支えとしての正しさとセルフコントロール

はじめに

この記事は、サークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2021の16日目の記事です。

 

京都で永遠に学生をしています、くらげです。

新入生の時に少しだけ活動に参加していました。その後は、卒業 結婚 再入学 離婚という感じで生きています。人生が上手ではありません。

離婚は、自分のなかのウエットでやわらかな部分をもう少し大切にしたいと思い、決めました。情緒は大事。

現在は、対人援助職を目指して2回目の学部生をしています。

 

「自分語り」「わたしにとってのサークラ同好会」がテーマとしてあたえられているので、「自分語り」をメインに、サークルクラッシュ同好会が自分に及ぼした影響についても触れています。

この文章を書くのは大変でした。大学入学以降、140字以上の長文をインターネットに放出していません。なぜ文章を書いて公に発信できないのか、ということにまず向き合う必要がありました。そしてそれがそのまま内容になっています。

 

自分語りは難しい

自分語りはサークルクラッシュ同好会の活動の核にあるけれども、それは私にとって簡単なことではない。自分の話をするのが難しかったので例会にはすぐに参加しなくなってしまった。

適切な自己開示は難しい。社会性をある程度保ったまま、自分のことを深く掘り下げて公開することは非常に難しい。社会性をある程度保ったまま、というのが大変だ。普通の人は自分語りをしないということを理解していたから、普通であるために自分語りをしないという抑制が働いた。もっとも、衝動的に露悪的なツイートをしてしまうことはよくあって、それはコントロール不全とみなしていつも後悔していた。私は、自分の振る舞いをコントロールして、出来る限りの適応をはかりたかったのだ。

 

自分が人にどう思われるかをコントロールしたい。相手が増えれば増えるほど自由度が失われて身動きがとれなくなってしまう。そしてインターネットに何も放出できなくなる。

 

むかし

どうしてそのように感じるようになったのだろうか?大人になろうとする時の普遍的なふるまいではある。自分の振る舞いをコントロールしたいという感覚が生まれたところまで遡ってみたい。

 

まずは自分が自由だった頃を思い出してみたい。中高生の時、メモ帳にHTMLをベタ打ちして自分のホームページを作り、詩を書いて、文章を綴ってブログに載せ、アルフーでリアタイブログをやっていた。とてもなつかしい。ゼロ年代のインターネットにどっぷり浸かっている女子中高生のテンプレだ。この頃の私は本当に自由で、とにかく書くことが楽しくて仕方がなかった。稚拙なものではあったけれども、書いたものとそこで表現された世界を大切に思っていた。そこではある種の自己愛が育まれていた。公開していたとはいえ、限られたアクセスしかなかったのであまり人目を気にすることなく自分の城を築いていた。

 

高校2年の春にTwitterを始めて、情報を持続的に大量に浴びることによって、すこしずつ自分の形と言葉のムードが変わっていった。幻想の世界に生きていたやわらかな自分はあまり目立たなくなり、タイムラインの中で文体が目立たないように適応していった。

いまでこそ、叙情的な雰囲気のアカウントを見つけることができるようになったけれども、当時はインターネットとの親和性が高い人たちがTwitterを利用している時代で、私が主に交流をしていたのは科学をやっているような人たちだったので、タイムラインは比較的カラッとしていた。そこには、客観的な正しさのものさしをあてることができるような、大人の世界があるように感じられていた。

 

理性によって適応してきた

このあたりから、自分の言動を外側から客観的に評価する目がどんどん厳しくなっていった。実家との葛藤が最も深刻だった時期でもあって、足場の脆弱さを補うために、自分を守らなければならなかった。理性によって自分の言動をより社会的で適切なものに変えていこうとする傾向が強まった。それがうまくいかないと世界から完全に見放されてしまうという感覚があった。主観的にはうまくいっていないという感じが強く、しんどかった。

(とはいえ、ふりかえってみると、安定した対人関係を保つことができていて、中高の友人や浪人時代の友人との繋がりは現在までちゃんと続いている。これはある程度、理性による適応の成果であるように思う。良い友人たちに出会うことができたのも幸運だった。)

 

サークルクラッシュ同好会の存在を知って、NFで会誌第1号を手にとってみて、そこで知ることができたサークルクラッシュに関する情報は、自分の言動をより社会的で適応的にするのに役に立ちそうだった。それは当時の言葉で言うと承認欲求の強さに心当たりがあって、人に好意を持たれたら訳がわからなくなるのが目に見えていたからだ。

 

警戒心を強めた私はそれから、徹底的に自他境界にバリアをはり、彼氏がいるアピールをし、異性に隙を見せないようにしていた。恋愛に対して過度に抑制的になってしまっていた。それが良かったのかどうか、いまとなってはわからないけれども、当時はそれが正しい振る舞いだと思っていた。抑制しないで実際に色々と経験しておくべきだったかもしれない。

 

正しさ

この頃、自分が寄りかかっていた正しさ、規範には3種類のものが混ざっていた。

1つ目は、科学的真理のような、学問が追究しているような真理の正しさ。ほんとうのことを知りたい、ほんとうのことに意味があるはずだ、という気持ちがあった。真善美のうち、真を志向する気持ち。これは進路を理学部か哲学科かで迷っていたところにもあらわれている。

2つ目は、適応的であるべきであるという規範。生活のなかで、社会のなかで、うまくやっていくことが大事。精神疾患の知識と発達障害に対する対処を少しだけ知っていたため、その延長で、生活していく上でのさまざまな振る舞いについて、それが正しいもの(=適応的なもの)なのかどうかを常に判断する感覚があった。

3つ目は、道徳的な規範。他者を傷つけるべきではない。恋愛でいうと、思わせぶりな行動はとれないし、浮気や交際期間の被りなんてありえないと思っていた。潔癖だ。これは反出生主義への気持ちや職業選択にも繋がっている。

 

真理は心強くて適応は実用的、他者を傷つけるのは生理的に無理。これら3つが結びついて、私の振る舞いを規定していた。

 

正しさには強さと安心感があって、そこから外れるのは非常にこわい。潔癖さは弱さからきていた。葛藤を抱え込めるだけの余裕と弾力性が私の心にはなかったし、複雑な現実をそのままに受け止められるように心の襞を発達させられていなかった。セロトニンというオブラートで現実を包み込んでしまうことも、私の脳は苦手としていた。

この世界で生きることを支えるために手に入れる必要のある、虚無感に負けないくらい力強い何か。世界に受け入れてもらうために、自分に何か足りていないものを補ってくれる何か。それが、なんとか生きることを支えてきた。

 

これから

そろそろこれらをある程度の手放すべきなのかもしれない。もうこんなに支えがなくても生きていける気がしている。本当はこんな文章、公開したくないけれど、強迫的なセルフコントロールから逃れるための試みのひとつとして、公開してみたい。多少は間違ってもいい。

私はこれから、正しくありたいという欲望を背景とした抑制を少しゆるめて、もっと自然に自分が生き生きとしていられるように、正しさを支えにするのではなくてふわふわ浮力で漂って、いけるところまでいけたらいいと思う。

 

 

さいごに

アドベントカレンダーか〜〜と思って覗いてみたら1日だけ枠が空いていたので勢いで登録してしまいました。しかし1週間では書けなかった……。かなり遅れてしまって、申し訳ありません…。

とても苦労しましたが、書いてよかったです。文章をアウトプットしている人たち、こんな大変なことをずっとやってきているんですね。見習いたいな。

読みにくかったかと思いますが、ここまで読んでくださってありがとうございました!

