恋愛工学しましょうか

~きっと何者にもなれないお前たちに告げる恋愛工学~

※アドベンドカレンダー5日目の記事です※

サークルクラッシュ同好会会誌第八号に寄稿した雪原まりもと申します。

「自分語り」がテーマのアドベンドカレンダー企画ですが、いざ記事を書き始めてみるとほとんど自分のことを語ることができませんでした。

ところで、先日の京大NFで頒布された同好会会誌第八号で、私は異世界ホストの小説を書くつもりだったのです。が、結局それはうまくいかず、全然別の小説になっています。ただ、小説を書くために取材した恋愛工学について思うところがあり、結局自分語りとはほとんど関係ない『ぼくは愛を証明しようと思う。』の書評をすることにしてしまいました。露悪的なテーマで自分語りをするのはむつかしいなあ……。

 

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

 

 はじめて『僕は愛を証明しようと思う。』を読みました。多くの批判があるこの本ですが、意外や意外、私は肯定的に受け止めました。これは単なるテクニック本ではなく、「非モテ」(非リア)意識をかなり掘り下げたものではないでしょうか。一見チープな「ラブ」ストーリーの中に、心の襞の克明な描写を垣間見ることができると思います。

ただし、重要なのはこれがあくまで物語であり、作品だということです。『僕は愛を証明しようと思う。』がナンパの技術をいかに実践するか、したか、というテクニックの「古典(カノン)」としても機能していることは重々承知ですが、それがこの物語の専一的な読み方とは限らないと敢えて言います。恋愛工学の方法や思想に否定的な立場からの解釈にも開かれた物語であるということです。

本稿では、恋愛工学そのものの解説や論評はひとまず脇に置いて、この小説で語られる物語に直にメスを入れていくことにします。

 とても長い記事なので簡単に内容を紹介します。各小見出しの内容はほぼ独立してよむことができます。

東京ソープランドは、小説の冒頭の「でっかいソープランドみたいなもんですね」というせりふの意味をつっこんで分析し、なぜナンパのセックスを風俗店のセックスの類比で語るのか考察しています。

わたなべ君に花束をは、この小説が『アルジャーノンに花束を』を下敷きにしていることを確認し、主人公が「信用できない語り手」になっていることを考察しています。

コミュニケーション工学は、恋愛工学のテクニックはナンパだけでなくコミュニケーションに一般に当てはまることを、男同士の会話への適用を通して考察しています。

 RNAワールドからの脱却は、ホストと少し関係のあるテーマです。いわゆるグッピー理論「女は、単に他の女とセックスできている男が好きなのだ」を私なりに分析しなおして提示しています。

東京ソープランド

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「ああ、無料のな」

  冒頭からこの挑発的なせりふ。もちろんそのまま受け取れば、自分のことだけ考えてセックスの相手を探し回る「ハイスペ」男性の驕りでしかありません。これは小説の中盤、バブル絶頂期の日本経済のようにナンパの全能感に酔いしれる主人公わたなべ君が師の永沢さんとディナーしている場面で繰り返されます。

そこだけ読めば腹が立つほど醜悪なこのせりふは、しかしどこから出てきたのでしょうか。わたなべはガールフレンド麻衣子と縁が切れ、個人的に仕事を教えていた美奈とは片思いだったことがわかり、それからは仕事のやりがいで自分を支えながらセルフネグレクト気味の私生活を送っていました。そして、ソープランドに行ってお金で仕立て上げられた即席の出会いとセックスを繰り返していました。ところがわたなべは変わります。自分の力で作った関係で、営業ではない即席の出会いとセックスを繰り返せるようになった。これが「ソープランド」の意味でしょう。

