呪詛・物語・社会

アドベントカレンダー7日目 完全なQ体(@torchfish_story / id:Q1kasen))
 
 
1.概論
社会にはその社会でとくに厳密な根拠もなく正しいとされる命題が大量にあり、これらの命題を呪詛と呼ぶ。これらの呪詛はそれぞれ独立にただ真とされているわけではなく、これらを大きく統一的に説明する理論が背景にあり、それを物語と呼ぶ。
例えば宗教社会における呪詛は「毎朝太陽が登る方向に祈らなくてはならない」などの個々の命題で、なぜそうなのかを説明する神話や聖典などが(極めて具体的には)物語にあたる。(より厳密には、物語は抽象的な概念で、神話や聖典は物語が実体化されたものという見方が正しい。)
このように、物語がたくさんの呪詛を統一的に説明し、また呪詛が物語の根拠として再参照されるという構造がある。
そして、社会に属する人間(社会人と呼ぶことにする)は、その社会に存在する物語の登場人物(キャラクター)として振る舞うという決まりがある。
物語には、○○中の1年2組の物語 のような小さな物語から、メンヘラの物語、アスペの物語、ゆとり世代の物語などの中くらいの物語、日本人の物語のような巨大な物語まで、様々なサイズがあり、人間はそれらに重層的に所属しながらキャラクターとしての振る舞いを行う。ただし、ここで挙げたような、○○世代、○○人、などの具体的な語彙と物語がきちんと一対一で対応すると考えるのは早とちりである。ここに書いたものはあくまで読者が理解しやすいように操作的に構成したモデルである。人間をカテゴライズした既存の語彙のほとんどは不適切で不完全だ。不適切な語彙の背後にズレた物語を想定して動いた結果ピエロになってしまうのは、コミュニケーション弱者(社会盲)の人間がやる典型的な失敗の一つである。
人間は、お互いに相反する複数の物語に同時に所属することがある。というより、実際にはこのような分裂状態が社会人のスタンダードであると言えるだろう。複数の物語がキャラクターに背反する要請をする場合、キャラクターは主により小さなレイヤーの物語からの要請を優先する。もしも同じレイヤーに相反する物語を飼っている場合、キャラクターは離人感や、これは本当の自分ではないという感覚を抱きやすくなる。ただ、本当の自分などというものも結局は物語の語彙であり、人間からキャラクターという皮膚を引き剥がせば、比喩でもなんでもなくただの肉塊しか残らないということは留意しておいたほうがいいだろう。分裂が大きい物語のレイヤーで起きているほど問題も大きくなり、障害として診断されやすい。
物語概念を使って社会人のコミュニケーションがどのようなものか定義することができる。社会人のコミュニケーションとは、お互いがお互いの物語のキャラクターであることを相互承認することである。もっと平たく言うと、「ぼくはあなたの属する物語のキャラクターであり、あなたもぼくが属する物語のキャラクターである」という契約を取り結び、それを定期的に確認し合う行為全般のことである。コミュニケーションが上手くいっていない社会盲の人間の多くは、話術がどうこうといった問題以前に、この契約を取り結ぶことに失敗している。
 
 
2.物語一般の性質
 
2-1.物語の構造
ここでは、全ての物語に共通する構造と、そこで使われる語彙について見ていく。
一般的に、物語にはキャラクターがいて、キャラクターが何らかの行為をし、行為に基いて責任を取らされたり報奨を受けたりする というのが大方の見方ではないだろうか。これはある意味では正しいのだが、倒錯したものの見方でもある。
そもそも、この世界には本来現象しかなく(世界と現象が存在することは前提としておく)、その中で帰属先を定められるよう恣意的・操作的に選ばれた現象の集合から行為が構成され、行為の帰属先として主体が構成されるというのが正確な順序である。すなわち、物語、ひいては社会は、行為の帰属先を作り出し、決定するシステムだと言って差し支えない。そしてこの、行為の帰属先として社会によって作られた主体のことを、私たちはキャラクターと呼ぶのである。
 
 
2-2.自分一般
 
2-2-1.自分と自分の行為
これまで、キャラクターは行為の帰属先として作られるということを主張してきたが、これは、社会の中に存在する無数の行為のうち、どの行為を所有するかによってキャラクターが特徴付けられるということでもある。一般的に、アイデンティティというのはその人が所有するもの・性質(例えば、その人の人種、その人の性別、その人の性格……等)によって構成されると考えられている。だが、最も究極的には、アイデンティティはその人の行為(例えば、その人種らしい行為、その性別らしい行為、その性格らしい行為……等)によって構成されている。若くて禿げていない人の大多数は、自分の髪の量を自分自身だとは感じないだろう。これは、若くて毛量が多い領域では、毛量に応じた振る舞いが存在しないからだ。禿げていて、そのことを気にして振る舞ったり、ネタにして振る舞ったりしていると、それが自分自身だと思えてくるのである。(※高齢になって禿げが多数派になり、毛量が多いことが相対化されてくると、逆のことが起こるのかもしれない。私は高齢ではないので分からないが。)
 
2-2-2.なりたい自分
ある自分になりたいと願うことは、多くの人が経験することだと思う。これは、ある行為を所有したい(あるいは所有したくない)願望であると換言できる。例えば、素敵な絵を描けるようになりたいとか、かっこいい曲がつくれるようになりたいといった願望は、行為の所有の願望として分かりやすい。そして人間は、その行為を所有できるようになるまで(あるいは諦めるまで)の過程を、文字通り物語る。今の例で言うなら、不断の努力、才能、妻子ができたことによる心境の変化 などの呪詛を、それらしく並べて物語るのが典型的だろう。
もっと女性らしく振る舞いたいとか、自信を持ちたいといった、先の例より複雑に見える願望でも、基本的な部分は変わらない。この場合、女性らしく振る舞うことが許されるようになる物語や、自信を身につけるまでの物語(あるいはそれらの逆として、女性らしく振る舞うことが許されない物語や、自信のない人格に育つまでの物語)が書かれるだろう。
念のため言っておくと、私はここで、そのような物語が嘘だと断じたいわけではない。ここでフィクションとノンフィクションを区別することに意味があるとは思えない。フィクションとノンフィクションは綺麗に二分できるものではなく、シームレスな概念であると主張したい。
ところで、多くの人間は、人生が連続した一本の線であるという感覚を持っているようだ。この感覚こそ、物語が与える錯覚の典型例である。私たちの(連続した一本の線であるところの)自分史は、私たちが現時点に残された過去の遺物から人生を再解釈して物語ったもので、人生そのものではない。そこには解釈しかないし、そのような解釈は、私たちの人生のその時々によって、都合良く作り変わっていくものだ。
 
2-2-3.素の自分、本当の自分
演じていない素の自分という概念は、単に物語の語彙である。実際には、演じていない自分というものはありえない。ここでは物語の中で、素の自分(とされるもの)と、素ではない自分(とされるもの)との区分が、どのように構成されているかを見ていく。
素の自分(とされるもの)と演じている自分(とされるもの)の違いは、当人が演じているという状態そのものが誰に所有されているのかに拠る。その人が演じていることが、物語によって当人に帰属するとされた場合、それは演じていない素の人格とされる。逆に、その人が演じていることが、物語によって当人以外(※例えば、空気やカースト上位者など。さらに当人から遠い極端なものになると、霊や神などが当てはめられるだろうが、ここまで遠いと演じている”当人”とされるかは微妙である。)に帰属するとされた場合、それは演じている人格とされる。物語によって素の人格や演じている人格だと見なされることと、当人が素の自分や演じている自分だと実感するかどうかは別なのではないか と思うかもしれないが、社会人の実感は物語に追従するので同じこととして扱える。一般的に、素の自分のことを本当の自分と呼ぶことから、私たちが生きている物語では、素の自分のほうが本質であると見なされることが分かる。しかし、宗教社会などであれば、先に当人から最も遠い例として挙げた、霊や神の方が本質とされるだろう。
このように、あらゆる自我は社会の産物であり、どれがより本質的かは物語によって決まる。
 
物語における強者というのは、上手に物語る人間である。ここではそのような強者のことを、ストーリーテラーと呼ぶことにする。
自分の望む行為を手に入れる(あるいは手放したい行為を手放す)ための物語を上手く書けることは、上手に物語ることの一つの形ではある。しかし、上手に物語るというのはそれだけではない。例えば、自信を持ちたい人が、その望みを叶えることができていなくても、その状態で、自信のない人格に育つまでの物語を上手く書けるのなら、その人は、自信のない人格に育つまでの物語における強者、即ちストーリーテラーなのである。このような状態の人が、自信のない人格に育つまでの物語に自我を浸食されて、「自信を持ちたい!」と叫びながら、自ら進んで自信を失いにいく行為を繰り返すのをよく見かける。地獄だなと思う。
 
