『さら、頭をよくしてあげよう』
これは、サークルクラッシュ同好会のアドベントカレンダー企画9日目の記事です。
ごきげんよう。さらです。
今回は、過激かつ面白くないテーマかもしれません。
「わたしときまぐれな白痴願望とそこに漬け込んで啓蒙してくる男がキモい」という話です。
この一文で書きたいことがほぼ終わってしまいした。いや、さすがにそれでは短すぎるので、この一文に至った過程をうろうろと辿ってみようと思います。どうか、しばしお付き合いください。
また歌か、と思われるかもしれませんが、今回は筋肉少女帯の『香奈、頭をよくしてあげよう』という歌を主軸にして、わたしの混沌とした考えをなんとかまとめていこうと思います。
こっそり歌詞を貼ります。JA/SRA//Cにばれたらお金をたくさん取られるのかな。
モフモフと ジャムパン
食べている君の横で僕は
ウムム!と考える
抱きしめてあげる以外には何か
君を愛す術はないものか?
“あたしってバカでしょ?
犬以下なの"と微笑む
無邪気な君は
本当にバカだ
だから
アレだ
僕は…
香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を名画座に連れていこう
香菜、カルトな映画君に教えてあげよう
“御免ね途中で寝ちゃった
ラストどうなったの?"
たずねた君は
本当にバカだ
だから
アレだ
僕は…
香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を 君に選んであげよう
香菜、いつか恋も終わりが来るのだから
香菜、一人ででも生きていけるように
この歌の主人公は香奈ちゃんです。
彼女は自ら「あたしってバカなの、犬以外なの」と言って、にこにこするような女の子です。
そんな香奈ちゃんをみた"僕"は「頭をよくしてあげよう」と思いたち、彼女を映画館や図書館に連れて行き、さまざまなものをあてがおうとします。
けれどもせっかくの映画も、香奈ちゃんは途中で寝てしまう。そんな香奈ちゃんのことを「本当にバカだ」と"僕"は嘆きます。
ところで、わたしが大学に入ってから今までの間に、変だなあと思うことが幾度もありました。
サークルで、職場で、気になって足を運んだバーで、遊びに行った人の家で、参加した読書会で、とにかくいろいろな場所で、知り合った男性から、「あなたは本当にものを知らないね」と軽口を叩かれたり、逆に「あなたはなかなかスジがいい」と褒められたりするのです。
それがどうした、自意識過剰、と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、無理なんです。男の人に「馬鹿」とか「賢い」とか認定されると、とたんに足がムズムズしてきて居心地が悪くなります。その場の空気はどうにも言語化できません。
もしかして、わたしが男であるならばこんなこと言われはしないのではないでしょうか。わざわざ大勢の前で「馬鹿」とか「賢い」とか口に出して見せ物のように評価されることはなく、考えや好みが合えば仲良くなり、合わなければ自然と離れていくものだと思うのです。
前々回の記事で書いたように「かわいい」と「ブス」の地獄からようやく抜け出ることができたと思ったら、今度はまた違うところで、わたしは品定めされていることに気がつきました。
「馬鹿」/「賢い」。後者は別にいいじゃないと思われるかもしれません。経験則ですが多くの場合、この二つはほぼイコールです。
わたしが、若い、比較的美しい、女である割には、ものが解っている(この解るとは、発言した男性の認識下においての"解る")という意味で発言されているのです。前者も後者も、さらちゃんをけっして同じ土俵に立たせてくれないことにおいて、違いはありません。
極端な言い方をすると、どちらを言われても、わたしは馬鹿にされているような感覚がするのです。
よせばいいのに、わたしはその場で要求された女であろうとします。適切なタイミングの相槌、大げさじゃないくらいの褒め言葉、そして、小さな反抗(これは特に権威のある人に効きます)。
そうしている内に、わたしの元には、たくさんの「知るべき」本や漫画やCDやDVDがなだれ込んでくるのです。現物ではなくリストを渡されたこともあります。手をつけずに返すわけにもいかず、なんとなくぱらぱら眺めたり、流したりして、一番印象的だったところだけ考えて、お返ししていました。
わたしを「馬鹿」/「賢い」と言った男性たちの多くは、わたしよりも勉強ができたり、年上だったり、ステイタスが高いとされる職業についていたりしました。でも。
本当にわたしは馬鹿なのか? おまえの知っている物事を知らないから、わたしはものを知らないのか、馬鹿なのか、おまえの解釈にわたしの意見や感覚が近いから、わたしはスジがいいのか、頭がいいのか。
それは、ぜったい間違ってる。
