あの素晴らしい恋をもう一度

サークラアドベントカレンダー 12/23日 新井(@willowfield2000)

読了目安時間:15分

Wordで書いてコピペしたら思った以上に膨らんでしまいました。

中高生での恋愛の規定力って高そうだよねというお話です。 

以下の文章は多分に偏見・脚色・誇張・拗らせを含んでいます。

↓本文

 

まあ人というものは,多かれ少なかれ齢二十を迎える迄には恋というものに触れるものでありまして,この事は皆さんにもご自身の経験として受け入れて頂けるかと思います。若いどころか,未だ人格の固まっていない時分にそれは起こってしまう訳ですから,この時分の恋の仕方がその彼の,ないしはその彼女のあと先の人格を決めるのではないでしょうかという話しには,なるほどかなりの説得力が有る様に思われます。現に,僕は男なので男の話ししか出来ませんが,クラスの女子を突然女として意識せざるを得なくなったり,挿絵の女の子に恋慕を抱いて止まらなくなったり。そういった感覚が彼の後々のひとの見方,なかんずく女性の見方に偏光板の如く被さって,彼の幸不幸に随分と関わっている様です。

 

謂わば恋の雛形の如きものがこの時分に作られている訳で,だからこそ大人は暇があっては十代の恋を思い返してしまうのかも知れません。それは成就した恋か,それとも叶わなかった恋か。この若い恋は彼彼女の恋の雛形なのですから,この点はいう迄もなく肝要であります。成就した若い恋が出来れば後の恋も上手くいく可能性は高く見積もられ,仮に大人になって恋に苦しむことが有れども甘美な記憶を辿り持ち直すことも出来ましょう。しかし,若い恋が失敗してしまうと,自分が何処か未熟な感じがする,恋愛者の一次試験に失敗したという劣等感が付きまとっている様であります。これを明言出来るのは,僕の素晴らしい友人の多くが若い恋に失敗して齢二十を超えてしまった人々であるからでして,彼らは度々自身の事を「拗らせ」と称しております*1

 

かくいう僕も哀しいその「拗らせ」の一員であることは確かでして,しかし,然程劣等感に苛まれていない分動き出すことも出来ず,恋する者に利するきらいのある昨今の日本国にあっては,社会的な問題に直面する危険を考えると,ヤレ己れも恋というものに近づかねばならんのかしらん,と,気恥ずかしさや焦りといった感情というより,気苦労を伴う思考からこの様に恋を考える機会に参加している訳であります。

 

それで,この企画の主題は「拗らせ自分語り」ということでして,お恥ずかしながら僕の「拗らせている」と思われる所を書かせて頂く,というのが,この小論の趣旨であります。非常に読み難い文章拙い文章とは存じますが,長くは書きませんので御容赦頂きたく存じます。

 

さて,僕は今に至る迄に二つの恋を経験致しました。今現在「拗らせ」ている訳でありますから当然その何方とも叶わなかった訳でございますが,その終わり方の色合いは互いに異なっており,今比較して見ると中々面白いものがあります。それがどう面白いのかということに尽きましては,本企画の趣旨から離れますので割愛させて頂きますが,僕の現在の「拗らせ」というものはこの2つの恋を主軸に成り立っているものと考えられます。おそらくより規定力の強いものは先に体験した方なので,今回はそちらについて書かせて頂きたく存じます。それでは,前置きが長くなりましたが,「拗らせ自分語り」を始めさせて頂きます。

 

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それは,中学校の頃の恋でした。

 

僕が上洛したのは大学進学が切っ掛けでありますので,当時は未だ九州の或る地方都市の外れの町で暮らしておりました。その町の中学校は非常に校区が狭く,公立でしたので,町の二つの小学校からそのまま階段方式にその中学校に入学するのが普通でした。そのため,小学校の人間関係を中学校でも続けることとなり,或る程度出来上がった関係から中学校生活は始まります。

 

さて,このうえで,僕が恋をしたのは,よくある話ですが同じクラスの女の子でした。彼女の名前を仮に有希子と致しましょう。彼女と僕は同じ小学校の出で,委員会と部活で毎日の様に顔を合わせていた間柄でありました。そういう訳で元々それなりに仲も良く,入学式の日は教室を見渡し彼女を見つけ,嗚呼良かった,話せる人が居た,と安堵した覚えがあります。

 

小学校時代,僕は彼女の事を異性の友人としか見做していませんでした。勿論小学生のことですから,異性を「好きな人」と位置付けるやり方も存在はしていましたが,僕にとって彼女は「異性の友人」以上の存在ではありませんでした。彼女も僕のことはその程度に見做していたと思います。この関係は,中学校入学後数ヶ月程度は続いていました。

