サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーがスタートします

初めまして、桐生あんず(id:kiryuanzu)と申します。最近サークルクラッシュ同好会の方で6号の会誌編集をやらせていただいた者です。

6号では、自分語り系の記事が多く寄稿されました。そこで、自分語り系の記事をまとめて順に掲載し「拗らせ男子の自分語り特集」と題して特集する形式で発表しました。

会誌の中では、童貞をアイデンティティーとしていた男が童貞を喪うまでの話(『喪失』-名称未定のユーレイさん)、サークルクラッシュ同好会初代会長の人生と比較しながら自分の今までの人生を語った話(『サークルクラッシュ同好会の会長になった彼とならなかった私−初代会長ホリィ・セン(脱)神格化への補助線』-Silloi)など、とても生々しくも心を打たれる面白い文章が掲載されました。

編集をしながらこのようなかなり踏み入った自分語りを色んな人にしてもらえたらすごく興味深い文章がたくさん生まれるのではないかと思いました。

そこで、会員の人たちに自分語りをしてもらうために、今回サークルクラッシュ同好会でアドベントカレンダーの企画をすることにしました。

adventar.org

アドベントカレンダーとは、元の意味はクリスマスまでの期間に日数を数えるために使用されるカレンダーのことです。「アドベント」とは、クリスマスを待ち望む期間とのことで、つまりは12月1日から25日までです。

ここで言われているアドベントカレンダーは、インターネットの界隈(特にエンジニア界隈)で流行っている「12月1日から25日まで、つまりはアドベントの期間に特定のテーマについて複数人でブログ記事を書いてリレーをつなげていく」といった企画で、クリスマスまでの期間のお祭りイベントのようなものです。

この文化を知って、各会員の人に自分語りをしてもらうのにちょうどいい企画だなと思い、早速今年やろうと思ったのが今回の流れです。

 

アドベントカレンダーに登録してもらったサークルクラッシュ同好会会員には、6号の特集名『拗らせ男子の自分語り」に倣って、「拗らせ自分語り」をテーマに記事を書いてもらいたいと思っています。

「拗らせ自分語り」をテーマに語るということで、登録者の人には一つお願いをしたいと思っています。

それは、あなたの中の「拗らせ」とは何か、ということに軽くでも触れてほしいと思っています。「拗らせ」はすごく曖昧な言葉だと思いますし、あくまでも「自分語り」(またはそれに準ずる何かへの語り)を思いっきりしてもらうことが今回の一番の目的なので、うまく表しにくいと感じたら深い言及はしてもらわなくて大丈夫です。*1

 

それでは、1日目ということで企画者の桐生あんずがトップバッターをやらせていただきたいと思います。 (これから文章レベルの高い方々に記事を書いていただくので初日の記事を飾るのはとても恐れ多いですが頑張らせていただきます…)

今回の企画の基本的な説明ということで敬語体の文章で今まで書かせていただきましたが、自分語りのしやすい常体文で書かせていただきたいと思います。それではよろしくお願いします。

 

 

私の拗らせとは、「自分が持っていないと思い込んでいる事象に対して執着的に考え続けてしまう」という思考そのものであったと思う。

私は大学1回生から3回生まで「普通の女の子」の扱いをされないことに悩んでいた。

私は小学生から喋り方が吃音気味で、言動の中身も良い意味で表すなら「天然」*2っぽく、「悪い子ではないけど、ちょっと変わってて面白い子だよね」と扱いをよく受けていたし、今でも受けている気がする。

実際、その立ち位置で私が好きなコミュニティに所属することに何ら問題はなかったけれど、「面白い子」という芸人枠的な扱いを受けていたとしても、ちゃんと「女の子」という扱いを受けているか不安であった。

なぜそこまで不安を抱えてしまうことになったのは、周囲の女性が私から見てもとても魅力的な人たちばかりだったというのがある。その女性たちが実際に男性から承認を受けていたり、女性として扱いをされているのを見て自分にそのような女性性は持てているのだろうかとすごく不安になってしまっていった。

私が悩んでいる時期の間、決して女性として扱われることが全くなかったという訳でもないのだが、飲み会やサークルの集まりで自分よりも可愛らしく周りからも女の子扱いをちゃんと受けている子がいると、自分がそういった振る舞いができないことに度々落ち込んでしまっていた。

 

具体的なエピソードを挙げるとしたら、サークルクラッシュ同好会で去年まで行われていた「ビンタ屋」を眺めていた時の感情を述べるべきだと思う。

私は「ビンタ屋」を任された女性たちが、男性たちからビンタを頼まれ生き生きとしビンタを行う姿に羨望の眼差しを抱いていた。その中で、「自分はきっとそうなれない」という自己嫌悪に苦しんでしまっていた。「ビンタ屋」に関わる人たちに罪はないけれど、ブースで行われているのを見ると、自意識を針でちくちくと刺されてしまうような感情に襲われていた。

「あんずさんもやってみたらどうですか」と促されたこともあったが、「私はそんなことができる女ではない」という自意識が邪魔をしてできる行為では決してなかった。*3

 

そのような葛藤を抱えつつ無為に大学生活を過ごしていたが、大学2回生の時に、雨宮まみ著の「女子をこじらせて」というエッセー本をホリィセンに貸してもらったことで心境に変化が起きる。

 

女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 この本は、「こじらせ女子」という言葉の生みの親であるAVライターの雨宮まみさん*4の半生録である。当書において、彼女は自分の女性性へのコンプレックスに対してずっと訴えており、世間で言われるような「女の子」になれないことに対しての言及がされていた。

