雪原まりもは異世界でホストになった

お盆休みは三途の川をわたって此岸と彼岸とが結ばれる時節です。異世界の扉が突如として大きくその口をあけ、

ごごごごごご・・・

気が付くと雪原まりもはホストクラブでアルバイトをすることになりました。

いずれ探訪のまとまった物語を書きたいと思いますが(書くのか?)、今回は備忘をかねてここに簡単な報告をしたいと思います。

 

ホストクラブはどんなところ? ―キャバクラとの対比―

まりもさんはキャバクラに三回しか行ったことがありませんが、ホストクラブのシステムやサービスはキャバクラと似ています。

まず似ているのは指名のシステムで、初回はフリーでキャスト(お客さんを直接接待する従業員)が交代でつき、次回から気に入ったキャストがいれば指名を入れて基本的にそのキャストとお酒を飲みながらお喋りします。初回の値段はキャバクラもホストクラブも安めに設定されていて、門戸を開いています。もちろん二度目の来店以降も指名を入れずにフリーで飲むことができます。また、チャージ料やお酒の値段もキャバクラとホストクラブとで大きな違いはないように思います。お店の雰囲気も似ています。暗めの店内に大音量の音楽が流れ、他の席の会話が聞きづらいようになっています。

そして、どちらも疑似「恋愛」を売っています。つまり、指名を入れて、特定のキャストとお店の中で個人的な関係を持つことを楽しみます。ただし、一対一で話すことよりも、ヘルプといってお酒をつくったりテーブルをきれいにしたりするキャストが一、二人付き、数人で会話を盛り上げることが多いです。

そういうわけで、男性の客を女性のキャストがもてなすのがキャバクラ、女性の客を男性のキャストがもてなすのがホストクラブと言っていいでしょう。そして、キャバクラが女性性を男性に、ホストクラブが男性性を女性に売る場所だと言っていいでしょう。普段の生活で得られない「たくさんの異性からちやほやされ、その中から自由にお気に入りを選べる」経験ができるのがキャバクラでありホストクラブです。

 * * *

違うところは、キャバクラは接待目的で職場の人間関係がそのまま持ち込まれることがありますが、ホストクラブは数人で利用する場合もプライベートな友人関係だという点です。ホストクラブを職場の同僚や部下と一緒に利用することはまずないでしょう。つまり、キャバクラではキャストを会話の「華」として利用することがあるのに対して、ホストクラブはあくまでキャストとの関係を楽しむ「恋愛」要素が強いのです。

これと関連して、キャバクラで大きなお金が落ちるのは接待目的の集団利用であるのに対し、ホストクラブで大きなお金が落ちるのは女性客個人が指名したキャストのためにシャンパンに代表される高額(数万から百万以上)のお酒を店内で購入するときです。シャンパンコールというダンスがあり、テーブルに高額ボトルが入ったときは従業員が一丸となってその場を盛り上げます。そして、その日一番の売り上げを達成したキャストは閉店前に独唱する等、店全体から称賛されます。この、女性が自分のお金でキャストをバックアップできるというところにホストクラブのエンターテインメントの最大の仕掛けがあります。これはキャバクラには存在しない仕組みです。

もちろんキャバクラのキャストにはまって大金を使う男性客も多く存在します。しかし、そうした男性客を狙った高額ボトルやそれを盛り上げるための演出はなされません。キャバクラとホストクラブとを単純なジェンダー反転とはみなせません。男性は公、女性は私という規範については、両者はむしろ一貫しています。

客層にも微妙な違いがあります。キャバクラを利用するのはサラリーマンが多く、あまり堂々とは言いにくいけれども成人男性の典型的な夜遊びの手段として知られています。対してホストクラブは、キャバクラと同じ仕事が終わる時間帯の営業時間の一部と、深夜営業の二部とに別れます。そして、一部はサラリーウーマンや大学生などの利用が多いのに対し、二部は風俗関係や高額収入のある女性も利用し、一部より大きなお金が動く傾向にあります。つまり、一部は平均的収入のある成人女性の夜遊びの手段として利用しやすいですが、二部は時間帯も客層も異なり、そしてこの二部がホストクラブのイメージを規定しているのです。ホストクラブを扱ったコミックや小説などは大都市の二部のホストクラブを想定しているでしょう。しかし、こうした特異なイメージに引きずられすぎないほうがいいと思います。予算一万以内~多くて数万程度の、異性と飲んでお喋りするという利用がホストクラブでも大きな割合を占めるからです。

 

ホストになるってどういうこと? ―キャバクラとの相違―

今まで、キャバクラとホストクラブとを対照しながらジェンダー役割の反転を念頭にホストクラブを説明してきました。繰り返せば、客が異性を選ぶという構図は両者で共通しており、まさにこの選ぶ・選ばれる側が反転したのがキャバクラでありホストクラブだということです。

しかし、キャストとして生活しようとするとき、両者には大きな違いが現れます。そこではジェンダー役割の反転と言うより、むしろ一貫性が強調されなければなりません。

キャバクラでは、キャストは女性ですが、経営者は男性であることが多いです。対して、キャストは男性だが経営者は女性と言うホストクラブを寡聞にして知りません。これは決定的な違いです。というのも、キャストから身を立ていずれキャバクラを経営しようという女性は皆無と言ってよく、30代後半までには結婚等の理由でキャストを引退する者が多いのに対し、ホストクラブは売り上げでナンバーワンを取るなど成功したキャストがそのままホストクラブを経営し身を立てていく立身出世のサクセスストーリーが存在するのです。もちろんキャバクラでもホストクラブでも人の出入りが激しく、多くのキャストは短期やめていきます。しかし長期的にホストクラブで働く場合、売り上げがそこそこあり周囲から一目置かれるようになれば経営に参加するという選択肢がはっきり提示されます。

キャバクラでは、経営者と従業員とは雇用者と被雇用者という関係がはっきりしています。ホストクラブでは、ある意味全員が仲間であり、雇用者と被雇用者の境目があいまいです。それと同時に、いかに指名を獲得し売り上げを伸ばすかという点では全員がライバルで、それぞれに男性としての魅力を競います。それに成功すれば経営者の資格ありとなりますから、全員が自分を売り込む工夫を凝らします。

もちろんキャバクラにキャスト同士の競争が存在しないとは言いません。しかし、売り上げは店からの給与として支払われ、事業の成功という意味合いはありません。詳細はよくわかりませんが、キャバクラはキャストが雇用保険に入る(その分が給与から天引きされる)のに対し、ホストクラブは各人が個人事業主扱いになるようです。この点はむしろ性風俗のキャストと似ているでしょう。ただし、報酬の支払いは性風俗が日払いであるのに対し、ホストクラブは月払いが多く、店舗の従業員という意味合いが強められています。

