なぜ私は小説が書けなくなったのか

私は驚愕した。

"Circle Crash" Research Institute Vol.1には一編の小説が掲載されている。

「わがはいはネコではない」これは私が書いた小説だ。私は驚愕した。それがあまりにも駄作――というより、小説のていをなしていなかったから。

この小説はもともと、かわいい「ネコ」を拾った男性とその「ネコ」との関係が次第に歪んでいく過程を通して、相手にかわいさを期待し庇護しようとする心理が破滅的な関係を生み出すダイナミズムを描く、という構想をもとに書き始めたものだった。しかし冒頭と結末を書いただけで挫折し、そのまま放置して数年がたっていた。

私はサークルクラッシュ同好会の会誌に時折小説を寄稿しており、それを知っている方からコメントをいただくことがある。小説を褒められれば、私もうれしくなる。そして、久しぶりに小説を書こう、と思い立ったのである。とはいえ、締め切りは間近。書きたいネタもなく、私は放置されたこの「ネコ」の断片を引っ張り出してきた。ちょうど、何かの折に『吾輩は猫である』の最後を読み、それが思いのほかあっけない幕切れで驚いたところだった。こういう軽妙なタッチなら書けそうだ、そう思った私は当初の重たい構想を捨て、頭でっかちな飼い主をからかう話に変更して脱稿した。

そして今、私はその小説を読み直し驚愕している。

冒頭のやや実験的で読みづらい駆け引きが、短編にしては長すぎて宙に浮いている。苦紗那先生の性格をあげつらう主人公のセリフは説得力に欠ける。ネコと結婚しようとするのは面白いが、去勢のエピソードに持ち込むつなぎに無理がある。なんともちぐはぐで、主人公のネコには申し訳ないくらいだ。

どうやら、私は小説が書けなくなっている。物語を練ることができず、語彙も貧弱で読み手を引き込むつかみに欠ける。

私は村上春樹のひそみに倣って、公開した小説を読み返さない。というのは少々言いすぎだが、以前書いたものに影響されて似たような話を書いてしまうのは避けたいし、作品をいつまでも所有しようとしないことが、創作に益する心構えだとなんとなく感じてきた。しかし、小説を書く力が衰えつつある今、思い切って自分の作品を読み返し、分析してみた方がいいのではないか。私が私の小説に何を求めていたのか、振り返ってもいいのではないか。

そう思い立って調べてみると、私はそこまでたくさん小説を書いてきたわけではない。リストアップすると、

『すばらしさとうつくしさの感情について』

『え・と・ら・ん・じぇ』

『信念のパズル』

『ちーちゃんはこう言った』『ちーちゃんは藪の中』

『僕の名は、』

『チンポ騎士団長殺し

以上だ。すべてサークルクラッシュ同好会会誌に寄稿した。

まず、私の小説には共通点がある。それは「元ネタ」である。単にタイトルを借りてきたものもあれば、物語の構成に深く関係するものもある。それらを列挙すると、

『崇高と美の観念の起源』(バーク)『美と崇高との感情性に関する観察』(カント)→タイトルのみ

『こころ』(夏目漱石)→プロットに関係

『異邦人』(カミュ)→プロットに関係

『信念のパズル』(クリプキの論文)→内容を反映

ツァラトストラはこう言った』(ニーチェ)→セリフを引用

『藪の中』(芥川龍之介)→発想を参考

君の名は。』(新海誠)→プロットに関係

『変身』(カフカ)→プロットに関係

騎士団長殺し』→タイトルのみ

ゼロからストーリーを作り出すのではなく、二次創作的な気分で、有名な作品のプロットを拝借して別の物語差し替えたものがいくつかある。この二次創作性(他の作品の依存度)が強いのは『すばらしさとうつくしさの感情について』と『僕の名は、』である。プロットを参考にしているがほぼ別の物語となっているのは『え・と・ら・ん・じぇ』、三人が別々に解釈を述べるという発想だけ使ったのは『ちーちゃんは藪の中』である。なお、ニーチェ、レー、ザロメの三角関係もネタに使っている。『ちーちゃんはこう言った』はツァラトストラのセリフを強引に解釈して組み込んでいるが、ニーチェの思想を物語の中に持ち込んでいるとは言えない。『信念のパズル』はヒロインが二人の男性をめぐって信念文のパズルを引き起こすという実験的な構成になっている。二次創作性が最も希薄なのは『チンポ騎士団長殺し』だが、TSと異世界転生ものの組み合わせというプロットはベタでオリジナリティを感じさせない。