2-3.意味論としての物語
物語は、社会に対する意味論である。物語は、キャラクターや行為、その他の物語中のオブジェクトに対して、意味、価値、機能を提供する。最も分かりやすい例は貨幣だろう。人間が、先の例のように、自分を苦しい状況に置く物語に固執するのは、物語がそれに属するキャラクターに存在価値(あるいは存在そのもの)を提供してくれるからだろう。
 
2-4.自由意志と責任/報奨のシステム
私たちの暮らす社会に根強くはびこっているのが、「我々には自由意志というものが備わっていて、自由に行為を選択することができる」という呪詛だ。この呪詛は、キャラクターが、選択した行為の結果に対して責任を負ったり、報奨を受けたりすることの根拠に使われる。
 
2-5.行為の争奪・共有
私たちは、責任が伴う行為を負債、報奨が伴う行為を資産のように扱い、負債を押し付け合ったり、資産を奪い合ったり、共有したりする。
この争奪戦の中で、多くの資産を得た強者は、所有する好ましい行為をふんだんに使って物語を書くことができる。強者は物語を書くことで、責任を果たした人間に恩寵や赦しを与え、そうでない人間を罰する。もちろん、何もかもを自由に扱える強者というのは存在しないだろう。村上春樹の比喩を借りるなら、物語は壁で、キャラクターは卵だ。程度の差はあれ、私たちは物語がアンコントローラブルであることに苦しみ続けるだろう。
 
2-6.物語の再生産と自己疎外
物語に属するとき、私たちの行為は、物語の道具として使われてしまう。これは、私たちが、自分を支配しときに苦しめる物語を、自身の行為で再生産しているということでもある。このようなサイクルは自己強化していく性質があり、物語は徐々に私たちとって外的なものになっていき、私たちは疎外感を強めていく。
 
2-7.集団幻覚としての物語
物語は強固な集団幻覚としての性質を持つ。例えば、人間が「現実を見ろ」と他者を諭すとき、多くの場合は、「おれたちと同じ集団幻覚を見ろ」と諭しているのである。コミュニケーションの定義について、1.概論に「社会人のコミュニケーションとは、お互いがお互いの物語のキャラクターであることを相互承認することである。」と書いた。この定義に従うなら、「現実を見ろ」という要求は、コミュニケーションの要求の一形態と言える。
 
 
 
あとがき 〜こじらせ自分語りに寄せて〜
実は(というか完全にバレていると思うが)、呪詛・物語・社会は八割がた完成した原稿が先にあったもので、こじらせ自分語りというテーマでは書いていない。発表する場所が欲しくて藍鼠さん(@indigo_mou5e)に相談したら、主催者の方(@anzu_mmm)から許可が出たので、ここに投稿することにしたのだ。無理やり共通点を見い出すなら、一般自分・一般語りという感じになるだろうか。
 
 
3-1.こじらせ
僕は、こじらせという観点から人間を観察したことがないし、他の人のこじらせ自分語りを読んでもあまりピンとこなかった。そもそも僕はサークラの人間ではないので、みんなの文脈が分からないというのもあるのかもしれない。
主催者の方からは、「あなたが考えるこじらせを軽くで良いので書いてほしい。」と言われた。しかし、僕は自分の考えるこじらせについて書くどころか、「あの人はこじらせ、あの人はこじらせではない」、といった、単純な判定すらできる自信がない。すみません。
 
 
3-2.自分語り 〜物語ることの実践としての半生記(物語概念に至るまで)〜
 
語る用の自分の持ち合わせがない感じがする。僕は経験的な記憶に乏しい傾向があるのだと思う。ベビーカーの車輪が回転する様子とか、幼稚園の前の信号機が点滅する様子みたいな、エピソード以下の断片はそれなりに憶えている。そして、こういう断片が、僕の幼年期の全てだ。
 
小学校。生き物の生態を覚えることと、生き物の絵を描くことにおおよそ全ての情熱を費やした。節足動物の絵は必ず真上から描いたし、脊椎動物の絵は必ず真横から描いた。いじめられていたけど、気づかなかった。
 
中学校の普通学級に脳を破壊されて、3ヶ月ほど入院した。そこで、ADHDとLD、アスペの診断をもらった。そのとき隣に座っていた父親は、「障害のフルハウスじゃん」とか言って、なぜか嬉しそうに笑っていた。僕は、絶対こいつにも何かの診断下りるだろと思った記憶がある。
 
退院後、藍鼠さんと同じ特別支援学級へ通うことになった。
素人が作った自主制作アニメのキャラみたいな、ぎこちない自我での、楽しい学校生活だった。会話の仕方が分からなかったので、それまでに読んだ本の文章を主なソースにしつつ、周りの人間の言動も真似た。特別支援学級は、脳のここが機能してないとこうなるぞみたいなのがたくさんいて、毎日が面白かった。
 
普通の全日制の高校に進んで、中学時代の友人と別れた。たぶんそのことで、僕の自我は急激に社会性を増した。これは、高校に入って、付き合う人間が全員入れ替わったことで、中学時代の友人たちの言動やキャラクターを、あからさまにトレースできるようになったからだ。僕はその中でも特に、コミュニケーションの上手かったSさんをよくトレースした。僕はSさんに憧れていた。彼は、相手のまぶたのわずかな動きからもその人の感情を読み取り、その人が欲しいものを理解し、適切に気遣うことができる超能力者のような人間だった。でも彼は優しすぎたので、普通学級で心を病んで支援級に通っていたのだった。
僕がやったトレースは、コミュニケーションの上手い彼から見れば、表面的な猿真似にしか見えないお粗末なものだったとは思う。でも、僕には、中学時代の彼が自我の中に深く侵食している感覚があるし、もうずっと彼に会っていない今でも、彼との絆のようなものを感じることができる。
 
高校時代の僕は、電子工作をしたり、ロボットを作ったりしながら、それなりに楽しく過ごした。友人も一応できた。小学生の頃よりは、かなり良い学校生活を送ったと思う。だけど、常に暴力の危険があったし、僕のカーストはいつまでたってもピエロのままだった。
 
大学では人間関係を作らないことに決めた。理由は、なんとなく人間にうんざりしたからだ。一人で美術サークルをやって、一人で絵を40枚ぐらい貼ったりしていた。たぶん当てつけというか、ぼんやりした復讐心みたいなものがあったのだと思う。作曲もやるようになった。この頃は、一人で創作活動をしている自分はなんて社会性がないんだろうとか思っていた。物語概念を得た今になって振り返ると、やっていることが絵や音楽の時点でだいぶ社会性があるし、動機とかも人間らしいなと思う。
 
大学に入学してから一年ほどして、破滅した。人間が嫌だからといって、ADHD者が人間関係を断って学校生活を送るのは、とても厳しいと思った。高校時代、親身に僕の介護をしてくれていたNさんやOさんに、初めて感謝した。
 
カウンセリングに行くようになって、薬を飲むようになって、それから全部やめた。カウンセラーに生活のことを話していると、母親に学校であったことを聞かれて答えに窮していた小学生のころを思い出すのが嫌だったし、薬は錠剤がうまく飲めなくてむせたり吐いたりするのが嫌だった。家でなにもせず9ヶ月ぐらい過ごしたら、自然と体調は良くなった。
ずっと一人でいたことで、自我が変化した。自分がどういう人間かわからなくなって、そのことを気にすることもなくなった。社会に属していないと、たくさんの社会的行為を全て所有できなくなるので、自我が薄くなるのだと思う。このときの経験は、物語概念の構築にとても役立った。
 
今まで通っていた学科に行くのは何となく気が引けた。そこにあるもの全てが自分に敵意を向けているような、茫漠とした不安を打ち消すことができなかった。数学科に2年次編入しようと思ったが、ボーッとしているうちに編入試験の出願期間を過ぎてしまっていた。一年待つのは嫌だったので、大学をやめて手近なデザインの専門学校に入った。
僕は、人間関係を作りたくなかった。でも、そういうわけにはいかないということも身にしみて分かっていた。空気、サンドバック、ピエロの3つからしかジョブを選べないのはもう嫌だと思った。そこで、中学から高校に上がったときにしたように、高校の頃のコミュニケーション強者のWさんの言動を取り込むことにした。
Wさんは、Sさんとは全く違うタイプの強者だった。ものごとを決めつけ、粗暴で、何でも断言し、色んな概念を勝手気ままに接続し混同するタイプの人間だった。簡単に言うとジャイアンみたいな。彼は僕に暴力をふるってくるので、僕は彼のことが嫌いだった。憎んでいた。でも、自我のレパートリーを増やしたかったので、彼の言動を部分的にトレースすることにした。
 