 

 

 

 

 

恋人の七回忌が終わりました

こんにちは、さら(mira_yume_chan)です。


なんにも書くことが思いつかないので、サークラ会誌に載せようとしてやめにした、2019年11月11日の文章を載せることにします。



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恋人の七回忌が初夏に終わりました。

わたしが初めて「お付き合いをしましょう」という約束を交わした人でした。

恋人とは「結婚したらこんな家に住みたいね」とか「ここはわたしに、ここはあなたに似たら、完璧な子供ができるね」とか、他愛のない話をしていました。なぜかわたしは途中で泣き出してしまって、「そんなことしたら、まるで実現しないみたいじゃない」と言われたこともありました。実現することはなかったのですが。

 

恋人はとてもかわいい人でした。

カフェイン中毒で、一日に十杯くらいコーヒーを飲むんです。喫茶店でも、駅でも、家でも、起きているときは呼吸をするようにブラックのコーヒーを飲んでいました。

そして、とてつもなく本が好きでした。恋人とお付き合いをする前、彼はわたしに「あなたの部屋の本棚の写真を送ってください」と言いました。わたしはそれは「あなたの下着姿の写真を送ってください」と言われるより、よっぽど恥ずかしいことのように感じました。デートなのにハードカバーの本を三冊も鞄に入れていて、わたしを放ったらかして読みふけることもありました。二人で行った三月書房は週休七日、実質閉店してしまったし、アスタルテ書房は店主がお亡くなりになって、代替わりしてしまいましたよ。


プレゼントは、わたしの好みを完全に無視して、自分が欲しいものを押し付けてきました。サラ・ムーンの写真がついた赤ずきんの絵本、紫陽花のドライフラワー石川啄木のカルタを誕生日にもらったときは、さすがに怒ってしまいました。当時のわたしは演劇をしていてとても貧乏で、アルバイト漬けの生活をしていたからです。奨学金を借りて、隙間風のひどいアパートに住み、納豆と豆腐と卵ばかり食べていたわたしにとって、「はたらけど はたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」はあまりにも現実めいた響きでした。そうすると、彼は改めて、チーキーというメーカーのテディベアをくれました。両耳に鈴が入っていて、振るとしゃんしゃんと鳴るのです。調べると二万円以上もして驚きました。確かに精巧な作りをしているのですが、わたしには、ぬいぐるみを集める趣味はありません。


恋人はわたしのことを「かわいい」と言いました。比喩ではなく一日に百回くらい言いました。わたしはそれに辟易して「もっとかわいい人はいる、女優さんの〇〇とか、モデルさんの××とか」と返すと、恋人は間髪入れずに「いや、さらが世界で一番かわいい」と言いました。そのときの恋人の澄み切った目。わたしは本当にうれしかった。今でも昨日のことのように思い出します。

 


「お付き合いしましょう」という契約をしたまま、相手が死んでしまった場合は、一体どうしたらいいのでしょうか。

恋人のお墓は茅ヶ崎の山の上にあります。とてもよく手入れがされていて、行くたびいつも綺麗なお花と缶コーヒーが捧げられています。わたしも死んだらそこに入りたいけれど、ただお付き合いをしていただけなので、不可能です。

お墓参りをするたび、悲しくなって、ここで首を吊ってしまおうかと思います。でも、死んだところで、わたしはこのままでは、瀬戸内海の小島のさらに山の上にある、アクセスが悪すぎて誰も来られないような、荒んだ寺の墓に入ることになっています。嫌すぎる。

帰りしな、名残惜しくて、御影石に刻まれた恋人の名前をなぞります。この世にこれほど甘美な名前はあるでしょうか。しかしその下には享年と戒名。享年とは天から授かった命のことだそうです。わたしは天を憎み、神を恨みます。恋人はとても頭がよかったから、それにちなんだ戒名がつけられています。頭がよくても死んだら終いです。


向こうのお父さんとお母さんには懇ろにしてもらっています。妹さんとは年に何度かお会いして遊びます。この前、彼氏に撮られた自分の寝顔がお兄ちゃんにそっくりだったからと、わたしに写真を送ってくれました。わたしはそれを携帯の待ち受けにしています。わたしはなんとか頼みこんで、恋人の家の養子にしてもらいたいと思っています。でも、さすがに断られるだろうなあ。

毎年、わたしは恋人の命日を恋人の家族と過ごします。こんな女は怖すぎると、自分でもよく承知しています。でも、そうするしかないのです。そうするしか、わたしには術がないのです。

 


なぜ、わたしは恋人より年上になっているのでしょうか。五つも歳が離れていたはずのに。恋人はしょっちゅう頭の悪いわたしを馬鹿にしていました。わたしは恋人の世間知らずっぷりを馬鹿にしていました。でも、それがとても心地よかった。毎年恋人の誕生日をどうお祝いしていいかわりません。おめでとうございます。きっと歳を取らない方がうれしいだろうから、一生、二十六歳のままで止めてあげます。わたしは今年二十八になりました。いつのまにか、わたしの方がおねえさんになってしまいましたね年上の女の人は好きですか?

 

過去にすがるのはよくないと、この世にはもっといい人がいると、さまざまな人は言います。

でも、わたしは恋人のことを好きなわたしのことが好き。あんなにもかわいい人を未だに愛している自分のことが大好き。

わたしは素晴らしい記憶を反芻しながらお化けのように生きて、その効き目がなくなったら、自殺しようと思っています。できるかな。

それまでどうかわたしと恋人がしあわせでありますように。


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わたしはまだ生きていて、彼氏とは三年続いていて、この前は日光に遊びに行きました。

流行病のために恋人のご家族と年に一回会うことはなくなってしまったし、待受は人につっこまれることが多くて、中村明日美子さんのイラストに変えました。

生きているのが裏切りなのかわからない、尼にもなれない、死ぬのはとてもこわい。こんな生活をしていも、だれもわたしを咎めない。わたしを糾弾してくれ!と叫びながら、もう許してほしいと懇願している、だれに? なにを?  それでも、わたしはしたたかに生きているのです。


かわいい動物の赤ちゃん

この記事は、サークルクラッシュ同好会・アドベントカレンダー3日目の記事です。

adventar.org

こんにちは、とうふわかめです(去年は社会的信用がない名義で参加しました)
北海道は昨日から雪景色になりました。最近はMacBook Airを購入したのでスタバでドヤリングするのにはまっています。今回のテーマはちょっとありがちで恐縮ですが「人は見た目が9割」なのか考察します。