 

しかし,話の流れから皆様は既に察しておられるとは思いますが,この関係は僕が彼女に恋慕を抱くことによって徐々に消えてゆきました。僕は有希子に惚れていました。ただ,重要なことが一つ有ります。僕が彼女に惚れたのは,彼女が僕を惚れさせたからではなく,僕が「僕は有希子に惚れるべきなのだ」という企図を実行したからなのです。

 

語彙の拡がった今だから言えることですが,当時,僕は環境の変化や身体的変化に伴う人の関係性の変化に敏感で,そこから生じる鬱憤を「頑張り」によって克服する道を見出していました。なので,中学校に入って軟式庭球部に所属し,そこでの身体的変革に精を出し中学校の外周とテニスコートを駆け回っていました。

 

ですが,人間の精気*2も無限ではないので,僕は出した分の精気を何かで補う必要があると考えていました。いえ,考えていたのではなく,身体がそう求めていたのでしょう。ともあれ僕は精気を補充するため,例えばライトノベルを読んでみたり,例えば頭の良い同級生に対する競争心を燃やしてみたり,例えば小学校の時は知らなかった深夜の世界を体験してみたり,と様々なことを試みました。

 

いじらしい調査の結果判ったことは,「感情を揺さぶる」体験こそが精気の源泉であるということでした。この暫定解に基づき,最も精気を発生する効率の良い感情として僕が見出したものこそ,「恋」でありました。

 

「恋」とは如何なるものであるのだろうか。恋というものは異性間で生じる*3,何かふわふわとした気恥ずかしい関係だという事は当初の僕にも判っておりました。しかし如何にすればそれを始められるのかを知らなかったので,市の図書館で周りの目を気にしながら調べてみたり,比較的得意であったインターネットを利用して世間の恋のはじまりというものを探求してみたりなどしました。

 

そうすると,恋のはじまりには「対象の異性の事が気になって仕方なくなり」,「その人の事を考えただけで胸が高鳴る」という現象が起こる事が判りました。このことを知り,僕は「用意出来る」と思いました。否,思ってしまいました。

 

何が用意出来るというのでしょうか。それは,「僕が異性に惚れる仕組み」でした。僕は上の現象を自分で起こしさえすれば恋が始まると考え,僕にはそれを実行する環境が揃っていました。

 

僕はわざとある女の子の変化や発言に注意を向け,部活の外周が終え心臓が強く動いている時,わざとある女の子のことを想起しました。その女の子こそが,親愛なる友人,有希子でありました。僕は「僕は有希子に恋している」という自動思考と,人が人に恋する時に生起する上記の反応を再現することで,中学校一年生の半ば,何時の間にか有希子に恋している自分への同一化を果たしていました。*4

 

有希子に恋している状態は実に心地良く,有希子と話す,有希子の事を考える,有希子を目にする,など,有希子に関するあらゆる現象から,僕は「頑張り」のための精気を得ておりました。更に,「有希子に認められるために,」という枕詞を「頑張り」の内容に繋げることで,精気の循環的な回路を確保してもいました。*5

 

勿論,恋は成就させる,つまり告白し,成功する方向に動かすべきであると考えておりましたため,僕は現実的に有希子と仲良くなろうと努めました。互いの好きな映画や作家の事について語り合ったり,勉強を教え合ったりなどしました。そういうことを続け,我々はとても仲良くなりました。普段からくっ付いてばかりではないが,ただのクラスメイトという訳でもない,特別な位置の確保に成功しました。その内に一年次が終わり,我々は別々の,階の異なる学級に所属し二年次を迎えました。

 

その頃には僕は意図的に有希子に惚れたことなど忘れ,心から有希子に恋をしておりましたので,中学に上がってからは同じ学級という事しか共通点がなくなってしまった彼女と別離してしまうことは非常に辛いことでした。彼女から物理的に離れてしまうことは彼女と接する頻度が下がることでした。即ち,恋のための交流の土台が失われたのです。この辛さを消化=昇華するために,別の共通点を開拓しもう少し現状維持をするのではなく,彼女に思いのたけを告白してしまい,恋の段階を進め関係を安定化すべきではないのか,とも考えました。

 

しかし,結局,僕には告白は出来ませんでした。その理由は,頭の表層では時期尚早などと考えておりましたが,本質的なところは臆病さでした。恋の当事者となっていた僕にとって,有希子から否定されることは,精気の確保だとかその様な理屈以前に,非常に怖ろしいことだったのです。

 

