局私が折れるしかなかった。私は小学生のころから社会と国語が得意で好きで、算数、数学と理科はいつも苦手でさほど興味もなかった。そんなことは真っ当な親ならわかりそうなものである。まして息子が小学六年生の一年間、毎日深夜二時まで勉強の面倒を見ていたのだったら(もっとも真っ当な親であればそんなことはしないだろうが)。これは父親にして、しかも教育大学の教員である人間が犯してよい過ちではない。

 医者の娘である母は明らかに私に医学部進学を薦めたいようだったが、それは頑なに拒んだ。成績的には地方の医学部なら狙えなくはなかったし、興味もないではなかったが、私はどういうわけか昔からリンパの話がとても苦手なのだ。血液ではそんなことはないのだが、リンパと聞くとがん細胞やウイルスや炎症物質がリンパ液に乗って全身に拡散していく様子を想像してしまって鳥肌が立つ。

 父は母の願いを叶えることで優しいダーリンになりたかったのかもしれないと思う。あるいは無意識のうちに自分と同じ人生を歩ませることで自分が果たせなかった何かを果たさせたかったのかもしれない。わからない。両親は理系を選択するよう強要したことをまったく覚えていない。ただ、父は私の教科の好みについてはまったく正しく認識していなかった。やはり生身の人間には興味がないらしい。にも関わらず血の通った家庭には憧れているのでおかしくなる。

 私はなんとか京大に合格したが、もちろん専攻内容には関心が持てず、上述のような経緯を意識してからは反発すら覚えるようになり、簡単に言ってしまえば遅い反抗期のような心理になっている。これはどうやらたちが悪いようだ。引きこもりだって一部の精神疾患だって引き金は遅れてやってきた反抗期だという場合が少なくないらしい。そろそろ白髪やら体調不良やら老いが目立つようになってきた両親に今さら反抗したくなんてない。だいいち人の心を解さない相手にぶつかってみたところでますますこちらが傷つくだけだ。

 マルトリートメントなる概念を引っ張ってくれば、この話はすべて祖父の代からの連鎖ということになるのかもしれない。だとすると父を責めるのは酷なのだろう。けれど私は祖父と父との本当の関係を知らないし、私が聞けるような話でもない。たとえ祖父が悪辣非道な父親だったのだとしても、その責任を私がかぶらなければならないいわれはない。けれどそんなことを今さら言ってみても祖父は墓石の下だし私はもう大人になってしまったしもうどうしようもない。

 深夜二時までの勉強について最後に言い添えておくが、私が受験勉強をはじめるまでの父はむしろ子供を早く寝かせたがる人だった。というか、私が布団に入っても寝付けないでいるとすぐに怒鳴りはじめる人だった。怒鳴られて寝られる人間がいるはずはない。時には蹴られたり、布団の中で起きていたのと同じ時間だけ正座させられたりもした。道徳観念や美的感覚などならまだしも、子供の生理現象にそこまで執着する親は珍しいのではないか。私がとてもおとなしい子供だったことも関係しているのだろうが、倫理的なことについて叱られた記憶はむしろ少ないくらいだ。

 中学受験できるくらい経済的にも文化的にも恵まれた家庭に生まれたのでなかなか言い出しにくいのだけれど、それはそうとしてこういう呪いは存在するのだ。真っ当な家庭を築くことができればこの呪いは解けるのだろうが、こういう発想自体がそもそも父を縛っていた呪いと地続きなのかもしれない。だとするならもうどうしようもない。