ピアニストは素直になれず、今日も自虐を繰り返していた

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 サークラアドベントカレンダーへようこそ。藍鼠さん @indigo_mou5e からのバトンを受け取り、本日はわたくしfina @fina0539 が担当させて頂きます。このたびサークラへはじめて寄稿させて頂きました。初めて私を知る方も多いと思うので、軽い自己紹介をします。今年度大学生になれなかった(受験さえしなかった)浪人生&留年生です。肩書きはまだ高校生です。つまり中卒です。中卒の書く文章ですので、大層読みにくいと思いますが、どうぞお付き合いください。ちなみにタイトルではピアニストなんて言っていますが、大したことないです。ただの下手なアマチュアです。

 と、こんな調子で私はよく自虐をします。今回は、「自虐」をテーマにしました。こんなクソみたいな前置きはとっとと終わりにして、本題に入りましょう。

 

執筆のきっかけとなった当事者研究

 2020年10月30日、サークラの例会が開催された。テーマは「心を開くこと」について。各々の思う「心を開くこととは何か」であったり、最近心を開けた体験などが活発に語られたが、その中で「自虐」の話題が挙げられた。多くの参加者が「ネガティヴな自己開示」ができる相手こそ心を開ける相手だ、という意見を述べていたものに対し、「ポジティブな自己開示」があってもいいのではないかという意見が挙がる。続いて、「ポジティブな自己開示」はマウンティングに繋がりかねないが、そもそも何故マウンティングになってしまうのかという疑問に対し、私が「インターネットの文化がSNS等の台頭により自虐文化からマウント文化に変わったからでは?」という意見を述べ、そこから自虐について話が転がっていった。トークスキルとしての自虐、自己憐憫に近い自虐、謙遜のための自虐…どうやら自虐にも様々な種類があり、いろいろな人がいろいろな場面で用いているようだ。

 読者の皆さんも、何気ない場面で自分を低く言ったり、「自分なんかダメだよ」とネガティヴモードで話すときは少なくないだろう。そして、自虐についての話は私にとっては非常にタイムリーな話題ネタであった。私が自虐をとても気にするようになったのは、去年の秋頃に遡る。

 

私と中学の同級生の話

 私はピアノを嗜んでいる。幼少期は音大を目指していたほどのガチ勢だった。しかし中学の頃に挫折を経験し、それがきっかけで中学は不登校だった。高校は定時制に通わざるを得ず、今ではさっぱり弾けないアマチュア風情のド素人である。ああまた自虐してしまった。実際は今でも音楽自体は継続しているし、人並みに程度には弾ける。

 そんな私には中学時代の同級生で、いまは美大生の友人がいる。私もアマチュアとはいえ音大志望生の端くれであり、彼女は「芸術系学科に学籍を置く、他ジャンルだからこそのクリエイターとしてのライバル」といった存在といえるだろう。彼女が学校の課題に追われ修羅場だったときは力を貸してきたし、私も昨年は大きな音楽の制作に取り組んでいて、色々と助けてもらったものである。少なくとも私は彼女を心から尊敬しているし、お互い気兼ねなく音楽・美術の込み入った話ができる仲といったところだろうか。

 昨年秋、そんな彼女に「なぜfinaは自虐ばかりするのか」とツッコまれたことがあった。正直無意識だったが、確かに彼女と話す際はよく自虐している。「次から自虐するたびに1ポイントずつ加算するから」という意味不明な提案をされ、それからはよく気をつけようとした。ちなみに、どうやらこのポイントは溜まったから何らかのペナルティを課されるものではなかったらしい。1年ほど経過した今では、制定されたルールさえあやふやとなってしまっているが、この自虐ポイント制度制定は我々の会話において国鉄分割民営化ほどのインパクトを与えたことは間違いない。

 何故私は彼女の前では自虐するのか?そんなことを考えるうちに、私の中に存在する様々な思惑が見えてきた。

 

自己分析をしてみた

謙遜型自虐

 まず、私は素直に人を褒められない。私の大きな課題である。自然に人を褒めることに何故か恥ずかしさを感じてしまうのだ。人に音楽を教えるとき、褒めて伸ばすべきだと思っていても「上手になったね」という一言をかけられず、淡々と教え続けてしまうという癖を自覚したのは最近だろうか。その割に叱るのも苦手なので、なんとも中途半端な指導者になってしまう。このあたりは職場で新人に仕事を教える際に修正をかけていったので、最近は少しマシになったものの、依然として要改善点だろう。

