中学受験の呪縛

私は浪人を一年、留年を一年してもうじき二十四になる。バイセクシャルの男性で、京大に籍を置いている。学部卒業の見込みは立っていない。少なくとも来年は六回生として居座るつもりだが、その後どうなるのかはわからない。どうしたいということもないし、どういう選択肢があるのかもよくわかっていない。今の学部では学習への意欲はてんでわかないが、かといって辞めてしまう踏ん切りもつかない。学費だけはひとまず何とかなりそうなのをいいことに、のらりくらりと時間稼ぎをしている。

 勉強というものにこれほど意欲がわかなかった経験はこれまでにないと感じているけれど、ときどき本当にそうだろうかと懐疑的になる。この歳になって今さら恨み言のようにこんなことを書き連ねるのも情けないが、大学に入るまでにしていた勉強は外圧に強いられていたものだったような気がする。私立の一貫校に通っていた中高時代は、自分では時期にもよるがそれなりに意欲を持って勉強していたつもりだけれど、成績が落ちて怒られたり習熟度別のクラス分けで最下位になったりすることへの恐怖が強かったような覚えもある。とにかく生徒数に対して教師が少なく、根性論的な詰め込み一辺倒で丁寧な指導などする気のない、ろくでもない方針の高校だった。

 だから浪人することになって駿台に通い始めると、ビジネスとして提供される手厚いサポートがどれほど心強かったか。おかげですさまじい熱意を維持することができ、特に夏からは毎日朝の九時から夜の九時まで勉強していた。もちろん途中に昼食や昼寝や散歩をはさみはしたけれど、それすらすべて勉強のパフォーマンスをあげるためという認識だった。さほどスポーツはやらないし当時はスポーツに熱心な人たちのことを見下していたけれど、それでもときどき信じられないほど勉強に熱中している自分が『黒子のバスケ』だったかなんだったかで知った「ゾーン」という状態にあるように思えた。手厚いサポートはしょせん親が払った授業料の対価だし、そんな社畜みたいなメンタリティーは健全だとは思えないけれど、その甲斐あって憧れの京都大学に合格できたのだから結果よければすべてよしだと考えている。学歴コンプレックスなんて抱えなくて済むなら抱えない方がいいと思う。ちなみに留年に関してはコンプレックスにはならなそうだから幸いだ。

 学歴コンプレックスというものに多少苦しんだことはそれまでに一度あって、それが中学受験のときである。ろくでもない中高一貫校は第二志望で、第一志望には落ちたのだった。今から思えば第一志望の方は修学旅行もないし校舎も狭くて汚いし、何に惹かれたのかわからない。母方の六つ上の従兄が通っていたから、母がそれとなく薦めたのかもしれない。それくらいしか理由が思いつかないが明確に薦められた記憶はないので何とも言えない。第二志望の方は父の母校だがそんなことは関係なくて、登山合宿やらスキー研修やら農村体験旅行やらと毎年宿泊行事があるのが小学生にはとかく魅力的だった。

 第二志望の学校は他にもろくでもない点が山ほどあって、その一つが頭髪に関する規定だった。男子は三ミリ刈り、女子は肩につかない長さ、という文言が今でも一言一句変わらず守られているらしい。ジェンダーフリーの時代にとんでもない話だと思うが、自民党の元幹事長と懇意な寺が経営しているような学校なのだから仕方がない。

 三ミリ刈り規定のせいで私はバイセクシャルを拗らせたのだ。拗らせたというとまるで病気のような口ぶりじゃないかと怒られそうだが、そのように旧弊な環境で育てられていた当時の私は確かにそんな感じ方をしていた。

 中学受験をしていた頃、塾に好きな男の子がいた。好きといっても恋愛感情というほどの認識はなく、ただ仲良くなりたかった。成績順で決まる席がたまたま近くなったときなどはそれなりに会話を交わしたけれど、それがとても嬉しかったのを覚えている。今から思えば立派な恋愛感情だが、当時はまだ小学生にホモセクシャルなんてものを教える時代ではなかった。