それから、人間の行動原理についても、長い時間を割いて考えるようになった。そのなかで僕は、一般的にキャラクターコミュニケーションと言われているものの背後に、キャラクターが属する物語があるのではないかという着想を持った。そして、物語概念を体系化し、『呪詛・物語・社会』を書くに至った。
 
 
 
 
 
 
(次は8日目、主は来ませり(@zweisleepingさんです。)

彼氏がいるのにいろんな男を好きになってしまう—拗らせ複合女子大生の自分語り—

初めまして、サークルクラッシュ同好会幽霊会員の高科(@zibun_gatari)と申します。サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーの6日目を担当します。よろしくお願いします。

アドベントカレンダーで予告していたタイトルからコロコロ変わって申し訳ありません。内容は最初からほぼ決めていたのですが、この数週間で色々考えたり切り口を変えたりしていた結果このタイトルに落ち着きました。

以下、(拗らせ)自分語りに入ります。

 

 

 

私にとっての「拗らせ」とは、定義が冗長になってしまうが「変えるのが不可能または困難なこと(過去や、顔立ちや性別などの生まれつきの属性)に執着し、認知や社会生活に悪影響が出ている状態」である。わかりやすい例としては、学歴コンプレックスを拗らせた結果「自分が低学歴だから馬鹿にされている」という被害妄想を抱いて人間関係に失敗してしまう、とか。今回は、私の執着と認知の歪み、その結果として今燻らせている願望について語ろうと思う。

 

これまでの経緯について語る前に、前置きをしておく。私の来歴にはメインテーマの他にもいくつか拗らせやコンプレックスを抱えるポイントがあるが、たぶん私には拗らせやすい性格的素因として、「優れた人間でありたい」という強いこだわりがあると思う。具体的には、所属集団において常に誰が見ても上位にいる状態でなければならないし、脱落者になったらもう立ち直れないだろうという気持ちがある。遅くても小学校中学年にはそういう考えが(言語化できないにせよ)あったと思う。高校までは、一応「本分」とされている勉強に関して、私は成績順で常に上位にいられたのである程度精神が安定していた。しかし大学入学以降は順位のような客観的数値が出てこない上、GPAの高さが知性の深さを証明してくれるというわけでもないので集団内での自分の地位がわからず、不安に陥りがちになった。正直このこだわりこそが諸悪の根源であり、これがある限り、今後の人生でもあらゆる失敗や躓きが拗らせの素になるだろうとほぼ確信している(もし大学受験に失敗していたら、学歴コンプレックスをひどく拗らせていただろうなと思う)。だからこのこだわりを捨てなければならないのだが、捨て方もわからなければこれという原因も思い当たらず困っている。親には愛されて育ってきたし。今のところ十分な考察ができないので、この記事ではこだわりについての深掘りはせずに、私の来歴を見ていく上での前提として提示しておく。

 

小学校の頃から適切な距離感でコミュニケーションを取るのが苦手で、運動神経が悪いことも加わっていじめられがちだった。オタクになったのは小5くらいから。Dグレ神田ユウが好きになってキモオタと化した。その後閉鎖的な田舎の中学から逃げて中高一貫に入ったのに、入学式の日の自己紹介で好きな漫画の話をしてしまい完全に中学デビューに失敗する。誰彼構わずアニメや漫画の話をする、身なりに気を使わない、萌えの感情が沸点を超えると奇声を上げて怪しい動きをする、など、昨日のみにょーるさんの記事(http://circlecrash.hatenablog.com/entry/2017/12/05/210348)での中学時代と見事に似た振る舞いをしていた。みにょーるさんと違ったのは、根暗コミュ障と積極性の低さのために快活でもなければ真面目カーストの上にも行けなかった(行こうとしなかった)こと。美術部という名の女子率98%のオタク集団に入った上、性に目覚めた中学生男子の振る舞いが生理的に無理になってしまい(お前もパスワードこじ開けてR-18BL2次創作回し読みしてたくせにな)、完全に男子との関わりを絶ってしまった。幸いいじめは無く、オタクの話ができる友達もかなりいたが、カースト上位の可愛くて運動部かブラバンに入っていた女子には被害妄想を計算に入れても馬鹿にされていた。それに対して「オタクが日本経済回しとるんやぞ!」とリアルで憤ったり、オタクの強さを示すために世界地理のテストで満点を取るのに血道を上げたりした(当時ヘタリアにハマっていたので)。ちょっとしんどくなってきたので高校時代の話に移ります。

高校に入って、年上の男性に告白されて付き合った。”女”として見られたことに舞い上がってしまい、色気付いてマンガと同人誌に費やされていた小遣いがファッション誌とスキンケア用品とヘアアクセに消えた。今思えば年下の芋いオタク女に手を出してくるの結構アレですね(余談:別れた後にTwitterを見つけて覗いてみたらかなりのロリコンだった。勝手に対等な恋愛のつもりでいたので、もしかして2次ロリの小中学生とと似たまなざされ方をしてたのかなーと思いつらくなった)。今思い返して言語化できるのだが、対等に見られてない感じにウッとなることが時々あった。が、なんだかんだ半年くらい付き合った。なぜならカースト上位の女子は数週間~数ヶ月周期でくっついたり別れたりを繰り返していたからである。交際のことはほぼ口外していなかったが、私はあんな頭パーの尻軽たちと違うんだ、ちゃんと一定期間付き合って無理そうだとはっきりしたから別れたんだと内心イキっていたし、もしかして学年の女子で一桁番目に処女喪失早かったのでは?!?! と順位を数え上げて喜んだりしていた。高校前半はこのようなひたすら気持ち悪い独り相撲で費やされた。別れたあとはまたオタクに戻って黒バスに熱を上げた。結局「男友達」は中高6年間を通じて1人もできなかった。

私のオタク生活は、大学入学を転機に終わった。内面的な要因としてはTwitterを本格的に使い始め、見知らぬ大学生・院生とも繋がったこと。他の人のツイートからメタ認知を身につけたり、リツイートで回ってきた真面目なオタク叩きの記事を読んだりして自分の中高時代のキモさを悟った。スクールカーストが低いのは顔が悪いせいだと思って容姿コンプレックスに陥っていたのも、顔より言動の痛キモさと身だしなみのなってなさのせいだと納得し、その後1年くらいかけて治した。Twitterの負の側面としては、メタ認知をやりすぎて自意識過剰になったことと、痛いオタクの言動に共感性羞恥を発動してしまい感情が乱れてしまうことが挙げられる。アニメを見なくなった環境面の原因には、下宿のテレビに録画機能が無かったこともある。ニコニコで最新話を追えばいい話なのだが、娯楽のない田舎と厳しめの両親から解放されて京都に出てきた私は自由な生活にテンションを爆発させ、毎日外で遊び歩いていた。森見登美彦作品の世界観に憧れていたので、オタサーには入らずサークルクラッシュ同好会を始めとする「変わった」サークルばかり見ていた。こうして私は深夜アニメを見なくなった。アッサリとオタクをやめてしまったことは自分でもわりとショックだった。本当に2次元コンテンツが好きなら(呪いの構文だ)さっさとバイトを初めて録画用のハードを買えばよかったし、睡眠時間を削ってニコ動を見ることもできたはずだ。私は自分で思っていたほど二次元コンテンツを愛していなかったのか? オタクになる前から小説を読むのは好きだったのでそれを趣味にし直そうと思ったが、見回してみるとドストエフスキーを原書で読んだとかそういうレベルの読書好きがたくさんいた。私はそれまで岩波文庫を1冊も読んだことがなかった。絶対に彼らに勝てないと思った。趣味の領域で優劣を持ち込むのがおかしな話なのだが、その後も同様の理由で中高時代のオタクコンテンツよりも熱中できる趣味を見つけられず、Twitterではオタク構文を使い、気が向いたら漫喫に行って、時々ハヤカワSF文庫を読み、趣味の合いそうなフォロイーがおすすめする映画を見る程度の「オタク気質でサブカル周辺を漂う無趣味人間」になっている。無趣味であること(≒何も極められないこと)もそれなりに拗らせてしまっていると思う。