 恐らく、私は彼女に対して素直に尊敬の念を伝えることができていない。いや、褒め下手な私が不自然に言葉を取り繕った結果不自然なお世辞に聞こえてしまうことを気にして、どうしたら受け取ってもらえるかを考えた結果なのかもしれない。だから自虐に走り、過渡に謙遜し自分を下げるところまで下げないと、「褒める」言葉に信憑性が生まれないのかもしれないとも解釈できる。謙遜として、「いやいや私なんて」とへりくだることは至って当たり前な会話術だが、どうやら私はそれが行き過ぎていたようだ。

自己憐憫型自虐

 次に、最も重要かつ深刻な部分である、「自分のなかのコンプレックス」について触れよう。大きな挫折を味わった私にとって、不登校レベルのどでかい失敗を経験せず美大に通えているのは嫉妬の対象にもなり得た。そんな彼女が私に向ける尊敬の意は素直に受け取れば受け取るほど、「じゃあどうして僕は音大に行けなかったんだ?」と自己肯定感がガリガリと削られてしまう。ならば最初から「自分はたいしたことない」と納得しないことには、彼女に対する尊敬と、自分に対する情けなさの折り合いがつかない。そうして私は自虐をする選択肢を取り続けたのかもしれない。まさに自己憐憫である。

 別に哀れんで欲しいわけじゃない。慰めてほしいわけじゃない。でも、心の奥底は不安だらけだ。未来に恐怖し、何もできない無力感に苛まれ、失敗経験を引きずりながら常に生きている私にとって、そういった本音を少しでも言語化できる時間は、ほんの少しだけ心地良い。いや、かなり心地良いのかも。なんだ、自分は人を褒められないだけじゃなくて、弱音さえ正直に言えていないじゃないか。

オチ自虐

 最後に考えられる理由として、「話のオチ」としての自虐だ。私は常に人と会話をする際には頭をフル稼働させており、そのため話のオチというものを極端に気にしている。オチのない話をだらだらと続けるのは相手に申し訳ないという自分のなかでの理屈のもと、マシンガントークを展開しては呆れられることがよくある。その是非はともかく、私は内容が伴い、そしてオチのつく話に拘る癖があり、単に自虐ネタは使いやすい。「今日学校行く時財布忘れたんだ」という何気ない話にも、「だから俺って発達障害なんだな、アッハッハ!」という自虐を伴ったオチを用意すれば何故かまとまったようになると感じられるため、こうしたテクニックに甘えてしまっている感は否めない。

 どうやら、本当に自虐にはいろいろな種類があるらしい。更にタチが悪いのは、私の彼女に対する自虐は複数要素を兼ね備えていた点である。

補足:fina自傷しないの?

 思えば私の自傷行為の入門は、小5のとき旅行先の松江城で号泣しながら、道に落ちていたデカめの石で左手の薬指を叩き潰すという割と入門にしては早期かつ超上級な手法だった。母親に大層悲しそうな顔をされたのもそうだが、なによりピアニストなんだから自分の手は絶対に傷つけてはいけないという自覚が芽生え、「何があっても自分の手だけは傷つけてはいけないんだ」という意識を持つようになった。とはいえ根本的な自傷願望とそれに伴う快感も理解しており、その逃避先としての自虐という意味合いは自分からすれば納得がいくものだ。皮肉なことに、その直後の小6夏に自転車でズッコケて全治半年の骨折を経験し、物理的に手を破壊している。やっぱり私に自傷は向いていない。

 

素直になれない自分

 改めて振り返ってみると、私は口下手だ。どうして素直に相手に尊敬を伝えられないのか。一つだけ心当たりがあるとすれば、そもそも褒められ慣れていないことだろう。常に自分の理想が高い完璧主義者なため、自分のなかで完璧でなければ自分に向けられた称賛の言葉も全て素直に受け止めることができない。自分が素直にポジティブな意見を受け止められないのなら、当然相手にも言えるはずがない。

 確かに人は謙虚であるべきだ。過信ばかりしていては嫌味なヤツになってしまうが、だからといって素直に人の好意を受け止められないことも問題だとようやく気付くことができた。人が自分のことを認めてくれるって、なんとも素敵だし嬉しいことじゃないか。だったら素直に受け止めて、それを自信に繋げていくことも大切だ。低い低い自己肯定感を高くする手がかりになるこの小さな気付きを、私は大切にしたい。 

 

