呪詛・物語・社会

アドベントカレンダー7日目 完全なQ体(@torchfish_story / id:Q1kasen))
 
 
1.概論
社会にはその社会でとくに厳密な根拠もなく正しいとされる命題が大量にあり、これらの命題を呪詛と呼ぶ。これらの呪詛はそれぞれ独立にただ真とされているわけではなく、これらを大きく統一的に説明する理論が背景にあり、それを物語と呼ぶ。
例えば宗教社会における呪詛は「毎朝太陽が登る方向に祈らなくてはならない」などの個々の命題で、なぜそうなのかを説明する神話や聖典などが(極めて具体的には)物語にあたる。(より厳密には、物語は抽象的な概念で、神話や聖典は物語が実体化されたものという見方が正しい。)
このように、物語がたくさんの呪詛を統一的に説明し、また呪詛が物語の根拠として再参照されるという構造がある。
そして、社会に属する人間(社会人と呼ぶことにする)は、その社会に存在する物語の登場人物(キャラクター)として振る舞うという決まりがある。
物語には、○○中の1年2組の物語 のような小さな物語から、メンヘラの物語、アスペの物語、ゆとり世代の物語などの中くらいの物語、日本人の物語のような巨大な物語まで、様々なサイズがあり、人間はそれらに重層的に所属しながらキャラクターとしての振る舞いを行う。ただし、ここで挙げたような、○○世代、○○人、などの具体的な語彙と物語がきちんと一対一で対応すると考えるのは早とちりである。ここに書いたものはあくまで読者が理解しやすいように操作的に構成したモデルである。人間をカテゴライズした既存の語彙のほとんどは不適切で不完全だ。不適切な語彙の背後にズレた物語を想定して動いた結果ピエロになってしまうのは、コミュニケーション弱者(社会盲)の人間がやる典型的な失敗の一つである。
人間は、お互いに相反する複数の物語に同時に所属することがある。というより、実際にはこのような分裂状態が社会人のスタンダードであると言えるだろう。複数の物語がキャラクターに背反する要請をする場合、キャラクターは主により小さなレイヤーの物語からの要請を優先する。もしも同じレイヤーに相反する物語を飼っている場合、キャラクターは離人感や、これは本当の自分ではないという感覚を抱きやすくなる。ただ、本当の自分などというものも結局は物語の語彙であり、人間からキャラクターという皮膚を引き剥がせば、比喩でもなんでもなくただの肉塊しか残らないということは留意しておいたほうがいいだろう。分裂が大きい物語のレイヤーで起きているほど問題も大きくなり、障害として診断されやすい。
物語概念を使って社会人のコミュニケーションがどのようなものか定義することができる。社会人のコミュニケーションとは、お互いがお互いの物語のキャラクターであることを相互承認することである。もっと平たく言うと、「ぼくはあなたの属する物語のキャラクターであり、あなたもぼくが属する物語のキャラクターである」という契約を取り結び、それを定期的に確認し合う行為全般のことである。コミュニケーションが上手くいっていない社会盲の人間の多くは、話術がどうこうといった問題以前に、この契約を取り結ぶことに失敗している。
 
 
2.物語一般の性質
 
2-1.物語の構造
ここでは、全ての物語に共通する構造と、そこで使われる語彙について見ていく。
一般的に、物語にはキャラクターがいて、キャラクターが何らかの行為をし、行為に基いて責任を取らされたり報奨を受けたりする というのが大方の見方ではないだろうか。これはある意味では正しいのだが、倒錯したものの見方でもある。
そもそも、この世界には本来現象しかなく(世界と現象が存在することは前提としておく)、その中で帰属先を定められるよう恣意的・操作的に選ばれた現象の集合から行為が構成され、行為の帰属先として主体が構成されるというのが正確な順序である。すなわち、物語、ひいては社会は、行為の帰属先を作り出し、決定するシステムだと言って差し支えない。そしてこの、行為の帰属先として社会によって作られた主体のことを、私たちはキャラクターと呼ぶのである。
 