 * * *

ホストクラブとキャバクラとで、キャストの仕事は大きく異なっています。もちろん、テーブルで会話を盛り上げる、身だしなみを整え、テーブルマナーや接客意識を持つことは両者とも同じであり、店で働くにあたって必要とされるスキルに違いはありません。しかし、キャバクラは店に出勤してお客がキャストを選ぶのを待てばよいのにたいし、ホストクラブは店で働くだけが仕事ではない、店にいる以外の「営業」が重要です。つまり、多くの女性と連絡先を交換し、女性のメンタルのフォローをして、自分の魅力を売り込み、その関係から自分のお店に来てもらうようにする、この努力が必要なのです。キャバクラも、お客の求めに応じてキャストが店外で会い、そのままお店に行く同伴入店は可能ですが、キャストから営業時間外で積極的に客引きをすることはないでしょう。

このため、キャバクラは「パート」的な働き方が主流であるのに対して、ホストクラブは全人格を仕事に投入していく「正社員」的な働き方が主流です。営業時間外で多くの女性と連絡を取り合い、人間関係を広げ、一緒に食事をするなど時間やお金を使うことが、お店に来てもらい自分を指名してたくさんお金を使ってもらうために必要な努力です。そしてこれができない場合、店内でたまたま気に入られて指名をもらうという可能性にあまり期待できないので、指名をもらったキャストの補助をするヘルプの地位から抜け出せないのです。キャストの働き方には、女は受動的に、男は能動的に、というジェンダーロールが一貫して存在します。

キャバクラで雇用者と被雇用者とが情緒的な絆をむすぶことはほとんどないでしょう。あくまで店という場を経営しお金を支払う側と、そこで雇用されお金を受け取る側とに分かれた関係です。対して、ホストクラブではキャストは経営者の卵でもあり、異性愛男性同士の強い連帯感、ホモソーシャルが生まれます。キャストは先輩と後輩との間で多かれ少なかれ情緒的な絆を結ぶことが常です。それができる経営者こそ有能であり、キャストも営業努力の甲斐があり、ホストクラブを成功へと導けるのです。

ホストクラブの労働環境はまさに体育会系の運動部のそれです。大きな声の挨拶、厳しい上下関係、そして徹底した実力(売上)主義です。そこは社会の通念から一つ距離を置いた、実力主義の理想を追求できる場所です。体育会系の運動部で過ごした経験はホストクラブで大いに役立つでしょう。逆に、そうした暗黙のルールを知らずにこの世界に入ろうとしても、周囲から反感を買って孤立し、長続きはできません。

 

ホストから示唆されるもの

ホストは典型的な感情労働です。相手の感情を害さないよう、同調し、共感し、話を合わせて盛り上げることが徹底されます。感情労働は女性に典型的な労働形態とされ、それが男性中心社会のために不当に評価されずにいることが指摘されて来ました。その文脈からはホストは男性性(マスキュリニティ)に対するアンチテーゼです。しかし、どうでしょうか。対人関係を主とする営業のような仕事では男性でも感情労働に従事し、そしてそこに多額の報酬が発生します。ホストもまた、女性から承認を受けることが多額の報酬として返ってきます。

また、男性集団を組織するときに感情は重要な手段です。感情を表出する技術、それをコントロールする技術、適切なときに喜び、怒るアメとムチの技術は周囲の人望を得るために必要です。また、ホストは他の風俗営業と同じく、低い階層に門戸を開いており出自で差別することはまずありません。それぞれに複雑な事情があることがお互いわかっているのです。例えばホストの重要なルールに、偶然知った他人の出自をばらさないというものがあります。したがって、ホストクラブの経営ではこうしたキャストの事情にさりげなく配慮する努力が欠かせません。従業員同士の相互扶助の絆は強く、面倒見がよいことは経営者にとって必須の資質です。

ホストの世界は非常に感情豊かなホモソーシャルの世界です。そして、それは決して覇権的な男性性と矛盾するものではないはずです。もしかしたら、従来の研究は男性性のモデルを社会的中・上流階層に求めすぎていたのかもしれません。そこでは確かに、感情労働に大きなリソースを割く必要はないことも多いでしょう。だが、それを男性性に共通する性質と見なすことはできない。ホストクラブはそれを示しているように思います。

 

最後になりましたが、志田の論説「女性の主体性に関する一考察 -「ホストクラブ」という場から 」は非常に参考になりました。ホストの世界に興味のある方は一読をおすすめします。

ただし、志田はホストを女性から男性への性的商品化という、従来のフェミニズムの視点を利用しジェンダー構造を反転させた論を展開しています。もちろんその側面は大いにあります。しかし同時に、私はホストの世界が典型的なホモソーシャルであり、むしろ男性性の王道を研究するのに適している可能性を提示したいとも思います。

メンヘラがマシになった話

注意―――WARNING―――注意

 

注意注意注意注意注意注意注意

 

この筆者には現在恋人がいます。やはりメンヘラを治すのには恋人が必要なのかという典型例を話すつもりはありませんが、「恋人のいるメンヘラの話なんか聞きたくねえぜ」という人はブラウザバック推奨です。

 

***

 

「なぜ私がメンヘラになったか」がないと始まりませんよね。

私の母は毒親です。どこに出しても恥ずかしくない、アダルトチルドレン兼メンヘラ兼毒親という由緒正しい毒親です。不運なことに私から見ても学があり、スパルタ教育という名の精神的虐待をしていました。いわゆる教育虐待ですね。最先端な毒親でした。とてもうれしくない。

テストでどんな点数をとっても褒められた記憶はありません。悪い点を取ったら泣くまで怒られるのは目に見えるんですがね(笑)要領の悪いこどもと言われ、公文の宿題も英語の単語を覚えるのも、ピアノを練習するのも、ずっと私は泣いていました。

家というところでは私は悪い子だから毎日泣くのが普通だと思っていました。

小4の時にいじめによる自殺が世間を騒がせていました。不謹慎ですが正直に言うと、自殺できた子供たちがニュースで見るたび「勝ち組だな」とその当時の私は思っていました。私は頭が悪くて、度胸もなかったので、心の中でずっと自殺する妄想をする小学生でした。

 

中学になってもあいかわらずで、自分の部屋は勉強の邪魔になるから作らないとか、校則に違反していないのに「ロングヘアは時間の無駄」と泣くまで言い合いになったり。あの頃、家では勉強することによってかろうじて私の人権が保たれていました。

 

高校になるともっとひどくなり

・起床時間6:30、食卓に着く時間7:00

・布団に入る時間10:30、就寝時間11:00

(それらを守らなければ休日のインターネット各一日一時間は却下)