 それにしても小学生の男同士の仲というものは基本的には趣味とノリの合う合わないで自然と決まっていくわけで、なぜそうならなかった彼に対して特別そんな感情を抱いていたかというと見た目が好きだったからだ。死んだ魚みたいなガキどもが缶詰めになっている塾というところにあって、彼だけは目や口が大きいおかげで表情が豊かで、肌も周りのモヤシとは違ってほんのり焼けていてつややかだった。よくサッカーのレプリカユニフォームやスポーツブランドのジャージを着ていて、間違いなく学校では一軍的存在なのだろうと察せられた。私は学校では一軍でも二軍でもなく浮いていたが、一軍といわれるような部類の人たちが嫌いなわけではなかった。

 好きだった彼は少し髪が長くて、いつも耳や眉毛が半分隠れるくらいだった。当時はその髪型について何か魅力を感じていたわけではないが、トレードマークとしての認識はあった。だから好きな彼を真似してスポーツブランドのシャツを買ってもらったことはあったが、髪を長くしようと思ったことはなかった。彼は成績が秋ごろから落ち始めたらしく、結局別のクラスに移った。それ以来音信不通だが、風の噂にとある遠くの学校に受かったと聞いている。

 中学二年生になって部活で市総体の開会式に出た。水泳部に所属したもののやる気がなかったので試合には一度も出ないまま退部したのだが、開会式は全部員が出なければいけないということで運動公園にいやいや出向いた。すると会場となっていたスタジアムで、件の彼にそっくりの後ろ姿の、どこぞの学校のサッカー部員がいた。思わずその姿を目で追ったところしばらくして彼が振り向いた。その人は顔が件の初恋の人とはまったく違ったのだが、すっと通った鼻と切れ長の瞳はそれはそれで魅力的で、そのせいでそういう髪型は魅力的な同性のアイコンのように刷り込まれてしまったし、そうなると自分でも真似したくなる。しかし例の校則のせいでそうはいかなかった。おかげでせめてもの目の保養にそういう髪型の同世代を街で見かけたら目で追う癖がついてしまった。異性にそんなことをすることはほとんどなかった。

 今でも異性と付き合うとすれば外見はどうでもいいけれど、同性と付き合うならかっこいい人がいい。あまり男らしい見た目はいやで軟弱そうなマッシュとかがいいのだが、それで眼鏡だと中学受験生みたいだから嫌だ。日焼けはどちらでもいい。

 ただ私が好きになった男性が同性をそういう目で見られる人である可能性はかなり低いので、同性と付き合いたいという欲求はまったくない。世の同性カップルには幸せになってほしいが、自分自身が同性と付き合っても幸せになれると到底思えないのはまさかまだ運命の人に出会えていないからだというわけでもないと思う。ろくでもない学校によって掘り起こされてしまった性的志向なんて認めないで済むなら認めずにいたい。

 あと親の偏見も深刻である。なにせ中学生の私に向かって、我が子がそうとはつゆ知らず、同性愛者がテレビタレントとして成功することがいかに少子化を助長するか説いたような人たちなのだ(それをいうなら自分たちも一人しか子供を産んでいないくせに)。私はその点について自分自身の偏見を棚に上げて、両親とくに教育者としてそれなりの地位にある父を深く軽蔑しているのだが、かといって自分自身の性的志向すら認められないままに他人を説得できるとも思えないので試みる気もない。

 中学受験は表向きその軽蔑すべき父の意向だったのだが、実際のところは妻である私の母の意向を忖度していたのかもしれない。私自身の希望はまったく聞かれることがないまま、気がつけば塾が私の居場所になり成績競争が私の生き甲斐になっていた。お前は手先が不器用だ、運動ができない、などと言われて育ったので勉強だけは胸を張ってできることだという自信があったのだけれど、親は子供にそんなことを言うなら責任を持って子供の運動能力や手先の細やかさを鍛えてやるべきである。