かなり脱線した。実は大学入学以降の女オタ辞めでについて最も強調したいファクターは、新たな女オタク友達を作りづらかったことである。中高の経験から、自分のような性格の人間が初手でオタク・カミングアウトをすることはカースト最下層への転落と同義だと学習していたので、同類を見つけることが難しかった。実際には大学にカーストなどほぼ無かったのだが。さらに、仮に自分がオタバレして構わないと思っていても、オタクの話を振ってみた相手がオタ隠しをしたがっている場合はアウティングになってしまう。周囲の目がある場で女子同士が少年漫画の話をするのは(たとえ萌えやCPの話題でなくても)オタクのレッテルを貼られる危険性がある。これは女子に限った話ではなく、自分がメインターゲットの属性でないコンテンツの話をする場合には共通のことであるように思う。男性が好きな少女漫画の話をするのには少年漫画の話をするよりも勇気がいるだろうし、中学生以上が公共の場で女児向けアニメの話をしたら「イタいオタク」と思われうるだろう。もちろん男性オタクの方がキャラクターに性的な視線を向けても許されやすいとか、オタクの間での女オタク叩きとかの問題も全く無関係な話ではないと思うが、ここでは深入りしないでおく。とにかく、大学に入ってから「オタク友達」としての女友達は1人もできなかった。中高の友達と話してみても、「大学の友達とオタク話はできない、こういう話ができるのは中高の人とだけ」という人がある程度いるように思う。

その点で、男子との方が漫画の話をしやすかった。男子となら、公共の場で少年漫画の話をしていても「痛いオタク女」ではなく「漫画の話もわかる女子」になれる(この思考は私の認知の歪みと内面化されたミソジニーによるものです)。ただ、男子とそういった話ができるようになったのは最近の話だ。大学には男子校・女子校出身者が多いせいか異性に対して挙動不審になる人間は珍しくなく、私も浮かずに済んだのだが、友達として親交を深めるのは別の話だった。そもそも人間関係の構築に時間がかかる性格なのに、コミュニケーション手段であるオタクコンテンツの話も封印していたため、1回生後期の時点で友達が男女合わせても片手に収まる程度にしかいなかった。しかも、その後数少ない男友達が恋人になり、そのことに懲りもせず舞い上がった結果、1年間くらいは恋愛にのめり込んでしまった。あまりに彼を生活の中心に置きすぎて勝手にメンヘラになったりしたので、いろいろな人間関係を構築しようと意識し始めたのが1年と少し前の話である(恋人とは対等に接することができる間柄だし、現在まで安定した交際が続いている)。サークルやTwitterのオフに積極的に顔を出してみたおかげで、3回生にして交友関係はだいぶ広く深くなった。上記のように男子とはよく漫画とか、あとは映画や小説などのコンテンツの話をする。物語構造を哲学用語で語ってみたりするのが、一種サブカル・マウンティング的なスリルもあってすごく楽しい(本質主義的な男女論は語りたくなく、恐らく社会的要因があると思うのだが、女性同士のコミュニケーションでこれをやろうとすると嫌われる気がする)。

話が散漫で綿密に自己分析しきれなかったが、ここまで男友達というものに執着する理由は、キモオタだったせいでカーストが低く、中高時代に男子に相手にされず、友達を作れず、まともな恋愛関係を結べなかったことへの代償行為なのだと思う。おそらく同じ理由から最近困っているのは、こういう話ができる仲のいい男性をすぐに好きになってしまうことだ(実はこれが今回のメインテーマです)。人数比で考えた時に、これまで会ってきた同世代男性に優しくされた経験が少なすぎて、未だにちょっと優しい言葉をかけられただけで嬉しくなってしまう。最近ヤバかったのは、たまたまアカデミアのパワハラ・セクハラ問題の話題になった時に「研究内容以外で辛い思いする必要なんて全く無いんだから、もしそういう目にあっても高科さん負けないでね(意訳)」と言われたことだ。女として見られたい一方で、男女比が偏りまくった理系学部での腫れ物に触るような「女扱い」にも辟易していた私にはその言葉がものすごく沁みた。1週間くらいハイテンションだったし、我ながら何様だよという感じだが「顔も好きだしもしフリーだったらセックスしてたな……」と考えたりした。恋人のことが一番だし、何より内面や性格もよく知った上で好きなので浮気や乗り換えは考えたことはないけれど、それはそれとして舞い上がってしまう(舞い上がったあとひどい罪悪感に襲われる)。このことについて色々手書きメモを取りながら考察したものを見返すと、「話してて頭がいいと思われたい」、「『あの時セックスできたかもな』みたいな感じで一生相手の記憶に残りたい」、「村上春樹っぽい固有名詞を出したけだるげな会話をしたい」など限界な内容ばかり書いてあって頭を抱える(村上春樹を読んだことはない)。性的な欲望が入った目で見られたいけれど、それを言葉や身体接触といった形では表現されたくない(断ったら気まずくなるし、うっかり受け入れて色々なものが破綻するとも限らないから)。もちろん、そもそも最初から実際にはそういう視線を向けられてはいないのである。しょっちゅうこういう妄想をしていている自分が心底気持ち悪い。書いていて気づいたけど、「性的な欲望が入った目で見られたいけれど、それを言葉や身体接触といった形では表現されたくない」という願望は、絶対にその成就を確信できない構造になっているので永遠に満たされることがないですね。頭では願望の無茶さを理解できたので、今回の悩みや変な願望が薄くなって消えてくれるといいなと思う。しばらくは、自制心を保ちながら平和な友人関係の構築に慣れて、中高時代の無念を穏やかに浄化したい。

 

 

 

私のまとまりが無い話にお付き合いくださりありがとうございました。

明日は完全なQ体(@torchfish_story)さんです。よろしくお願いします。

ヲタク・マウンティングがやめられない

 

はじめまして、みにょーると申します。アドベントカレンダーにトンチキなアカウントで連携しているのは、匿名性が高くてマトモに動かしている公開アカウントがアレしかなかったというだけなので、あまり気にしないでください。

普段はほぼサークラには顔を出さない(というより諸事情で出せない)女ではありますが、「拗らせ自分語り」というテーマでブログを書いてみたい!という衝動だけで参加させていただきました。他の方のテーマやブログを拝見する限り、明らかに俗物的で短絡的なテーマ、そして小学生のような文章力で色々と語る事は恥ずかしさしかしないのですが、参加させていただいた手前、何とか語っていこうと思います。よろしくお願いします。

まず最初に、このような機会を設けて下さったサークラ関係の皆様、ありがとうございました。

 

 

 

この世に生を受けてから2X年、所謂ヲタクとして人生を歩んで15年以上経った。

 

小学校低学年の頃、不二先輩に憧れていつか自分も青学のマネージャーをするのだと信じて疑わなかったのが、ヲタクとしての最古の記憶であろうか。伊角慎一郎に憧れて囲碁を始めたり、アスランとキラの死闘で涙を流した結果お年玉でNewtypeを買ったり、小学校のクラブ活動で下手な絵を描いたり、エヴァにハマって考察サイトや2ちゃんねるに入り浸ったり、ファンロードの事典コーナーで爆笑したり、コードギアス厨二病を拗らせたり、ファンサイトのパスワードを解読したりして、私はいつの間にか中学生になっていた。

 

今思えば典型的な「イタい」田舎のヲタクであった。誰にも構わず大声でアニメの話をし、所構わずアニメグッズを持ち込み、ボサボサの髪とクシャクシャの制服のスカートを振り乱し、興奮のあまりジャンプをすれば、巨体で教室を揺らす。

自分でもこんなのはやめなければならない、ヲタクは忌避されるイメージなのだ、と気付いていた。当時のヲタクにおける勝ち組の代名詞である「電車男」はあの時代に確かに居たのかもしれないが、大半の「電車男もどき」は燻り続けたまま、教室の端でひたすらイラストを描くのを遠巻きに見られているだけの存在だったのだ。

極端な話、そのような「イタさ」に関して陰口を言われ、虐め紛いの事でもされていれば、私の人生は良くも悪くも変わったのかもしれない。しかし何の因果か、人並みに勉強ができて、人並みに快活だったかつての私は、生徒会長や委員長といった真面目カーストの頂点に立ち、教師からの評判も得たことで、中学生レベルではそれなりの存在になっていた。かつての私にスマホを持たせたら、確実にイキリヲタクとして伝説を残していた事だろう。

完全に厨二を拗らせた状態だったが、受験に向けてひたすら勉強している時、「ヲタクじゃなくなるかもしれない」と初めて思った。そもそも、勉強を頑張った理由は「頭の良い高校に行けば、顔も良くて頭も良い理想の眼鏡男子に会える」と思ったからで、受験直前、スタードライバーのスガタくんのキスシーンを見ただけで情緒不安定になり、一度不合格になった人間のコメントとは思えないが。

 

高校に入ってからもそんな生活をやめられるはずがなく、声優ヲタクを拗らせたり、ヴィジュアル系を嗜んだりしていた。進学校にありがちな、ヲタクに限らず拘りが多い人間が多いという状況も私のヲタク人生を加速させていった。周りは楽しく恋愛したり、部活で青春を謳歌していたりしたが、私にはそんな事は関係なかった。私の楽しい事はヲタクだったのだ。