・学校の予習3時間

・数学の予習2時間(平日はなし)

・公文の勉強2時間

・ピアノ2時間(平日は30分)

手を止めてたら休憩し過ぎといわれ、ピアノの練習では「泣いて上手くなるならいっぱい泣けばいい」

と言われ、休日が怖かったです。将来の夢なんか、大人受けする言葉でスラスラ言えたけれど、本当は今日のお母さんの機嫌と問題の難易度だけが心配でした。いつ死んでもいいやと思っていました。

 

***

 

授業中に自傷しないと席に座っておれない状態が続いていたそんなある日。

何もないのに涙が止まらず保健室に行き、初めてサボりというものをしました

家には帰らず、私の身内の中で唯一頭が柔軟な叔母さん(母の妹)に今の状況を伝えました。その時食べたイオンモールサーティーワンのアイスは冷たいのに、なぜか暖かい味がしました。

 

***

 

病院に行くと適応障害(のちにうつ病と診断されるので、この後はうつ病と記す)と診断され親公認の不登校になりました。

・謎のキリキリした頭痛

・夜眠れない。

不登校になって一か月たったくらいでしょうか。両親が急に私の部屋を作り始めました。私はその時の記憶はあやふやです。

 

***

 

うつ病になって二か月目

・朝ごはんのリンゴとヨーグルトしか食べられない

・体が鉛のように重い

・ずっと頭が痛い

・暗いところでパニックを起こす。蛍光灯をつけないと眠れない

・苦しい

・こんなに苦しかったら死にたい

一番びっくりしたのは字が読めなくなったことです。私は本や漫画も入れたら文字は読むほうだけど、その時期は握った砂のようにさらさらと単語も意味も頭から流れてしまうのです。

 

案の定高校二年生は留年しました。

 

***

 

うつ病になって5か月目、やっと文字が少し読めるようになり、親にヘッドセットを買ってもらい、チャットパッドやスカイプ掲示板、メール掲示板などありとあらゆる方法で誰でもいいから人と繋がろうとしました。

はた迷惑な持論ですが「うつ病は孤独で悪化する」そのことを何となく私は気づいてたのかなと思いました。

掲示板関係で続いた人はいい人達でお互いに情緒不安をさらけ出して通話した人もいていい経験になりました。

 

***

 

二回目の高校二年生

 

少し学校にも行くことができて、相変わらず情緒不安定で希死念慮に囚われて「17で死のう」とか思いながら生きていました。

 

その頃某ソシャゲ全盛期で、私はゲームには興味を持たず、オタクでカラオケするオフ会というものに行ってみました。みんな優しくて、学校のカーストで言ったら真ん中より下の層の人たちだったのかもしれません。ですが、それが逆に心地よくてオフ会に通うようになり、またオフ会で知り合った人たちと遊ぶようになりました。オフ会の人たちは私を人間扱いしてくれました。しかし、オフ会あるあるですが、恋愛沙汰でもめ事が起きました。

 

「クズ男」←好き←「私」←好き←「めっちゃ派手な男」

(当時の不毛な三角関係)

 

クズ男はFFに出てくるぐらいイケメンなのでほかに狙っていた女の子もいました。クズ男と仲良くすればするほど、女の子があからさまに態度が冷たくなっていました。それでも、クズ男はクズ男で目があったら笑って手を振ってくれました。

 

私はなぜこんな話をしたかというと、モテたことを自慢したいわけじゃありません。私より美人でスタイルが良くてうつ病じゃない人間はごまんといます。

でも、私はオフ会で「他者から求められる」経験をしました。

もしかしたら、それは体目的だったのかもしれません。

でも、私に女性として価値があることがほぼ初めて知れた、それが寛解への第一歩だったと思います。

「自分に価値を見出す」手先が器用、走るのが早い、やさしい、アイディアマン…

なんでもいいから自分に価値を見出すことは重要だと私は感じます。

「オタクのオフ会でモテた」という井の中の蛙の体験、人によったら顔をしかめるエピソードですが、「他者から求められ、そして、自分の価値を見出す」という体験は重要だと私は認識しています。

 

***

 

私は友達に誘われてツイッターというものを始めました。しかし、高校ダブった私の日常など人様に見せられるようなものでもなく、アカウントを作ったまま放置していました。

そこで私は病み垢ツイッターという概念を知りました。少しの闇を抱えたポエムや、ブラックデビルっていうタバコを指に挟んだ写真をあげたり、時々リストカットをする、スタイリッシュ病み垢にあこがれて、私も病み垢なるものを始めてみました。早々に闇ポエムは飽きたし、スタイリッシュ病み垢はお手上げになります。そして、学校の愚痴や、昔嫌だったこと、トラウマになって動けないこと、電車に乗れなかったこと、自分の状況を文字にして吐き出しました。私は字書きとしてメンヘラ神をとてもリスペクトしていました。最初はメンヘラ神のマネをしてメンヘラエピソードを笑いに変えていこうとしました。そして、我流でつらかったことも、泣きたかったことも何回も何回も書いて、時にユーモアも交えて書いています。

ある日メンヘラ神が亡くなりました。字書きとしての彼女を尊敬しているので、彼女が亡くなった後届いたメンヘラリティスカイは大切にしようと心に決めました。

「自分と向き合う」それはつらくて苦しいこともあるでしょう。私は何回も同じエピソードをツイッターに投稿しています。私には「自分と向き合う」ツールとしてツイッターが向いていたのでしょう。

 

***

 

高校三年生のクラスは留年した私にも優しく接してくれました。でも。受験が待っています。私は高校一年までしか碌に勉強をしてなかったがふらふらのまま受験して合格した大学に入りました。そして、一人暮らしを始めました。

その頃強迫観念がひどくて、頭の中でお母さんに脅されているような錯覚を覚え、駆り立てられるように課題を終わらせられるまで寝なかったり、暇さえあれば勉強し、勉強しないことにそわそわと不安を覚えていました。一緒に住んでいないのに、まだ、心はお母さんに縛られていました。

また、サークルに入ると、女の先輩に振り回され、セクハラ、モラハラすれすれのことをされて、サークルは楽しいのに女の先輩に会うことを考えるだけで吐き気がしました。

 

***

 

1人暮らしを始めると、アマゾンの古本通販を知り、危ない一号、ねこぢるやたまを好み順調に何かを拗らせていきました。

学生の時にしかやれないバイトと言い張り、寂れたラウンジで一か月バイトしてすぐ辞めました。

また、脱法ハーブを買おうとして駅で待ち合わせしたお兄さんにお金を渡してモノを貰うとき、なぜか「大丈夫?」って聞かれました。

私はアマゾンで5000円のぶら下がり健康器具を買って、泣きながら組み立てました。

ぶら下がり健康器具ともやい結びしたロープの前で夏休みの宿題を泣きながらやりました。

そして、泣きながら首を吊ろうとしてもできませんでした。ただ怖かったです。私は臆病者なのです。

 