「無料」とは営業でない、セックスに直接払う対価としての金銭が無いという意味です。でも、「無料」というのはちょっとおかしくないでしょうか。クラブに行ったりアポをとって食事したりすれば当然お金がかかりますし、だいたいは男性側が払うでしょう。金銭の面でも時間拘束の面でも、風俗店に行くより負担がはるかに大きいはずです。自分も相手もセックスしたいと思ってセックスしているからお金のやりとりが必要ない。それを敢えて「無料」といい、営業を出しぬいてやったかのように表現するのは、風俗店に行くことで失った自分の自信や情熱を取り返そうとしているように思います。

永沢はわたなべに迫ります。女にとっての「友だち」になるか「男」になるか。これは相反する二つの道であり、最初からセックスを目的に据えない限り「男」にはなれない。つまりその相手と永遠にセックスはできない。友達のふりをしながらワンチャンのセックスを期待する甘ったれた意識を捨てろ!とハッパをかけます。そしてわたなべは、セックスに至る過程を自己実現ととらえ、目的合理的に考え行動するように変わります。それを律するのが恋愛工学です。

この本にセックスの直接的な描写はありません。キスをするとか、ワギナがぬれているとか、そこからいきなり寝起き(朝チュン)に飛んでしまう。実際には、前戯から挿入そして眠りにつくまでにそこそこやりとりがあるはずですがそれは恋愛工学の技術の中には入っていないのです。身体的な性交渉の技術には徹底的にノータッチです。コンドームをつける描写すら存在しない。セックスまで持ち込むことがこの本のテーマであり、そこに持ち込んだ時にすべてが達成されているのです。

恋愛工学のセックスそのものに対する無関心は、いざセックスに誘う誘惑(セダクション)のフェーズを解説する永沢の語りにも表れています。

「それで、最後のSフェーズは何をすればいいんですか?」

「ロマンティックな感情をふたりで高め合いながら、キスをしたり身体を愛撫する。相手の女は覚悟を決めて、いよいよ後戻りできない一線を越えるわけだ。ここでも、相手の女を、お前の自信と情熱で包み込む必要がある」

「自信と情熱か……」

 びっくりするほど反工学的なセリフではないでしょうか。永沢はどうやって身体的な性交渉をするかについてほとんど分析のメスをいれていない。「自信と情熱」という精神論で押し切ってしまうのです。

そればかりではありません。セックスに至る交渉のテクニックを綿密に描く半面、セックスをした後のふるまいがほとんど描かれないのです。ここで示唆的なのが、セックスの前後(プレセックスピリオドとポストセックスピリオド)で男女の力関係が逆転するという指摘です。セックスをするまでは女性が選ぶ側だが、セックスした後は男性が選ぶ側になる。そうなってしまえば特別な努力も技術も必要ないと言わんばかりです。

この過程の全てに非「モテ」男性の解剖の鍵があります。モテるということは、セックスする関係を作るということです。そして、セックスは内容よりもやった事実が重要です。皆がセックスしたいと思う高嶺(値)の女性とセックスすることが、より価値のある充実したセックスです。そして、そう思っているにもかかわらず現実の自分は女性にセックスしたいという欲望を開示できず、そんな欲望などないかのようなまわりくどいやり方に終始し、自分の意思を裏切り続けているのがモテていないということです。

このような世界観と、男性同士のタテの関係はとても親和性が高い。ある意味、軍隊のようなものです。「お前に女を傷つけることなんてできない。たとえ、傷つけようとしたってな」という言葉はこの蛮勇の自己正当化です。もう一つ、ナンパが失敗したときに「何も失っていない」と言い聞かせる場面が何度も出てきます。実際には、相手は傷ついているし、自分も傷ついている。でも、傷つくのを恐れていたら、戦場で臆病者となじられ軽んじられて終わりです。そんな自分は絶対に嫌だ!という強い決意がわたなべを突き動かしていることを忘れてはいけません。

そして、わたなべは致命的な傷を負うことになります。

 

わたなべ君に花束を

『僕は愛を証明しようと思う』は、非モテ(正)に始まり、恋愛工学でモテ(反)るが、ふたたび非モテ(合)に戻る、お手本のような弁証法的綜合です。しかも、最後に非モテのときの片思いの相手と巡り合っていたことに気づくという手の込みようです。

