人に愛され、旅を愛する

 この記事は、サークルクラッシュ同好会・アドベントカレンダー10日目の記事です。

adventar.org

 

こんにちは。finaです。4日目に世紀に残る駄文を投稿し各方面から大顰蹙を買いました。しかし懲りずにもう一本記事を書いています。先日はこじらせたことを書いてはみましたが、私にも純粋な一面はあります。

それは旅行が好きであり、また熱心な鉄道ファンであるということです。かつてサークラに熱心な鉄道ファンがいたかはわかりませんが、過去数年の新歓ブログリレーやアドベントカレンダーを見る限りコテコテの鉄道ファンが書いたと思わしき記事はあまり目にしませんでした。なら私が書いてやろうじゃないかということで、旅をサークラっぽいテーマに絡めて書いてみたいと思います。

 

これは私が中学3年の春に体験した、出会いと別れの記録です。

 

三江線を目指す

広島県の三次という街と島根県の江津という街を結ぶ、三江線という路線がかつてありました。残念ながら利用者減少などを理由に2018年3月をもって廃止になってしまいましたが、車窓からは雄大江の川という綺麗な河川を望め、多くの鉄道ファンから愛された路線でした。

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三江線口羽駅。上下線の列車がすれ違います。

三江線が廃止される1年前に、私は乗車することが叶ったのです。中学3年の春でした。卒業式を終え、高校進学を直前に控えた私は中学最後の思い出を作ろうと三江線乗車を計画します。既にこのときに三江線の廃止は決定しており、廃線へのカウントダウンは開始されていました。

 廃止の寸前となると多くの鉄道ファンが大挙します。ときにそれは地獄の様相を呈し、「葬式鉄」などといって物議を醸すのです。なのでできるだけ早いうちに乗っておきたい。そう考えた私は中学生ながら、2泊3日一人旅という小さな冒険を企画、敢行したのでした。

 

早朝の出発 

3月27日。三江線の始発は5時38分に三次駅を出ます。早い。早すぎる。十万石まんじゅうもびっくりです。4時半くらいに目覚ましをセットしていたので乗り遅れることはありませんでしたが、眠いったらありゃしない。

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ブレブレ…三次駅の発車時刻標です。

発車10分前程にホームに到着すると、列車は既に入線していました。列車は1両編成で、客室の半分はロングシート、もう半分がボックスシートです。せっかくの車窓を楽しみたいところですが、ロングシートでは窓に背中を向けてしまうため眺望が期待できません。なので狙うはボックスです。空いているかなあ…期待と不安で車内に足を踏み入れると…

なんと、4つあるボックスには全て先客がいました。ガーン!だけどロングシートにもそれなりに人は座っています。混雑率で言うと50%ほどでしょうか。もっと早く駅に着いておけばよかった…

後悔しても仕方ない。車内を見渡すと、4人掛けのボックスに1人しか座っていないところもあります。勇気を出して、相席を申し出ることにしました。

 

「すいません、ご一緒してもいいですか?」

 

これが私の鉄道趣味を決定づける、運命の出会いとなるのです。

 

旅情を噛み締めながら

私が声をかけた相手は、ニコニコとした笑顔が印象的な初老の男性でした。「もちろん」と相席を快諾して頂き、私はボックスにありつくことに成功するのです。

私にとって、ローカル線の乗車は三江線が初めてでした。もちろんボックスで相席の経験などもあまりなく、正直とても緊張していました。「迷惑をかけられないな…」とか、「変な人だったらどうしよう…」とか。心配事を考え始めたらキリがありません。それになんといっても初対面の相手とこれから何時間もずっとお見合い。大丈夫でしょうか。確か江津まで4時間半ほどかけて運転します。

 

そんな不安を抱えたままぎこちなく座っていた私に、初老の男性は優しい声で尋ねてきました。
「どこからいらっしゃったんですか?」
思わずびっくり。しかし無視するわけにもいきませんし、正直に答えます。
「東京です。そちらはどちらからいらしたんですか?」
「名古屋です。この始発に乗るには名古屋からだと当然間に合いませんので、昨晩は三次に前入りしました。」
なるほど、私と同じだ。相手の素性が少しでもわかると安心するものです。
「僕もなんですよ。僕は途中まで香川を家族と旅行していて、途中で抜けてこっちに来ました。」

