舞鶴にて

この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーの14日目として書かれています。

*************


 「こじらせ」とは何か。
とりあえずここでは、「ひとたび克服すると、それが何であったのかが分からなくなってしまう何か」とだけ言っておこう。

 

いや、本当に分からないのだ。10年前の私は、確かに間違いなくこじらせていた。おそらく5年前の今日の時点でもまだ、こじらせていたはずだ。だが、それを克服――というと、それが悪いものであったかのような物言いで、語弊があるのだけれど――してしまった今となっては、それが何であったのか、どうしても思い出せないのである。

 

だから、これから私は、私がこじらせていたことを思い出すために、明らかにそれと分かるような、ある体験を振り返ってみることにしよう。それを終えた後で、私の「こじらせ」が一体何であったのかを、改めて考えて見ることにしたい。

 

なお、私については、この記事の上では匿名とさせていただきたい。これから語る私の体験が、誰との関係において生じたのかを見抜いてしまう関係者が現れる可能性を、少しでも狭めるためである。もう10年以上も前の話になるので、時効だとは思うし、そもそも私は罪を問われるようなことは何もしていないのだが、やはり嘘がバレるのは、私にとってはとても恥ずかしいことなのだから。

 

これは、もう10年以上も前の話になる。まずは、そこにいたる経緯について、お話しておこう。

 

監獄のような6年間の男子校生活を終えた後に、日本でも有数の難関国立大学に入学した私は、まさにこの世の春を謳歌していた。6年間の男子校生活は相応にストレスフルだったものの、その代価として、最良の成功体験(現役での大学合格)を手にすることが出来た私は、大学に入るまで大きな挫折を経験することもなく、「自分が本気を出せば不可能なことなど何もない」と本気で思っていた。受験勉強以外に、ほとんど何もしてこなかったのに、である。


たった一度の成功体験で全能感を得ることができるのだから、狭い世界で生きているという状態とはなんと幸福で、恐ろしいものであろうか。そんな私が、大学生活で失敗し、挫折を味わったことは、全くもって当然の帰結であったといえよう。

 

入試の合格という目標を達成した私の次なる目的は、生涯の伴侶となるような、アイドルのように可愛く、少年漫画のヒロインのように愛嬌があり、アニメのヒロインのように男の子の趣味に理解があり、自分と同じぐらい賢い、自分の人生のヒロインを見つけることだった。もちろん、当時の私の主観的な世界をそのまま書いている。

 

大学に入学してから、まず私は軽音サークルに入った。しかし、いくつかの小さいな失敗を経験したのと、あまり同サークルの雰囲気になじむことができなかったことから、
夏休みになる頃にはそのサークルを辞めていた。そもそも、前述したような世界観を持っていた私が、チームワークを重視するバンド活動などできるわけもなく、サークルのメンバーたちには本当に多くのヒンシュクを与えたことと思う。もっとも、人は私が思っているほど私のことを気にしてはいないということも、今の私は理解しているつもりである。

 

軽音サークルで自分の思い通りにいかなかったことを、軽音サークルの騒々しい雰囲気に嫌気が差したという事情に脳内変換していた私は、次は落ち着いた集団に所属しようと思い、大学のとある文化系サークルに入った。そのサークルの中心で、一回生にして輝きを放っていたのが「彼女」だった。つまり私は、生涯の伴侶となるような、アイドルのように可愛く、少年漫画のヒロインのように優しく、アニメのヒロインのように男の子の趣味に理解があり、自分と同じぐらい賢い、自分の人生のヒロインと、早くも出会ってしまったのだ。

 

私は彼女に対してはほとんど一目惚れだったのだが、NFでの企画の準備を共にする中で、ますますいっそう彼女のことを好きになっていった。私は、彼女を自分の恋人にしたいという欲求を抑えることができなくなっていた。しかし、それまでネット以外ではほとんどまともに女性と接したことがなかったので、彼女を恋人にするために何をしたら良いのか、どのような手順を踏めば良いのかが、まるで分からなかった。

 