知的障害のチャーリィは周りからひどい扱いを受けていたが、自分がみんなから馬鹿にされていることさえ気づかず、慕われていると思い込んできた。自分の親にも捨てられていたのに、そんな親のことを無邪気に好きだった。僕が非モテだったとき、周りの女の子たちからひどい扱いを受けていた。自分の恋人からもひどいことをされていたのに、僕はそうしたことに気づいていなかった。気がつかないふりをしていたと言ったほうがいいかもしれない。

そして、チャーリイが、科学者たちの実験台にされ、知能を劇的に改善する手術を受けてからすべてが変わったように、僕も永沢さんから恋愛工学という魔法のテクノロジーを教えられすべてが変わった。

驚異的な知能を手に入れたチャーリイが多くの分野で業績を打ち立てたように、僕は東京中の女をものにしていった。ところがその手術は不完全なものだった。チャーリイはその副作用に苦しむことになり、最後には手術前よりはるかに悪い状態になってしまう。……

仕事も失い、自信を無くしてしまった僕は、また非モテに戻った。 

 この本には二回、『アルジャーノンに花束を』への言及があります。さらに、この小説を下敷きにしてあることが読んだことのないひとにもわかるよう、丁寧な説明がほどこされている。ここでまずひっかかったのは、チャーリイの「末路」を主人公が嫌悪しているところです。私も久しく読んでいないので違ったかも知れませんが、チャーリイの知能はたしかにもとに戻って行ったけどチャーリイの人生が転落して行ったわけではないはずです。それを「悲惨だ」と言い切り、チャーリイのようにはなりたくないと蔑み、そして「身の丈にあった、都合のいい女」を残されたナンパのテクニックを振り絞ってなんとかものにしようとあがきますが余裕のなさが裏目に出て失敗する。ところが、その夜に運命的な出会いが出会いがが待っていた……実に都合のいい結末であり、ここには本当の破綻や底付きは描かれていません。

それでも、私は物語の結末(第六章)は「お約束」の付け足しではないと思います。恋愛工学の破綻についても考察を巡らす余地があると思います。

「まず、僕が何を学んだか、から話そう。それは一言でいうと、自分自身と戦わないといけないということだよ」

「自分自身と?」

「そう。この1年間、僕はいろいろなことにチャレンジしないといけなかった。そのたびに、打ちのめされた。それでも、僕は挑戦し続けることができた。それは、さっき言った人のおかげなんだけど」

「ふーん」

「それで、僕はわかったんだ。いままで僕を打ちのめしてくれた人たちや出来事は、大切な人生の教科書だったんだ。神様が、次はどうすればいいか、教えてくれていたんだよ。でも、彼と出会う前の僕は、恥をかかないように、できない理由をたくさん並べて、挑戦しなかった。そうやってチャンスを逃すたびに、ひとり損をするのは僕自身なのに。自分の人生を良くするために、僕は戦わないといけなかったんだよ。僕をずっと成功から遠ざけてきた、間違った考え方や悪い習慣とね」

…中略…

この1年ちょっとの間、僕がどんなことをしていたかなんて、いくらなんでも話すわけにはいかない。

 わたなべは、ここで語った自己啓発の焼き直しを本心から言っているわけではないでしょう。女性と付き合ってもセックスに持ち込めない間違った考えや悪い習慣と戦い、女性の容姿を格付け、セックスできるか狙いを定め、ナンパのルーティーンを繰り返すことに挑戦していたという内容にはどうやっても読めません。しかし、全くの嘘を言っているつもりもないようです。それは、恋愛工学がセックスを誘因とした自己啓発としてもある程度機能するからです。思いのままにセックスできる相手がいることが、男性に自信を与え、積極的に、社交的に、行動的にします。そういうテンプレがあるのは事実です。しかし問題は、より口当たりのいい説明を求めるなかで、本音と建前がぐずぐずに溶け合っていくことです。わたなべは都合のいいことばかり言って、結局自己開示をしていません。傷つき疲れはてた自分を受け止める人が欲しいはずなのに、その自分の醜い部分を最後まで表現することができなくていいのだろうか?