勿論,仲が悪い訳でもないので,彼女が受け入れてくれるのではないかと考えることが無い訳でもありませんでした。しかし,初めての恋で,且つ元々人間関係の不得手な自分にとって,それが確実とは信じられないことが僕を委縮させていました。

 

現状維持の選択を取った僕は,それからの二年次の生活を,有希子のことを考えつつぼんやりとこなしていました。しかし,有希子的な刺激が生活から失われたことで,以前より有希子への恋が薄らいでしまった様な気がして,非常に葛藤を覚えました。

 

そして,決定的な日がやってきました。夏休み中に行われる職業体験の準備の日です。僕は既に一年次で有希子が何処の職業体験に行きたいのか聞いていたので,彼女が二年次でもその選択を変えない事に賭け,彼女と同じ希望を提出していました。その企みは成功し,僕は彼女と二人だけで,動物病院の職業体験に配属されることになりました。

 

僕はそこで,四カ月振りに有希子と交流しました。しかし,たった四か月の間に起こった自分の変化を,強く突きつけられることとなりました。僕は,かつてあれ程に感じていた有希子と関わる喜び,有希子への感情をあまり感じることが出来ず,非常に動揺していました。

 

有希子も変わっていました。彼女もまた,「久し振りだね」「元気してた?」といった表層的な親近感を示してはくれるものの,話し方に込められた感情は,恐らく僕を理解してくれようとしてくれていた時ほどからは,随分と薄まってしまっていた様に感じられました。

 

一体何故こうなってしまったのか。落胆しながら作業をしました。あれほど仲の良かった二人の関係が,たった四ヶ月日常的に会わないだけでこんなに冷めてしまうものだろうか。そのさなか,僕はあることを思い出しました。それは「この恋の始まりは意図的だった」ということでした。

 

思うに,「惚れる」こととは元来偶然の出来事なのでしょう。偶然見かけて,風貌的にとても好きになった。ふとした瞬間に感じた優しさに,とても好きになった。ずつと隣人だったのに,突然とても好きになった。そうした偶然の定数的な要素に基づいて惚れるから,そこから生じた恋は定数ゆえに安定しており,例え交流がし難くなってもその定数に立ち返れば恋を続けることが出来る。または,恋せずにはいられない,といった方が良いでしょうか。

 

僕の恋は有希子との交流から得られる精気という変数に基づき成り立っていました。ですからそれは,僕が日常的に彼女に触れられず,精気を補うための恋という恋の存在根拠が怪しくなると徐々に安定しなくなる,脆いものだったのでしょう。中学校一年生の時それが安定していたのは,クラスが同じだったからでした。僕の恋は始めから破綻していたのです。

 

 

結局,少なくとも僕の方はどこか気まずさを覚えながら有希子と職業体験をこなし,それ以降徐々に彼女との距離は広がっていきました。嫌われてはいないけど,恋愛に成功した人の言葉を借りれば,「自然消滅」した様でした。中学校を卒業する頃には,廊下ですれ違っても会話すら起こらず(素通り),僕はそれに対し,仕方ないよな,と冷静に考えるくらいしか出来ませんでした。あれ程憧れていた有希子がその程度にしか見えない事に関しても,随分と落ち着いていました。彼女は僕と違う高校へ進学しました。それ以降の事はわかりません。

 

中学校以降,僕は人に惚れるということが非常に不得意になりました。この人,とても好きだな,と思うことがあっても,それがまた何か「好きだから」という自己目的以外の理由によって生じているのではないか,という疑惑が払えないのです。一歩引いており,そしてその一歩を踏み出せない恋愛観というものが形成され切っているのです。これは,偶然の理に背いたことへの罰なのかもしれません。

 

しかし,それでも,最初の意図を忘れ,真剣に有希子に恋していた時期に感じた恋の感覚は,これだけは,誰かが造ったでもない心からの情動,心の底からの恋でした。こう思うのは傲慢なことでしょうか。今や実に難しいこととなってしまいましたが,願わくばこの恋を,今度は偶然に基づいたかたちで,もう一度だけ生き抜きたいと切に思っています。

 

嗚呼,あの素晴らしい恋をもう一度。

(2017-12-23)

 

明日は日和下駄さん(@getateg)です。お楽しみに。

 

https://youtu.be/g2mF3xN2Fts


あの素晴らしい愛をもう一度

*1:ほんとか?

*2:フロイトのリビドーっぽい

*3:当時LGBTの事は知らなかったのでこの表現の政治的正当性に関してはお目溢し下さい

*4:認知行動療法っぽい

*5:めっちゃストーカーっぽい