そして、今住んでいる学生寮の9階から飛び降りようとして、最後になぜかやはりお母さんに電話しました。

その時お母さんに私のこと好きか聞いたら

「好きかどうか答えられへん」という答えが返ってきました。

依存していたからもはや好きかどうかわからないそうです。誰も喜べない返事すぎて今では笑うしかありません。

そして、私は実家に強制送還されました。

 

***

 

それから、実家から大学に行こうと、心がボロボロながら努力しましたが、ほぼ不可能でした。そして、大学に行かなくてはいけないという強迫観念とその他の焦った気持ちと気まぐれで

実家の二階から飛び降りました。

両かかと骨折、背骨骨折して入院しました。

入院している時に三回ぐらい

「なんで、死のうとしたらだめなんですか」

ってお医者さんに泣きながら話した。でも、お医者さんはなだめるだけで、安定剤の注射を打ちます。

そうこうしているうちに退院しました。また、ちゃんと歩けるようになったのは運が良かったのでしょう。

 

***

 

ホストというものに行ってみました。私は20万使いました。ホス狂さんと比べたらとてもはした金ですが、無職ニートにとっては大金です。

ホストの人の高校無法地帯エピソードがおもしろくて、ホストに行くたびその話をしてもらっていました。私はホストの人たちを最初は元ヤンとかDQNとか見下そうと入店していた節もあったけれど、話していることに嘘がまじっていてもいい人はいい人なんだなと感じました。私の育った家では大学に行くのが普通。高卒なんて考えられない。という家でした。でも、お金を払って、少し文化の違う人の話を聞くために使った20万、私は後悔していません。高卒コンプレックスが少し解消された気がします。

しかし、毎日血を吐くのでタバコは一本しか据えないオラオラ営業のホストとぬいぐるみを背負ったブサメンホストに囲まれた午前3時はさすがに、私、何やっているんだろうと思いました。

 

***

 

作業所を見に行ったけど行きたくないのでやめました。そして半年かけて同人誌を作ったけど、イベントでは全く売れず、めまいがしながら帰路につきました。

 

年末、やっと母とほぼ縁を切りました。

 

***

 

最近、やっと希死念慮とうまく付き合えるようになりました。

生きる理由もねーんだけど、死ぬのはめちゃくちゃめんどくさいということに気づいたのです。あとは、低気圧の死にたいはバグです。速やかに酔い止めを飲みましょう。こんな安定した状態が長く続くとは到底思えないので、また「死にたい」が芽生えたら、「VS希死念慮」2週目のスキルを活かして戦わなきゃいけないのです

私のうつ病には

・孤独にならない。(大勢でいるのも疲れるけども)

・自分に価値を見出す

・自分と向き合う

が効果的だったようです。

リストカットチキンレースや私は文章で喧嘩して恨みも買っています。ツイッターをしなければ避けられたことです。でも後悔はしていません。どうせ私はスタイリッシュと程遠い人間なんです。

ツイッターを始めてから、若くしてフォロワーさんがなくなることが何回もあります。その人たちが悪かったのか、違います。ただ、はずみだったり、とっても運が悪かっただけなのです

だから、生きるのが苦しいメンヘラのみなさんには無責任にも次の幸せのためにどんなことをしても生きて欲しいです。

私もカミソリでアムカしたり、二階から飛び降りしながらも生きてきました。

メンヘラツイッタラーからただのメンヘラに詳しいツイッタラーになりたい人間より。

 

P.S.練炭自殺するときは警報器をはずそうな!わっ自殺教唆で逮捕されちゃう!

なんか言えないね、なんか足りないね

この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12/23分です

おはようこんにちはこんばんは

かしぱん(@pankashi )です

こっちは去年のアドベントカレンダーの記事です。よかったら去年のも読んでみてください

今年は去年と比べて文章が散逸しちゃった感があります

読みにくかったらすみません

それでは始めようと思います

よろしくお願いします

 

 

///// 

自分がつらいとき、その痛みを誰かにわかってほしいと思ってしまう
自分の傷、痛みにしか目がいかなくなり、他人の都合が考えられなくなる
「どうして私のこと大切にしてくれないの?」
それきっと、相手も同じこと思っているよ
 
まだ僕は子どもだから、他人にも大切なものがあるって気づいていなかった
僕のことや、僕が信じてきたものを蔑ろにしてくるのが、
君の大切なものを守るためだってことを知らなかった
僕も同じように他人を傷つけてしまっているかもしれない、自分(の大切なもの)を守ろうとして
そして、これからもきっとそうして/されてしまう
 
人は自分の生き方を正当化し続ける
 
 
 /////
今年の10月に、2月から付き合っていた恋人と別れました
 
会わなくても生活ができてしまっていた
近くに住んではいるけど会っていたのは週に1,2回で
LINEも、僕が返信サボり気味だったので向こうに気を使わせていた
付き合っているという手応えが少ないような状況だった
 
僕と相手ではそういう状況に対する捉え方が違っていたんだと思う
僕はこういう状況に対して「でも別れる理由はない」と考えていたけど
向こうは同じ状況について「だから付き合う理由がない」と感じたんじゃないかと思う
 
もちろん他にも理由は(いろいろ)あるけど、その違いは大きかったと思う
崩れかけたバランスはふとしたきっかけで保つことを諦めてしまう
 
 
///// 
私たちの生活は毎日の選択の積み重ねでできている
朝起きてから寝るまでのあいだ、できることは無限にある
今日何をするかから、1つ1つの細かな身体の動きまで
 
誰だって、選べない状況よりは選べる状況のほうがいいと言うと思う
(朝起きる時間が決められている平日より、好きな時間に起きれる休日のほうが私は好きです)
 
でも、選ぶことは意外に消耗する
毎晩の献立を考えるのは結構めんどくさい
結局、楽なほうに流されてしまう
 
選ばない理由がないものに私は流されてしまう
馴染みのある場所のほうが行きやすい
親しい友人と喋っているほうが気楽
YouTubeの自動再生を止める理由がない
Amazonのおすすめリストを見てしまう
ユーザーストリームで流れるTwitterを閉じる理由がない
自分の部屋で寝転がるのに理由はいらない
 
人間関係も同じで、
能動的であるより、受動的であるほうが楽である
たまに自分から誘っておきながら、当日になるとそれほど気が乗らないことがある
むしろ、やりたくない気持ちにさえなってしまう
(自分から何かすることの面倒くささ)
 