 

打ち解けるのもあっという間

不思議と私も自分のことを話し始めていました。最初はあんなに緊張していたのに、スラスラと言葉が出てきます。どうやら相手の方は今年定年の60歳の方で、名前は田中さん(ありふれた名前なので公開)というらしい。こちらも素性を次々と明かし、話に花が咲きます。

色々と私のことについて最初は尋ねてくれました。学生なの?と聞かれたので「はい、中3でこの春で高校生です」と答えると大層驚かれました。とても15歳には見えない、落ち着きがあると言って頂き嬉しかったです。何故私が鉄道ファンになったのかや、これまでどんな旅行をしてきたのか等々。色々と根掘り葉掘り聞いていただいたので、こちらとしてもとても話しやすかったです。

 

聞かれっぱなしでは申し訳有りません。私の方から話を振ると、田中さんはなんでも教えてくれました。

なんといっても相手は60歳、国鉄時代を知っています。Wikipediaと個人サイトを巡回し知識だけは齧っていた私でも、実際に見聞きしてきた方の知識には敵いません。まさに百聞は一見にしかずです。

田中さんの話はどれも興味深いものばかりでした。寝台特急全盛期のときの思い出や、雪の中フィルムカメラでSLを撮影したときの話。既に引退してしまったり、廃線になってしまった車や路線の話も色々と教えてくれました。

話を聞いているだけで楽しい。こんな体験は初めてでした。中学の授業は退屈だったし、そもそも不登校なので行っていなかった。ずっとインターネットで知識を漁ることしかできなかった私にとって、田中さんの話はそれほどに大きな衝撃を与えたのです。

 

出雲大社と縁結びの神

「このあとfinaくんはどうするの?」
「決めていません。夜に浜田の宿に着けばいいだけなので。田中さんはどうされるんですか?」
「私も決めていないが、出雲大社に行こうかなと。finaくんもご一緒にどうですか?」
まさか誘っていただけるとは…となれば私も行くしかありません。出雲大社までご一緒することにしました。

道中の田中さんの言葉が思い起こされます。

「私もまさかこんな出会いがあるとは思っていなかった。出雲には縁結びの神様がいるというが、本当にそうなのかもしれない。これも出雲のご縁だ。finaくんと三江線をご一緒できたのは、本当に楽しかった。」

ここまで言ってもらえるととても嬉しいですし、こちらこそです。私もありったけの感謝と出会いへの感動を田中さんに伝え、出雲大社の参拝を済ませました。帰り際は出雲そばも食べました。美味しかったです。

 

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出雲大社でパシャリ

 

出会いが未知への扉を開く

私はこの体験で、旅には無数の出会いがあるということを思い知らされるのです。この世界には自分の知らないことを知った人がいる。様々な人々と出会えるプラットフォームとして旅というのは非常に有用であること。そして思ったよりも旅先で知り合った人相手には好きなことが喋れること。その場限りの人間関係なのですから、余計な気を使う必要はありません。

それに相手も旅行という共通の趣味があるからこそ出会っているのですから、話に花が咲くのは当然です。それに加えて私は鉄道オタク。旅先での出会いは常に私に新鮮な情報を届け、そして新たな世界を教えてくれました。お互い好きなことが言えて、思いっきり笑える。そうした人間関係は決して長い時間をかけないと得られるものとは限らないということに気付かされたのです。

これが一人旅のメリットでしょう。私の学校の周りの友人は殆どが「旅行といえば友達か恋人と」と答えるはず。実際に一人旅をしている友人は数えるほどしかいません。確かに気兼ねない友人と一緒に行く旅行も楽しいですし、そこでしかできない会話もあります。恋人との旅行も同じです。お互いの仲を深めるいいイベント。私は決してそれらを否定しません。

実はそれと同じくらい、一人旅も人と触れ合い話をすることができるのです。「一人旅は寂しくないの?」という疑問に私は胸を張ってNOと言えます。私にとっての旅行の区別は一人か複数人かではない。知人か匿名か、この違いでしかありません。

 

