世界一 可愛い子に 生まれたかった

ごきげんよう
@mira_yume_chanこと、さらです。


『世界一 可愛い子に 生まれたかった』
これは、みなさまご存知、田村ゆかりさんの名曲『fancy baby doll』のサビの部分の歌詞です。知らない方は、ぜひ検索してお聴きになってください。
初めてこの曲を聴いたとき、わたしは涙を流しました。これからわたしは自分の人生とめくるめく「かわいい」と「ブス」の遍歴について書いていこうと思います。そんなの誰が興味があるのでしょう。知らない。ただ、わたしが書きたいから書きます。

 


〈第一次かわいい期〉
この世に生まれて、わたしは「さら」と名付けられた。水が流れるような、絹糸がなびくような、美しい名だ。
わたしをさらと名付けた父は、わたしを蝶よ花よと可愛がった。家にはとんでもない量のわたしの写真が貼られたアルバムがある。わたしは一日に数え切れないほど「かわいい」と呼ばれて過ごした。それは空気のようにあるもので、なんら特別なものではなかった。
服飾学校を出た母は、フリルやレースのついた少女趣味たっぷりのスカートやワンピースをたくさん買い与えて、わたしを着せ替え人形にした。わたしは5歳で既に、母のマニキュアを自分の爪に塗れるようになっていた。保育園では男の子三人に求婚され、“ゆり組さん”で、わたしは三好くんと初めてのキスをした(ちなみに、三好くんは求婚三人組の中にはいなかった)

 


〈万能期〉
小学生のころ、わたしはよく勉強ができた。体育も図工もよくできた。俗に言う“優等生”の類だ。毎年、学級委員に選ばれて、児童会に所属する、真面目で目立つ、そんな子供だった。「かわいい」と特別もてはやされることはなかったけれど、わたしのことが好きだと噂される男の子は常に存在していた(小学生の“好きな人”なんて、クラス替えの度に変わってしまうようなものだけど)。
小学六年生のわたしは、中学受験をすることを決めた。いつごろか定かでないが、わたしをとろとろに甘やかしていた父は目の前から消えていた。母子家庭になった家にはお金がないので、某国立大学の付属中学校を一つだけ受験した。そして、合格した。

 


〈ブス期〉
進学した中学に、知り合いはほとんどいなかった。
一年生の一学期の始め、人間関係でつまずいてしまったわたしは、あっという間にクラス中、学年中からいじめられるようになった。
毎日のように「ブス」「死ね」などと言われた。
お弁当のときやグループ作業で班を作るときは、絶対に机をくっつけてもらえなかった。体育の準備運動では誰もペアを組んでくれなかった。遠足や写生会の際のお弁当は全て一人で食べた。運動会では本番ですら、誰もわたしと手を繋いでフォークダンスを踊ってくれなかった。机やノートへの落書き。いつだか「お前の顔が正面にあるとメシが食えない」と言って、クラスの男の子が、お弁当のネギだけを器用に摘んで食べていたのを思い出す。残りは飼っている犬に食べさせるのだと言う。犬はネギ食ったら死ぬからな、と。
「死ね」と言われたことは理解できた。でも死ぬのは怖いので、わたしは体を切り始めた。テンプレに従って手首を切っていると、わたしをひどくいじめている女に、ブラウスの袖をめくられて、手首の傷をクラス中に披露させられたので、それからは太股など、見えない部分を切ることになった。生徒手帳にカミソリの刃を挟んで、いつでもどこでも体を切っていた。

しかしながら、わたしは疑問だった。
二重のぱっちりした目を持ち、校則を守ってさらさらの髪を耳の下で髪を二つ結びにして、日焼けに気をつけている、ほっそりとした体形のわたしは、本当にブスなのか?
天然パーマでちりちりの髪、糸のような目をした、はち切れそうなふくらはぎを持つ、真っ黒に焼けた女の子たちでなく、なぜわたしが、わたしだけが取り立ててブスと呼ばれるのか?
客観的に見て、自分はそこまでのブスではないと思った。たとえ特別かわいくなくても、クラスで一番の、学年で一番のブスではないと思った。(この尊大な自意識が、いじめられる要因でもあったに違いない)

それでも、教室に一歩足を踏み入れると「ブス」のシャワーがわたしに降り注ぐ。だんだんとわたしは頭がおかしくなった。鏡が見られなくなり、持っている手鏡をすべて油性ペンで真っ黒に塗りつぶした。今まで撮った写真やプリクラをハサミで切り刻んだ。