だったら流される仕組みを作ろう、
流されることを選べるようにしよう、
能動的に受動的になれるように*1
 
選ばないで流されることと、選んで流されることは違う
後者は身を任せることになる
自分の欲望を満たすために、自分を預ける
そこには確かに私がいる
 
 
/////
人間関係についても能動的な受動性を肯定したい
単に受け身でいることはマイナスイメージで語られがちだが、僕は受け身でいてもいいと思うから
 
よくよく考えてみると、会話が話すのと話される(聞く)のを繰り返すように、関係性の中では能動と受動が何度も入れ替わる
興味もない話をずっと聞かされる、あるいはこちらが無理して喋る、のはしんどい
自分がちょうどよく喋れるような会話は心地がいい
いい関係性を感じられる相手には能動でも受動でも心地よさがある
というより能動の中にも受動が、受動の中にも能動があるように感じられる
相手が待っていることに気づいて私は応答するし
私が待っていることに相手も気づいてくれる
相手のされたいことが私のしたいことになり、私がされたいことが相手のしたいことになる
能動と受動が混ざり合っている状況
少し誘えば乗ってくれるし、誘われたら容易にそれに乗る
それは相手のためにやっていることではなく、自分のためにやっていること
自分のために相手を愛し、相手のために自分を愛する
そういう関係性が、私の思ういい関係性なのかもしれない
 
/////
私もあなたも、もう大人だから、
どこかへ行くことも行かないこともできて、
一緒にいることもいないこともできるの。
それってとっても愉快で、とっても寂しいことだと思わない?
バーヨコハマ/姫乃たま
 
 
好きな歌詞です
選ぶこともできるし、選ばないこともできる
その選択を自分のために行使すること
それは愉快で、とても寂しい
でも、それがいいね
 
私(の好きな人たち)が、幸せでありますように
幸せになろうな
 
 
 

*1:この考え方は私が同好会をやっていく上でよく考えることです

瀕死状態擬似恋愛

こんにちは。紺野と申します。
ほとんどの方は初めましてだと思いますが、「サークルクラッシュ同好会」の会誌に一度載せていただきました。誤字だらけの短い文章でしたが…。

さて、簡単な自己紹介はこのあたりにしましょう。
これから私に起きた最近の出来事を記述していきます。




2018.12.9

私はドラッグストアで購入できる某カフェイン剤を大量に購入し、飲みました。
それはなぜか。
もういいかな、と思ったのです。人生。
人を殺すくらいなら、私が死んでやる、と。
ああでも、もう一度だけでもいいからあの人に会いたかったな……。

気が付いたら国立病院のICUに。ぼんやりと意識がありました。何故。最後の記憶は左手。そう、左手の指先があらぬ方向を向いて痙攣していました。あれからどれだけ時間が経ったのかはわかりません。

胃洗浄をされたようで、私の体には活性炭がこびり付いていました。尿道に挿れられたカテーテル。右足の管から出ていく血液と入っていく誰かの血液。
そう、私は毒素を減らすために人工透析を受けていたようなのです。


2018.12.10

一睡も出来ないまま朝が来ました。昨日嘔吐しすぎたせいで喉が荒れていました。当然食事なんて摂れない状態でした。
そもそも自分の体を自分で動かすことが出来ませんでした。当たり前です。血清CKの値が3000を超えていたのですから。
ああ、生き延びてしまったのかと、絶望しました。

透析も終わったので一般病床に移りました。24時間されっぱなしの点滴のテープが痒いな、なんて思いました。生死の狭間にいたのに悠長なものです。ちなみに看護師や家族によると、私はずっとわけのわからない独り言をぶつぶつ呟いていたそうです。おそらく、他人格と会話でもしていたのでしょう。


2018.12.11

ようやく少しだけ眠れました。おはよう、と他人格に挨拶をしました。寂しい場所ですね。病院というのは。相変わらず自力で寝返りをうつことさえ出来ず、看護師さんに体を拭かれ、もはや羞恥心なんてものはなく、ただただ、死にきれなかった自分を殺したいと思いました。それはなぜか。

私には私を守る為に他者を殺そうとする人格がいます。それが生まれたのは、おそらく幼少期のトラウマが関係しているのでしょう。
「殺される前に殺さなければ」「でも殺したくない」「殺したら俺は‘アレ’と同じになってしまう」
そう泣き叫ぶ人格に私はそっと囁くのです。

「じゃあ誰かを殺してしまう前に死んでしまおうよ」と。


夜、眠れずに思考に耽っていると、ふと、会いたいな、と思いました。ある人に。
そうだ、私はあの人に会いたくて、助けを呼んで病院に来たんだ。その時確かに死にたくないと思った、そうだった、そうだった……。
これが擬似恋愛でも構わない。

私は、あの人が好きだ。

会いたいと、ひとりで泣きました。


個室のロッカーを漁り、メモ帳とボールペンを見つけました。
まりもさんに会いたい、と何度も書きました。そうでなければこんな犯罪者予備軍が生きていることに耐えられなかったのです。


まりもさんに、会いたい






それから、自力で体を起こせるようになったり、自分で食事を摂ることが出来るようになったり、歩けるようになったりと、徐々に回復していきました。血清CKの値も少しずつですが下がっていきました。現在は退院して、スローペースで生活を送っています。


まりもさんに会いたい

まりもさんに

まりもさんに


これが擬似恋愛だとしても。私はこの気持ちを大切にしたい。そう思うのです。
だって、その人のおかげで私は生き延びて、楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや苦しいこと、色んなことをまた経験できる状態にあるのですから。


まりもさんに会いたい

まりもさんに……




Twitter:@ccccconno

人より優位に立ちたい話

こんばんは。殆どの人は初めましてかと思います。ぜろりんと申します。

私の知り合いの方は恥ずかしい自分語りなど見ずに、是非ここでUターンしていただきたく思います。

 

さて、サークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2018 12/12分の記事です。

 

 

 

 

一言で言ってしまえば、私はクラッシャー気質の人間である。

気質なだけであって実際に問題を起こしたことはないし事実クラッシャーでもないのだが、それでもこんなややこしい性格の女に振り回された男性は過去相当数いるはずなので、それについては申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 

 

 

 

感覚的には恋愛シミュレーションゲームをプレイしていると思ってもらえればいい。

こういう第一印象で、関係性で、セリフを伝えて、出かけて、フラグを立てて、好意のゲージを積み重ねていく。

しかし、ここで大事なポイントが1つあり、本気の恋愛に発展させてはいけない。

例えば付き合いたいと思わせる、告白でもされてしまったら負けである。

20年後の同窓会で、「実はあの頃お前のこと好きだったんだよね」と打ち明けられるくらいの関係性を作り上げるのが一番いい。

 