もっとも、依然として、例の全能感を抱えていた私は、とりあえず告白すれば何とかなるだろうとでも思ったのか、まだ二人でいっしょに遊ぶことすら一度もしていないにもかかわらず、ある日突然、何の脈絡もなく、メールで彼女に告白をした(当時はまだ、SNSなどは存在せず、リアル以外でコミュニケ―ションを取るとしたらメールか電話が中心だった)。今から思えば、あまりにも無謀で、しかも最悪の形での告白である。メールには、「これから春休みで、当分会えなくなるだろうから、想いを伝えておかなければ…」といった内容を書いた記憶がある。何を言っているのか、全く意味が分からない。

 

告白の結果については、書くまでもないだろう。それが私の人生における、最初の失恋であった。

 

しかし、ここからが私のおかしなところだと思うのだが、そのとき、なんと私は、まだそれを失恋だと捉えきれていなかった。フラれてから初めて、男の友人の助言を仰いだ私は、二人で何度か遊ぶ前に告白をすることや、告白をメールですることは、告白の形式としては最悪に近いものであることを教わった。だから、フラれたのは告白の形式がまずかっただけで、しっかりとステップを踏んでから、あるべき方法で告白をし直せば、今度は彼女と付き合えると思ったのだ。今から思えば途方もなく見当違いな思い込みだが、おそらくまだ、例の「自分が本気を出せば不可能なことは何もない」という全能感が、かなり揺らぎつつも、まだ残っていたのだろう。

 

だから私は、春休みの間に、彼女と二人で遊ぼうとしたのだが、なかなか思い通りに予定が合わなかったりしたことを覚えている。その理由が分かったのは、春休みが終わる頃、私が大学生として二回目の四月を迎えた頃であった。彼女から、彼女が私とは違う別の男性と付き合うことになったという主旨の報告メールが届いたからである。その瞬間、私の頭が目の前の現実を私に見せることを危険であると判断したのか、視界がやたらとチカチカしたことを覚えている。何か、良くないものが下から上へとこみ上げてきた。


このとき、私の世界は、あの幸福な全能感と共に、音を立てて静かに崩れ去った。


それから数日後、大学二回生としての私の一年が始まった。この一年は、私にとっては辛い期間だった。二回生になった私は、彼女と同様にサークルの中心になったので、彼女とはそれまでと同じように共同作業をしなければならなかった。しかし、私は相も変わらず最初の告白への見当違いな後悔を抱えていて、また、彼女が彼氏のものになってゆくことを想像してしまうのが苦痛で仕方なかった。そして、どうして彼女は私を選ばなかったのか、その理由をただひたすら考え続けていた。要するに、私はまだ、彼女のことがどうしようもなく好きだったのだ。
             
だから、彼女とはできるだけ接したくはなかったのだが、サークル活動の都合上、それを避けることはできなかった。当時の私にできることといえば、せいぜい彼女が彼氏からプレゼントされた指輪を嵌めているかどうかを日々観察し、彼氏との関係が上手くいっているのかを推測することぐらいであった(余談だが、このときの経験から、女性の左手の薬指を常に観察する癖がついてしまった)。私は、彼女に少しでも良いところを見せることだけを考えて、サークル活動に精を出した。

 

この一年間は、当時の私としてはよく頑張っていたのではないかと思う。しかし、人生で二回目のNF企画を終えた私の精神状態は、すでに限界に達していた。そんな私に追い打ちをかけるような季節がやってきた。今さらだが、NFとはNovemberFestival(11月祭)の略なので、その後にくるのは当然のことながら12月であり、クリスマスである。

 

彼女に妄執していた当時の私にとって、その年のクリスマスは、まず第一に、「彼女が彼氏と過ごす初めてのクリスマス」であった。それに対して、彼女のことが依然として好きだった私は、当然のことながら恋人などはおらず、一人でクリスマスを過ごすことが決定していた。しかも、幸か不幸か(少なくともこのときは不幸だったが)、クリスマスは私の誕生日でもあった。実家暮らしだった私は、例年のように、20歳の誕生日を家族に祝ってもらう予定であった。

 