 

動物の赤ちゃん、かわいいですよね。くちばしの大きいひな鳥は、親鳥からよりたくさんの餌をもらえるのですくすく成長すると言います。かわいくない動物の赤ちゃんは生存競争に負けて、すでに淘汰されてしまったのかもしれません。

高校1年の時、クラスにひそかに気になっていた同性がいました。特別イケメンではないしトークがうまいわけでもない。でもなんだか気になるし、お近づきになりたい。

このよくわからないけど他者を魅了する力を、ここでは仮に「強いオス」と呼ぶことにする。(筋肉などの物理的な強さではない。過度にイケメンではなく、自分なんかでも親密になれるのでは?という気がするような容姿)

彼と同じ雑誌を買ったり、同じCDを買ってみたりしたものの、それほど仲良くはならなかった。

卒業後、彼に連絡を取って会ったときに、彼はこう言ってた。「なんか知らないけど、人が集まってくる」どうやら彼は大学でも人気者だったらしい。僕は休み時間になったらクラスの友だちの机に行くタイプだが、逆に休み時間になると自分の机に友だちが集まってくる側の人間もいるのだと、そのとき知った。「自分に近づいてくる人間が多くて疲れる」という話を聞き、以後「あそぼ」って言わないようにした。

 

大学のとき同じバイト先にも、いま思えば強いオスがいた。背は低く、ヨレヨレのパーカーを着ていたが、女性を捕まえては「結婚しよう」と言うような軽いやつだった。彼はバイト中に僕に「女性って、性器的に男性を包み込むようにできてるんだな」としみじみと語り出して、同じ歳なのに僕と違って当たり前のように性行為を経験してることに格差を感じた。

 

先日ある人の話を聞いてつらくなった。要約すると≪彼女は前から好意を持っていた男性がいて、仲良くなれると期待して関係を持ったのに、捨てられてしまった。こんな形で処女を失いたくなかった。つらい。でも彼が好き≫というものだ。非モテの僕からすると最後の「でも彼が好き」の部分がとてもキツい。例えば僕だったら付き合って3年ぐらいは肉体関係を持たないと思っている。女性を傷つけるようなことは絶対にしないつもりだ。でも残念ながら僕のような「弱いオス」は最初から女性の眼中にはない。

ここで登場する彼くんは「強いオス」で、それを自覚していることは確かだ。強いオスは彼女だけでなく、たくさんの人を魅了してしまう。経験豊富だから簡単に捨てられるのだ。女性は一夫多妻動物として「強いオス」の精子がほしい本能があるけど、ヒトとしては愛されたいわけで、子孫を残すことは目的ではない。

 

僕は自分で言うけど、見た目偏差値50はあると思う。怖くないし、近寄りがたい容姿ではないのだが、全然他者が近寄ってこない。自分から「あそぼ」って声かけしなければ誘われないし、友だちは徐々にフェイドアウトして減る一方だ。特に異性からはめちゃくちゃ避けられる。いわゆる「生理的に無理」なんだと思う。

だから僕は「人は見た目が9割ではない」説を提唱している。僕は見た目とは別の次元で避けられている。悪いフェロモンが身体から発生しているのだと昔から思ってる。(そういう研究室があったら紹介してください。実験台になります)モテ男からは良いフェロモンが発生しているから、女性は出会った瞬間に惹かれてしまうし、弱いオスはどうやっても太刀打ちできない。

 

カードキャプターさくらでは、小狼くんが雪兎さんに惹かれることを「月の力」と呼んでいた。雪兎さんは「強いオス」と呼ぶには弱々しいキャラだが、他者を惹き付ける原因は性欲なのか。

はにゃーん。

 

自由恋愛社会では上述した「強いオス」に需要が集中してしまうのは避けられない。そしてその結果「つらい思いをする女性」と「弱いオス」は自業自得とか、本当に救いがない。人類は愚か。

僕が弱者男性に「いわゆる婚活やマッチングアプリはやめとけ」と言うのはこれ。婚活に来る女性は「強いオス」にしか興味ありません。だから驚きのリターンゼロ。「やらない後悔よりやって後悔したほうがいい」は業者が言ってるだけ。溺れる者に藁を売りつけるような商法です。

馬子にも衣装と言います。男性は黒髪スーツなら「まとも」に見えるので就活には有利です。でも男性の婚活は「まともさ」ではなく「性的魅力」が必要不可欠。服装や清潔さは関係なくて、フェロモンの発生量で決まります。これは先天的な体質なので努力してもダメ。婚活するなとは言わないけど、課金はやめてください。強いオスの思うつぼです。

 

強いオスではなくて「いい人」が報われる、そんな社会になってほしいものです。

 

 

*「女を殴る男はモテる」説があるけど、フェロモンの強い男は「女を殴ってもモテてしまう」の誤りです。よい子は絶対に真似しないでください。

 

**来週は2年ぶりに京都に行くので楽しみです。みなさんも楽しいホリデーシーズンをお過ごしください。

サークラ合宿2021 in 金沢 振り返り

こんにちは。finaです。

このたび、じつに4年ぶりとなるサークラ合宿が実施され、その企画進行を務めさせて頂きました。早速、振り返っていきたいと思います。

 

企画経緯

2020年12月、私がサークラ会長であるホリィ・センに「合宿はもうやらないのか?」と質問したところ、「企画者がいれば…」ということだったので、なら私が主催しようということで全体LINEグループにて参加者を募集した。結果として合計15名ほどから参加希望があり、最終的には9名が参加した。

 

背景

サークラ合宿は過去2回(2014,2017)実施されていたが、いずれも和歌山県白浜での開催だった。京大の宿泊施設が白浜にあるらしいが、今回もそれを踏襲するか迷っていた。

また、2020年度の新歓はコロナによりオンラインにせざるを得なかったため、今年のサークラには関東の大学生が多く参加していた。

そのため関東勢の参加も見込まれるが白浜は関東からだとやや不便であるということと、前回とは趣向を変えてみようということで、私の独断により金沢行を提案。異論はなく、そのまま金沢に決定。

内訳は、東京発2名・京都発6名・現地参加1名で計9名。

 

往復交通機関について

関西勢は、青春18きっぷを利用した鉄路での移動だった。京都からだと東海道・湖西・北陸本線経由で約4時間半。片道2,410円であり、交通費を非常に安価に抑えることができた。

しかし往路では強風の影響で湖西線が運休になってしまうというアクシデントに見舞われた。関西勢が乗っていた列車は堅田駅で完全にストップし暫く湖西線は動く見込みはなかったが、同駅から琵琶湖の対岸に渡るバスがあったため迂回に成功した。しかしながら北陸方面への列車は大幅に遅延しており、結果として4時間遅れての到着となってしまった。

一方関東勢は東京駅から新幹線で向かった。JR東日本のインターネット予約サイト「えきねっと」のキャンペーン(お先にトクだ値)により、通常料金の50%OFFで利用できた。18きっぷに比べると高いが、新幹線で半額なら十分だろう。