落ち目になったわたなべからは、自己正当化や自己防衛のバイアスをかけた認知が無批判に垂れ流されています。

大空電気の長谷川玲子は、社内の重要なポストに就く男とじつは婚約していた。二股をかけていたわけだ。婚約者に僕との関係がバレてしまい、彼はカンカンに怒った。それを鎮めるために、これは僕からの強引なセクハラだった、と言わざるを得なかったそうだ。

 この話をそのまま受け取ることができるでしょうか。まず、わたなべが恋愛工学を使ってセックス目的で近づいたという事実、その後別の女性に興味が移り、相手のことをどうでもいいと思ったから別れたという事実が無視されています。仕事を辞めざるを得なかったのは、婚約者の重役がカンカンに怒ったからであり、自分の責任ではないことにしています。ひどい仕打ちをしたのは二股をかけた長谷川玲子だというのはまったく他罰的です。

はっきり言って、後半にわたなべがこの物語について自己言及的に語る内容はあまり信用できません。物語はわたなべの一人称視点で展開されますから、架橋に入るにつれてだんだんわたなべの思考が読めなくなってきます。「ああ、夢だったんだ。」という独白は存外当たらずとも遠からずではないでしょうか。

「恋愛工学を学んだあとは、かつての非モテだったころのようには、僕は出会った女の人を愛していませんでした。もちろん、一人ひとりには真摯に接してきましたよ。しかし、当然のように、複数の女の人に同時にアプローチしました。恋愛は確率のゲームだからです。そして、ひとりの女に熱くならずに、ルーティーンを機械的に繰り返す僕を、なぜか彼女たちは愛してくれた」

「恋愛工学の理論通りじゃないか。何がおかしい?」

「僕自身は、本質的には昔と何も変わっていない。いや、昔の非モテ時代の僕のほうが、むしろ彼女たちにとっては都合がよかったはずです。決して裏切らず、誠実にひとりの女に尽くすことしか知らないわけですから。……なぜ、昔の僕を、彼女たちは愛してくれなかったのだろう、と。そして、恋愛をゲームのように考えるようになった僕を、彼女たちはなぜ愛するのだろう、と」

 永沢の答えは、一人の女性に深くコミットするのが愛なのではなく、複数の女性にゲーム感覚でアプローチするのが愛なのだ、ということでした。それに対してわたなべは、一人の特別な女性に尽くしたいと言い、永沢との師弟関係が終わります。そしてその後、その女性にラインしながら、わたなべは再びナンパを始めます。いったい、永沢に示した決意は何だったのか?

 目的を設定し合理的な手段を追求することが工学であるなら、この物語はまさに工学の破綻によって幕を閉じたのではないでしょうか。

 

コミュニケーション工学

恋愛工学のメソッドは男が女とセックスするためにしか使えない方法ではありません。職場で同僚とどう雑談すればいいか分からない、一緒に食堂でご飯を食べたけどお互い何も話さず気まずくなってしまった、そんな経験を頻繁にしているなら、恋愛工学を学ぶべきです。それは男の「股」を開くためにだって使えるのです!

それに、恋愛工学のACS(魅了し、和ませ、誘惑する)は、営業で契約をうまく取り付けるときにも当てはまるプロセスでしょう。自分の店の得意先になってもらうときにも当てはまるでしょう。大きな仕事を持ちかけるときにも、面接で自分を会社に売り込むときにも、自分を信頼しその人の資源を割いてもらうあらゆる場面に共通したプロセスではないでしょうか。

『僕は愛を証明しようと思う。』を読んだ私は、さっそく職場で実践してみました。

 

おはようございます(オープナー)今日はいい天気ですね

そうだね

ですよね(ラポール)最近天気がいいですね

そうだね

週末干し柿つくったんですよ

おっ、今年も作ったの

そうなんですよ。先輩にも差し上げますね(返報性の原理)