そんな生活や生来のメンヘラ気質もあり、1年間浪人した。禁欲を迫られるクソみたいな生活だったが、朝比奈祈織さんへの愛で人間性を辛うじて保った。我ながら人並みには頑張って勉強した。祈織様は高学歴でイケメンで何でも持っていて、そして馬鹿な女の子が嫌いだったからだ。彼を好きでいるのに相応しい私でなければならない。外見に拘っている余裕はなかったので、勉強をするしかなかった。せめて頭くらいは祈織様に相応しい女になりたかった。

 

当時第一志望だった大学に入った。祈織様はいなかった。大学生になって、金と時間を手にした私は、狂ったヲタクとして生きていた。わざわざ歴史を専攻するような歴史好きなど、基本ヲタク気質の人間しかいないため、周りを見渡せばヲタクしかいない環境も幸いした。その中でも狂ったヲタクとしてそれなりに有名だったのだから、本当に人生の全てが好きなものに支配されていたのだろうと思う。

しかし、しばらく経った後、一度だけ本当にヲタクをやめよう、やめられる、と思った事があった。本命の某男性声優の言動に勝手に失望して、ファンやら本人やらに嫌気が差し、久々にメンタルも悪化したからだ。その時、偶然3次元アイドルの王道、ジャニーズと遭遇する。かつての私にとって、ジャニーズはスクールカーストの頂点にいる人々の嗜み、程度にしか思っていなかった。選ばれし者達の選ばれし遊び。しかし、いつの間にかジャニーズの彼らは、私が手を伸ばしても構わないモノになっていたのだ。

………いや、そうではない。「今頃ジャニーズなんて」などという言葉が全てである。世間の常識では、恐らくジャニーズは思春期女児の通過儀礼なのだろう。それに気付いていながらも、ライブで隣になったカーストが高そうな高校生と同じ位のテンションで大騒ぎするのだから、本当に救えない。寧ろ、10年以上ヲタクをしてきた今だからこそ、偏見なく素直に、かつて経験できなかったモラトリアムの延長感覚で楽しむ事ができているのかもしれない。

 

ここまで語っておきながら、これは経歴ではなく遍歴なのだ。某本命声優に関してはガチ恋擬きの存在になってしまったし、三次元アイドルに走った所で二次元アイドルの追っかけも辞めることなどできず、草鞋を履き続ける生活を送っている。そして、不思議なことに草鞋を履く足は足りている。

好きな事を「好きだ」と堂々と言って、素直に楽しむのは、想像以上に難しい。それを知っているからこそ、この言葉を盾にして人生の中で1番楽しくて忙しいヲタク生活を送っている。

 

 

ここまで長い自分語りをしてしまったが、結局1番自分の人生の中で特異だったのは、今までの人生の中でヲタクを隠して生きていく事をしなかった、という事だ。

私の中の面白い話はヲタクをしていく上での面白い話だし、嬉しい話はガチャで目当てのキャラを引いた話だし、悲しい話はガチャで爆死した話やチケットが御用意されなかった話だし、恋愛は乙女ゲームの中の話だし、涙を流すのはライブやゲームの「エモい」シーンだし、全てヲタクをしている中で生まれている感情なのだ。勿論、普段の生活で感情が生まれないわけではない。しかし、生活の大半の喜怒哀楽が、私の生活の大半を占めるヲタク活動に支配されている。

 

しばしば、ヲタクは隠すべきマイノリティとして語られ、それが美学だと言われるフシがある。しかし、私にはそんな事はできなかった。「休みに何してるの?」と言われて言葉を濁すくらいなら、「寝てるかソシャゲしてるかDVD見てるかライブ行ってる」と言うし、「趣味は?」と言われて「音楽鑑賞(ジャンルは不問)」と答える位なら、「趣味じゃないけど好きな事はいっぱいあるよ」と言うし、「好きなタイプは?」と言われたら堂々と自担の名前を言う。自分の事を隠した結果、つまらない人間だと勝手に判断されるなんて、たまったものではない。せめて自己アピール位させてほしい。ペラペラで在り来たりな人生を、「節操のないヤバいヲタク」というキャラ性のハリボテで何とか形にしてきた惨めな私を。

 

私からヲタクを取れば、恐らく何も残らない。残るのは、薄っぺらな人生経験と、申し訳程度の流行への関心と、共通項がなければロクに会話も続かない、ただのつまらない人間だ。

私はヲタクを自称する事で、「〇〇」というひとりの人間として認識されているのだと思う。「〜くん好きだったよね?」「〜ハマってたよね?」などと言われると、恥ずかしさもあるが、少なくともそのモノが覚えられているうちは私も覚えられているのだ、とどこか安心する。あるいは、人並み以下の外見や性格を、「ヲタク」という免罪符のようなキーワードで補っているだけかもしれない。

 

 

アイデンティティなどと大層な事を言うつもりはない。しかし、今までの私は「ヲタクであること」を個性に据えてきてしまった。そして何よりも、私自身がヲタクである事を楽しんでしまっている以上、これからもこの生き方を変えないだろうし、きっとヲタクも辞められないと思う。また、いわゆるヲタク趣味以外の人生の楽しみ方を知らないことも大きい。こんな女が万が一、今好きな物たちに関心を示さなくなっても、また新しい何かにハマって、何かの「ヲタク」になるだけだろう。

 

かつて、そして今も、社会の「ヲタク」に向けられる目はそれなりに厳しい。しかし、「パンピ」になったところで、キラキラした「普通の女」と認識される、とは私は全く思えない。それこそ本当に今以上に何も個性がなく、自己否定だけが募っていくようなつまらない人間で、大衆にも馴染めない、癌的存在になるだけだ。他人に溶け込む事も必要だと思うが、つまらない人間だからこそ、自分を殺してまで「普通の人」に見られたいと思わない。だったら私は動物園の見世物でいい。存在がエンタテイメントでいい。他人に笑われてバカにされようが、何を言われようが、私と関わってくれる一部の人たちに1人の人間として認識してもらえるうちは、「節操のないヤバいヲタク」として生きていきたい。それが20数年間で身に付けた、私の承認欲求を満たし、人並みに楽しく生きていくための処世術だ。世間の大抵のヲタクは、普通にそれを隠して当然の顔をしてアイデンティティや個性を確立しているのだから、月並みの言葉ではあるが、本当に凄いと思う。そんな生き方が出来たら良かったとのに、とも無い物ねだりで思ったりするが、そんな事ができていたら、とっくの昔にヲタクなんてやめているだろう。

 

 

「処世術」や「アイデンティティ」などと大層な理屈や言葉で当て嵌めてしまう程の拘りに満ちた、他人にとっては大抵大した事のないもの、これが私にとっての「拗らせ」である。

これが私にとっては「ヲタク活動」だっただけだが、ヲタクとして生きる事で、何とか社会性やらコミュニケーション能力やらその他諸々、人間らしい感情も教訓も得てきたのだから馬鹿にできたものではない。有り体に言えば人生と言っても差し支えないのだ。 

 

残念な人生、ヲタク事しか語ることがない。

だから、ヲタク・マウンティングがやめられない。

 

  

明日は高科さん(@zibun_gatari)です。よろしくお願いします。

そして拙い文ではありましたが、ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。

 

 

サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーがスタートします

初めまして、桐生あんず(id:kiryuanzu)と申します。最近サークルクラッシュ同好会の方で6号の会誌編集をやらせていただいた者です。

6号では、自分語り系の記事が多く寄稿されました。そこで、自分語り系の記事をまとめて順に掲載し「拗らせ男子の自分語り特集」と題して特集する形式で発表しました。

会誌の中では、童貞をアイデンティティーとしていた男が童貞を喪うまでの話(『喪失』-名称未定のユーレイさん)、サークルクラッシュ同好会初代会長の人生と比較しながら自分の今までの人生を語った話(『サークルクラッシュ同好会の会長になった彼とならなかった私−初代会長ホリィ・セン(脱)神格化への補助線』-Silloi)など、とても生々しくも心を打たれる面白い文章が掲載されました。

編集をしながらこのようなかなり踏み入った自分語りを色んな人にしてもらえたらすごく興味深い文章がたくさん生まれるのではないかと思いました。

そこで、会員の人たちに自分語りをしてもらうために、今回サークルクラッシュ同好会でアドベントカレンダーの企画をすることにしました。

adventar.org

アドベントカレンダーとは、元の意味はクリスマスまでの期間に日数を数えるために使用されるカレンダーのことです。「アドベント」とは、クリスマスを待ち望む期間とのことで、つまりは12月1日から25日までです。

