メンヘラがマシになった話

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この筆者には現在恋人がいます。やはりメンヘラを治すのには恋人が必要なのかという典型例を話すつもりはありませんが、「恋人のいるメンヘラの話なんか聞きたくねえぜ」という人はブラウザバック推奨です。

 

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「なぜ私がメンヘラになったか」がないと始まりませんよね。

私の母は毒親です。どこに出しても恥ずかしくない、アダルトチルドレン兼メンヘラ兼毒親という由緒正しい毒親です。不運なことに私から見ても学があり、スパルタ教育という名の精神的虐待をしていました。いわゆる教育虐待ですね。最先端な毒親でした。とてもうれしくない。

テストでどんな点数をとっても褒められた記憶はありません。悪い点を取ったら泣くまで怒られるのは目に見えるんですがね(笑)要領の悪いこどもと言われ、公文の宿題も英語の単語を覚えるのも、ピアノを練習するのも、ずっと私は泣いていました。

家というところでは私は悪い子だから毎日泣くのが普通だと思っていました。

小4の時にいじめによる自殺が世間を騒がせていました。不謹慎ですが正直に言うと、自殺できた子供たちがニュースで見るたび「勝ち組だな」とその当時の私は思っていました。私は頭が悪くて、度胸もなかったので、心の中でずっと自殺する妄想をする小学生でした。

 

中学になってもあいかわらずで、自分の部屋は勉強の邪魔になるから作らないとか、校則に違反していないのに「ロングヘアは時間の無駄」と泣くまで言い合いになったり。あの頃、家では勉強することによってかろうじて私の人権が保たれていました。

 

高校になるともっとひどくなり

・起床時間6:30、食卓に着く時間7:00

・布団に入る時間10:30、就寝時間11:00

(それらを守らなければ休日のインターネット各一日一時間は却下)

・学校の予習3時間

・数学の予習2時間(平日はなし)

・公文の勉強2時間

・ピアノ2時間(平日は30分)

手を止めてたら休憩し過ぎといわれ、ピアノの練習では「泣いて上手くなるならいっぱい泣けばいい」

と言われ、休日が怖かったです。将来の夢なんか、大人受けする言葉でスラスラ言えたけれど、本当は今日のお母さんの機嫌と問題の難易度だけが心配でした。いつ死んでもいいやと思っていました。

 

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授業中に自傷しないと席に座っておれない状態が続いていたそんなある日。

何もないのに涙が止まらず保健室に行き、初めてサボりというものをしました

家には帰らず、私の身内の中で唯一頭が柔軟な叔母さん(母の妹)に今の状況を伝えました。その時食べたイオンモールサーティーワンのアイスは冷たいのに、なぜか暖かい味がしました。

 

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病院に行くと適応障害(のちにうつ病と診断されるので、この後はうつ病と記す)と診断され親公認の不登校になりました。

・謎のキリキリした頭痛

・夜眠れない。

不登校になって一か月たったくらいでしょうか。両親が急に私の部屋を作り始めました。私はその時の記憶はあやふやです。

 

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うつ病になって二か月目

・朝ごはんのリンゴとヨーグルトしか食べられない

・体が鉛のように重い

・ずっと頭が痛い

・暗いところでパニックを起こす。蛍光灯をつけないと眠れない

・苦しい

・こんなに苦しかったら死にたい

一番びっくりしたのは字が読めなくなったことです。私は本や漫画も入れたら文字は読むほうだけど、その時期は握った砂のようにさらさらと単語も意味も頭から流れてしまうのです。

 

案の定高校二年生は留年しました。

 

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うつ病になって5か月目、やっと文字が少し読めるようになり、親にヘッドセットを買ってもらい、チャットパッドやスカイプ掲示板、メール掲示板などありとあらゆる方法で誰でもいいから人と繋がろうとしました。

はた迷惑な持論ですが「うつ病は孤独で悪化する」そのことを何となく私は気づいてたのかなと思いました。

掲示板関係で続いた人はいい人達でお互いに情緒不安をさらけ出して通話した人もいていい経験になりました。

 

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二回目の高校二年生

 