ありがとう

いつもこの時間に出勤ですよね

そうだね

今日は僕も同じ時間ですよ

そうだね(イエスセット)

 

たったこれだけの会話で、(直接的な因果関係ではないにしても)無口な先輩がこの後に突然仕事の話を振ってきました。このように、恋愛工学で職場の人間関係を円滑にすることができます。相手が進んで手伝ってくれたり、小さなミスを大目に見てくれたり、心のバリアを取り除くことが期待できるのです。それから、「定時で帰ります」(タイムコンストレイントメソッド)も使っていこう。だらだら残業をつづけることは自分の価値をさげ、仕事以外にすることがないんだなと思われ、たいしたことのない仕事をたくさん振られる可能性があります。というのは冗談ですが、雑談はこまめに、しかしだらだら続けず短いセッションで切り上げ、できるだけいろいろな人と話すのが理想だと思います。話すと決めた時間は集中して、ページング、ミラーリング、バックトラックも意識することにしてみました。

私はほとんどいつも男性同士で話していますが、決して自分からは話しかけなかったり、一方的に自説を開陳してしかも相手が同意するのは当たり前であるかのように振る舞ったりする人に出会います。そうした人にはずっと同調して聞き手に回ればいいのである意味楽ですが、会話をしている感覚がないことも事実です。恋愛工学の技術は男性同士の関係をより親密で相互的なものにすることができるでしょう。

ただし、恋愛工学の技術のうち「ディスる」のには注意が必要です。ディスは男のコミュニケーションの定番で、ディスる方が上、ディスられる方が下というマウントや権力勾配を確認する道具として極めて頻繁に用いられています(「いじる」と呼ばれることが多いです)。それを通して、オレはお前を気にかけてやっているぞ、お前をオレの縄張りの中に入れてやっているぞ、というメタメッセージを伝えます。

もちろんお互いディスり合う友人関係であれば、それは逆に信頼関係の証左でしょう。ディスりは自分と相手とが一歩踏み込んだ関係であることを示すでしょう。ただ、職場では必ず上司がディスり、部下が笑って場を盛り上げようとします。あなたがおしゃべり好きの上司なら、たいてい部下をディスっているはずです。自分がディスられる覚悟もなく。

私がディスペクトを良く思わないのは、「非モテ」はだいたいディスられる側だと思うからです。ディスりができるのはコミュニケーション強者の証です。原因ではなく、結果なのです。もし、あなたが周囲の人をナチュラルにディスれるようになっていたら、あなたは既にコミュニケーションの中心にいる。それに気づいたときは、積極的にディスを使っていくときではなく、自分を省みるときだと思います。

と、「ディスり」を盛大にディスってしまいましたが、その効用は確実にあります。それは、「異質なものを受け入れる」効果です。なぜ上司があなたのことをディスるのか?それは、あなたによくわからない、理解できない、奇妙で反発を感じる部分があり、それをストレートに攻撃するのを避けているのです。ディスはその後の笑いとセットです(笑いのないディスはただの攻撃です)。お前の異質さは許容範囲だよ、とこまめに示すことは、異質な存在をつなぎ止める効果があるでしょう。しかし、それは異質さを理解したり共有したりせず、表面的な笑いと思い込みでやり過ごす方法でもあり、濫用は人間関係の破綻につながります。ディスりはあくまでペンディングであって、リスペクトで補わなければ意味がないはずです。

そのうえであえて「ディスり」を持ちあげるなら、変だな、おかしいな、違うな、と思ったことを呑みこまずに積極的に言葉に出してもいいのだということです。緊張の後に弛緩(笑い)の花道を用意することで、自分の感じたことを素直に表現して盛り上がることができれば、コミュニケーションのストレスを大幅に減らすことになるでしょう。