自己肯定感が低いからといって他人が凄いわけじゃない

 アイドルの原義が偶像であるなら、私の親友たちはみなアイドルだ。彼らは実像を持ち実態として存在しているが、「私にとって親友は○○な存在だ」という私の認知のみで作り上げられた偶像としての親友もまた存在している。私の友人たちは皆が素晴らしく、尊敬に値する人物ばかりだ。もちろん、同級生の彼女もそのうちの一人であることは間違いない。そんな彼らの頑張りを見るたびに、私も頑張らなくてはと鼓舞される。そう、尊敬は憧れでもあるのだ。アイドルのように私に元気を与えてくれる憧れの的、こんな一面が私の親友に内包されているのかもしれない。

 もちろんこれが全てではなく、私にとっての親友はバカ騒ぎしてバカ笑いしたり、何気ない相談ができたり。気兼ねなく話せて、好き勝手言える相手でもある。でも、当然リスペクトもしてるよ、ということなのかな…。よくわからなくなってしまった。何にせよ突然アイドル呼ばわりされ、尊敬だの憧れだの言われた親友たちの気持ちを考えてみたらいたたまれなくなったので弁解させていただきたい。

 では、私の尊敬する対象は常に完璧なのだろうか。そんな筈がない。彼らだって人間だ。失敗だってするし、弱音を吐くときだってあるだろう。しかし、私はその事実を失念しがちである。自らを呪縛する完璧主義が他人にも及び、「彼らは完全無欠であり、常に私の先をリードしている」という先入観に支配されていることに気付いた。相手が完璧でなければ褒められないという突拍子もない理屈に則り、相手を完全無欠人間扱いしないと納得がいかない。

 勝手に相手を完璧だと思い込み、自分を不完全だと思い込む。完璧主義が生む弊害である。この二項対立を抱えた状態で自己憐憫をしていては、不毛なだけでなく相手を傷つけかねない。いくら自分が理想と程遠いダメなヤツだからといって、相手が凄いわけじゃない。人間みんなダメなヤツだし、ひとりひとりの人生にひとつひとつの悩みがある。“自己憐憫”の心地よさに浸るために、自虐してまで相手を持ち上げるって、よく考えたらとっても自己中心的だ。猛省である。

 

何故私はコンプレックスを感じるのか

 同級生の彼女が私にとってのコンプレックスだと先述した。これについて少し掘り下げたい。 

 あるとき、「中学からの繋がりで、絵の話をわかってくれる、悩みを気軽に言えるのはfinaくらいだ」と言われたことがある。複雑な気持ちだった。まず当然、嬉しかった。けど、何故か悲しかった。だって、彼女は美大生なのに、私は音大生ではない。美大生の悩みを聞く人間は、彼女が成し遂げてきたようなことは殆ど積み重ねられなかった凡人だ。「僕なんかでいいの?」というベタな感情が真っ先に浮かぶ。けどそれは本心かと言われたら微妙だった。確かに、「一度自分も音楽で勝負して、全力を注いだ作品を彼女に評価してもらいたいな」ということは常に思うが、彼女と比べて私は根本的に劣っているのかと言われたらそんなことはない。そもそも、もとは中学の同級生。いつまで経っても対等なはず。

 ではなぜ?心当たりは大いにあった。私は、彼女に自分ができなかった目標の達成を期待している。だから過渡に完璧を期待するし、「自分はもう諦めたんだから、そのぶん頑張ってくれ」と勝手に心のなかで思っている節がある。だからこそ、彼女の一言は捨てたはずの音楽への未練を焚きつけた。自分の身勝手さを自覚したのもそうだが、そもそも自己投影をせず素直に応援すればいい話である。

 確かに私は音楽に対する未練がある。美大に通えることを羨ましいとも思う。だからこそ彼女は人一倍頑張ってほしい。だけど、彼女だって私を羨んでいる部分はあるはずだ。実は彼女もピアノは弾ける。そして私のほうが上手い。ならそれでいい。彼女を応援することと、自分がずっと“ピアノが弾けるfina”であることの両立は可能だ。わざわざ自己卑下せず、素直に応援を伝えること。そして、確かに私にはできなかったことを彼女はやっているが、彼女にはできないことが私にはできる。なら、自分の人生を堂々と生きようと思えた。コンプレックスに思っていたことが恥ずかしい程である。

 

オチはないけど、まとめてみる

 ここまで約5000文字。書きたいことだけ書きまくっていたら、本当に不器用な生き方をしているなあと改めて思った。ただ素直に言いたいことを言えばいいじゃないか。伝える言葉なんか一言一句精査しなくたって、相手に気持ちは伝わるはずだ。会話って難しい。自分語りは得意なのに、自分の気持ち語りは全然ダメ。ああまた自虐している!!!