その後高校に進学し鉄道一人旅は更に本格化しますが、様々な人と出会ってきました。極寒の宗谷岬で出会ったライターさんや、草津温泉でバスが通行止めで大幅に遅延し極寒の中一緒にバスを待った大学生グループ…寒い思い出ばかりですね(笑)なかには列車内で知り合った相手で、今でも連絡を取り定期的に旅行に行っている相手もいます。

皆が本当に十人十色、出会ったぶんだけ自分の世界が広がります。私は東京生まれ東京育ちなので東京以外の街を知りません。だからこそ自分の価値観に疑いを持っています。確かに東京は日本一の都市であり人口も多い。だからといって東京の価値観が全て正しいとは限りません。

異郷の地を自らの足で歩き、自らの目で見て確かめる。同時に、その土地の人の話を聞くこと。これを行うことで、私は少しだけですが多角的な視野を手にすることができたと思っています。

私は田中さんとの出会いを経て一人旅をかけがえのない趣味へと昇華させ、高校在学中に日本中を旅する流浪の学生へとなっていきました。

 

一人旅が意味すること

田中さんとの出会いは本当に大きなものをもたらしましたが、もう一つだけ田中さんは私に大切なことを教えてくれました。しかし、それをすぐに理解することはできませんでした。

「私は学生の頃から鉄道趣味に目覚め、気付いたらもう60です。結婚もして子供もいる、幸せなことです。しかし結婚したら家内と子どもたちを養わないといけない。そんな中でも、家内は私がこうして一人旅をすることを許してくれるんです。旦那が一人ででかけて、旅先で何をしているかわからないのは不安だろうに…有り難いことにわがまま趣味を理解してくれる、素晴らしい妻です。」

出雲大社への道中での一言です。田中さんは続けます。

「本当は家内も子どもたちも連れてきたいんだけど、ローカル線に何時間も乗せるのは酷です。だけど本当に、一人で行くことは申し訳ないと感じている。だから必ず毎年家内は旅行に連れて行こうと決めています。本当に私はこの歳になってまで一人旅をさせてくれる家族に感謝しています。」

 

私は恵まれているのか?

この言葉を聞いた直後、私は素敵な夫婦だなという感想しか抱けませんでした。

しかし高校に進学してから気付かされます。同級生の皆は、旅行に行きたくてもそう簡単に行けないのです。普通の家庭はまず高校生が行先も告げず家を10日も留守にすることを許さないでしょう。両親が寛容であるからこそ私の一人旅は実現しているのです。

資金だってそうです。初期はお年玉貯蓄を切り崩し、尽きた頃にはバイト代で賄っていましたが、決しては安いとは言えない金額をお小遣いとして渡してくれるのも両親です。

そもそも私が初めて一人旅をしたのは中3の夏でしたが、この頃はお世辞にも家庭環境が麗しいとは言えませんでした。空中を椅子が乱舞していて、常に喧嘩が耐えず暴力も常でした。荒みきった家庭だったため私は外の世界に救いを見出そうとして、日帰りで関東地方の鉄道をひたすら乗り潰し始めたのです。このプチ家出が私の鉄道趣味のきっかけでした。

その趣味が今では高じて日本中を歩き回っていますが、きっかけは決して明るい理由ではないのです。なので最初の頃は自分の一人旅を「反抗の一環だし、両親は認めて当たり前だ、むしろ他の家庭が厳しすぎる」と思っていました。

しかし高校で彼女が出来て、また多くの友達を話して自分の家庭の寛容さを再認識します。それは即ち、両親あってこその一人旅ということです。

 

少しだけ暗い話

親にされた仕打ちで許せないことは数多くあります。一刻も家の抑圧から逃れようと外出志向になるロジックも正当であると言えます。何度も死ねと言われ包丁を向けられ、お世辞にも親による無謬の愛情を受け取って育ったとは言えない私ですが、旅行に限れば私はよい両親を持ったと言えます。

親の行いが間違っていたからと言って、全てが間違いではない。それに親を全て間違いだと定義してしまえば、その親元で育ってきた私の18年間は全て誤りとなってしまう。今を楽しく過ごせているし、旅先でかけがえのない思いをさせてもらっているのだから、それは紛れもない親の功績です。

決して親を手放しに評価するのではない。寧ろ恨み節のほうが多いです。しかし全て間違っていたわけではないことも事実。これら二つの事象を切り離して考え折り合いをつけた途端、心の底から私が恵まれていることを実感できました。