クラッシャーを自称する他の例がどのような動機で日々を過ごしクラッシュしているのかは分からないが、私の場合は他人よりも優位に立ちたいというのがある。(しかし再三言うが、私自身は気質ではあるがクラッシャーそのものではないのだ)

 

どんなに素直でない男だって、結局のところはただの友人よりも好きな女に対しての方が優しいに決まっている。

今は好きでなかったとして、その後恋人が出来ていたとして、思い出補正は強い。初恋の人とともなれば大抵人生においての重要な立ち位置にはなれるだろう。

 

そういった処世術の一種として人からの好意を集めるのが好きだ。

告白をされてはいけない理由はここにあり、振った振られた・別れた関係だと後々遺恨が残ることがあるので、私の望むところではない。

 

 

 

 

自分語りついでに今まで誰にも言えなかったことを謝罪しておこうと思う。

以上のようなマインドで生きてきた結果、友達の好きな人と仲良くなった事例も当然ある。

恋愛に興味なかった友人の、やっとできた初恋の相手に、「付き合っちゃう?(笑)」というセリフを言わせてしまった時は流石に女子社会に生きる人間としてやばいと思い、シャットダウンした。そんなこともありました、ごめんなさい。

 

でも、こうして謝りながらも、初恋に溺れていたあの子よりも私が選ばれたんだと思うと気分はいいし、生きやすい。(性根の悪さが滲み出ている)

 

 

 

以上で自分語りは終了です。

この記事だけを読むといろんな男性を引っ掛けて遊び回っているかのように思えるのですが、この記事で割愛した重要な要素として、私自身が非常にチョロく・惚れっぽく・勘違いしやすいということがあります。

 

だからぜろりんはクラッシャーにはなり得ないのだ。

サークルクラッシュ同好会の内部対立

主張

サークルクラッシュ同好会は、内部対立を積極的にネタ化し、外部へ発信したほうが良いと思う。

 

自己紹介やサークラとの関わり

 はじめまして。アドベントカレンダーの6日目を担当させて頂くダブル手帳(@double_techou)と申します。自分語りは大好きで、文学フリマで自伝を出すことを目標にするほどですが、今日はその話はしません。ブログの方にしこたま書いておりますので、よろしければご覧下さい。

 

double-techou.hatenablog.com

 

 ここで私とサークルクラッシュ同好会(以下サークラ)の関係性について述べます。私は元々サークラのグループラインには加入していたものの、会誌を買うだけで例会には参加したことが無い幽霊会員でした。ここ数ヵ月、会誌に寄稿したりホリィ・セン氏が関係するイベントに参加したりNFでサークラの売り子をしたりする中でサークラ会員の方々と交流する機会が増えましたが、殆ど部外者みたいなものであることは変わりません。従って、決してサークラの内部事情に精通しているわけではないという前提を踏まえた上で本稿をお読み下さい。

冒頭の主張に至った経緯

  私はこれまでサークラを、誰にとっても居心地の良い、一種の理想郷として崇め奉ってきました。会誌七号に寄稿した文章もその前提に立って書きました。例会にも参加したことのない私がそのように考えるようになったのは、会誌三号のべとりん氏の論考*1に強く影響されたためです。この論考のうち感銘を受けた部分を雑に要約し、私なりに解釈すると次のようになります。つまり、「サークルクラッシュ」という本来否定的な概念を愛好し、研究するという会の定義により、サークラ内で起きるあらゆる対立、トラブル、勢力争いといった事象―これらは通常のサークルにおいては忌避されるものである―は、全てサークルクラッシュ研究のための貴重なケーススタディと見做され、むしろ積極的に推奨されることになる。言い換えれば、どんなゴタゴタが起ころうがそれは否定的な意味合いを帯びず、最後はメタ、ネタに回収されるという安心感がある。そういう優れた仕組みがあるからこそ、人間関係に苦手意識や困難を抱える多様な人達が安心して集まりコミュニケーションできる居場所となるのだ……

 この言説は私自身の事例に照らしてもとても説得力があります。そもそも、私のような既卒社会人でかつ身体障害・発達障害を持ち、コミュニケーションも苦手で未だかつていかなる集団にも馴染めたことの無いような人間が、母校ですらない大学のサークルに出入りするなど本来有り得ないことです。それが安心して行えるのは、上述の仕組みによって「まあサークラなら多少場違いな奴が来て粗相をしてもネタに回収してくれるだろう」という信頼感が醸成されているからに他なりません。

 ところがサークラ会員の人達と話してみると、実際はそうした理想の通りにはなっていないということが分かってきました。具体的に言えば、「コミュ力」の有無、「モテ」「非モテ」、関心分野の違い、精神障害の有無、「メンヘラ芸」への賛否等の様々な対立軸による分断から、果ては属人的な派閥争いまで、数多くの軋轢がありしばしば険悪な雰囲気になるというのです。私はそれを聞いて不思議に思いました。何故なら、その存在意義や会の趣旨に照らして考えればサークラ会員の属性、性格、価値観が多様なのは当たり前の事なのに、会員同士が互いの差異をネガティブに捉え、それが原因で本気で(プロレス的にではなく)いがみ合うのは本末転倒だからです。

 もちろん、サークラといえども人間が集まる以上、時には小競り合いが起きるのも仕方ないかもしれません。ただ、前述したように内部対立すらネタ化することで一種のプロレスのようなものに無害化できてしまうのがサークラの強みのはずです。ところが会員の人達から一様に返って来たのは「とてもネタになんかできない」という答えでした。

 私はこの「内部対立をネタにできない(=対立をネタにすることがタブー視される空気)」というのは、サークラの意義を八割方失わせかねない致命的な(対立が起こること自体やその内容などよりもはるかに大きな)問題であると考えます。何故なら、ネタが無いところにメタも無く、メタが無いところにベタも無いからです。もう少し分かりやすく説明しましょう。内部対立をネタにすることを許さないということは、問題を俯瞰的に(メタ的に)捉えるのを許さないということに繋がります。トラブルをメタ的に語ることで問題を外在化するという仕組みが働かなくなるということです。そうするとトラブルはそのまま当事者間にしこりとして残り続けることになり、プロレスではない本気の憎み合いを生み出します。そしてその影響は周囲にも伝染します。トラブルがプロレスとして無害化されずにガチの対立として残り続けるとなれば、会員は些細なトラブルすら起こさないようにするため、常に自分の言動を厳しく制限しなければならなくなります。これは、コミュニケーションや精神状態に不安を抱えている人からすれば極めて窮屈な状態です。そうした窮屈さを嫌ってサークラに来たのに、そこでもまた同様の窮屈さを強いられるとなれば、人々は離れていくでしょう。多様な人々が伸び伸び過ごせる居場所としての機能ももはや失われてしまうのです。天才ホリィ・セン氏が作ったサークラという神懸かり的に素晴らしい装置も、使い方次第ではその意義を無にしてしまいかねません。