 父は週末など時間のあるときにキャッチボールにつきあってくれたが、私は全然楽しくなかったし父もまったくそうは見えなかった。母に言わせれば口に出さないだけで息子が可愛くて仕方ないのだというが、そうは思えない。父とだけは感情を共有した経験がほとんどないので、根っから他人に関心がない人なのだろうと考えている。とある大学で教員をしているが、あそこまで他人に関心がない教員は少ないのではないか。とはいえ研究バカというわけでもなさそうで、学内の委員やら学会の運営やら雑用を率先してやっているようである。

 大学に入ってから祖母に、家での父の様子を聞かれた。あんたのお父さんは家ではどんな父親なの、ちゃんとマイホームパパをやってるの、というような聞き方だったと思う。その頃にはもうほとんど父とは会話をしなくなっていたので、高校時代までの様子を話した。祖母は温かい家庭の話を期待していたのだろうから悪いことをしてしまったけれど、私としては特に愚痴をこぼしたつもりもなく、何の感情もなく淡々と話したのだった。

 それを聞いた祖母はひとこと、あの子はマイホームパパ的な父親に憧れてるんだろうねえ、と呟いた。どういうことなのか尋ねると、祖母は息子への懺悔のような内容を語った。いわく父の父、つまり私の祖父は昭和の父親らしく、家庭にほとんど関心のない人だったという。だが父が小学生の頃、父一家は五年ほどアメリカに住んでいた。これがいけなかった。当時のアメリカというのは日本人がテレビや映画で見て憧れるマイホーム文化の国である。周囲の温かな家庭を見て父は疎外感を覚えて、それを再現しようとしたのではないか、と祖母はいう。それが半ば義務的なキャッチボールだったり、後述する深夜までの勉強の監督だったりである。素敵なマイホームパパになりたいけれど、自分がそのような家庭に育っていないので結局うまくいかなかったのではないか、というわけだ。

 その時は父も大変なんだな、としんみりしたけれど後からゾッとした。その理屈でいくと私だってうまくいかないかもしれない。マイホームパパになりたいとは思わないけれど、子育てという連鎖において与えられなかったものを与えることが叶わないのであれば、私もまた楽しくキャッチボールしたり感情を共有したり、子の特殊なアイデンティティーを認めてやったりできないということになる。

 深夜までの勉強の監督というのは中学受験のときの話だ。塾が終わって父の車で家に帰り着くのは十時過ぎ、それから夜食を取ったり風呂に入ったりしていると十一時を回る。そこから宿題タイムがはじまる。

 父は毎晩私の隣に座って、模範解答を見ながらちくいち指導してくれた。指導は深夜の二時まで続いた。私の物分りがあまりにわからないと怒り、ときには机を叩いて怒鳴りさえする。私が生まれる前から十四年間飼っていた猫が死んだ晩ですら指導はしっかり二時過ぎまで続いた。私は勉強しながら泣いていたし、それ以上に母の嘆きようが尋常ではなかった。その晩母は私を部屋で一人で寝かせず、自分の布団に入るよう促し、寄り添って寝てくれた。父はよくいうと気丈に振る舞った。通り一遍の悲しみしか見せなかったともいえる。後日動物霊園で猫の位牌をもらってきたが、それに神妙な面持ちで手を合わせている父の後ろ姿だけは一度遠巻きに目にした。少なくとも私にはそんなものは猫の身代わりだとは思えなかったし、父は別に熱心な仏教徒というわけでもない。なにせ墓参りにすら寺に呼ばれてしぶしぶ腰を上げるような家庭だ。

 そんな父でも二年後に祖父が亡くなった時だけはほんの少し目が赤くなっていた。私は祖父にずいぶん可愛がってもらったけれど、亡くなる間際に大量の蔵書を譲り受けることを約束したので、それが心残りを断ち切る役目を果たした。だから涙は出てこなかった。読書は祖父の唯一の趣味だったが、祖父の子と孫のうち好き好んで本を読むのは私だけなのだ。