 もっと、素直にありがとうと伝えられる人間でありたい。素直に「凄いね」って言える人間でありたい。それと同時に、素直に人の好意を受け止めることのできる人間になろう。褒められたらもっと無邪気になってみよう。ちょっとくらい調子に乗ったって、きっとみんな許してくれる。

 

おわりに

「同じ絵を描く学校のライバルたちはいくら腹を割って話せる友達とはいえ、彼らがとても優秀で努力屋で、そして自分ができないことを知っている。逆に中学校の同級生らは、私のことを“絵がうまい人”という認知でしか捉えていない。私は確かに人並み以上に絵は描けるし、上手いのも自負している。だからこそ、美術を専攻するコミュニティの中における自分の立ち位置も客観的に理解している。この二つの極端の中間にいる立場だからこそ抱える悩みは、なかなか親友とて同業者の友人らには言いづらい。」

 

 彼女の言葉だ。この彼女の一言は、決して自画自賛でも自虐でもない、客観的事実である。そして全くもって同じことが自分にもいえる。私は自分以上に音楽ができる人がこの世に存在することを知っており、自分のなりたい理想に近ければ近いほど自分のヘタクソさに泣けてくる。だけれども、少なくとも私がこれまで通ってきた学校では、みんなから「うまいね」と言ってもらえた。同じくピアノをやっている人からも言ってもらえていたことを振り返ると、それなりに認めてはもらえていたのだろう。一つ自己PRをするならば、自分の持っている絶対音感とそれに伴う聴覚認知(耳コピ)だけは誰にも負けたことがない。ピアノの技量とは直接関係はないが、これだけは自信がある。

 私も彼女も、言い方は悪いが素人の「上手だね」は死ぬほど耳にしてきた。だから自分が上手な部類なのも自覚はしている。一方で自分の理想とは程遠く、未熟で怠惰な一面も自覚している。どうしても周りと比べてしまうし、周りの優秀さを感じてしまう。こんな話で盛り上がったことがあった。冒頭の彼女の言葉もそのときに出たものである。

 

 私は彼女の描く絵が大好きだ。何気ないラフスケッチも、完成された作品も。本当に上手だし、絵心なんてものがない私からしたら同じ人間が創り出したということが信じられないものばかり。なにより、彼女の高校時代の頑張りだってよく知っている。誰がなんと言おうと、私にとっては「誰よりも絵が好きな人」であることは胸を張って主張できる。そして、彼女がいう「自分はできない」という気持ちも十分に理解できる。彼女が悩みに苦悩するたび、私は話を聞いてきたのだから。

 

「この悩みを話せる人は中学の同級生だと本当にfinaくらいしかいないよ。大きな芸術という枠組みの中だと同業者でも、絵と音楽は180度違う。だけど思うことは似ているはず。finaだってそうだよね。」

 

 この一言は彼女からの最大限の賛辞だった。お互いが共感し、私が彼女を認めるのなら、その逆も然りである。しかしこれに気付くのは遅かった。彼女はきっと、「持つべき自信は持つべき。だからこそ頑張らないとね。」という意図を含ませて言っていたはず。にも関わらず私は、美大生と高校生という肩書きを比較し勝手に「結局、自分は理想と程遠い、周りと比べてもダメなやつ。彼女と比べてもダメだ。」とこじらせた自虐オチで納得してしまった。

 素人と上位層の二項対立に挟まれながらも、自分の力量を自負し努力を続ける彼女から、私は認めてもらっている。今だからこそ言えるが、とても嬉しいことだ。これくらい素直に受け止めておけばよかったと痛感する。ここまで彼女に言わせておいて、私はなお自虐癖から抜けられず自己憐憫の快感に浸っていた。

 

 彼女になんて言おう。「あそこまで言ってくれたのに、ひねくれたことばっかり言ってごめんね」かな。いや、まずは素直に褒めてくれたことを受け止めるところから始めたいな。「ありがとう、頑張るね」これを彼女に伝えるかは、もうちょっと考えよう。

 

 そしてこれは、いよいよ私は自虐から卒業するときがやってきたことを意味するのかもしれない。ちょっとだけ自信がついたし、なんだか音楽がやりたくなってきた。そう、私は決して下手ではないんだ。ならそれを維持する程度でもいい。別に音大生じゃないんだし。肩の荷が下りた感じがした。心から楽しんで音楽をやってみたい。そう思えるんだから、また少しだけ頑張ってみよう。彼女が覚えているかもわからない、僕の出したCDのジャケットを彼女にデザインしてもらうという口約束を叶えられる程度には。

 

 

次回はホリィ・セン @holysen の記事です。ぜひお読みください!

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