なお、筆者である私finaは関東勢の一員だったが、帰りの新幹線に乗り遅れたことにより別途自由席特急券の購入を余儀なくされた。

 

行程

1日目

関西勢は9時半頃京都駅集合。9時45分頃の新快速に乗車したが、先述の遅延により金沢到着は19時頃となる。関東勢は先に到着していたため、車を借りて飲み物や食事のテイクアウトの用意をした。

20時より全員が対面し、ようやく食事にありつくことができた。

2日目

3班に分かれての班行動とした。金沢近郊在住の会員のマイカーで雨晴海岸などに行った班、レンタカーを借りて能登半島に行った班、レンタサイクルで市内観光をした班に分散した。

私は市内観光班の引率を担当した。11時に出発し、21世紀美術館→近江町市場で昼食→兼六園→ひがし茶屋街の順に巡って18時半過ぎに宿に戻った。

3日目

基本的に自由行動とした。一人で市内観光をする者、複数人で加賀温泉に行った者などいたようである。ちなみに私は鉄道オタクであるため一人で七尾線乗り鉄した。

関西組は加賀温泉の廃墟を散策したようである。私はナナォ・センを優先したため参加しそびれたが、あとで参加した人に話を聞く限り非常に楽しかったようだ。

関西組の京都到着時刻は22時頃だった。解散をもって合宿終了。

 

宿

「ケイズハウス金沢」という宿を利用した。主に外国人の方が利用されるゲストハウスで、1Fが共用ラウンジ・共用キッチン、2Fが個室とカプセル型ドミトリー、3Fが個室、そして4Fが貸切の特別室という構造だった。

本来は特別室を利用する予定だったが、9名ではやや手狭ではないかと懸念していたところ、宿のスタッフの方より「コロナのため、本来なら共用である1F,2Fを完全に貸し切りで利用できるプランを作った」との提案を受けたので、そちらに変更した。

キッチンはとても広く、食器や調味料も完備されていた。予め冷蔵庫には自由に使える食材もあり、かち割り氷があったのは嬉しかった。インスタントコーヒーや紅茶なども常備されており、各々が自由にキッチンを使うことができた。

ラウンジは共用を想定されているだけあってとても広々と使え、10人が座れる長テーブルがあり食事・ボードゲーム大会も大いに盛り上がった。ソファ・テーブルもあり、各々くつろいでいた。

寝床もカプセルホテルのようなドミトリーだった。特別室は11畳間・12畳間の2部屋に加えミニダイニングキッチンと水回りといった構造なので、こちらを使っていたら和室で雑魚寝となっていたであろうことを考えると、かなり快眠に貢献したのではないだろうか。

その他、とてもきれいな設備で快適性も高く、参加者からも好評だった。ケイズハウス金沢様、お世話になりました。ありがとうございました。

 

食事

1日目は宿にて全員が顔を合わせることができたため、アイスブレイクも兼ね寿司とおでんをテイクアウトしリビングで食事をした。

寿司は9人前をテイクアウト。特上にぎり5人前(10種類5貫)と上にぎりを4人前(10種類4貫)というチョイスだった。9名全員が同じネタを食べることができないわけだが、それを逆手に取って「寿司争奪戦ドラフト会議」が突如開始され盛況だった。

2日目の夜は自炊に挑戦。参加者のひとりが「なぜカレーにはにんじんタマネギじゃがいもが当たり前のように存在するのか」という問いを発し、「脱構築カレー」を作ることとなった。

具材はタマネギ・しょうが・にんにく・カシューナッツ芽キャベツ・舞茸にもも肉とささみという前衛的な脱構築カレーを目指すも、「やっぱりタマネギにんじんジャガイモで新古典主義カレーを作るべきだった」などの声も聞かれた。紆余曲折を経たが、結果としては無事美味しい仕上がりとなった。

また、ナン作りにも挑戦した。これも初めての試みだったが、とても上手に作れた。

その他の昼食などは、後述する出先で各自が好きなものを食べた。みなゴーゴーカレーや海鮮などご当地グルメに舌鼓を打っていたことだろう。

 

 

よかった点・参考にすべき点

  • 18きっぷは運休遅延時の補填がなされなかったり、割引された新幹線は乗り遅れ時等の補填がなされない。今回は、関西勢引率者が交通機関に長けた者であったため、立ち往生し到達できないという事態は避けられた。

  • 宿は前回もAirbnbで探したようだが、今回もAirbnbで探した(予約は電話だった)。民泊系で、ラウンジが使え自炊ができる設備が整っている宿はシェアハウスっぽさがあって盛り上がる。今回の宿も非常に快適で素晴らしかった。

  • 例によって夜ふかしをする参加者が多く、午前3時くらいまでラウンジは賑わっていた。起こす必要のある参加者などもいたが、それでも若干の寝坊が発生した程度で行程に支障が生じるといった事態は発生しなかった。

  • 3日間ずっと大勢で動くのは厳しいと考え、また連泊であるため2日目は丸一日使えるという点から班分けを実施。2日目は日中の時間全てを観光に割いた。各班充実した観光ができたようである。
  • 意外とベタな観光地を巡るのも楽しめる。サークラ合宿の趣旨として、こじらせた大学生たちが集まって「ザ 普通の旅行」をして楽しもうということが挙げられるので、「合宿」と謳っているものの普通の旅行感覚で臨んだほうが楽しめるのかもしれない。
  • 一方で、廃墟巡りも非常に好評だった。ベタサークルとしての側面とは逆に「廃墟なんてサークラの皆とじゃないとまず行かないだろう」という感想も聞かれた。一理あるというか非常に言い得て妙で、サークラらしさも存分に発揮できた行程と言えるのではないだろうか。
  •  運転要員は貴重だった。1日目の食事のテイクアウトと2日目の加賀・富山班でレンタカーが発生した。車があると利便性が格段に向上する。今回運転を行ったのは3名で、かなり充実した行程を組めた。
  • 市内観光ではレンタサイクルが好評だった。宿のレンタサイクルを1日800円で利用したが、バスの1日乗車券(600円)と比べても遜色なく、好きなように移動できるため便利だった。自転車旅も悪くはない。
  • 今年一年コロナ禍での活動だったため、過半数が初対面同士だった。関東勢と関西勢が初顔合わせをしたのは一日目の夕食時だったが、これをアイスブレイクとした。一通り全員が形式張った自己紹介を行ったが、その後は打ち解けるのも容易で話に花が咲いた。

私見

今年一年間はずっとオンラインでの活動でした。サークラにとってはこれが久々の対面イベントとなり、参加者層も前回とは異なり殆どがサークラ対面イベント初参加でした。実質オフ会のようなものです。

そのため皆さんが「馴染めるかな」と不安に思っていたことでしょうし、私もどんな空気感になるのか非常に心配でした。しかしその心配が嘘であるかのように、話は盛り上がり皆仲良く談笑していて、私も非常に楽しかったです。やはり対面で話す機会は大切だなと実感させられました。