そして14のとき、わたしのことを「かわいい」と言ってくれる21歳のおにいさんとセックスをした。
そのころのわたしは学校では一切口がきけなくなっていた。場面緘黙というものだ。なにも言えないわたしに、クラスメイトたちは卑猥な言葉を投げかけるゲームを始めた。「さらさん、〇〇って知ってる?」「××って知ってる?」数名の女子たちがわたしの机に群がって、言いたいだけ言って、笑いながら去っていく。その様子をクラス中が好奇の目で見つめている。

「全部、昨日やってきた」

心の中で小さな反抗をする。それだけがわたしの心の拠り所だった。クラスメイトより性的に進んでいること、単語を単語で終わらせないこと。おにいさんはわたしに川本真琴を聴かせた。「成長しないって約束じゃん」おにいさんはセックスのたび、わたしの太ももの傷を舐めた。内緒の共有。わたしのことをわかってくれるのは、この人だけだと固く信じていた(後に、彼は自分と同じ年くらいの彼女を作り、紙くずのようにわたしを捨てる)。

 


〈マンネリ期〉
中学のクラスの約半分が隣にある高校に進学するような学校だったので、待遇はほとんど変わらなかった。わたしをひどくいじめていた人たちはあまり勉強ができなかったので、レベルの低い高校へ進学し、物理的に離れはしたが、わたしが中学でどのような扱いをされていたかは、なんとなく広まっていくものだ。
高校に入って、わたしはぷつりと糸が切れたように学校に通えなくなった。高校三年になる前の春休み、トラベルミンシニアを十箱飲んで、初めての自殺未遂を図った。失敗して半年くらい幻覚が見え続けた。それくらいしか高校時代の記憶はない。
ただ、卒業の際に有志が作った小冊子に「なんでもランキング」というものがあったのを覚えている。クラスで一番かわいいと思う人、かっこいいと思う人、おもしろいと思う人などなどさまざまなランキングがある中、わたしは「大学デビューしそうな人」二位として名前が挙げられていた。薄ら寒い嫌がらせだ。しかしこれが、わたしの後の人生を暗示しているとは、夢にも思わなかった。*1

 


〈第二次かわいい期〉
わたしは第一志望だった東京の公立大学に落ちて、京都のd女子大に入学した。そこは成金の女の子にあふれていて、授業もつまらなく、わたしは共学のd大学の演劇サークルに入り浸ることになった。わたしの通っていたキャンパスは京田辺京都府奈良県との境目、とてつもない田舎)にあったのだが、稽古場は京都市内の今出川キャンパスにあった。近鉄と地下鉄を乗り継いで、授業が終わると毎日千円以上かけて、往復をした。
不思議なことに、わたしはそこでふたたび「かわいい」と言われ始める。ちょうどAKBが流行っていた時代だった。黒い髪を胸まで伸ばし、前髪を斜めに流していたわたしは、やれ、まゆゆに似てる、やれ、ゆきりんに似ている、と先輩や同期にかわいがられるようになった。頻繁に美少女役をあてがわれた。そのあたりからお化粧を覚えた。BBクリームを塗り、おしろいをはたき、ベージュのアイシャドウをしてマスカラを塗る。ささやかなものだった。それでも「目が大きいね」「まつげが長いね」と言われるのは、うれしかった。
夏に、恋人ができた。恋人は一日に100回くらいわたしのことを「かわいい」と呼ぶので、辟易してしまった。もっとかわいい人はいる、モデルの〇〇とか、女優の××とか、と言うと、彼は「さらが世界で一番かわいい」と間髪入れずに答えた。幸福だった。そのような生活の中で、だんだんと、自分はやはりかわいいのでは? と思うようになった。
演劇サークルは週に五日、本番前は毎日練習がある。小屋入り*2の一週間は、授業に出ることも許されない。あれはサークルというよりほぼ部活だった。アルバイトをする時間がないけれど、家賃も払うのも苦しいような状態だったわたしは、手っ取り早くお金を稼ぐため、祇園の会員制ラウンジに応募をした。面接はあっさりと受かった。