どうすれば良いのか

 ではどうすれば良いのでしょうか。私はなにも「トラブルが起こる度に『ラッキー!』と唱えよう!」とか、そんな自己啓発本みたいな主張をする気はありません。

  一番理想的なのは、内部対立から一定の距離を保ちつつサークラにある程度コミットしている人*2 が、会誌やこのアドベントカレンダーなどの公式コンテンツの場に、内部対立をガンガンネタにして書いていくことです。 そうすると、「人が真剣に揉めているのにネタにするな!」と怒る人が出て来るかもしれませんが、そういった短期的なコンフリクトは全て無視してどんどんやっていったら良いと思います*3サークラにおいては、どんな対立であっても、ネタ化されないという特権を持たない筈だからです。そもそもサークラ自体が他団体、他サークルの揉め事を事例研究という形でメタ化・ネタ化しているのに、自団体の揉め事をメタ化・ネタ化することができないとすればそれは完全な自己矛盾であり、FAKE団体の誹りを免れないでしょう。従って、サークラがその分析の刃を自団体に向ける(=自分語りをする)のは良いことであり、必要・必然とすら言えます。

 ここで、いくつか補足しておきたいことがあります。まず、内部対立をネタにするとは言っても、媒体は何でも良いわけではなく、あくまでサークラの公式コンテンツ上で表現することが必須になります。これは、団体としてのサークラが団体としてのサークラを語るという自己言及性を生むために必要なことです。これをもし個人のSNS上などに書くと、どれだけ質の高い内容であっても個人間の悪口・喧嘩に堕してしまいます。また、公式コンテンツ上で発表するとなれば、書き手の方にも、一定の公平性、論理性、エンターテイメント性を確保することでただの悪口とは一線を画そうという心理が働きます。

 また、内部対立をネタにする書き手はある程度その内部対立から距離を取っていることが望ましいと述べましたが、それはそのほうが心理的に書きやすいだろうというだけで、絶対条件ではありません。そもそも、サークラの活動にある程度コミットしている時点で、どの派閥にも与せず完全に公平な立場でいるというのは難しいでしょう。どうしても書き手のバイアスが入ると思います。でもそれで全然構いません。大事なのは客観的に語っているという体裁です。例えば、同じ会誌に載っている二つの論考があり、両者はサークラ内の特定の同じトラブルについて客観的に記述しているように見える…… ところが注意深く読んでいくと、あくまで客観的な記述を装いつつ、一方はK派、一方はC派の立場から書かれており*4、微妙に食い違っている…… どちらが正しいのかは誰にも分からない…… これはこれで羅生門みたいで面白いと思うんですがどうでしょうか? 対立状態にある二者間の認知のずれを研究することでサークルクラッシュの貴重なケーススタディにもなりますし良いことづくめです。この試みによって軋轢が生じたらそれもまたネタになりますから本当に捨てるところがありません。エコです。

 私みたいな半部外者からすれば、サークルクラッシュ同好会自身の「自分語り」をもっと聞きたいのです。自分語りとは自らの中にあるものを解釈し、再構成し、一つのストーリーとして外部に放つことです。その作業が今一番必要なのはサークルクラッシュ同好会という団体自身なのかもしれません。

 団体にとっての自分語りとは、即ち歴史を紡ぐ行為に他なりません。何号か忘れましたが、ホリィ・セン氏が会誌にサークラ年表を載せていたことがありました。個人的にはあれの戦史版が読みたいです。サークラも今年で七年目ですから膨大な内部対立を繰り返してきた筈です。さながら銀河英雄伝説のような読み応えのある軍記物語になるでしょう。そしてそれはこれからも常に更新され、紡がれ続けるのです。それでこそ、会員がいつか流した涙、いつか反響した怒声、誰かが誰かに向けた悪意の切先、ざらついた感情の残滓、そういった全てのものたちが、あるべき場所を与えられて静かに溶けていくでしょう。願わくば、私もまたその一部になれたらと思います。

*1:べとりん, 2014,「Twitterサークルについての考察(サークラ同好会バージョン)」サークラ会誌三号

*2:私でも良いのですが、仕事の都合上例会に頻繁には行けないため、もっと深くコミットして内部情報を掴める人の方が適任だと思います。

*3:許可なく実名を出さない等一定の配慮は必要だと思いますが。

*4:アルファベットに深い意味はなく、ケンタッキーフライドチキンが食べたいなとふと思ったのでKとCにしました(大嘘)。

サークルクラッシュ同好会はお前を救わない

1、まえがきと保身と本日のラインナップ


 初めまして。ピチピチフレッシュな学部一回生にして新歓でサークラに入ったやべーやつ(自称)の、「なんたい(@nnnantai)」と申している者です。この度はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2018の5日目にて文章を寄稿させていただけることになりました。このような機会を作っていただきありがとうございます。よろしくお願いします。

adventar.org


 最初に断っておきたいのですが、僕は昔から本を読まない気質であり、またこうやって文章を書くのも初めて*1なので、日々のTwitterで鍛えた文章力と語彙力をフル稼働させてかろうじて言葉を紡いでいる状態です*2。読みづらい点が多々あるかと思いますが、暖かい気持ちで見て頂けるとありがたいです。精進します。

 さて、今回のテーマが「自分語り」とのことだったので、漠然とした自分の現状の生き方みたいな話とサークルクラッシュ同好会とを絡めたことを書いていきたいと思っています。いつの間にか猫の話とかしてたらすみません。


 ところでもうすぐクリスマスですね。クリスマスといえば、去年投稿された動画でとても好きなものがありまして。昨年ブームになったGetting Over ItというゲームのVOICEROIDによる実況動画なのですが、実況内容がゲームと全く関係がない雑談なので、少々長いですがよければご視聴ください。

 

 前置きが長くなりました。それでは、自分語り劇場のはじまりはじまり。


2、僕は僕を救わない


 自分で言うのも違うような気もしますが、あえて言うなら、僕はかなり”強者”であると自覚しています。

 それは例えば、教育や教養に投資できるだけの余裕のある円満な家庭に生まれたことであったり、マイナス評価を受けないレベルの顔をしていることであったり、浪人こそしましたが京都大学に入れるだけの学力を身につけられたことであったり、友人をそれなりに持っていることであったり、彼女がいたことであったり、最低限のコミュニケーションに困らないことであったり*3、極度なマイナス思考でないことであったり、メンタルが比較的安定していることであったり、ストレスで眠れなかったり吐いたりなどの症状がないことであったり、死にたいと思わず生きていることであったり。そういうコンプレックスを抱えがちなことを、拗らせずにここまで生きてこられた。