しかし、一方で、「あたしってバカなの、犬以下なの」と言って、にこにこすることの快楽も、わたしは知っているのです。
若いだけの、美しいだけの、女であるだけの快楽。白痴美。自分でなんにも決めない快楽。相手のおもちゃになる快楽。相手の言うがままの姿に変わる快楽*1。わたしはさながらお人形になった気分で、男の人の願望を叶える従順かつエキセントリックな存在になります。
でも、それは唐突に飽きちゃう。だってわたしは生身の人間なので。本格的に好き勝手やりはじめたわたしに対して、男の人は掌を返したように冷たくなります。おかしいな。
わたしは自分の好きな本を読んだり、映画を観たり、演劇を観たり、音楽を聴いたり、美術館に行ったりしています。
そしてわたしは、賢い女も馬鹿な女も、どちらも魅力的だと思っています。どちらが好ましく、どのように振る舞うかは、わたしのそのときの気分によって決めるもので、誰かによって定められるものではない。わたしが賢いか馬鹿かは、第三者にあれこれ言われていいものではないのです。
そう、これです。わたしにおまえの理想の女をやらせるな。そしておまえの好きな物を勝手に押し付けるな
そして、現実問題、わたしはとりたてて馬鹿でも賢くもないのです。まあ普通。
さらに言うならば、おまえはたいして若くも美しくもないし、ましてや物語の中の人間でもお人形でもないのだぞ、と自分で自分を戒め、享楽的な暮らしをやめ、ふたたび労働と生活と美容に励みます(でもこれを他人に言われるとムカつきます、あくまで自分から自分への戒めです)。
多くの物語の中で、女の子は自らを寵愛する男の庇護を失うと悲劇の死を遂げますが、お話ではないのでわたしは死にません。というか、もう女の子ってしっくりこないなあ。「女の子」や「少女」という概念に年齢を持ち込みたくないという気持ちは大いにあるのですけれど。
メタ視をしないことと、自分のお世話をしないことはとっても気持ちがいいけれど、やめっぱなしだとわたしはみるみる醜くなってしまうので、鏡をジッと眺めます。
ずっと疑問だったのですが、男性に誘拐されて監禁された女の子は、いつまでかわいい状態でいられるのでしょうか。
鼻の下に産毛が生えたり、眉毛が繋がったり、脚の毛が生えたり、身体や口が匂ったりしないのでしょうか。そのような女の子を見て、誘拐犯は愕然としたりはしないのでしょうか。
それとも、女の子は誘拐犯の手によって夜な夜なシャボンの泡に包まれ、安全剃刀で全身を剃り上げられ、お口をアーンさせられ一本一本丁寧に歯を磨かれたりしているのでしょうか。
ああ、これでは、主従が逆転している!
(現実として、彼女たちの多くはあっさり殺されているのですけれど)
結局、男性(もしくは男性たち)に「馬鹿」/「賢い」と評され、それにふさわしいキャラクター(どっちを言われてもほぼ同一)なったところで、相手はやさしい誘拐犯のように逐一わたしの身辺や精神のお世話をしてくれるはずはない。自分で自分の容姿や情緒をお世話をする余裕や判断能力は、きちんと残していないといけない。
さらちゃんは本当に馬鹿だなあ/賢いなあとかわいがられて、にこにこ笑うわたしは、毛玉のついたセーターを着ていてはならないし、ちょうどいい濃さのお化粧をしていなくてはならないし、指に毛が生えていてもならない。適度に笑い、適度に怒り、ちょっと泣いても、ぜったいに発狂なんてしてはならない。わたしはわたしを監視し続けたまま「馬鹿」/「賢い」状態でなくてはならない!
いけないいけない、話が横道に逸れすぎました。お歌の話に戻ります。
最後に、わたしはこう思うのです。
「香奈、生きることに君がおびえぬように」と願う"僕"こそが、生きることにおびえているのではないか?
たぶん、香奈ちゃんは生きることに恐怖を覚えていないのです。あるのだとしてもそれは"僕"のものとは違う恐怖です。だから"僕"の勧めてくる映画や本には興味がない。
そして香奈ちゃんは馬鹿ではなく、"僕"の価値観とは異なった、香奈ちゃんにとっての世界があるのです。そこにはジャムパンだけでなく、さまざまな素晴らしいものがひしめき合っているのです。
歌われることはありませんが、わたしはこの"僕"は、香奈ちゃんにあっさりと振られてしまうと思っています。*2
「だって、あなたつまんないんだもん」と。
あー、超名曲に自らを重ね合わせるなんて、あまりにも傲慢です。
『さら、頭をよくしてあげよう』なんてタイトル、恥ずかしくないのかな、恥ずかしいに決まってる。
たくさんの男の人からの贈り物を不意にしてしまうような文章を書きました。教えてくださったものの中にはとっても素晴らしいものがあったことも、また事実です。
そして、この記事を最後まで読んでいただいたことにより、わたしはあなたに一つの曲を押しつけてしまったことになるのだから、ああ本当に因果なものだ、と感じております。ごめんなさい。どうか許してね。