〈混乱期〉
周囲からふたたび容姿を褒められるようになったことは、初めは確かにうれしかった。でも、次第に、わたしはこの世のことが信頼できなくなった。自分は本当はかわいいのか、ブスなのか、どっちなんだ?
演劇にのめりこんだわたしは、次第に大学に通わなくなった。3年で40単位くらいしか取れなかった。ああだこうだしている内に、恋人が死んだ。精神科の閉鎖病棟に入った。大学を辞めた。そしてサークルクラッシュ同好会に入会した。なにがサークルクラッシュや。サークルどころか人生がクラッシュしていた。元々精神不安定だったわたしはさらに精神不安定になり、さまざまな男の子と“親しい仲”となった。×××なんて当たり前 とても人に言えないような 酷いことならなんでもやった*3

彼らはこぞってわたしのことを「かわいい」と呼んだ。荒んだ生活の中で、それだけが唯一の心の安寧だった。


〈安定期〉
長い混乱期を経て、わたしは今年で28になった。

インターネットで原料を取り寄せて化粧水を作り、一週間で使い切る。最近、右目の下と右唇の下以外のホクロを全て取った。月に一度、毛穴を目立たなくさせるためのレーザーを当てている。なかなか強い施術で、一度当てると一週間は人と会えないようなボロボロの状態になる。肌によいとされる漢方を一日に三度飲み、使っている化粧品のほとんどはデパートで揃えたものだ。美容院では、生まれつき色素が薄い人みたいな色にしてください、とオーダーする。美容院専売のシャンプーとコンディショナーとトリートメントを使っている。至近距離で見られても気づかれないようなサークルレンズを入れている。塗っているとわからないような薄桃色のマニキュアを塗っている。残した目元と口元のホクロを、化粧の最後に茶色のアイライナーで、より印象的になるように書き足す。

きっと、わたしは同じ年の平均的な女性よりも、美への関心が高いのだろう。今年の春に京都から東京に引っ越した。現在は週に数回、銀座のミニクラブで働いて生活をしている。
どうしてだろう、今は自分のことを特別かわいいとも、ブスだとも思っていない。このパーツは優れているが、このパーツはイマイチだ、でもトータルで見るとまあ見られない顔ではない、と判断している。ただ、化粧の技術は格段にアップした。ものすごい手法でありえないほどの胸の谷間を作れるようにもなった。「AKBにいそう」から「女子アナにいそう」になった。外出してから家に帰るまで何度もナンパに遭う。でももう、いやだともうれしいとも感じない。東京はそういう街だと思っている。


『世界一 可愛いって 今日も言ってね』
そのような気持ちはまだ、存在している。
でも、それは『何万回 言われても まだ不安』なのだ。
出勤前、カシミアの白いコートをまとって鏡に向かってほほえむわたしは、女子アナのようにも悪魔のようにも見える。一見すると清楚だがよく見るととても性的に感じるように作りあげられたわたしの容貌。「かわいい」という言葉は、もはやわたしを表さない。ふと、わたしは自らが「かわいい」から「うつくしい」の世界に足を踏み入れたことに気がついた。

 


これを人*4に読ませると「当たり障りがない、本当にやばい部分は書いてないね」と言われた。そんなの書くわけないじゃん。
このようなナルシスティックにも程がある自分語りを最後まで読んでくださって、ありがとうございます。わたしは自分のことが大好きみたいです。そして、わたしのことが好きでも嫌いでもいい。どんな感情でもいいから少しでもわたしを想ってくださる、わたしのことを考えて時間を費やしてくださった、あなたのことを愛しています。

*1:ちなみにランキングの一位であった女の子は、某有名国立大学に進み、ベトナム語を身につけ、今は現地で日本語学校の先生としてバリバリと働いている。大学どころか世界にデビューした彼女のことを、わたしは心から尊敬している。

*2:公演直前に、ホールに入って舞台を作ったり、照明や音響の準備をしたり、幕を張ったり、実際に舞台で稽古をしたりすること。

*3:友達なんて誰も居ない わたしきっと死んだら絶対地獄に堕ちるわ

*4:意味深でしょ。

恋愛工学しましょうか

~きっと何者にもなれないお前たちに告げる恋愛工学~

※アドベンドカレンダー5日目の記事です※

サークルクラッシュ同好会会誌第八号に寄稿した雪原まりもと申します。

「自分語り」がテーマのアドベンドカレンダー企画ですが、いざ記事を書き始めてみるとほとんど自分のことを語ることができませんでした。

ところで、先日の京大NFで頒布された同好会会誌第八号で、私は異世界ホストの小説を書くつもりだったのです。が、結局それはうまくいかず、全然別の小説になっています。ただ、小説を書くために取材した恋愛工学について思うところがあり、結局自分語りとはほとんど関係ない『ぼくは愛を証明しようと思う。』の書評をすることにしてしまいました。露悪的なテーマで自分語りをするのはむつかしいなあ……。