 絶対的な尺度ではそうなのでしょう。それでも、どこか満ち足りないのです。もちろん、「自分は満ち足りた人間だ」とは誰も思わない、ということは理解していますが、それでも、誰と比べても劣っているという感覚を持たずにはいられないのです。

 イケてる人にも、大学に入っても一層勉学に熱を注いでいる人にも、たくさんの友人と遊んでいる人にも、うまく話で場を作れる人にも、嫉妬します。僕もそうなりたかった。僕はそれ程までになれなかった。

 あるいは、家庭が不安定な人や、メンタルが弱くてよく病んでいる人や、リスカをしている人や、死にたいと思っている人に対しても、劣等感を抱きます。僕はそれらを抱えたらきっと上手く生きていけない。彼らは強くて賢くて優しくて、だからこそ苦しむのだろう、それに比べて僕は。

 そして、それらの満ち足りなさの全ては「努力不足ですね!」という言葉に収束します。つまり、「そう出来たはずなのにそうしなかったお前が悪い、お前の責任だ!」という内なる声こそが、僕の最大最悪の劣等感なのです。内なる声は僕を責めます。彼ほどイケてないと言ってるけど、お前はファッションや髪型について調べたりしたのか?彼女は賢くて羨ましいなんて言うけど、彼女が読書していた時間にお前は何をしてたんだ?あの人が眠れなくなるほど病む案件を、お前は寝る前でさえ少しも考えなかったじゃないか。

 僕はその声をすべて聞き流して、今日も嫉妬に苛まれます。


3、世界は僕を救わない

 

 自分で自分を満足させられない僕は、いつからか漠然と世界とか環境とかそういうものに救いを求めるようになりました。ある日美少女が降ってこないかな、みたいな夢物語から、有名大学に入って授業を受けていればモチベーションになるものが見つかる、とか、インカレサークルに入っておけば女子と交流も出来るしワンチャンもあるかもしれない、などの打算的なものまで、自分で自分を変える代わりに世界に自分を変えさせたいと願ってきました。

 しかし、思ったようにはいきませんでした。ある意味で”無目的に”そこに存在しているだけの人間に成り下がってしまったのです。そんな場所で何かを得られるはずもなく、何に対してもだんだんとやる気がなくなっていきました。

 結局、このアンチ努力人間は、環境が変わろうが世界が変わろうが、何も為すことはありませんでした。何も為さず、何も成長せず、ただ劣等感をぶくぶくと太らせ続けるだけでした。

 もしも神様がいたとしても、これだけ持って生まれた上で何もせず、資産を享受して人生を浪費する僕を救うことは決してないでしょう。力を持っていないながら努力して何かを勝ち得た人や、あるいは才能を活用して日々を生きている人の方が、遥かに偉大で守られるべき存在だと思います。

 でも、やっぱり救われないという確信は苦しくて、「救われたい!誰か助けて!」と願うのです。願うだけならタダなので。


4、サークルクラッシュ同好会は君を救わない?

 

 「助けない。君が勝手に助かるだけさ。」とは、小説「化物語」に登場する忍野メメというキャラクターの台詞です。彼は主人公たちに幾度も協力しながらそう言います。別に、助けることが出来なかった時に責任逃れをするための免罪符ではありません。これは、助けを求める人が必死に助かろうとしてその結果助かるだけであって、彼のしていることは力添えに過ぎない、という話です。「僕は鉛筆に助けてもらってこの問題が解けた」なんてことを考えないのと一緒です。確かに鉛筆がなければ答えは提出できませんが、問題を考え解いたのはその人間ですから、それは「人間が問題を解いた」とだけ言って差し支えないでしょう。

 サークルクラッシュ同好会はどうでしょうか。運営側からはよく「居場所をつくりたい」とか「サークル不適合者の最後の砦」みたいなことを聞くような気がします。「自助団体」なんて言葉も耳にします。そして、その考えに賛同してかしないでか、この団体は多くの会員を抱えています。

 「しかし、それらの言葉とは裏腹に、サークラ同は誰も救いません。救われたさでここに来た人々が、勝手に救われるだけなのです。サークラ同はただそれに場所と文脈を与えるだけです。」

 

 …みたいな感じの話も悪くないですね。実際それは誰かにとって正しいかもしれない。しかし、少なくとも僕にとっては、正しくありませんでした。僕はサークルクラッシュ同好会で救われることはありませんでした。

 だって僕はそもそも「救われるための努力をしていない」のですから。

 救われようとしない人に差し伸べられる手はありません。助かろうとしない人を助ける方法はありません。きっと僕は僕を救う何かを探してここに来たと思うけれども、なんと無力なことでしょう、サークルクラッシュ同好会はこんなにも苦しんでいるこの僕を救うことは出来なかった!というのがこの自分語りのオチです。誰も幸せになれないバッドエンドのなかにこの話は終わっていきます。

 けれど不満がある訳ではないです。だってそれは単に僕が救われようとしなかっただけだから。苦しさに目を瞑ってでも頑張ることを避けて、「お前の努力不足ですね!」という心の声から耳を背ける、そういう生き方の方が僕には楽に思えているのでしょう。

 さて、タイトルを回収しましょう。貴方ならどうでしょうか。何かに救われる覚悟はありますか?それとも、自分の”努力不足”を正当化して、「救われたいな。にゃーん。」とうわ言のように繰り返しますか?

 僕は楽な方を選べばいいと思います。


5、あとがきと所感と次回予告

 ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。後味が悪くて性格の悪さを前面に出した文章になってしまってすみません。書いてて楽しかったです!!(クソ)

 自己肯定感が3ミリしかないので、正負問わず反応を頂けると泣いて喜びます。信者になるかもしれません。狂信者を味方につけたい人は僕のTwitterアカウントにDMなどでコメントと「いついつに食事行きませんか?」って感じのお誘いをくださると幸いです。

 

 明日はダブル手帳さんです。よろしくお願いします。

*1:大学のレポート以外で長文を書いたのは高校の読書感想文か委員会資料以来だと思います。

*2:ちなみに、アドベントカレンダーと紐づけられているアカウントは、一時期使おうと思ったけど面倒になって放置しているアカウントです。ログインはしているのでDMやリプの対応は可能です。

*3:ハードルをかなり低めに設定しています。今後僕と話す機会がある人は注意してください。