 
2-2.自分一般
 
2-2-1.自分と自分の行為
これまで、キャラクターは行為の帰属先として作られるということを主張してきたが、これは、社会の中に存在する無数の行為のうち、どの行為を所有するかによってキャラクターが特徴付けられるということでもある。一般的に、アイデンティティというのはその人が所有するもの・性質(例えば、その人の人種、その人の性別、その人の性格……等)によって構成されると考えられている。だが、最も究極的には、アイデンティティはその人の行為(例えば、その人種らしい行為、その性別らしい行為、その性格らしい行為……等)によって構成されている。若くて禿げていない人の大多数は、自分の髪の量を自分自身だとは感じないだろう。これは、若くて毛量が多い領域では、毛量に応じた振る舞いが存在しないからだ。禿げていて、そのことを気にして振る舞ったり、ネタにして振る舞ったりしていると、それが自分自身だと思えてくるのである。(※高齢になって禿げが多数派になり、毛量が多いことが相対化されてくると、逆のことが起こるのかもしれない。私は高齢ではないので分からないが。)
 
2-2-2.なりたい自分
ある自分になりたいと願うことは、多くの人が経験することだと思う。これは、ある行為を所有したい(あるいは所有したくない)願望であると換言できる。例えば、素敵な絵を描けるようになりたいとか、かっこいい曲がつくれるようになりたいといった願望は、行為の所有の願望として分かりやすい。そして人間は、その行為を所有できるようになるまで(あるいは諦めるまで)の過程を、文字通り物語る。今の例で言うなら、不断の努力、才能、妻子ができたことによる心境の変化 などの呪詛を、それらしく並べて物語るのが典型的だろう。
もっと女性らしく振る舞いたいとか、自信を持ちたいといった、先の例より複雑に見える願望でも、基本的な部分は変わらない。この場合、女性らしく振る舞うことが許されるようになる物語や、自信を身につけるまでの物語(あるいはそれらの逆として、女性らしく振る舞うことが許されない物語や、自信のない人格に育つまでの物語)が書かれるだろう。
念のため言っておくと、私はここで、そのような物語が嘘だと断じたいわけではない。ここでフィクションとノンフィクションを区別することに意味があるとは思えない。フィクションとノンフィクションは綺麗に二分できるものではなく、シームレスな概念であると主張したい。
ところで、多くの人間は、人生が連続した一本の線であるという感覚を持っているようだ。この感覚こそ、物語が与える錯覚の典型例である。私たちの(連続した一本の線であるところの)自分史は、私たちが現時点に残された過去の遺物から人生を再解釈して物語ったもので、人生そのものではない。そこには解釈しかないし、そのような解釈は、私たちの人生のその時々によって、都合良く作り変わっていくものだ。
 
2-2-3.素の自分、本当の自分
演じていない素の自分という概念は、単に物語の語彙である。実際には、演じていない自分というものはありえない。ここでは物語の中で、素の自分(とされるもの)と、素ではない自分(とされるもの)との区分が、どのように構成されているかを見ていく。
素の自分(とされるもの)と演じている自分(とされるもの)の違いは、当人が演じているという状態そのものが誰に所有されているのかに拠る。その人が演じていることが、物語によって当人に帰属するとされた場合、それは演じていない素の人格とされる。逆に、その人が演じていることが、物語によって当人以外(※例えば、空気やカースト上位者など。さらに当人から遠い極端なものになると、霊や神などが当てはめられるだろうが、ここまで遠いと演じている”当人”とされるかは微妙である。)に帰属するとされた場合、それは演じている人格とされる。物語によって素の人格や演じている人格だと見なされることと、当人が素の自分や演じている自分だと実感するかどうかは別なのではないか と思うかもしれないが、社会人の実感は物語に追従するので同じこととして扱える。一般的に、素の自分のことを本当の自分と呼ぶことから、私たちが生きている物語では、素の自分のほうが本質であると見なされることが分かる。しかし、宗教社会などであれば、先に当人から最も遠い例として挙げた、霊や神の方が本質とされるだろう。
このように、あらゆる自我は社会の産物であり、どれがより本質的かは物語によって決まる。
 
物語における強者というのは、上手に物語る人間である。ここではそのような強者のことを、ストーリーテラーと呼ぶことにする。
自分の望む行為を手に入れる(あるいは手放したい行為を手放す)ための物語を上手く書けることは、上手に物語ることの一つの形ではある。しかし、上手に物語るというのはそれだけではない。例えば、自信を持ちたい人が、その望みを叶えることができていなくても、その状態で、自信のない人格に育つまでの物語を上手く書けるのなら、その人は、自信のない人格に育つまでの物語における強者、即ちストーリーテラーなのである。このような状態の人が、自信のない人格に育つまでの物語に自我を浸食されて、「自信を持ちたい!」と叫びながら、自ら進んで自信を失いにいく行為を繰り返すのをよく見かける。地獄だなと思う。
 