サークラに参加し始めて1年も満たないうちにこのような大規模企画の主催を担当させて頂きましたが、最初は「こんな新参者が旅行をするって言っても誰も参加者は集まらないだろうな…」と思っていました。しかし想像を超える数の方々に参加希望のメッセージを頂き、楽しい合宿とすることができました。

参加して下さった皆さん、本当にありがとうございました。また関西の引率を務めて下さったHさん、食事や会計等を手伝って下さったPさんにも、この場を借りて御礼申し上げます。

 

コロナということもあり、今回参加を希望したものの残念ながら参加できなかった方は、ぜひ次の企画が立ち上がった際には参加して下さい。またこの記事を読んで参加してみたいなと思ったあなた。待ってます。

次回は私が主催できるかはわかりませんが、定期的にこうした合宿イベントが今後も開催されていけばよいなと思います。

 

前回のまとめ

サークラ合宿2017@白浜 総括 - サークルクラッシュ同好会ブログ

 

死にたいということについての自分語り

 

注1:精神的に不安定な方は読まないほうがいいかもしれません。
注2:なにかしらの記憶違いが存在する可能性や、将来私が全然違うことを言っている可能性があります。

 

これはサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2020の21日目の記事です。(遅れてごめんなさい!)

adventar.org

 

この記事では死にたいということについて書いていこうと思います。
それほど暗い記事ではありませんが、なんかよくない感じだなと思ったらブラウザバックをお願いします。

 


はじまり:中学2年生ごろ

小学生の頃、自分が死についてどう思っていたのかはあまり記憶がない。
死にたいと思い始めたのはだいたい中学2年か3年ぐらいの頃だったと思う。中学2年の秋から、ガラケー(そう、当時はガラケーだった...)の未送信メールを日記帳にしていた。この日記の中に死にたいという記述があったことは覚えているのだが、それがどのような死にたさだったのかはよく覚えていない。ガラケーの電源を入れて見てみればいいのだが...。

 

転機:高校生

高校1年生の頃、生理不順で病院に連行され、薬を飲まされた。この薬が合わなかったらしく、母に「死にたい」と言っていたそうだ。自分ではこのときの記憶がない。(正確には、洗面所でドライヤーを見ながら喋っていたことと、母の反応がなんか微妙だったことだけを覚えている。)今思うと、母に死にたいと漏らすなど、大胆なことをしたものだなあと思うが、悩んだ末にこっそり打ち明けた、という訳ではない。当時の私にとっては自分が死んだ方がいいのは当然のことであり、そのことを淡々と述べたのに過ぎなかったのだと思う。医学的に根拠のある話ではないが、私はあのとき薬を飲まされたところから「死にたい」ということの輪郭がわかるようになってしまったような気がしている。


高校生の頃は、死にたいということ以外にも、感情がコントロールしきれずブチ切れることもよくあった。血の気が多かったから、鬱々とした死にたさではなく、「ああもう、わたしが死ねば全部解決するんだ、そうでしょう!」という、手段としての死にたさ、積極的な死にたさを感じることが多かった。自分が「死ぬ」ということに納得がいってしまったら速攻死んでしまうのでは?というコントロールできない恐れのようなものがあったし、どうしようもなく感情が理性を飛び越えてしまうような危機感を感じていた。

 

死ぬ死ぬ詐欺の話:1回生の頃


大学生になって一人暮らしを始めると、ほんとうに自分が突然死んでもだれも気がつかない状況になってしまった。その他いろいろ限界だったこともあり、この頃、地元の仲の良かった友人に月1ぐらいで死にたいという旨のLINEを送っていた。(私は高校生ぐらいの頃から彼女に死にたいと漏らしていたように記憶していたが、LINEの履歴を確認したところその形跡はなかった。人間の記憶は曖昧だ。)


死にたいと言うことは、相手に心理的負担を強いてしまう場合がある。距離が離れているなら尚更だ。だから、死にたいというときには、「あなたが死んだら寂しいよ」と返してね、とお願いをした。そして、勝手に黙って死なないこと、もし死ぬことを決めたなら、死ぬ前に必ず会いに行くことを約束した。
死なないという条件の元で死にたいと言うことを、私は「死ぬ死ぬ詐欺」と呼んでいる。死ぬ死ぬ詐欺をやっている限り、私は相手に心理的負担を強いているかもしれないと気に病まなくていいし、相手も真剣に返答しなければいけないというプレッシャーを感じなくていいよ、という仕組みだ。


「黙って死なない」というルールを既成事実にしておくことで、死ぬということが自分の中で正解になってしまったとしても、速攻死ぬということはないなと思えるようになった。当時のLINEを見返すと、死にたいということと一緒に日頃の悩みも聞いてもらっていて、そんな私の相手をしてくれた彼女には頭が上がらない。ほんとにありがとう。


歳をとればなおります?:2回生〜現在


2回生ぐらいになると、切羽詰まった死にたさを感じること自体がそもそも少なくなっていた。死にたいということにかかわらず、感情と行動が昔よりも切り離されている感じを覚えるようにもなった。腹が立っても物に当たらなくなったけれど、いい音楽を聴いて急に動き出してしまうこともなくなった。高校生の頃、「歳をとればなおります」という発言に怒りを覚えていたけれど、たしかに「歳をとればなおる」ものだったのかもしれない。(いまだに感情が暴走しがちなのは否めないので、わからないが。)


しかし、この頃から、鬱々とした死にたさに苛まれるようになった。自分は生きている価値がないとか、人に会ってもうまく話せないだろう、とか、そのような類のもの。文章がうまくまとまらず、大学の課題に余分に時間がかかったり、家事をしている途中にフリーズしてしまったり、まあそんな感じになってしまうことがときどきある。


鬱々とした死にたさの傾向と対策


こういう死にたさともしばらく付き合っていて、わかってきたことがいくつかある。
一つ目は、忙しさが一定量に達すると発生しやすいこと。自分のペース的には、週に一度は家に引きこもれる日を作るといいが、人間そうもいかず、ついつい予定を入れ、予定がふと途切れると家から出られなくなるのがオチだった。
二つ目は、だいたい月1で小さいものが、3ヶ月か半年に1回ぐらいひどいものが訪れるということ。忙しさ要因とも絡むので、必ず、というわけではないが、Twitterを見返すと周期的に同じようなツイートをしていることに気づいて笑ってしまった。
パターンがあることがわかると、「今だけだから」と考える余地が生まれてきた。そう思ったってしんどさは別に変わらない。でも、「きっと今だけだから、この課題は来週やろう」とか「きっと今だけだから、うまくできなくても仕方ない」など、休息を取ることやうまくいかないことに納得できるようになったことはよかったと思う。


三つ目は、普段気にならないようなことまで気になって仕方がなくなってしまっていること。もともと心配性な性格だけれど、いつも以上に神経質になっている。具体的には潔癖になってしまって手を洗いまくったり、ご飯を食べたら食中毒になるのではないかと過剰に心配したりしている。その他、注意力が散漫になり時間感覚が曖昧になることも重なって、家事をしている間に頻繁に手が止まってしまう。これにはあまり有効な対策を今のところ見つけられていない。まあ仕方ないなと諦めている。