少し学校にも行くことができて、相変わらず情緒不安定で希死念慮に囚われて「17で死のう」とか思いながら生きていました。

 

その頃某ソシャゲ全盛期で、私はゲームには興味を持たず、オタクでカラオケするオフ会というものに行ってみました。みんな優しくて、学校のカーストで言ったら真ん中より下の層の人たちだったのかもしれません。ですが、それが逆に心地よくてオフ会に通うようになり、またオフ会で知り合った人たちと遊ぶようになりました。オフ会の人たちは私を人間扱いしてくれました。しかし、オフ会あるあるですが、恋愛沙汰でもめ事が起きました。

 

「クズ男」←好き←「私」←好き←「めっちゃ派手な男」

(当時の不毛な三角関係)

 

クズ男はFFに出てくるぐらいイケメンなのでほかに狙っていた女の子もいました。クズ男と仲良くすればするほど、女の子があからさまに態度が冷たくなっていました。それでも、クズ男はクズ男で目があったら笑って手を振ってくれました。

 

私はなぜこんな話をしたかというと、モテたことを自慢したいわけじゃありません。私より美人でスタイルが良くてうつ病じゃない人間はごまんといます。

でも、私はオフ会で「他者から求められる」経験をしました。

もしかしたら、それは体目的だったのかもしれません。

でも、私に女性として価値があることがほぼ初めて知れた、それが寛解への第一歩だったと思います。

「自分に価値を見出す」手先が器用、走るのが早い、やさしい、アイディアマン…

なんでもいいから自分に価値を見出すことは重要だと私は感じます。

「オタクのオフ会でモテた」という井の中の蛙の体験、人によったら顔をしかめるエピソードですが、「他者から求められ、そして、自分の価値を見出す」という体験は重要だと私は認識しています。

 

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私は友達に誘われてツイッターというものを始めました。しかし、高校ダブった私の日常など人様に見せられるようなものでもなく、アカウントを作ったまま放置していました。

そこで私は病み垢ツイッターという概念を知りました。少しの闇を抱えたポエムや、ブラックデビルっていうタバコを指に挟んだ写真をあげたり、時々リストカットをする、スタイリッシュ病み垢にあこがれて、私も病み垢なるものを始めてみました。早々に闇ポエムは飽きたし、スタイリッシュ病み垢はお手上げになります。そして、学校の愚痴や、昔嫌だったこと、トラウマになって動けないこと、電車に乗れなかったこと、自分の状況を文字にして吐き出しました。私は字書きとしてメンヘラ神をとてもリスペクトしていました。最初はメンヘラ神のマネをしてメンヘラエピソードを笑いに変えていこうとしました。そして、我流でつらかったことも、泣きたかったことも何回も何回も書いて、時にユーモアも交えて書いています。

ある日メンヘラ神が亡くなりました。字書きとしての彼女を尊敬しているので、彼女が亡くなった後届いたメンヘラリティスカイは大切にしようと心に決めました。

「自分と向き合う」それはつらくて苦しいこともあるでしょう。私は何回も同じエピソードをツイッターに投稿しています。私には「自分と向き合う」ツールとしてツイッターが向いていたのでしょう。

 

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高校三年生のクラスは留年した私にも優しく接してくれました。でも。受験が待っています。私は高校一年までしか碌に勉強をしてなかったがふらふらのまま受験して合格した大学に入りました。そして、一人暮らしを始めました。

その頃強迫観念がひどくて、頭の中でお母さんに脅されているような錯覚を覚え、駆り立てられるように課題を終わらせられるまで寝なかったり、暇さえあれば勉強し、勉強しないことにそわそわと不安を覚えていました。一緒に住んでいないのに、まだ、心はお母さんに縛られていました。

また、サークルに入ると、女の先輩に振り回され、セクハラ、モラハラすれすれのことをされて、サークルは楽しいのに女の先輩に会うことを考えるだけで吐き気がしました。

 

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1人暮らしを始めると、アマゾンの古本通販を知り、危ない一号、ねこぢるやたまを好み順調に何かを拗らせていきました。