しかし、恋人と二人でクリスマスを過ごす彼女に対して、20歳になってもまだ親に誕生日を祝われている私は、あまりにも惨めであった。少なくとも当時の私には、自分が惨めに思えて仕方なかったのだ。私は、少しでも現実に抗うために、また自分も少しでも大人の階段を登ろうとして、12月の24日から25日にかけて、ちょっとした一人旅に出ることにした。

 

行先は、京都府日本海側に位置する、舞鶴である。12月の終わり頃の舞鶴であれば、もう雪が降っているかもしれないし、そうでなくても、どこか色彩を欠いた日本海の港町で独り海を眺めれば、彼女を想う自分に浸れるとでも思ったのだろうか。いや、単純に、彼女が彼氏と過ごすクリスマスを、自宅で家族と過ごす普通の状態で耐えることができなかったのかもしれない。

 

とにかく、そのようなよく分からないナルシズムに突き動かされた私は、半ば舞鶴日本海に近いビジネスホテルを予約し、JRの普通列車に乗り、数時間かけて北へと向かった。午後には舞鶴に着いた私は、引き揚げの史跡や赤煉瓦倉庫を見た後、ぼろい安宿の一室のベッドに寝転んだ。

 

ここで、暗い日本海でも眺めながら、一人で彼女への想いを募らせておけば、まだ格好も付いたろうにと思う。しかし、あろうことか私は、クリスマスの夜に、彼氏と二人で過ごしているであろう彼女に対して、自分がいま、舞鶴に独りで居るというメールを送ってしまった。


さすがの私も、彼氏との逢瀬を邪魔しようなどと思ったわけでなかったと信じたい。おそらく当時の私は、彼女に対して、私も私なりに大人になっているのだということをアピールしたかったのではないか。現在の私からしたら、なぜそのようなオウンゴールをわざわざ蹴り込みに行くのか、全く持って理解しかねるが。あるいは、いきなり冬の舞鶴に行くという無茶を報告することで、彼女の気を少しでも引きたかったのかもしれない。いや、もっと単純に、僕はいつものように、彼女からのメールが欲しかったのだろう。

 

それにしても、クリスマスに彼氏と過ごしている最中に、突然、以前フッた男友達から、唐突に「舞鶴にいる」というメールを受け取れば、女性はどう思うだろうか。ふつうであれば、気持ち悪さに怖気が走るところだろうし、良くても、開いた瞬間に無かったことにされるのが関の山である。

 

しかし、彼女は本当に優しかった。程なくして、私が舞鶴にいることに驚き、心配する返事をくれたのだ。私は、自分の愚行を恥じると同時に、ほんの少しだけ、幸せを得ることができた。そうして僕は、記念すべき20歳の瞬間を、独りで迎えたのであった――

 

 


さて、前置きが非常に長くなってしまい申し訳ないのだが、ここからが私の「こじらせ」にまつわるエピソードの本題である。

 

実は、このクリスマスのエピソードの中には、一つだけ、実際には無かったことが含まれている。つまり、私の嘘が含まれているのだ。いや、実際に誰かにこの当時の話を語るときは、本当にこの通りに語ってしまうことがあるので、嘘というよりも偽記憶に近いのかもしれないが、たしかに、私は実際にはそんなことはしていなかった。

 

まず、誕生日について。話を盛るために、誕生日がクリスマスと被っているという設定を付けたのかと思われるかもしれないが、これは本当である。クリスマスと誕生日が重なると、幸せも孤独も二倍になるということを、私はこの身を持って学んだ。

 

次に、メールについて。いくらなんでも、そんな自分勝手なメールに、しかもクリスマスに彼女が返信してくれるわけがないし、返信が来るにしてももっと冷たい内容だろうと思われるかもしれない。しかし、メールを返してくれたことも、彼女がくれたメールの内容も、事実である。彼女は本当に本当に良い子であった。そのことを確認して、私が少し幸せな気持ちになったことも含めて、本当である。

 

だから、私がメールを書いたことも、その内容が「舞鶴に居る」という報告であったことも、芋づる式に事実ということになる。もちろん、私がメールに込めていた意図も、想いも。ただし、私は、このメールを、ビジネスホテルの一室ではなく、京都市内の某ネットカフェの一室で書いていた。