「死にたい」という言葉の裏にあるもの


ここまで散々死にたい話をしてきたが、まとめると、私は本当に死にたくて死にたいと言っているわけではないのではないかと最近は思うようになっている。死にたいというわりには、死なないための方法をいろいろ考えているような気がするからだ。高校生の頃の死にたさは自分が突然死んでしまうのでは?という恐れを含んでいるし、1回生の頃に友達と死ぬ死ぬ詐欺を始めたのも明らかに死なないための手段だ。最近も、ほんとに死にたいなら潔癖症になんてならずにやばいもの食べて食中毒にでもなればいいと思う。


みんながそうというわけでは当然ないのだが、少なくとも私にとっては死にたさというものはなにかの代理なのだと思う。自己否定とか、不安とか、まあそういういろんなものの。まだその全容をはっきり掴むには至っていないけれど、これからもほどほどに付き合っていくしかないなと今は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

27クラブ

思考が停止してゆきます。

 

昨日27歳の誕生日を迎えました。初めまして、中田瑠美(なかだるみ)です。サークルクラッシュ同好会の方々と比べると多分立派にアラサーなので、高齢な類に入るのではないでしょうか。考え事とか、ひらめきが、どんどんできなくなっていきました。成長のピークは過ぎ、このまま老いていくということをまざまざと実感させられる時期です。今も回らない頭でこれを書いています。

 

誕生日も、正直言って憂鬱でした。ちょうどメンタルクリニックの通院日だったので主治医にその事を話したら、誕生日おめでとう、と言ってくれたのですが、私は空虚でした。たぶん社交辞令です。いや確実に!!

 

27クラブ

27歳、音楽好きな人はピンとくるかもしれませんが、カート・コバーンジミ・ヘンドリックスらが死亡した年齢です。同じ歳になってしまいました。年々朦朧としていく頭の中で、自分が世の中でどれだけ活躍できたか考えてしまいます。誰もが知ってるカート・コバーンジミ・ヘンドリックス、などなど、華々しくなれて早死にできるなんて良いなあ…。

 

私の人生のピークっていつだったでしょう、もうとっくに過ぎたかもしれないし、まだ過ぎてないかもしれません。私がこのまま死んで27クラブに入る権利はあるのかと考えることがあります。追い出されるかもしれません、お前はまだなにも成せていないって。

 

そこそこ絵を描いて生きてきました。絵を描いて成したいこと、ありました。27になってそれがこの先叶うのか、こんな老いていく一方の脳で成し得るのか、不安で不安でなりません。たしかにちょっとアキバblogさんとかに紹介してもらえたこともあるけれど、それも何年も昔の話です。あのころはたくさんひらめきがあった。どんな締切も守れた。あの頃は良かった、あの頃は良かった、あの頃は良かった!! そればかりです。

 

本当にあの頃は良かった?

懐古とか思い出の美化なんて言葉が、この世にはあります。27歳にしてもうそんなことをするようになってしまいました。あの頃は良かった。思考の口癖です。あの頃は良かった。本当に? たまに「あの頃は良かった」とぼやくと、長年の私を知っている人から、

 

「そんなことないよ、君は昔も今も苦しそうにしている。あの頃って時期に戻ってご覧、きっと今より苦しいかもしれない」

 

と言われたことがあります。そうなんでしょうか、あの頃という時期ーー例えば10代の終わりから20代になった頃ーーに戻ったとして、まだまだ先に希望がわずかながらあった頃と、もう数年で30歳という頃になった希望があるかわからない今、本当に同じなんでしょうか。ただの懐古なんでしょうか、美化なんでしょうか、もうわかりません。そもそも私は苦しんでいるのでしょうか?

 

疑問だらけ、されど答えを出す気力もありません。

 

 

 

自分を語るにも言葉を紡ぐのが難しくなってきました。老いでしょうか。とりとめのない文章ですがこれで失礼いたします。よいホリデーシーズンを。さようなら!!

人に愛され、旅を愛する

 この記事は、サークルクラッシュ同好会・アドベントカレンダー10日目の記事です。

adventar.org

 

こんにちは。finaです。4日目に世紀に残る駄文を投稿し各方面から大顰蹙を買いました。しかし懲りずにもう一本記事を書いています。先日はこじらせたことを書いてはみましたが、私にも純粋な一面はあります。

それは旅行が好きであり、また熱心な鉄道ファンであるということです。かつてサークラに熱心な鉄道ファンがいたかはわかりませんが、過去数年の新歓ブログリレーやアドベントカレンダーを見る限りコテコテの鉄道ファンが書いたと思わしき記事はあまり目にしませんでした。なら私が書いてやろうじゃないかということで、旅をサークラっぽいテーマに絡めて書いてみたいと思います。

 

これは私が中学3年の春に体験した、出会いと別れの記録です。

 

三江線を目指す

広島県の三次という街と島根県の江津という街を結ぶ、三江線という路線がかつてありました。残念ながら利用者減少などを理由に2018年3月をもって廃止になってしまいましたが、車窓からは雄大江の川という綺麗な河川を望め、多くの鉄道ファンから愛された路線でした。

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三江線口羽駅。上下線の列車がすれ違います。

三江線が廃止される1年前に、私は乗車することが叶ったのです。中学3年の春でした。卒業式を終え、高校進学を直前に控えた私は中学最後の思い出を作ろうと三江線乗車を計画します。既にこのときに三江線の廃止は決定しており、廃線へのカウントダウンは開始されていました。

 廃止の寸前となると多くの鉄道ファンが大挙します。ときにそれは地獄の様相を呈し、「葬式鉄」などといって物議を醸すのです。なのでできるだけ早いうちに乗っておきたい。そう考えた私は中学生ながら、2泊3日一人旅という小さな冒険を企画、敢行したのでした。

 

早朝の出発 

3月27日。三江線の始発は5時38分に三次駅を出ます。早い。早すぎる。十万石まんじゅうもびっくりです。4時半くらいに目覚ましをセットしていたので乗り遅れることはありませんでしたが、眠いったらありゃしない。

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ブレブレ…三次駅の発車時刻標です。

発車10分前程にホームに到着すると、列車は既に入線していました。列車は1両編成で、客室の半分はロングシート、もう半分がボックスシートです。せっかくの車窓を楽しみたいところですが、ロングシートでは窓に背中を向けてしまうため眺望が期待できません。なので狙うはボックスです。空いているかなあ…期待と不安で車内に足を踏み入れると…

なんと、4つあるボックスには全て先客がいました。ガーン!だけどロングシートにもそれなりに人は座っています。混雑率で言うと50%ほどでしょうか。もっと早く駅に着いておけばよかった…

後悔しても仕方ない。車内を見渡すと、4人掛けのボックスに1人しか座っていないところもあります。勇気を出して、相席を申し出ることにしました。

 