 

そんな今だからこそ、田中さんの言葉の意味を理解出来た気がするのです。田中さんがどういった意図で言ったのかはわからないので勝手な思い込みに過ぎませんが、親に対してずっと抱いていたわだかまりが徐々に氷解するきっかけにまでなりました。

田中さんがポツリと呟いたこの一言が、今でも忘れられないのです。

 

過去は取り返せないからこそ

思えば私も親には迷惑をかけてきました。思いっきり殴ったし、母親に関してはうつ病になるまで追い込んだ戦犯であることは間違い有りません。反出生主義的立場を取れば子である私に責任はないのでしょうが、もう私も大人ですし若干の罪悪感は感じています。

前回の私の記事中「finaは自虐をしないの?」に記述しましたが、私が初めて指を切ったのは旅行先でした。その旅行は今でも苦い思い出です。ずっと家族で喧嘩をしたまま過ごしたので、以来家族旅行はあまり好きではない、辛い時間でしかありませんでした。

しかし、人は誰しも旅に出たいもの。両親にとっては、家族旅行というのは僅かな時間を捻出して作り出した異郷の地を歩く機会でもあるのです。それに、たとえ結果が最悪に終わってしまおうと企画の段階では両親は私を楽しませようと企画してくれていたはず。

好き勝手旅行ができる身分の私だからこそ、年に数回しかできない家族旅行は自分で企画してみてもいいんじゃないか。どうせ行くんだったら、楽しい思い出にしたほうがいいに決まってる。そう思い始めたのは高3の頃でしょうか。昨年夏はスーパービュー踊り子(2020年3月引退)のグリーン個室を手配し、家族で伊豆旅行を楽しみました。今年はコロナの影響で旅行できませんでしたが…

今では、家族でのイベントはなるべく私から積極的に提案し実施するように心がけています。旅慣れた私だからこそできることでもあります。これが贖罪となり、そして普段一人旅をさせてくれていることへの感謝の代替になるのであれば容易いものです。

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スーパービュー踊り子のグリーン個室、定員は4人で快適に過ごせる

 

別れのとき

蕎麦を食べ終え、私と田中さんはバスで出雲大社から駅前へと戻りました。バス車中で、このあとの予定を立てます。

「このあとはfinaくんはどうするの?」
「もう一回三江線に乗りに行こうかと思います。今から向かっても夕方の列車には間に合う。」
「そうか、私は鳥取方面へ向かう。じゃあ別方面になるね。」
どうやら、ここでお別れのようです。親切な田中さんは、時刻表で江津方面の列車を調べてくれました。するとバスの駅到着から発車まで数分しか時間がないことがわかったのです。

出雲市駅に着いたら走ったほうが良い。乗り換えに1分もないかもしれない。」
かなりカツカツな乗り換え、成功するでしょうか。しかしチンタラ歩いて乗り遅れてはせっかく調べていただいた好意を無下にしてしまう。頑張ってチャレンジしてみることにしました。

 

───終着の出雲市駅前に到着です………

 

バスの運転手が到着を告げます。運賃を精算するや否や、私は改札に向かって駆け出しました。

「ありがとうございました!田中さんもご無事で!」

finaくんもありがとう!頑張ってね!」

一言二言を交わすのが精一杯でした。時間は残酷です。私達に別れの余韻を楽しむ猶予さえ与えてくれませんでした。

 

結果、列車に間に合いました。キハ47系は、ゆっくりと重厚なエンジン音を轟かせながら動き出します。あっという間に私は一人の時間に逆戻りです。どこか寂しさもあり、開放感もあり、そして物悲しさを感じさせながら、ゆっくりとゆっくりと車窓は加速していきました。

田中さんとはそれっきりです。連絡先も交換していないのですから。本当に一期一会の出会いでした。今頃何をされているのでしょうか。見当もつきませんが、確実に言えるのは今も日本中を旅されているはずです。そんな田中さんと私の思い出の痕跡は唯一、出雲大社で並んで撮った写真一枚だけ。しかしその一枚の写真がかけがえのない時間を過ごしたときの記憶を思い起こさせます。

 

私は旅する幸せを噛み締めながら、今日もまた旅路に歩みを進めます。一歩、また一歩。明日はどんな出会いが待っているのでしょうか。