学生の時にしかやれないバイトと言い張り、寂れたラウンジで一か月バイトしてすぐ辞めました。

また、脱法ハーブを買おうとして駅で待ち合わせしたお兄さんにお金を渡してモノを貰うとき、なぜか「大丈夫?」って聞かれました。

私はアマゾンで5000円のぶら下がり健康器具を買って、泣きながら組み立てました。

ぶら下がり健康器具ともやい結びしたロープの前で夏休みの宿題を泣きながらやりました。

そして、泣きながら首を吊ろうとしてもできませんでした。ただ怖かったです。私は臆病者なのです。

 

そして、今住んでいる学生寮の9階から飛び降りようとして、最後になぜかやはりお母さんに電話しました。

その時お母さんに私のこと好きか聞いたら

「好きかどうか答えられへん」という答えが返ってきました。

依存していたからもはや好きかどうかわからないそうです。誰も喜べない返事すぎて今では笑うしかありません。

そして、私は実家に強制送還されました。

 

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それから、実家から大学に行こうと、心がボロボロながら努力しましたが、ほぼ不可能でした。そして、大学に行かなくてはいけないという強迫観念とその他の焦った気持ちと気まぐれで

実家の二階から飛び降りました。

両かかと骨折、背骨骨折して入院しました。

入院している時に三回ぐらい

「なんで、死のうとしたらだめなんですか」

ってお医者さんに泣きながら話した。でも、お医者さんはなだめるだけで、安定剤の注射を打ちます。

そうこうしているうちに退院しました。また、ちゃんと歩けるようになったのは運が良かったのでしょう。

 

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ホストというものに行ってみました。私は20万使いました。ホス狂さんと比べたらとてもはした金ですが、無職ニートにとっては大金です。

ホストの人の高校無法地帯エピソードがおもしろくて、ホストに行くたびその話をしてもらっていました。私はホストの人たちを最初は元ヤンとかDQNとか見下そうと入店していた節もあったけれど、話していることに嘘がまじっていてもいい人はいい人なんだなと感じました。私の育った家では大学に行くのが普通。高卒なんて考えられない。という家でした。でも、お金を払って、少し文化の違う人の話を聞くために使った20万、私は後悔していません。高卒コンプレックスが少し解消された気がします。

しかし、毎日血を吐くのでタバコは一本しか据えないオラオラ営業のホストとぬいぐるみを背負ったブサメンホストに囲まれた午前3時はさすがに、私、何やっているんだろうと思いました。

 

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作業所を見に行ったけど行きたくないのでやめました。そして半年かけて同人誌を作ったけど、イベントでは全く売れず、めまいがしながら帰路につきました。

 

年末、やっと母とほぼ縁を切りました。

 

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最近、やっと希死念慮とうまく付き合えるようになりました。

生きる理由もねーんだけど、死ぬのはめちゃくちゃめんどくさいということに気づいたのです。あとは、低気圧の死にたいはバグです。速やかに酔い止めを飲みましょう。こんな安定した状態が長く続くとは到底思えないので、また「死にたい」が芽生えたら、「VS希死念慮」2週目のスキルを活かして戦わなきゃいけないのです

私のうつ病には

・孤独にならない。(大勢でいるのも疲れるけども)

・自分に価値を見出す

・自分と向き合う

が効果的だったようです。

リストカットチキンレースや私は文章で喧嘩して恨みも買っています。ツイッターをしなければ避けられたことです。でも後悔はしていません。どうせ私はスタイリッシュと程遠い人間なんです。

ツイッターを始めてから、若くしてフォロワーさんがなくなることが何回もあります。その人たちが悪かったのか、違います。ただ、はずみだったり、とっても運が悪かっただけなのです

だから、生きるのが苦しいメンヘラのみなさんには無責任にも次の幸せのためにどんなことをしても生きて欲しいです。

私もカミソリでアムカしたり、二階から飛び降りしながらも生きてきました。

メンヘラツイッタラーからただのメンヘラに詳しいツイッタラーになりたい人間より。

 

P.S.練炭自殺するときは警報器をはずそうな!わっ自殺教唆で逮捕されちゃう!