 

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

 

 はじめて『僕は愛を証明しようと思う。』を読みました。多くの批判があるこの本ですが、意外や意外、私は肯定的に受け止めました。これは単なるテクニック本ではなく、「非モテ」(非リア)意識をかなり掘り下げたものではないでしょうか。一見チープな「ラブ」ストーリーの中に、心の襞の克明な描写を垣間見ることができると思います。

ただし、重要なのはこれがあくまで物語であり、作品だということです。『僕は愛を証明しようと思う。』がナンパの技術をいかに実践するか、したか、というテクニックの「古典(カノン)」としても機能していることは重々承知ですが、それがこの物語の専一的な読み方とは限らないと敢えて言います。恋愛工学の方法や思想に否定的な立場からの解釈にも開かれた物語であるということです。

本稿では、恋愛工学そのものの解説や論評はひとまず脇に置いて、この小説で語られる物語に直にメスを入れていくことにします。

 とても長い記事なので簡単に内容を紹介します。各小見出しの内容はほぼ独立してよむことができます。

東京ソープランドは、小説の冒頭の「でっかいソープランドみたいなもんですね」というせりふの意味をつっこんで分析し、なぜナンパのセックスを風俗店のセックスの類比で語るのか考察しています。

わたなべ君に花束をは、この小説が『アルジャーノンに花束を』を下敷きにしていることを確認し、主人公が「信用できない語り手」になっていることを考察しています。

コミュニケーション工学は、恋愛工学のテクニックはナンパだけでなくコミュニケーションに一般に当てはまることを、男同士の会話への適用を通して考察しています。

 RNAワールドからの脱却は、ホストと少し関係のあるテーマです。いわゆるグッピー理論「女は、単に他の女とセックスできている男が好きなのだ」を私なりに分析しなおして提示しています。

東京ソープランド

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「ああ、無料のな」

  冒頭からこの挑発的なせりふ。もちろんそのまま受け取れば、自分のことだけ考えてセックスの相手を探し回る「ハイスペ」男性の驕りでしかありません。これは小説の中盤、バブル絶頂期の日本経済のようにナンパの全能感に酔いしれる主人公わたなべ君が師の永沢さんとディナーしている場面で繰り返されます。

そこだけ読めば腹が立つほど醜悪なこのせりふは、しかしどこから出てきたのでしょうか。わたなべはガールフレンド麻衣子と縁が切れ、個人的に仕事を教えていた美奈とは片思いだったことがわかり、それからは仕事のやりがいで自分を支えながらセルフネグレクト気味の私生活を送っていました。そして、ソープランドに行ってお金で仕立て上げられた即席の出会いとセックスを繰り返していました。ところがわたなべは変わります。自分の力で作った関係で、営業ではない即席の出会いとセックスを繰り返せるようになった。これが「ソープランド」の意味でしょう。

「無料」とは営業でない、セックスに直接払う対価としての金銭が無いという意味です。でも、「無料」というのはちょっとおかしくないでしょうか。クラブに行ったりアポをとって食事したりすれば当然お金がかかりますし、だいたいは男性側が払うでしょう。金銭の面でも時間拘束の面でも、風俗店に行くより負担がはるかに大きいはずです。自分も相手もセックスしたいと思ってセックスしているからお金のやりとりが必要ない。それを敢えて「無料」といい、営業を出しぬいてやったかのように表現するのは、風俗店に行くことで失った自分の自信や情熱を取り返そうとしているように思います。

永沢はわたなべに迫ります。女にとっての「友だち」になるか「男」になるか。これは相反する二つの道であり、最初からセックスを目的に据えない限り「男」にはなれない。つまりその相手と永遠にセックスはできない。友達のふりをしながらワンチャンのセックスを期待する甘ったれた意識を捨てろ!とハッパをかけます。そしてわたなべは、セックスに至る過程を自己実現ととらえ、目的合理的に考え行動するように変わります。それを律するのが恋愛工学です。