 

 




つまり、私は、本当は、舞鶴になど行ってはいなかったのだ。

 

 



以上が、私の「こじらせ」に関するエピソードである。前置きが異様に長かった割に、本題は短くてがっかりさせてしまったかもしれない。だから、その後、私がどうなったのかについて、ごく簡単にではあるが、触れておきたいと思う。

 

まず、その翌年の春に、風の噂で、彼女が例の彼氏と別れたことを知った。だから、私は再びメールで、彼女に告白をした。しかし、上述のような虚飾にまみれた私が、
彼女の「一番」になれるわけもなく、当然のことながら、再び今度は前回よりもはっきりと、私は彼女にフラれた。それによって、ようやく私は、彼女とは今回の人生においては絶対に付き合えないであろうことを悟った。ちなみに私は、今も昔も、輪廻転生を信じてはいない。

 

そして、私はこの二回目の失恋をきっかけに、サークルから失踪した。いま思えば、これも彼女に自分のことを考えて欲しかったからな気もするし、あるいは彼女へのあてつけだったのかもしれない。いずれにせよ、私という人間は本当に度し難い存在なのだ。
本当は、ほとぼりが冷めてから、サークルにはひょっこり戻ろうとしていた気もするし、彼女以外の友人からたまに連絡も来たりしてした。だが、失踪以来、サークルの他の友人たちと会うのも気まずくなってしまい、大学構内で遠目に彼らを見かけたら、あえて別の道を通って避けたりしていた。結局、私は最後までサークルに戻ることはなかった。この気まずさの感覚は、その後何年も、私の心の奥底にずっと残り続けた。

 

それから私は、何年もの間、自分が好きな人の「一番」(=恋人)になれないという悩みに苛まれ続けた。まるで呪われているかのように、いや、呪いでも何でもなくこれは私のせいなのだが、相手を変えては、女性から交際を断られ続けるという経験を何度も何度も何度も繰り返した。

 

今も、その問題は解決しているわけではない。だが、いつからか、もう別に、相手の「一番」でなくとも構わないと思うようになった。

 

ところで、私の「こじらせ」が終わったのも、ちょうどそれぐらいだったように思う。
今の私は、あの20歳の頃の私から、どう変わったのだろうか。

 

念のため言っておくと、今の私の視点から見れば、そんな状況で日本海に一人旅に出ようとすること自体、あまりにも「痛い」と言わざるを得ない。もう本当に意味が分からない。が、そのような加齢にともなう価値観の変化は、ここでは重要ではないだろう。

 

あの日、私は舞鶴にいるはずだった。しかし、現実には、私はネットカフェにいた。いまの私は、あのとき舞鶴にいたはずの自分と、ネットカフェにいた自分の、どちらなのだろうか。私の自己理解によれば、今のわたしは明らかに、あのとき「ネットカフェにいた自分」の延長線上にあると思う。というか、ほとんどそのものだ。そしてそれは、「彼女と付き合えずに終わった自分」でもある。

 

あの舞鶴にいた私は、けっきょくは幻想に終わった。私は、自分が望むような人間にはいつもなれないままだし、相手が望む自分にもなれない。でも、今の私は、そうであることを引き受けている。「受け入れている」のではなく「引き受けている」。もう、あんな酷い嘘を付くことはないだろう。


だから、最後に、私は「こじらせ」について次のように定義し直しておこう。「こじらせ」とは、「自己の『どうしようもなさ』からくる葛藤が長期化すること」である、と。



2017年12月14日 舞鶴にて






※念のために述べておくが、私は↑のような経緯で「こじらせ」を克服したという結果を述べているだけで、他の人も「こじらせ」を克服「すべき」と言っているわけでは決してない。むしろ、受け入れることができない現実/引き受けるべきではない現実は確かに存在するし、ある現実を引き受けることが可能かどうかも、その人の状況や状(病)態によって変わるはずである。
 

 

次回は、宇田川 那奈さんが記事を執筆される予定です。
お楽しみに。