どうして恋愛工学でディスりが重要なのかと言えば、女性にモテたいと思う男性は積極的に女性を褒めます。しかし、なんでもかんでもとりあえず褒めようとして無味乾燥な会話を繰り返してしまうのです。本心にないことまで褒めれば、どこか気持ちが乗ってこないのは当然です。浮ついた言葉ばかりで信用できないと思われたり、本音が言えない人だと軽んじられたりしかねません。あなたに好意がある(性的に興味がある)という前提を崩さない範囲で、自分の違和感や反発を表現することが、会話を盛り上げるためには不可欠ということだと思います。

 

RNAワールドからの脱却

わたなべはお友達フォルダに振り分けられることを「恐怖」と言っていますが、その恐れは私にはかなり見当はずれなように思います。ラポールで女として好きだということを伝えろ、手をつなぎ、キスしろ、拒まれたらラポールからやり直し、できるまで繰り返せと永沢はアドバイスしていますが、相手がこんな素振りをみせたら警戒するのが当たり前です。そこまでしてセックスに全振りするメリットがあるでしょうか。友達でもなんでも数を増やして女性との関係に慣れていくのがスタティスティカルアービトラージ(継続は力なり)戦略というものではないかと思います。

たとえ端からセックスの道を捨てたとしても、「男」ではなく「友だち」の道を歩もうとしたとしても、恋愛工学が味方になってくれることに変わりはありません。そして、恋愛工学の内部にはその契機があるのです。セックスにがつがつしすぎて警戒されているわたなべに、永沢は自分たちは女性の性欲に火をつけてそれを満たす「商品」なのだと諭します。

「恋愛プレイヤーは、人々をいい気分にするために街に出るんだ。俺たちは、出会った女を喜ばせるためにナンパしないといけない」

…中略…

俺たちは、自分という商品を必死に売ろうとしている。女は、ショールームを眺めて、一番自分の欲望を叶えてくれそうな男を気まぐれに選ぶ。

…中略…

俺たちができることは、自分という商品を好きになるチャンスを女に与えることだけだ」

 ここで永沢が語っていることはほとんどホストのメンタリティです。相手を楽しませることが第一であり、自分のセックス(ホストなら売上)の欲望を満たすのはある意味どうでもいい。そのような迂回アプローチが結果的にセックスに(ホストなら指名に)結びつくのだということです。もちろんそれは最終的な目的地がセックスだからでしょう。しかし、その目的をシンプルに、相手に楽しんでもらうこと(接客)に置いたらどうでしょうか。中島敦名人伝ではないですが、恋愛工学を極めて行きつく先がセックスの忘却であってもいいのではないでしょうか。

男がセックスにこだわるのはなぜか。最後にこの問題に対する私見を述べて、この長い記事を終わらせることにします。

「お前、素質あるよ」と永沢さんは言った。「結局のところ、女にモテるかどうかって、ビールを一杯飲みほした後に、臆面もなく『セックスさせてくれ』と言えるかどうかなんだよ。言えないやつは、いつまで経ってもダメだ。

 この本では、愛とモテとセックスはほとんど同義です。ヤリモクで女性にアプローチするのを「愛する」、女性が身体を許すことを「愛される」と表現するのです。それがこの本のテーマなので繰り返し出てきますが、そこは衒わず「セックスする」でいいんじゃないのか。永沢自身、恋愛に愛など必要ない、セックスするかどうかだと喝破していたはず。「愛を証明した」とか歯の浮きまくったせりふに逃げないで、正直に、皆が羨む女性とセックスできるようになるまでナンパのルーティーンを繰り返したって言いなよと思います。タイトルも『ぼくは皆が羨む女性とセックスできるようになるまでナンパのルーティーンを繰り返そうと思う。』でいいじゃんね。

この極端なセックス重視は何に淵源しているのでしょうか?