ここで言われているアドベントカレンダーは、インターネットの界隈(特にエンジニア界隈)で流行っている「12月1日から25日まで、つまりはアドベントの期間に特定のテーマについて複数人でブログ記事を書いてリレーをつなげていく」といった企画で、クリスマスまでの期間のお祭りイベントのようなものです。

この文化を知って、各会員の人に自分語りをしてもらうのにちょうどいい企画だなと思い、早速今年やろうと思ったのが今回の流れです。

 

アドベントカレンダーに登録してもらったサークルクラッシュ同好会会員には、6号の特集名『拗らせ男子の自分語り」に倣って、「拗らせ自分語り」をテーマに記事を書いてもらいたいと思っています。

「拗らせ自分語り」をテーマに語るということで、登録者の人には一つお願いをしたいと思っています。

それは、あなたの中の「拗らせ」とは何か、ということに軽くでも触れてほしいと思っています。「拗らせ」はすごく曖昧な言葉だと思いますし、あくまでも「自分語り」(またはそれに準ずる何かへの語り)を思いっきりしてもらうことが今回の一番の目的なので、うまく表しにくいと感じたら深い言及はしてもらわなくて大丈夫です。*1

 

それでは、1日目ということで企画者の桐生あんずがトップバッターをやらせていただきたいと思います。 (これから文章レベルの高い方々に記事を書いていただくので初日の記事を飾るのはとても恐れ多いですが頑張らせていただきます…)

今回の企画の基本的な説明ということで敬語体の文章で今まで書かせていただきましたが、自分語りのしやすい常体文で書かせていただきたいと思います。それではよろしくお願いします。

 

 

私の拗らせとは、「自分が持っていないと思い込んでいる事象に対して執着的に考え続けてしまう」という思考そのものであったと思う。

私は大学1回生から3回生まで「普通の女の子」の扱いをされないことに悩んでいた。

私は小学生から喋り方が吃音気味で、言動の中身も良い意味で表すなら「天然」*2っぽく、「悪い子ではないけど、ちょっと変わってて面白い子だよね」と扱いをよく受けていたし、今でも受けている気がする。

実際、その立ち位置で私が好きなコミュニティに所属することに何ら問題はなかったけれど、「面白い子」という芸人枠的な扱いを受けていたとしても、ちゃんと「女の子」という扱いを受けているか不安であった。

なぜそこまで不安を抱えてしまうことになったのは、周囲の女性が私から見てもとても魅力的な人たちばかりだったというのがある。その女性たちが実際に男性から承認を受けていたり、女性として扱いをされているのを見て自分にそのような女性性は持てているのだろうかとすごく不安になってしまっていった。

私が悩んでいる時期の間、決して女性として扱われることが全くなかったという訳でもないのだが、飲み会やサークルの集まりで自分よりも可愛らしく周りからも女の子扱いをちゃんと受けている子がいると、自分がそういった振る舞いができないことに度々落ち込んでしまっていた。

 

具体的なエピソードを挙げるとしたら、サークルクラッシュ同好会で去年まで行われていた「ビンタ屋」を眺めていた時の感情を述べるべきだと思う。

私は「ビンタ屋」を任された女性たちが、男性たちからビンタを頼まれ生き生きとしビンタを行う姿に羨望の眼差しを抱いていた。その中で、「自分はきっとそうなれない」という自己嫌悪に苦しんでしまっていた。「ビンタ屋」に関わる人たちに罪はないけれど、ブースで行われているのを見ると、自意識を針でちくちくと刺されてしまうような感情に襲われていた。

「あんずさんもやってみたらどうですか」と促されたこともあったが、「私はそんなことができる女ではない」という自意識が邪魔をしてできる行為では決してなかった。*3

 

そのような葛藤を抱えつつ無為に大学生活を過ごしていたが、大学2回生の時に、雨宮まみ著の「女子をこじらせて」というエッセー本をホリィセンに貸してもらったことで心境に変化が起きる。

 

女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 この本は、「こじらせ女子」という言葉の生みの親であるAVライターの雨宮まみさん*4の半生録である。当書において、彼女は自分の女性性へのコンプレックスに対してずっと訴えており、世間で言われるような「女の子」になれないことに対しての言及がされていた。

そこには、私が大学1年からずっと抱え込んでいた「ちゃんとした女の子になれないという葛藤」が言語化されていたのである。

私の抱え込んでいる解決しようのなさそうな感情はこの「こじらせ女子」という言葉を深く読み取ることで、分かるのではないかと当時躍起になってずっと考えていたと思う。

自分は本当に「こじらせ女子」なのか。「こじらせ女子」かもしれないけど、そもそも何をこじらせているのか。

自分が何者であるかもわからない大学生活の前半戦の時期に、自分が何をアイデンティティーにできるかを必死に捉えたかったのだと思う。だから、ジェンダー系の本を何冊も手にとって読んでみたり、デートDVを研究する教授の授業を真剣に聞き入っていた。

そんな生活を過ごしているうちに、自分の感情をもっと言語化したいと思い、大学3回生の後期にサークルクラッシュ同好会会誌5号で「あの子はずっと、『お姫様』だった。」という小説を発表した。その作品でも、「面白い女」にはなれても、「可愛い女」になれない葛藤やオタサーの姫になろうとしても本物の姫にはなれない葛藤を詰め込んでいたと思う。

その作品を読んでくださった方に「すごく共感しました」という感想を何度かもらうことができ、とても嬉しかったことを覚えている。

 

これ以上「こじらせてました」エピソードを述べても仕方ないので今現在の状態を説明するが、自分を「こじらせ女子」だと思うことはなくなったし、自分が女性性をこじらせているという自意識は殆ど消え失せてしまった。

あれほど、自分は何者なんだと考え込んで行動していたのに、なぜこのようなことになったのか。

一番大きな理由として「考える暇がなくなった」ことがあげられる。

私は3回生後期からプログラミングによるもの作りに興味を持ち、最近ではWebデザインなどにも多少手を出すようになった。

そういった創作活動をやることで人から承認を得られることや、勉強をすること自体の楽しさに夢中になり、気づいたら女性性がどうとか考えることが減り、ジェンダー論的な正しさを考えるセンサーもどんどんと薄くなっていってしまったと思う。

要は、女性性以外で承認を得られるアイデンティティーを見つけてしまったことで、女性というアイデンティティーに重きを置くことをやめてしまったのだ。

そうなったからといって、「女性である自分」を捨てたわけではないし、むしろ楽しむ(?)ようになった気がする。

具体的なエピソードとして、今年のNFで黒セーラー服を着て売り子をしたという話を挙げたい。

正直、大学3回生の時までだったら自意識に耐えられなくて着ることすらできなかっただろう。

だけど、開き直った今、「せっかく大学生で文化祭に参加できるのだから、多少痛くとも可愛らしいコスプレをしてみたい」という気持ちを抑えきれず衝動的に通販で注文をしていた。

実際着てみたところ、多少恥ずかしかったけれど人から可愛いと言われるのはすごく嬉しかったし、同じくJKのコスプレをした会員の人たちと写真を撮るのが本当に楽しかった。*5

大学生活の中で初めて、自意識に邪魔されずベタに文化祭を心から楽しめたと思う。

女性性をこじらせることから解放されて、やれることは増えたのではないかと思う。

解放されたのは、先ほど述べたプログラミング活動というアイデンティティーを得たのが大きな理由だが、他にも色々とある。

加齢による変化で、顔が多少小さくなって前よりも女性的な顔になったことや、体重の減少により痩せて体型に良い意味で変化がもたらされたこととか。

女性性に執着しなくなったうちに、結果的に自然と自分の女性性を楽しむことができるようになったと言えるのかもしれない。

「普通の女の子」には今でもなれてないと思うけど、私が欲しかったものはちょっとだけ手に入れられたような気がする。

 

最近見たプリパラの回でこのような話がある。

 「自分には夢がない」と常にネガティブ思考で自分に自信を持つことができない幸多みちるというキャラクターが今期のプリパラには登場する。

彼女はプリパラに入ることで「できるできるできるできるできる」が口癖の超ポジティブなクールビューティーアイドルの「ミーチル」に変身することができる。私が見た回では、幸多みちるは「私にはずっと夢がなかった」と言い、自己を否定し続けるが「ミーチル」の存在が自身の夢であり、子供の頃からずっと望んでいた姿であることが分かる。

本編の情報量がかなり多いため、全てを解説することは自重するが、幸多みちるとミーチルの名前の元ネタである「幸せの青い鳥」で示されるように、本当に望んでいたものはすぐそばに(自己の中に)隠されているのかもしれない。

 