「すいません、ご一緒してもいいですか?」

 

これが私の鉄道趣味を決定づける、運命の出会いとなるのです。

 

旅情を噛み締めながら

私が声をかけた相手は、ニコニコとした笑顔が印象的な初老の男性でした。「もちろん」と相席を快諾して頂き、私はボックスにありつくことに成功するのです。

私にとって、ローカル線の乗車は三江線が初めてでした。もちろんボックスで相席の経験などもあまりなく、正直とても緊張していました。「迷惑をかけられないな…」とか、「変な人だったらどうしよう…」とか。心配事を考え始めたらキリがありません。それになんといっても初対面の相手とこれから何時間もずっとお見合い。大丈夫でしょうか。確か江津まで4時間半ほどかけて運転します。

 

そんな不安を抱えたままぎこちなく座っていた私に、初老の男性は優しい声で尋ねてきました。
「どこからいらっしゃったんですか?」
思わずびっくり。しかし無視するわけにもいきませんし、正直に答えます。
「東京です。そちらはどちらからいらしたんですか?」
「名古屋です。この始発に乗るには名古屋からだと当然間に合いませんので、昨晩は三次に前入りしました。」
なるほど、私と同じだ。相手の素性が少しでもわかると安心するものです。
「僕もなんですよ。僕は途中まで香川を家族と旅行していて、途中で抜けてこっちに来ました。」

 

打ち解けるのもあっという間

不思議と私も自分のことを話し始めていました。最初はあんなに緊張していたのに、スラスラと言葉が出てきます。どうやら相手の方は今年定年の60歳の方で、名前は田中さん(ありふれた名前なので公開)というらしい。こちらも素性を次々と明かし、話に花が咲きます。

色々と私のことについて最初は尋ねてくれました。学生なの?と聞かれたので「はい、中3でこの春で高校生です」と答えると大層驚かれました。とても15歳には見えない、落ち着きがあると言って頂き嬉しかったです。何故私が鉄道ファンになったのかや、これまでどんな旅行をしてきたのか等々。色々と根掘り葉掘り聞いていただいたので、こちらとしてもとても話しやすかったです。

 

聞かれっぱなしでは申し訳有りません。私の方から話を振ると、田中さんはなんでも教えてくれました。

なんといっても相手は60歳、国鉄時代を知っています。Wikipediaと個人サイトを巡回し知識だけは齧っていた私でも、実際に見聞きしてきた方の知識には敵いません。まさに百聞は一見にしかずです。

田中さんの話はどれも興味深いものばかりでした。寝台特急全盛期のときの思い出や、雪の中フィルムカメラでSLを撮影したときの話。既に引退してしまったり、廃線になってしまった車や路線の話も色々と教えてくれました。

話を聞いているだけで楽しい。こんな体験は初めてでした。中学の授業は退屈だったし、そもそも不登校なので行っていなかった。ずっとインターネットで知識を漁ることしかできなかった私にとって、田中さんの話はそれほどに大きな衝撃を与えたのです。

 

出雲大社と縁結びの神

「このあとfinaくんはどうするの?」
「決めていません。夜に浜田の宿に着けばいいだけなので。田中さんはどうされるんですか?」
「私も決めていないが、出雲大社に行こうかなと。finaくんもご一緒にどうですか?」
まさか誘っていただけるとは…となれば私も行くしかありません。出雲大社までご一緒することにしました。

道中の田中さんの言葉が思い起こされます。

「私もまさかこんな出会いがあるとは思っていなかった。出雲には縁結びの神様がいるというが、本当にそうなのかもしれない。これも出雲のご縁だ。finaくんと三江線をご一緒できたのは、本当に楽しかった。」

ここまで言ってもらえるととても嬉しいですし、こちらこそです。私もありったけの感謝と出会いへの感動を田中さんに伝え、出雲大社の参拝を済ませました。帰り際は出雲そばも食べました。美味しかったです。

 

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出雲大社でパシャリ

 

出会いが未知への扉を開く

私はこの体験で、旅には無数の出会いがあるということを思い知らされるのです。この世界には自分の知らないことを知った人がいる。様々な人々と出会えるプラットフォームとして旅というのは非常に有用であること。そして思ったよりも旅先で知り合った人相手には好きなことが喋れること。その場限りの人間関係なのですから、余計な気を使う必要はありません。

それに相手も旅行という共通の趣味があるからこそ出会っているのですから、話に花が咲くのは当然です。それに加えて私は鉄道オタク。旅先での出会いは常に私に新鮮な情報を届け、そして新たな世界を教えてくれました。お互い好きなことが言えて、思いっきり笑える。そうした人間関係は決して長い時間をかけないと得られるものとは限らないということに気付かされたのです。

これが一人旅のメリットでしょう。私の学校の周りの友人は殆どが「旅行といえば友達か恋人と」と答えるはず。実際に一人旅をしている友人は数えるほどしかいません。確かに気兼ねない友人と一緒に行く旅行も楽しいですし、そこでしかできない会話もあります。恋人との旅行も同じです。お互いの仲を深めるいいイベント。私は決してそれらを否定しません。

実はそれと同じくらい、一人旅も人と触れ合い話をすることができるのです。「一人旅は寂しくないの?」という疑問に私は胸を張ってNOと言えます。私にとっての旅行の区別は一人か複数人かではない。知人か匿名か、この違いでしかありません。

 

その後高校に進学し鉄道一人旅は更に本格化しますが、様々な人と出会ってきました。極寒の宗谷岬で出会ったライターさんや、草津温泉でバスが通行止めで大幅に遅延し極寒の中一緒にバスを待った大学生グループ…寒い思い出ばかりですね(笑)なかには列車内で知り合った相手で、今でも連絡を取り定期的に旅行に行っている相手もいます。

皆が本当に十人十色、出会ったぶんだけ自分の世界が広がります。私は東京生まれ東京育ちなので東京以外の街を知りません。だからこそ自分の価値観に疑いを持っています。確かに東京は日本一の都市であり人口も多い。だからといって東京の価値観が全て正しいとは限りません。

異郷の地を自らの足で歩き、自らの目で見て確かめる。同時に、その土地の人の話を聞くこと。これを行うことで、私は少しだけですが多角的な視野を手にすることができたと思っています。

私は田中さんとの出会いを経て一人旅をかけがえのない趣味へと昇華させ、高校在学中に日本中を旅する流浪の学生へとなっていきました。

 

一人旅が意味すること

田中さんとの出会いは本当に大きなものをもたらしましたが、もう一つだけ田中さんは私に大切なことを教えてくれました。しかし、それをすぐに理解することはできませんでした。

「私は学生の頃から鉄道趣味に目覚め、気付いたらもう60です。結婚もして子供もいる、幸せなことです。しかし結婚したら家内と子どもたちを養わないといけない。そんな中でも、家内は私がこうして一人旅をすることを許してくれるんです。旦那が一人ででかけて、旅先で何をしているかわからないのは不安だろうに…有り難いことにわがまま趣味を理解してくれる、素晴らしい妻です。」

出雲大社への道中での一言です。田中さんは続けます。

「本当は家内も子どもたちも連れてきたいんだけど、ローカル線に何時間も乗せるのは酷です。だけど本当に、一人で行くことは申し訳ないと感じている。だから必ず毎年家内は旅行に連れて行こうと決めています。本当に私はこの歳になってまで一人旅をさせてくれる家族に感謝しています。」

 

私は恵まれているのか?