私はこのブログのひとつ前の記事「これからRNAの話をしよう」でナンパのRNAワールド仮説を提起しました。

ナンパを個人的な行動力の多寡に帰するなら、それは一般的なナンパのイメージとして間違っていると思います。私が考える「リアル」なナンパは、男性同士の絆(ホモソーシャル)に裏打ちされた組織的な行動というものです。ただただモテたいという内発的な動機からナンパの実行に至るわけではない。むしろ、モテたいという個人的な願望を越えた集団的な動機の中にナンパへ至る道があるのだ

 つまり、セックスすることで男社会から認められるということです。セックスそのものが目的ではなく、それによって男社会で一目置かれ発言権が増すからセックスが大事なのです。セックスは男社会における高額の通貨である。身体的な充足と社会的な充足とを同時に実現するのがセックスの威力なのです。それは相乗的であり、羨望の的になるセックスほど充実感も大きい。ここ一番の試合に勝ったような充実感です。反対に、誰でも平等にできる出来レースのセックスは虚しく、どこかプライドを傷つけ、自分の評価をさげることになります。セックスは戦いである。まさにそうです。それは男と女の戦いではなく、男と男の戦いなのです。

実際に、『ぼくは愛を証明しようと思う。』で描かれているのも男たちの集団的営為です。まずはじめに、永沢とわたなべの師弟関係が生まれます。それまでわたなべは一人でした。肩書は立派でも人間関係は貧困で、上司とも深い関係ではありませんでした。ところが、六本木でモデルとキスをする永沢に「セックスしたいんだろう」とマウントをとられ、「見どころがある」とおだてられ、二人の特別な関係が始まります。二人は連れ立ってナンパに出かけ、永沢から様々なテクニックが仕込まれます。まさにこのような上司を得たことによって、わたなべは徐々に女性に対する自信を深めていく。そして、ナンパ師として一人前になったわたなべを、今度は「先輩」と慕う勇太が出てくるのです。こうしてわたなべは部下を持つ立場になり、狙う女性のランクも上がります。クラブでは勇太との連携プレーで効果的に自分の魅力をアピールします。

 

「女は、単に他の女とセックスできている男が好きなのだ。」

 

RNAワールド仮説は、この命題を以下のように敷衍します。

 

「男は、多くの女とセックスできている男に従い、多くの男を従えている男が他の女ともセックスできているのだ。」

 

多くの男を従えているというのは、単純に部下が多いということではなく、上下関係をわきまえて従順に動く男が多いということであり、そのような上下関係を小規模な男性集団の中で作り出すことができるということです。もちろん、わたしたちは学歴や資産や教養や肩書といったさまざまなもので序列化されています。そこにふつうセックスは入ってこない。セックスをしまくったことで受賞したり社会的地位を得たりした人はいませんが、セックスがらみのスキャンダルで資格をはく奪されたり肩書を失ったり処罰されたりした人はたくさんいます。しかしそれはなんら矛盾するものではなく、セックスは小集団の中の権力関係において大きな威力を持つために不正と結びつきやすく、国家のような大集団における序列化とは根本的に相容れないのではないかと思います。反対に、一人一人の顔がわかるような小集団の中では学歴のような大集団を序列化する属性がかならずしも権力に結びつかないように思います。

男性のタテ社会とセックス志向とには極めて深い関係があると私は考えています。恋愛工学のセックス志向を女性の人権の観点から批判することは、例えば森岡の有名な批評によってなされてきました。しかし、RNAワールド仮説に準拠するなら、男性のタテ社会の解体もセックス志向の希薄な男女関係のために重要なのではないでしょうか。

最後に、RNAワールド仮説の反証事例を検討します。

わたなべはエピローグで永沢に初めて反論します。今度の彼女はずっと愛していたい、一人の女を愛し続ける恋愛工学を試してみたい。こうしてわたなべは永沢との師弟関係を解消します。そして、にもかかわらずわたなべは再びナンパを始めようとする。これはRNAワールド仮説ではもはや説明できない、非合理的な行動です。もちろん彼女との関係も早晩破綻して行くでしょう。エピローグのわたなべは性依存症であるというのが私の判断です。続編の闘病記に期待です。