 母は本の虫で気難しい義父を生前悪く言うことが多かったが、それでも納骨のときには人並みに涙ぐんでいた。それが真っ当な人情というものである。

 大学受験に備えて文理を決める時、私は文系がよかったのだが、父は理系にせよと強硬に主張した。理由はもっぱら二つ、理系的思考は役に立つ、と、お前は昔から理系の思考回路を持っているように見える、というものだけだった。それから文系とされるあらゆる分野、職種を腐してみせた。それは私もそのような進路を選んだら軽蔑されるようになるということを意味する。理系の方がいいという主張自体には母も同調したし、学校の進路指導も当てにはならなかったので、結局私が折れるしかなかった。私は小学生のころから社会と国語が得意で好きで、算数、数学と理科はいつも苦手でさほど興味もなかった。そんなことは真っ当な親ならわかりそうなものである。まして息子が小学六年生の一年間、毎日深夜二時まで勉強の面倒を見ていたのだったら(もっとも真っ当な親であればそんなことはしないだろうが)。これは父親にして、しかも教育大学の教員である人間が犯してよい過ちではない。

 医者の娘である母は明らかに私に医学部進学を薦めたいようだったが、それは頑なに拒んだ。成績的には地方の医学部なら狙えなくはなかったし、興味もないではなかったが、私はどういうわけか昔からリンパの話がとても苦手なのだ。血液ではそんなことはないのだが、リンパと聞くとがん細胞やウイルスや炎症物質がリンパ液に乗って全身に拡散していく様子を想像してしまって鳥肌が立つ。

 父は母の願いを叶えることで優しいダーリンになりたかったのかもしれないと思う。あるいは無意識のうちに自分と同じ人生を歩ませることで自分が果たせなかった何かを果たさせたかったのかもしれない。わからない。両親は理系を選択するよう強要したことをまったく覚えていない。ただ、父は私の教科の好みについてはまったく正しく認識していなかった。やはり生身の人間には興味がないらしい。にも関わらず血の通った家庭には憧れているのでおかしくなる。

 私はなんとか京大に合格したが、もちろん専攻内容には関心が持てず、上述のような経緯を意識してからは反発すら覚えるようになり、簡単に言ってしまえば遅い反抗期のような心理になっている。これはどうやらたちが悪いようだ。引きこもりだって一部の精神疾患だって引き金は遅れてやってきた反抗期だという場合が少なくないらしい。そろそろ白髪やら体調不良やら老いが目立つようになってきた両親に今さら反抗したくなんてない。だいいち人の心を解さない相手にぶつかってみたところでますますこちらが傷つくだけだ。

 マルトリートメントなる概念を引っ張ってくれば、この話はすべて祖父の代からの連鎖ということになるのかもしれない。だとすると父を責めるのは酷なのだろう。けれど私は祖父と父との本当の関係を知らないし、私が聞けるような話でもない。たとえ祖父が悪辣非道な父親だったのだとしても、その責任を私がかぶらなければならないいわれはない。けれどそんなことを今さら言ってみても祖父は墓石の下だし私はもう大人になってしまったしもうどうしようもない。

 深夜二時までの勉強について最後に言い添えておくが、私が受験勉強をはじめるまでの父はむしろ子供を早く寝かせたがる人だった。というか、私が布団に入っても寝付けないでいるとすぐに怒鳴りはじめる人だった。怒鳴られて寝られる人間がいるはずはない。時には蹴られたり、布団の中で起きていたのと同じ時間だけ正座させられたりもした。道徳観念や美的感覚などならまだしも、子供の生理現象にそこまで執着する親は珍しいのではないか。私がとてもおとなしい子供だったことも関係しているのだろうが、倫理的なことについて叱られた記憶はむしろ少ないくらいだ。

 中学受験できるくらい経済的にも文化的にも恵まれた家庭に生まれたのでなかなか言い出しにくいのだけれど、それはそうとしてこういう呪いは存在するのだ。真っ当な家庭を築くことができればこの呪いは解けるのだろうが、こういう発想自体がそもそも父を縛っていた呪いと地続きなのかもしれない。だとするならもうどうしようもない。