そのような顛末で、今のところ女性性に過剰な執着をすることはなくなった。

でも、女性性に対するこじらせがなくなったところで、また何か自分に関わる要素に「こじらせ」の意識を向けてしまうだろうし、実際もうこじらせているかもしれない。

それでも、多少前より生きやすくなったことは素直に喜ぶべきだと思う。

 

それでは、2日目の方(サークラ姉さん)、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

*1:これは、会員の方から「拗らせ」の定義についてよくわからないから登録者の人々の拗らせの定義を記事で述べて欲しいという言及があったことでお願いすることにしました。難しいお願いかもしれませんがよろしくお願いいたします…。

*2:つまりはADHD特性の傾向がかなり見られる

*3:本質的にMの人間であるので、自意識が邪魔をしなくても人を殴る行為は進んでできなかったと今思う。

*4:とても胸が苦しい事実だが、昨年亡くなられた。先日一周忌を迎えたのもあり、追悼の意としてもこの本はちゃんと取り上げたいと思った

*5:Twitterにその時の写真を投稿したらfav数が50近く程になっていて色々と気が狂いそうになった。

サークラ合宿2017@白浜 総括

挨拶

こんにちは。サークラ同好会会員のSilloiです。

このたび和歌山県南紀・白浜における2泊3日の合宿を桐生あんずとともに企画・実施し、累計8人の会員が参加しました。

 

経緯

サークルクラッシュ同好会は2014年夏の白浜を最後に合宿を実施していなかった。8月ごろにSilloiがTwitter上などで再び合宿を実施したい旨を漏らす。桐生あんずがそれに賛同し、いくつかの候補地の中から、京都大学の施設に格安で宿泊できる白浜に決定。参加者を募ったところ、最大で計14人が参加を希望した。部屋の予約の都合で、期間は23日から25日、一泊目はAirbnbによる民宿に、二泊目は白浜海の家に宿泊することになる。参加者は計8人で、うち1人は二日目からの参加となった。

 

旅程

一日目、午前8時に白浜ブルースカイ号にて京都発、12時台に白浜着。昼食、白良浜で海遊びの後、民泊にチェックイン。休憩の後、スーパーで食材を調達し、ベランダで夜遅くまでバーベキュー。

二日目、午前11時に民泊をチェックアウト。日産レンタカーから廃車された車に荷物を積み白浜海の家に移動、チェックイン。1日遅れて到着した参加者を乗せ、とれとれ市場で土産や食材を購入、とれとれの湯で入浴。スーパーで食材を調達し、キッチンでカレーを調理、ダイニングで食事。その後、屋外で花火。

三日目、午前9時半に白浜海の家をチェックアウト。参加者のうち一方が南方熊楠記念館、他方が白浜水族館に分かれ、見学。バスでアドベンチャーワールドに移動し、入場。午後4時に白浜ブルースカイ号に乗車し、午後8時台に京都着。夕食の後、解散。

 

よかった点・参考にすべき点

  • 日程と宿の予約との調整に苦戦した。そのため、1泊目と2泊目の宿が異なるという厄介な事態になってしまったが、そつなく移動できたのでよかった。白浜海の家の予約は1ヶ月前からなので、なるべく早く押さえておくべき。なお後述のように、民泊を取る方が施設も豪華でよいかもしれない。
  • 今回のバス予約では複数名一括の予約が簡便でリスクも少なかった。またアドベンチャーワールド入場引換券とセットで購入すると千円ほど安くなり、大変お得感があった。
  • 旅程をちゃんと立てておいたことは、いくら強調してもしすぎることはない。今回は試みとして行程さんというツールを使ってみたが、参加者にも好評だった。この時間にこの観光地に行くなど、もっと予定を固めることもできたが、その場の空気や参加者の希望に沿って行くのが、柔軟に対応できてよいだろう。とにかくバスやチェックアウトの時間に遅れなければ、それで十分だ。
  • 白良浜では水着持参の参加者はトイレ等で着替えた後、すぐに泳ぎに出ることができた。9月も下旬なので寒いかと思ったがそんなことはなく、二日目には海水浴客も多く来ていた。レジャーシートをコンビニで購入したが、堤防に荷物を置いて見ておけば十分だった。周辺にはシャワーはもとより洗足場もなかったので、サンダルを履いておけば好都合だった。
  • 民泊が素晴らしかった。設備は必要十分以上に整っており、部屋数も多く各部屋にほぼ一人が寝ることができた。大浴場はお湯が溜められなかったため、プールとして遊ばれた。バーベキューが備え付けの設備でできたが、木炭の質が悪く火がなかなか点かなかったため、ドライヤーを使うなどの工夫を要した。
  • かしぱんがデジタル一眼レフのカメラを持ってきていたのは良かった。撮影した写真は桐生あんずのMacbook Proに取り込み、その日のうちにグループラインに共有された。
  • 就寝の遅い参加者は午前3時ごろに就寝した。起床の早い参加者は午前7時台には起きていたが、遅い者はチェックイン1時間前を過ぎても眠っており、起こす必要があった。2泊目の海の家では朝までカードゲームをしたり夜空の星を見るなどして過ごし、結果ほとんど徹夜に近い参加者もあった。
  • 民宿は坂の上にあったが、番地しか伝えていなかったためレンタカーが坂の下に配車され、運転者が取りに行くことになった。坂上の道が狭く急坂なのに対して、海沿いの道は道は広いがカーブが多い。観光客が行き来するため注意が必要。なお業務スーパーまでは歩いて20分あまりだった。
  • 一泊目、二泊目ともに虫(特に大型のカメムシ)が多く、光につられてしばしば室内に侵入してくるので困った。(追記:どうやらこの年は空梅雨のためにカメムシが異常発生していたそうである。)
  • 白浜海の家の最寄バス停は臨海(円月島)。
  • アドベンチャーワールド出園時に参加者の一人がコインロッカーのキーを紛失する事態が発生したが、サービス係員に相談したところ補償金を支払う形で無事バスに乗ることができた。

 

感想

とても楽しい合宿になりました。予定から外れることなく、計画通り事が運んだのも、共同企画者の桐生あんずをはじめ、参加者全員の協力のおかげです。ありがとうございました。

バスの乗車に全員が間に合うかどうか心配だったのですが、ちゃんと集まったのでホッとしました。バスは三列シートで間隔も広く快適で、喋ったり寝たりしながら移動時間を過ごせました。行きはともかく帰りはかなり疲れていたことを考えると、白浜までレンタカーではなくバスで来たのは正解だったと思います。

ご飯はどれも美味しかったです、カレーは少しシャバシャバになってしまいましたが。外で名物料理を食べるのも良いですが、みんなでバーベキューといった形で食事をするのも楽しくてよいと思います。

当初は1泊2日で考えていた予定を2泊3日に伸ばしたわけですが、時間が余るということはなくフルに使ったかなという印象です。むしろ三日目ともなるとさすがに参加者の中にも疲れがあらわになる者が出てきたので、泊数はこれくらいが適切かなと感じました。

今回の合宿では、記録をちゃんと残そうと考える者が十分いたようです。アルバムやTogetterまとめのような形で写真やアーカイブが残されました。一眼レフで精細な写真がたくさん撮れたのはよかったですね。

 次回に向けて

さっそく次の合宿を期待する声がありました。直近で最もありそうなのは、来年冬に長野あたりの雪山でスキー・スノーボードをやろうという企画です。というのも長野にも志賀高原ヒュッテという京大の施設があるのです。あるいは時期を問わずとも、Airbnbで民宿を取ると安くで上等な家屋を利用できることがわかったので、合宿でなくても時々こうして複数名で離れた場所に宿泊するのもよいと話していました。年に一度と言わず、レジャー気分で度々行けたらよいですね。

参考リンク

  • Togetterまとめ

togetter.com

6/21ネット経験をかたる当事者研究の記録

こんにちは~

京都は梅雨も真っ盛りですね。洗濯物を雨でもう一度洗濯しているまりもです。

先日はサークルクラッシュ同好会の例会で放課後当事者研究がおこなわれました。わたし、当事者研究に参加するの初めてでした!そしてこの報告を書いています。べんきょぅになります。ごりごり。

ということで、きのう話したことのまとめです。

わたしを入れて7人で、テーブルを囲んで話しました(わたしはメモばかりしていましたが。)最初に、当事者研究について簡単な説明がありました。それから自己紹介をしました。時計回りに、ハンドルネーム(ツイッターのアカウント名など)と、自分の生きづらさに名前をつける、というのと、あとは任意で自分について簡単に(学年など)紹介しました。そのあと時計回りで、「インターネット、SNSについて、初めて使ったときのことや、どういう使い方をしているのか」について一人ずつ話しました。これで半分くらいの時間を使って(1時間くらい)、残りの半分でそれぞれが気になったことを雑談しました。最後に、「自分についての発見」と「印象に残ったひと言」を、またもや時計回りに一人ずつ言っておわりました。時計仕掛けの当事者研究でした。