2-3.意味論としての物語
物語は、社会に対する意味論である。物語は、キャラクターや行為、その他の物語中のオブジェクトに対して、意味、価値、機能を提供する。最も分かりやすい例は貨幣だろう。人間が、先の例のように、自分を苦しい状況に置く物語に固執するのは、物語がそれに属するキャラクターに存在価値(あるいは存在そのもの)を提供してくれるからだろう。
 
2-4.自由意志と責任/報奨のシステム
私たちの暮らす社会に根強くはびこっているのが、「我々には自由意志というものが備わっていて、自由に行為を選択することができる」という呪詛だ。この呪詛は、キャラクターが、選択した行為の結果に対して責任を負ったり、報奨を受けたりすることの根拠に使われる。
 
2-5.行為の争奪・共有
私たちは、責任が伴う行為を負債、報奨が伴う行為を資産のように扱い、負債を押し付け合ったり、資産を奪い合ったり、共有したりする。
この争奪戦の中で、多くの資産を得た強者は、所有する好ましい行為をふんだんに使って物語を書くことができる。強者は物語を書くことで、責任を果たした人間に恩寵や赦しを与え、そうでない人間を罰する。もちろん、何もかもを自由に扱える強者というのは存在しないだろう。村上春樹の比喩を借りるなら、物語は壁で、キャラクターは卵だ。程度の差はあれ、私たちは物語がアンコントローラブルであることに苦しみ続けるだろう。
 
2-6.物語の再生産と自己疎外
物語に属するとき、私たちの行為は、物語の道具として使われてしまう。これは、私たちが、自分を支配しときに苦しめる物語を、自身の行為で再生産しているということでもある。このようなサイクルは自己強化していく性質があり、物語は徐々に私たちとって外的なものになっていき、私たちは疎外感を強めていく。
 
2-7.集団幻覚としての物語
物語は強固な集団幻覚としての性質を持つ。例えば、人間が「現実を見ろ」と他者を諭すとき、多くの場合は、「おれたちと同じ集団幻覚を見ろ」と諭しているのである。コミュニケーションの定義について、1.概論に「社会人のコミュニケーションとは、お互いがお互いの物語のキャラクターであることを相互承認することである。」と書いた。この定義に従うなら、「現実を見ろ」という要求は、コミュニケーションの要求の一形態と言える。
 
 
 
あとがき 〜こじらせ自分語りに寄せて〜
実は(というか完全にバレていると思うが)、呪詛・物語・社会は八割がた完成した原稿が先にあったもので、こじらせ自分語りというテーマでは書いていない。発表する場所が欲しくて藍鼠さん(@indigo_mou5e)に相談したら、主催者の方(@anzu_mmm)から許可が出たので、ここに投稿することにしたのだ。無理やり共通点を見い出すなら、一般自分・一般語りという感じになるだろうか。
 
 
3-1.こじらせ
僕は、こじらせという観点から人間を観察したことがないし、他の人のこじらせ自分語りを読んでもあまりピンとこなかった。そもそも僕はサークラの人間ではないので、みんなの文脈が分からないというのもあるのかもしれない。
主催者の方からは、「あなたが考えるこじらせを軽くで良いので書いてほしい。」と言われた。しかし、僕は自分の考えるこじらせについて書くどころか、「あの人はこじらせ、あの人はこじらせではない」、といった、単純な判定すらできる自信がない。すみません。
 
 
3-2.自分語り 〜物語ることの実践としての半生記(物語概念に至るまで)〜
 
語る用の自分の持ち合わせがない感じがする。僕は経験的な記憶に乏しい傾向があるのだと思う。ベビーカーの車輪が回転する様子とか、幼稚園の前の信号機が点滅する様子みたいな、エピソード以下の断片はそれなりに憶えている。そして、こういう断片が、僕の幼年期の全てだ。
 
小学校。生き物の生態を覚えることと、生き物の絵を描くことにおおよそ全ての情熱を費やした。節足動物の絵は必ず真上から描いたし、脊椎動物の絵は必ず真横から描いた。いじめられていたけど、気づかなかった。
 
中学校の普通学級に脳を破壊されて、3ヶ月ほど入院した。そこで、ADHDとLD、アスペの診断をもらった。そのとき隣に座っていた父親は、「障害のフルハウスじゃん」とか言って、なぜか嬉しそうに笑っていた。僕は、絶対こいつにも何かの診断下りるだろと思った記憶がある。
 