この本にセックスの直接的な描写はありません。キスをするとか、ワギナがぬれているとか、そこからいきなり寝起き(朝チュン)に飛んでしまう。実際には、前戯から挿入そして眠りにつくまでにそこそこやりとりがあるはずですがそれは恋愛工学の技術の中には入っていないのです。身体的な性交渉の技術には徹底的にノータッチです。コンドームをつける描写すら存在しない。セックスまで持ち込むことがこの本のテーマであり、そこに持ち込んだ時にすべてが達成されているのです。

恋愛工学のセックスそのものに対する無関心は、いざセックスに誘う誘惑(セダクション)のフェーズを解説する永沢の語りにも表れています。

「それで、最後のSフェーズは何をすればいいんですか?」

「ロマンティックな感情をふたりで高め合いながら、キスをしたり身体を愛撫する。相手の女は覚悟を決めて、いよいよ後戻りできない一線を越えるわけだ。ここでも、相手の女を、お前の自信と情熱で包み込む必要がある」

「自信と情熱か……」

 びっくりするほど反工学的なセリフではないでしょうか。永沢はどうやって身体的な性交渉をするかについてほとんど分析のメスをいれていない。「自信と情熱」という精神論で押し切ってしまうのです。

そればかりではありません。セックスに至る交渉のテクニックを綿密に描く半面、セックスをした後のふるまいがほとんど描かれないのです。ここで示唆的なのが、セックスの前後(プレセックスピリオドとポストセックスピリオド)で男女の力関係が逆転するという指摘です。セックスをするまでは女性が選ぶ側だが、セックスした後は男性が選ぶ側になる。そうなってしまえば特別な努力も技術も必要ないと言わんばかりです。

この過程の全てに非「モテ」男性の解剖の鍵があります。モテるということは、セックスする関係を作るということです。そして、セックスは内容よりもやった事実が重要です。皆がセックスしたいと思う高嶺(値)の女性とセックスすることが、より価値のある充実したセックスです。そして、そう思っているにもかかわらず現実の自分は女性にセックスしたいという欲望を開示できず、そんな欲望などないかのようなまわりくどいやり方に終始し、自分の意思を裏切り続けているのがモテていないということです。

このような世界観と、男性同士のタテの関係はとても親和性が高い。ある意味、軍隊のようなものです。「お前に女を傷つけることなんてできない。たとえ、傷つけようとしたってな」という言葉はこの蛮勇の自己正当化です。もう一つ、ナンパが失敗したときに「何も失っていない」と言い聞かせる場面が何度も出てきます。実際には、相手は傷ついているし、自分も傷ついている。でも、傷つくのを恐れていたら、戦場で臆病者となじられ軽んじられて終わりです。そんな自分は絶対に嫌だ!という強い決意がわたなべを突き動かしていることを忘れてはいけません。

そして、わたなべは致命的な傷を負うことになります。

 

わたなべ君に花束を

『僕は愛を証明しようと思う』は、非モテ(正)に始まり、恋愛工学でモテ(反)るが、ふたたび非モテ(合)に戻る、お手本のような弁証法的綜合です。しかも、最後に非モテのときの片思いの相手と巡り合っていたことに気づくという手の込みようです。

知的障害のチャーリィは周りからひどい扱いを受けていたが、自分がみんなから馬鹿にされていることさえ気づかず、慕われていると思い込んできた。自分の親にも捨てられていたのに、そんな親のことを無邪気に好きだった。僕が非モテだったとき、周りの女の子たちからひどい扱いを受けていた。自分の恋人からもひどいことをされていたのに、僕はそうしたことに気づいていなかった。気がつかないふりをしていたと言ったほうがいいかもしれない。

そして、チャーリイが、科学者たちの実験台にされ、知能を劇的に改善する手術を受けてからすべてが変わったように、僕も永沢さんから恋愛工学という魔法のテクノロジーを教えられすべてが変わった。

驚異的な知能を手に入れたチャーリイが多くの分野で業績を打ち立てたように、僕は東京中の女をものにしていった。ところがその手術は不完全なものだった。チャーリイはその副作用に苦しむことになり、最後には手術前よりはるかに悪い状態になってしまう。……