いちおう前提として、ネットやSNSが生きづらさを生み出しているという問題意識がありました。「ツイッターやめよう」という結論に至ったひともいました。「ツイッターやめろ」とつぶやく、という結論に至ったひともいました。わたしも定期でつぶやいていこうと思います。しかし、一方でSNSという、リアル(face to face)以外の人間関係がより所になっているというひともいました。「ツイッターが人生を変えた」という至言もありました。わたしもツイッターに人生を変えてもらおうと思います。

それぞれのネット・SNS経験について、簡単に紹介がありました。これ、なかなか興味深かったです。小学校低学年からチャットや掲示板に出入りしていた方が二人もいました。まりもさんの本格的なネット経験は中2くらいからで、中3が黒歴史のピークです。おもしろフラッシュ倉庫への言及多数。20代前半の世代の共通経験になっていることがうかがえました。

SNSの話題については、やはりツイッターが盛り上がりました。アカウント使い分けや鍵垢の技術が披露されました。アカウントが十進法で二けたに達している方までいらっしゃいました。ツイッターは個人が複数のアカウントを持つことができ、また、そのツイートを通知したり閲覧したりできる相手を、オープンにしたり限定したりすることもできます。こうして、フォロワーを増やしていろいろな界隈とつながったり、逆に仲間内で閉じたツイッターコミュニティを形成したり、リアルとネットとで別の人格をつくったり、いろいろできるわけです。

ツイートにfavをつける機能の役割については意見が分かれました。おもしろいツイートだったことを知らせるのが意図された機能だと思いますが、既読や後で読むためのメモとしての役割、相手に好意を伝える(媚を売る)、自分の存在を誇示する、ツイートが見られていることを示して威嚇する、といったさまざまな役割があるのでした。むやみやたらにfavをすることへの嫌悪感を持っている方もいました。

「ff外からリプ」することについても、肯定的な意見と否定的な意見がありました。こうした言語化されていないツイッターマナーがいろいろあります。こうして積極的に他のアカウントと関わる方もいれば、ロム専(他人のツイートを読むだけ)に徹するひともいました。

で、わたしがおもしろかったのはネトストについて。鍵垢を「こじあけ」たり、裏垢を探し出したりする(してしまう)こと、そして得られる「表立っては絶対にわからなかった思考」を覗き見れてしまうことが、ネットのゲーム性であり、中毒性であり、しかし、どうみても、こうした負の感情(嫉妬、嫌悪、被害者意識、下心の曝露、支配欲など)に支えられた好奇心を満足させてしまうことこそ、ネットが産み出す「生きづらさ」の原因になっています。話しはここに尽きる。うむ。コミュニケーションを秘密にする機能は、親密さにはっきりと差をつけることで、承認欲求を挑発すると思います。会長もサークルクラッシュの要因がこのあたりにあると考えていたはず。

最後に、話がツイッターばかりになってしまったけれど、もっと他のサービスもあるよね、という意見がありました。そのとおりだ。ツイッターはすべてことば(記号)で伝えられますが、たとえば音声や映像によるコミュニケーションもSNSで可能になっています。それから、SNSで知り合った後のオフ会など、ネットとリアルの関係についても踏み込む余地がありそうでした。いろいろ比較してみると、ツイッターはあくまでつぶやきを発信するのであって、「会話」するサービスではないところに特徴があると思います。

当事者研究というよりSNSの使い方研究のようになってしまいました。今までの話題では、生きづらさをあまり浮き彫りにはできなかったかもしれません。

情報を広く発信したり、グループを作って共有したり、意見を戦わせたり界隈とつながったりするとき、こうしたときは、SNSのとてもポジティブな側面が光ると思います。しかし、親密さのコントロールをSNSでしようとするとき、そこには魔界が広がっています。「つきあいはじめたらブロックする」という過激な意見もありましたが、一理あります。恋愛中はSNSを断つというのは良い方法だと思います。しかしこうした泥沼にこそ、SNSの生きづらさに分け入るヒントもあるはずなのです。

人のセックスを直視せよ 3/21 AV鑑賞会報告

こんにちは、Silloiです。

先月21日にサクラ荘にて催されたAV鑑賞会について報告します。

1. 概要

3月21日26時頃からサクラ荘のリビングで、代々木忠監督によるAV作品『面接 VOL.121. セックス中毒の若奥さん 処女二年半のお姉さん これオモロイでぇ』、『ようこそ催淫(アブナイ)世界へ 13 野生が欲しい女たちとSEXきらいなAV女優』の二本を上映・鑑賞した。参加者は累計11人、うち8人が男性、3人が女性だった。夜が明けた30時頃に解散した。

2. 動機と狙い

今回の企画を立ち上げた動機、そして狙いについて説明しましょう。

動機は私個人が代々木忠監督作品を見たかったこと、そして他の人にも見てもらいたかったことです。

代々木忠はその監督作品の数と影響からして日本を代表するAV監督といってよい存在です。その作品の特色は、女性のオーガズムを撮ることへの執念にあります。

性愛は人間心理の深奥に関わることから、オーガズムの追求は個人のトラウマやコンプレックス、ライフスタイルなどに否応なくかかわります。それゆえその作品は一個の人間のドキュメンタリーとしての色合いを強くしています。AV鑑賞会を健全な形で行うことができると考えたのも、作品のこのような性質によります。

もう一点、この企画には裏の狙いがありました。それは参加者がともに「セックスを直視する」ことです。

我々には人のセックスを目にする機会がありません。より正確には、セックスの一部始終を学習する機会を与えられていません。

世間はセックスに対するイメージで溢れていますが、それらは断片的なものでしかありません。しかしセックスは過程であり、一つの貫徹したコミュニケーションです。一回のセックスに立ち会うことは、百冊のセックス投稿誌を読むより有益でしょう。

他方で、我々はセックスを忌避します。性的な体験が我々の日常に侵入してくることを惧れます。しかしセックスは日常の延長線上にあり、その間に橋を架けない限り向こう岸には行けません。男性の私としては、まず女体というものを聖から俗の領域に落とし込むことが、我々に必要と考えていました。

3. 実際

『ザ・面接』シリーズはやはり特筆すべきものがありました。AV女優の採用面接という設定で作品は展開されます。モデル一人につき二人の男優が応接し、うち一人と本格的な行為へと発展します。その周りでは面接官として制服の女性が5、6人程度、人物や行為の採点をします。このようなメタ的な舞台設定のなかで、カメラを回す代々木監督はモデルに相手の目を見るよう、二人の世界に没入するよう要求します(この辺りの様子に関しては代々木忠自身の著作を読むとよくわかります)。

参加者は予想した通りおとなしく作品を見ていました。モデルや男優のリアクションに会場からも反応が起こるのは面白い動きだったと思います。実際『ザ・面接』シリーズでは、モデルの経歴や志向への関心もさることながら、男優のキャラクターと彼らの掛け合いは多くの笑いを引き出しました。一方で『ようこそ催淫世界へ』の方はちょっと退屈だった感があります。時間が時間だったのもあり、多くの参加者がまどろんでいました。

参加者によって程度に差はありますが、客観的批評と主観的没入を参加者が相互に行き来したように見えました。その点においてこの試みは成功だったと思います。

4. 今後

今回、「就活のネタ作りとする」という口実でメンバーの皆さんに協力を仰ぎ、その実現に漕ぎつけることができてよかったと思っています。参加を希望していたにもかかわらずできなかった方、ごめんなさい。

最後に私が他に企画としてやりたいと思っていることをいくつか挙げます。

一つはクラブとかある種のバーに行ってみたいです。クラブはナンパ界隈では一つの拠点ですし、ハプニングバーはネットで面白い話をいろいろ聞きますが、それが実態かどうかも含めて謎の多い領域だと思います。どういう人たちがそこに出入りしているのかの調査も含めて、実地を踏んでみたいと前々から思っていました。

あるいはそれに近いものとして、相席屋にも行ってみたいですね。出会いそのものを提供するサービス業態としては、近年もっともジェントリフィケートされたものだと思います。これらは一人でも行けなくはないですが、同志がいれば心強いかなといったものです。

あと以前考えていたものとして、催眠誘導ワークショップを一時計画していました。準備とフィードバックが大変そうなので頓挫してしまいましたが。誰か他に主導してくださる方いませんかね…?

それから新入生を巻き込んでついでに加入させる企画ができるとよいですね。会内の多様性が増すことは我々にとっての利益だと思いますので。