私は、私の思考は他人の思考であるという考えから、引用元、参照元は隠さず積極的に示すようにしている。オリジナリティという概念が著作権の運用上重要であることは認めるけれども、少なくとも私が創作の上でこだわる点ではない。何かの作品に影響されて創作を行うのは自然なプロセスだと感じる。ただし、私の小説にはハイカルチャーへの露骨な偏りがある。ハイカルチャーに触れることが小説を書く一つの目的になっているとさえ言える。だからあからさまに引用元、参照元を示すのだ、と言われても仕方がないところもある。

次に、作品の人称(だれの視点で描かれた物語か)である。『すばらしさとうつくしさの感情について』『え・と・ら・ん・じぇ』『信念のパズル』はいずれもヒロインの一人称視点から男性を描いている。リストアップしていないが、私の就職活動を小説風にアレンジした『ご活躍を心よりお祈り申し上げます』は私自身をヒロインの一人称視点から描いた二人称小説のようになっており、男性の七転八倒を少し冷めた視点で描くという点が共通している。

これは「雪原まりも」というペンネームと関係している。そもそもこのペンネームは私の本名のアナグラムであり、自分の中の女性性を名付けるという意味を込めていた。作品の登場人物の男性たちは部分的に私自身の投影であり、それを描写する一人称のヒロインも部分的に私自身の投影である。

この構造を少し発展させ、女性主人公の一人称視点をメタ的に男性主人公の一人称視点が受け取るのが『ちーちゃんはこう言った』『ちーちゃんは藪の中』、女性主人公の一人称視点と男性主人公の一人称視点が交替するのが『僕の名は、』である。これ以降、男性を観察する女性主人公という枠組みを私は採用していない。これは創作上の大きな変化であり、「雪原まりも」であることからの離脱といってもいいと思う。

そのことがわかるのが『チンポ騎士団長殺し』で、ここでは男性主人公の一人称視点がほぼ一貫している。作品のテーマが男性性であり、最後にすべての男性が殺しあう形で否定されるのは、物語が女性一人称で描かれていないことの帰結でもある。女性は男性の外部ではない。女性は語りえず、ただ男性が自らを否定するのみ、というのが「雪原まりも」を離脱した帰結なのである。

『すばらしさとうつくしさの感情について』『え・と・ら・ん・じぇ』では、女性主人公が見守る中男性が自殺する。それに対して、『チンポ騎士団長殺し』はやたらと壮大に自殺する男性だけが描かれている。それを看取るのは「かがり」という抽象的な存在であり、自殺する男性についてメタ的にコメントする抜け道が用意されていない。

最後に、私の作品に繰り返し登場していたモチーフ、「学問への憧れと諦め」について指摘する。『すばらしさとうつくしさの感情について』と『ちーちゃんはこう言った』『ちーちゃんは藪の中』では、このモチーフが執拗に描かれている。これは私自身の問題であり、大学制度内に残るかどうか葛藤していた私の心境が描かれている。『え・と・ら・ん・じぇ』や『信念のパズル』でも、このモチーフは「ママ」や「先生」という重要な人物を使って表現されている。なお、自身の就活を描いた『ご活躍を心よりお祈り申し上げます』では、学問への憧れが劇的な形で否定される。

『僕の名は、』『チンポ騎士団長殺し』ではこのモチーフは姿を現さない。これは、就職のため大学を離れる決心がついたことを反映している。両者はTSものであることも共通しており、フェミニズムの知識をつけたことでジェンダーについて思想的に悩んでいたことを反映している。

このように概観すると、私の小説は思いのほか実存的なテーマを選んでいたことがわかる。私自身は作品それ自体の構成やテクニックに頭を使っていたつもりだったが、そして確かに、どれも凝った作りの短編になっていると思うが、にもかかわらず実存的なテーマを小説の形に落とし込んでいた。「わがはいはネコではない」は、その落とし込みに失敗している。

今、私は仕事をやめ、大学に引き戻され、確かに足場を見失っている。にもかかわらず、その実存的テーマを真摯に落としこむことができなかったようだ。年を取るというのは割とそういうものかもしれない。いささかの失望を禁じ得ないが、しかし、小説にはもっと別の書き方もある。

最後に、12月3日の期限を大幅に超過してすみませんでした。