この言葉を聞いた直後、私は素敵な夫婦だなという感想しか抱けませんでした。

しかし高校に進学してから気付かされます。同級生の皆は、旅行に行きたくてもそう簡単に行けないのです。普通の家庭はまず高校生が行先も告げず家を10日も留守にすることを許さないでしょう。両親が寛容であるからこそ私の一人旅は実現しているのです。

資金だってそうです。初期はお年玉貯蓄を切り崩し、尽きた頃にはバイト代で賄っていましたが、決しては安いとは言えない金額をお小遣いとして渡してくれるのも両親です。

そもそも私が初めて一人旅をしたのは中3の夏でしたが、この頃はお世辞にも家庭環境が麗しいとは言えませんでした。空中を椅子が乱舞していて、常に喧嘩が耐えず暴力も常でした。荒みきった家庭だったため私は外の世界に救いを見出そうとして、日帰りで関東地方の鉄道をひたすら乗り潰し始めたのです。このプチ家出が私の鉄道趣味のきっかけでした。

その趣味が今では高じて日本中を歩き回っていますが、きっかけは決して明るい理由ではないのです。なので最初の頃は自分の一人旅を「反抗の一環だし、両親は認めて当たり前だ、むしろ他の家庭が厳しすぎる」と思っていました。

しかし高校で彼女が出来て、また多くの友達を話して自分の家庭の寛容さを再認識します。それは即ち、両親あってこその一人旅ということです。

 

少しだけ暗い話

親にされた仕打ちで許せないことは数多くあります。一刻も家の抑圧から逃れようと外出志向になるロジックも正当であると言えます。何度も死ねと言われ包丁を向けられ、お世辞にも親による無謬の愛情を受け取って育ったとは言えない私ですが、旅行に限れば私はよい両親を持ったと言えます。

親の行いが間違っていたからと言って、全てが間違いではない。それに親を全て間違いだと定義してしまえば、その親元で育ってきた私の18年間は全て誤りとなってしまう。今を楽しく過ごせているし、旅先でかけがえのない思いをさせてもらっているのだから、それは紛れもない親の功績です。

決して親を手放しに評価するのではない。寧ろ恨み節のほうが多いです。しかし全て間違っていたわけではないことも事実。これら二つの事象を切り離して考え折り合いをつけた途端、心の底から私が恵まれていることを実感できました。

 

そんな今だからこそ、田中さんの言葉の意味を理解出来た気がするのです。田中さんがどういった意図で言ったのかはわからないので勝手な思い込みに過ぎませんが、親に対してずっと抱いていたわだかまりが徐々に氷解するきっかけにまでなりました。

田中さんがポツリと呟いたこの一言が、今でも忘れられないのです。

 

過去は取り返せないからこそ

思えば私も親には迷惑をかけてきました。思いっきり殴ったし、母親に関してはうつ病になるまで追い込んだ戦犯であることは間違い有りません。反出生主義的立場を取れば子である私に責任はないのでしょうが、もう私も大人ですし若干の罪悪感は感じています。

前回の私の記事中「finaは自虐をしないの?」に記述しましたが、私が初めて指を切ったのは旅行先でした。その旅行は今でも苦い思い出です。ずっと家族で喧嘩をしたまま過ごしたので、以来家族旅行はあまり好きではない、辛い時間でしかありませんでした。

しかし、人は誰しも旅に出たいもの。両親にとっては、家族旅行というのは僅かな時間を捻出して作り出した異郷の地を歩く機会でもあるのです。それに、たとえ結果が最悪に終わってしまおうと企画の段階では両親は私を楽しませようと企画してくれていたはず。

好き勝手旅行ができる身分の私だからこそ、年に数回しかできない家族旅行は自分で企画してみてもいいんじゃないか。どうせ行くんだったら、楽しい思い出にしたほうがいいに決まってる。そう思い始めたのは高3の頃でしょうか。昨年夏はスーパービュー踊り子(2020年3月引退)のグリーン個室を手配し、家族で伊豆旅行を楽しみました。今年はコロナの影響で旅行できませんでしたが…

今では、家族でのイベントはなるべく私から積極的に提案し実施するように心がけています。旅慣れた私だからこそできることでもあります。これが贖罪となり、そして普段一人旅をさせてくれていることへの感謝の代替になるのであれば容易いものです。

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スーパービュー踊り子のグリーン個室、定員は4人で快適に過ごせる

 

別れのとき

蕎麦を食べ終え、私と田中さんはバスで出雲大社から駅前へと戻りました。バス車中で、このあとの予定を立てます。

「このあとはfinaくんはどうするの?」
「もう一回三江線に乗りに行こうかと思います。今から向かっても夕方の列車には間に合う。」
「そうか、私は鳥取方面へ向かう。じゃあ別方面になるね。」
どうやら、ここでお別れのようです。親切な田中さんは、時刻表で江津方面の列車を調べてくれました。するとバスの駅到着から発車まで数分しか時間がないことがわかったのです。

出雲市駅に着いたら走ったほうが良い。乗り換えに1分もないかもしれない。」
かなりカツカツな乗り換え、成功するでしょうか。しかしチンタラ歩いて乗り遅れてはせっかく調べていただいた好意を無下にしてしまう。頑張ってチャレンジしてみることにしました。

 

───終着の出雲市駅前に到着です………

 

バスの運転手が到着を告げます。運賃を精算するや否や、私は改札に向かって駆け出しました。

「ありがとうございました!田中さんもご無事で!」

finaくんもありがとう!頑張ってね!」

一言二言を交わすのが精一杯でした。時間は残酷です。私達に別れの余韻を楽しむ猶予さえ与えてくれませんでした。

 

結果、列車に間に合いました。キハ47系は、ゆっくりと重厚なエンジン音を轟かせながら動き出します。あっという間に私は一人の時間に逆戻りです。どこか寂しさもあり、開放感もあり、そして物悲しさを感じさせながら、ゆっくりとゆっくりと車窓は加速していきました。

田中さんとはそれっきりです。連絡先も交換していないのですから。本当に一期一会の出会いでした。今頃何をされているのでしょうか。見当もつきませんが、確実に言えるのは今も日本中を旅されているはずです。そんな田中さんと私の思い出の痕跡は唯一、出雲大社で並んで撮った写真一枚だけ。しかしその一枚の写真がかけがえのない時間を過ごしたときの記憶を思い起こさせます。

 

私は旅する幸せを噛み締めながら、今日もまた旅路に歩みを進めます。一歩、また一歩。明日はどんな出会いが待っているのでしょうか。