そこには、私が大学1年からずっと抱え込んでいた「ちゃんとした女の子になれないという葛藤」が言語化されていたのである。

私の抱え込んでいる解決しようのなさそうな感情はこの「こじらせ女子」という言葉を深く読み取ることで、分かるのではないかと当時躍起になってずっと考えていたと思う。

自分は本当に「こじらせ女子」なのか。「こじらせ女子」かもしれないけど、そもそも何をこじらせているのか。

自分が何者であるかもわからない大学生活の前半戦の時期に、自分が何をアイデンティティーにできるかを必死に捉えたかったのだと思う。だから、ジェンダー系の本を何冊も手にとって読んでみたり、デートDVを研究する教授の授業を真剣に聞き入っていた。

そんな生活を過ごしているうちに、自分の感情をもっと言語化したいと思い、大学3回生の後期にサークルクラッシュ同好会会誌5号で「あの子はずっと、『お姫様』だった。」という小説を発表した。その作品でも、「面白い女」にはなれても、「可愛い女」になれない葛藤やオタサーの姫になろうとしても本物の姫にはなれない葛藤を詰め込んでいたと思う。

その作品を読んでくださった方に「すごく共感しました」という感想を何度かもらうことができ、とても嬉しかったことを覚えている。

 

これ以上「こじらせてました」エピソードを述べても仕方ないので今現在の状態を説明するが、自分を「こじらせ女子」だと思うことはなくなったし、自分が女性性をこじらせているという自意識は殆ど消え失せてしまった。

あれほど、自分は何者なんだと考え込んで行動していたのに、なぜこのようなことになったのか。

一番大きな理由として「考える暇がなくなった」ことがあげられる。

私は3回生後期からプログラミングによるもの作りに興味を持ち、最近ではWebデザインなどにも多少手を出すようになった。

そういった創作活動をやることで人から承認を得られることや、勉強をすること自体の楽しさに夢中になり、気づいたら女性性がどうとか考えることが減り、ジェンダー論的な正しさを考えるセンサーもどんどんと薄くなっていってしまったと思う。

要は、女性性以外で承認を得られるアイデンティティーを見つけてしまったことで、女性というアイデンティティーに重きを置くことをやめてしまったのだ。

そうなったからといって、「女性である自分」を捨てたわけではないし、むしろ楽しむ(?)ようになった気がする。

具体的なエピソードとして、今年のNFで黒セーラー服を着て売り子をしたという話を挙げたい。

正直、大学3回生の時までだったら自意識に耐えられなくて着ることすらできなかっただろう。

だけど、開き直った今、「せっかく大学生で文化祭に参加できるのだから、多少痛くとも可愛らしいコスプレをしてみたい」という気持ちを抑えきれず衝動的に通販で注文をしていた。

実際着てみたところ、多少恥ずかしかったけれど人から可愛いと言われるのはすごく嬉しかったし、同じくJKのコスプレをした会員の人たちと写真を撮るのが本当に楽しかった。*5

大学生活の中で初めて、自意識に邪魔されずベタに文化祭を心から楽しめたと思う。

女性性をこじらせることから解放されて、やれることは増えたのではないかと思う。

解放されたのは、先ほど述べたプログラミング活動というアイデンティティーを得たのが大きな理由だが、他にも色々とある。

加齢による変化で、顔が多少小さくなって前よりも女性的な顔になったことや、体重の減少により痩せて体型に良い意味で変化がもたらされたこととか。

女性性に執着しなくなったうちに、結果的に自然と自分の女性性を楽しむことができるようになったと言えるのかもしれない。

「普通の女の子」には今でもなれてないと思うけど、私が欲しかったものはちょっとだけ手に入れられたような気がする。

 

最近見たプリパラの回でこのような話がある。

 「自分には夢がない」と常にネガティブ思考で自分に自信を持つことができない幸多みちるというキャラクターが今期のプリパラには登場する。

彼女はプリパラに入ることで「できるできるできるできるできる」が口癖の超ポジティブなクールビューティーアイドルの「ミーチル」に変身することができる。私が見た回では、幸多みちるは「私にはずっと夢がなかった」と言い、自己を否定し続けるが「ミーチル」の存在が自身の夢であり、子供の頃からずっと望んでいた姿であることが分かる。

本編の情報量がかなり多いため、全てを解説することは自重するが、幸多みちるとミーチルの名前の元ネタである「幸せの青い鳥」で示されるように、本当に望んでいたものはすぐそばに(自己の中に)隠されているのかもしれない。

 

そのような顛末で、今のところ女性性に過剰な執着をすることはなくなった。

でも、女性性に対するこじらせがなくなったところで、また何か自分に関わる要素に「こじらせ」の意識を向けてしまうだろうし、実際もうこじらせているかもしれない。

それでも、多少前より生きやすくなったことは素直に喜ぶべきだと思う。

 

それでは、2日目の方(サークラ姉さん)、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

*1:これは、会員の方から「拗らせ」の定義についてよくわからないから登録者の人々の拗らせの定義を記事で述べて欲しいという言及があったことでお願いすることにしました。難しいお願いかもしれませんがよろしくお願いいたします…。

*2:つまりはADHD特性の傾向がかなり見られる

*3:本質的にMの人間であるので、自意識が邪魔をしなくても人を殴る行為は進んでできなかったと今思う。

*4:とても胸が苦しい事実だが、昨年亡くなられた。先日一周忌を迎えたのもあり、追悼の意としてもこの本はちゃんと取り上げたいと思った

*5:Twitterにその時の写真を投稿したらfav数が50近く程になっていて色々と気が狂いそうになった。