※この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2024の15日目(雪原まりも)の記事です。
『サークルクラッシュ同好会同窓会誌』に寄稿した『STAP細胞の10年』の紹介を目的としています。
STAP細胞発表から10年の節目の年、私は秋の深まる京都大学吉田南キャンパスにたたずむプレハブ小屋を訪ねました。そこはかつて、新進気鋭の科学哲学者、今鵺漢人の研究室でした。純粋理性の批判から出発し、論理実証主義を経由してパラダイム理論の先導者を自認していた今鵺は、2014年の全てをSTAP細胞の研究を研究することに費やした後、ぱたりと表舞台から姿を消しました。
今鵺はすでにプレハブ小屋を使用する権利を失っていたため、私たちは隣の食堂でひっそりと落ち合うことになりました。無機質なプラスチックの湯飲みでお茶を啜ると、今鵺はしばし視線を泳がせ、それから訥々と語り始めました。
STAP細胞について、およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。言い表しうることはすべて明晰に言い表しうる。私はすでにそれを二つの論文「科学者の夢」と「STAP細胞の形成」において余すところなく示した。それゆえ私は、STAP細胞の問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。
私は、STAP現象を提案した論文に何が書いてあるのかをきちんと理解している人は、おそらく私以外に誰もいないだろうと思っている。私以外の全員が、STAP論文に研究不正の証拠を見つけることに必死で、そもそもこの論文が何を主張しているのかを理解しようとしなかったことは、驚くべきことであり、また残念なことでもある。
私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にSTAP研究の「研究不正」そのものがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。STAP細胞の諸問題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。
往時のウィーン学派を思わせる重々しい語り口には、科学哲学者の面目躍如といった趣があります。それにしても、10年は決して短い年月ではありません。今鵺はその間、ときおり蒸し返されるSTAP談義をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。超然として、無駄なおしゃべりを飽きもせず繰り返していると思っていたのでしょうか。
私がそう尋ねると、今鵺は不意に柔和な笑みを見せ、そう傲慢な考えに取りつかれていたらとっくに憤死しているとうそぶきました。そこには生真面目な青年から一皮むけた、心理的余裕が感じ取れました。
研究不正をいちいち嘆いても仕方ない。何が不正行為かを定め、その行為を検出し摘発するシステムが、適切に機能しているかどうかの方がよほど重要だ。結局のところ、科学を支えているのは質の悪い研究を淘汰する仕組みだ。その前提となっているのは、主要な科学的探究が前進性を持っていること、データや主張の質を落として見かけだけを整えるような後退的な研究は見放される環境が維持されていることだ。研究者の地位や名声を保証するクレジットシステムが脅かされていれば、そのような科学者共同体が信頼を維持していくのは難しい。その一方、クレジットシステムの裏をかこうと思えないほど競争も報酬もない研究環境で、前進性のあるテーマを実現することも期待できない。要するに、研究不正は定期的に発生するものをきちんと取り締まり排除できているくらいがちょうどよい。
オリンピックのドーピング問題と比較してみよう。ドーピングをしてでもメダルを取りたいと思うほど激しい競争が維持できているから、その取り締まりに意味がある。ドーピングをしようと思わないほど、金メダルに権威も信用もなく、スポーツに社会が興味を示さず、予算もつかない次世代も育たないとなったらそれこそ残念なことだ。
この言葉は少々残念でした。そこには、STAP事件を大真面目に議論していた若き今鵺の姿はなく、すすけた中年の達観が覗いていました。正直、こんな言葉を聞くために京都に来たわけではないという気持ちがしました。それでは、STAP事件は今や三面記事のスクラップに過ぎない、改めて言挙げする価値はないということでしょうか?
ここからが重要なことだが、STAP事件における小保方個人の研究不正問題はあくまで補足的なエピソードだ。STAP細胞説がどのように提案され、そこに理研の組織力が動員され、最終的に破産していったのか、その背景に再生医療研究がどれほど加熱し大量の予算と人員が投下されていたのか、これを理解することが大前提だ。
「STAP事件の本質は研究不正ではない」、これこそ私が今鵺に聞きたかったことです。2014年当時、今鵺はバッシングの矢面に立つ小保方を、渾身の筆力を振って全面的に擁護したのでした。いまでもその主張は変わらないのだろうか、10年の月日を超えて、小保方は「無罪」であるという言葉をもう一度聞いてみたい。
ミシュレはこう書いている。「力強く活力のある宗教は、巫女とともに始まり、魔女とともに終わる」と。STAP事件は、小保方を巫女として祭り上げることで始まり、魔女として貶めることで終わった。私は科学という集団的な狂気を解体し、小保方を一人の人間として擁護することで、ヒューマニズムの立場から科学中心主義と決別することを望んだ。
しかし、私はこうも主張した。STAP細胞説は科学的に正しく決着している。一点の曇りなく、一切の研究不正と関係なく、科学的に正当だが前進の見込みのない学説として決着している。これを見て取った暁には、STAP細胞に横たわると思われたあらゆる問題が影も形もなく消え去ることになる。STAP現象の探求は小保方の個人的な自己欺瞞行為とは全く別のダイナミズムによって動いていたのだ。
私は、検証実験に参加した小保方と丹羽に、今でも惜しみのない最大の賛辞を贈る。彼らの実験は、科学に対峙する一人の人間のとった規範的な行為として、いつまでも参照され続けるだろう。
その主張をもう一度世に問うつもりはありませんか? STAPの呪縛にとらわれたすべての人を解放する、ガイウスの槍をもう一度手に取って頂けませんか? イタすぎる発言に今鵺はドン引きしていましたが、私は無事インタビューの約束を取り付けることに成功しました。私が行ったイタビューの全文は、『サークルクラッシュ同好会同窓会誌』に掲載の『STAP細胞の10年』で読むことができます。ぜひお買い求めください。