退院後、藍鼠さんと同じ特別支援学級へ通うことになった。
素人が作った自主制作アニメのキャラみたいな、ぎこちない自我での、楽しい学校生活だった。会話の仕方が分からなかったので、それまでに読んだ本の文章を主なソースにしつつ、周りの人間の言動も真似た。特別支援学級は、脳のここが機能してないとこうなるぞみたいなのがたくさんいて、毎日が面白かった。
 
普通の全日制の高校に進んで、中学時代の友人と別れた。たぶんそのことで、僕の自我は急激に社会性を増した。これは、高校に入って、付き合う人間が全員入れ替わったことで、中学時代の友人たちの言動やキャラクターを、あからさまにトレースできるようになったからだ。僕はその中でも特に、コミュニケーションの上手かったSさんをよくトレースした。僕はSさんに憧れていた。彼は、相手のまぶたのわずかな動きからもその人の感情を読み取り、その人が欲しいものを理解し、適切に気遣うことができる超能力者のような人間だった。でも彼は優しすぎたので、普通学級で心を病んで支援級に通っていたのだった。
僕がやったトレースは、コミュニケーションの上手い彼から見れば、表面的な猿真似にしか見えないお粗末なものだったとは思う。でも、僕には、中学時代の彼が自我の中に深く侵食している感覚があるし、もうずっと彼に会っていない今でも、彼との絆のようなものを感じることができる。
 
高校時代の僕は、電子工作をしたり、ロボットを作ったりしながら、それなりに楽しく過ごした。友人も一応できた。小学生の頃よりは、かなり良い学校生活を送ったと思う。だけど、常に暴力の危険があったし、僕のカーストはいつまでたってもピエロのままだった。
 
大学では人間関係を作らないことに決めた。理由は、なんとなく人間にうんざりしたからだ。一人で美術サークルをやって、一人で絵を40枚ぐらい貼ったりしていた。たぶん当てつけというか、ぼんやりした復讐心みたいなものがあったのだと思う。作曲もやるようになった。この頃は、一人で創作活動をしている自分はなんて社会性がないんだろうとか思っていた。物語概念を得た今になって振り返ると、やっていることが絵や音楽の時点でだいぶ社会性があるし、動機とかも人間らしいなと思う。
 
大学に入学してから一年ほどして、破滅した。人間が嫌だからといって、ADHD者が人間関係を断って学校生活を送るのは、とても厳しいと思った。高校時代、親身に僕の介護をしてくれていたNさんやOさんに、初めて感謝した。
 
カウンセリングに行くようになって、薬を飲むようになって、それから全部やめた。カウンセラーに生活のことを話していると、母親に学校であったことを聞かれて答えに窮していた小学生のころを思い出すのが嫌だったし、薬は錠剤がうまく飲めなくてむせたり吐いたりするのが嫌だった。家でなにもせず9ヶ月ぐらい過ごしたら、自然と体調は良くなった。
ずっと一人でいたことで、自我が変化した。自分がどういう人間かわからなくなって、そのことを気にすることもなくなった。社会に属していないと、たくさんの社会的行為を全て所有できなくなるので、自我が薄くなるのだと思う。このときの経験は、物語概念の構築にとても役立った。
 
今まで通っていた学科に行くのは何となく気が引けた。そこにあるもの全てが自分に敵意を向けているような、茫漠とした不安を打ち消すことができなかった。数学科に2年次編入しようと思ったが、ボーッとしているうちに編入試験の出願期間を過ぎてしまっていた。一年待つのは嫌だったので、大学をやめて手近なデザインの専門学校に入った。
僕は、人間関係を作りたくなかった。でも、そういうわけにはいかないということも身にしみて分かっていた。空気、サンドバック、ピエロの3つからしかジョブを選べないのはもう嫌だと思った。そこで、中学から高校に上がったときにしたように、高校の頃のコミュニケーション強者のWさんの言動を取り込むことにした。
Wさんは、Sさんとは全く違うタイプの強者だった。ものごとを決めつけ、粗暴で、何でも断言し、色んな概念を勝手気ままに接続し混同するタイプの人間だった。簡単に言うとジャイアンみたいな。彼は僕に暴力をふるってくるので、僕は彼のことが嫌いだった。憎んでいた。でも、自我のレパートリーを増やしたかったので、彼の言動を部分的にトレースすることにした。
 
それから、人間の行動原理についても、長い時間を割いて考えるようになった。そのなかで僕は、一般的にキャラクターコミュニケーションと言われているものの背後に、キャラクターが属する物語があるのではないかという着想を持った。そして、物語概念を体系化し、『呪詛・物語・社会』を書くに至った。
 
 
 
 
 
 
(次は8日目、主は来ませり(@zweisleepingさんです。)