仕事も失い、自信を無くしてしまった僕は、また非モテに戻った。 

 この本には二回、『アルジャーノンに花束を』への言及があります。さらに、この小説を下敷きにしてあることが読んだことのないひとにもわかるよう、丁寧な説明がほどこされている。ここでまずひっかかったのは、チャーリイの「末路」を主人公が嫌悪しているところです。私も久しく読んでいないので違ったかも知れませんが、チャーリイの知能はたしかにもとに戻って行ったけどチャーリイの人生が転落して行ったわけではないはずです。それを「悲惨だ」と言い切り、チャーリイのようにはなりたくないと蔑み、そして「身の丈にあった、都合のいい女」を残されたナンパのテクニックを振り絞ってなんとかものにしようとあがきますが余裕のなさが裏目に出て失敗する。ところが、その夜に運命的な出会いが出会いがが待っていた……実に都合のいい結末であり、ここには本当の破綻や底付きは描かれていません。

それでも、私は物語の結末(第六章)は「お約束」の付け足しではないと思います。恋愛工学の破綻についても考察を巡らす余地があると思います。

「まず、僕が何を学んだか、から話そう。それは一言でいうと、自分自身と戦わないといけないということだよ」

「自分自身と?」

「そう。この1年間、僕はいろいろなことにチャレンジしないといけなかった。そのたびに、打ちのめされた。それでも、僕は挑戦し続けることができた。それは、さっき言った人のおかげなんだけど」

「ふーん」

「それで、僕はわかったんだ。いままで僕を打ちのめしてくれた人たちや出来事は、大切な人生の教科書だったんだ。神様が、次はどうすればいいか、教えてくれていたんだよ。でも、彼と出会う前の僕は、恥をかかないように、できない理由をたくさん並べて、挑戦しなかった。そうやってチャンスを逃すたびに、ひとり損をするのは僕自身なのに。自分の人生を良くするために、僕は戦わないといけなかったんだよ。僕をずっと成功から遠ざけてきた、間違った考え方や悪い習慣とね」

…中略…

この1年ちょっとの間、僕がどんなことをしていたかなんて、いくらなんでも話すわけにはいかない。

 わたなべは、ここで語った自己啓発の焼き直しを本心から言っているわけではないでしょう。女性と付き合ってもセックスに持ち込めない間違った考えや悪い習慣と戦い、女性の容姿を格付け、セックスできるか狙いを定め、ナンパのルーティーンを繰り返すことに挑戦していたという内容にはどうやっても読めません。しかし、全くの嘘を言っているつもりもないようです。それは、恋愛工学がセックスを誘因とした自己啓発としてもある程度機能するからです。思いのままにセックスできる相手がいることが、男性に自信を与え、積極的に、社交的に、行動的にします。そういうテンプレがあるのは事実です。しかし問題は、より口当たりのいい説明を求めるなかで、本音と建前がぐずぐずに溶け合っていくことです。わたなべは都合のいいことばかり言って、結局自己開示をしていません。傷つき疲れはてた自分を受け止める人が欲しいはずなのに、その自分の醜い部分を最後まで表現することができなくていいのだろうか?

落ち目になったわたなべからは、自己正当化や自己防衛のバイアスをかけた認知が無批判に垂れ流されています。

大空電気の長谷川玲子は、社内の重要なポストに就く男とじつは婚約していた。二股をかけていたわけだ。婚約者に僕との関係がバレてしまい、彼はカンカンに怒った。それを鎮めるために、これは僕からの強引なセクハラだった、と言わざるを得なかったそうだ。

 この話をそのまま受け取ることができるでしょうか。まず、わたなべが恋愛工学を使ってセックス目的で近づいたという事実、その後別の女性に興味が移り、相手のことをどうでもいいと思ったから別れたという事実が無視されています。仕事を辞めざるを得なかったのは、婚約者の重役がカンカンに怒ったからであり、自分の責任ではないことにしています。ひどい仕打ちをしたのは二股をかけた長谷川玲子だというのはまったく他罰的です。

はっきり言って、後半にわたなべがこの物語について自己言及的に語る内容はあまり信用できません。物語はわたなべの一人称視点で展開されますから、架橋に入るにつれてだんだんわたなべの思考が読めなくなってきます。「ああ、夢だったんだ。」という独白は存外当たらずとも遠からずではないでしょうか。

「恋愛工学を学んだあとは、かつての非モテだったころのようには、僕は出会った女の人を愛していませんでした。もちろん、一人ひとりには真摯に接してきましたよ。しかし、当然のように、複数の女の人に同時にアプローチしました。恋愛は確率のゲームだからです。そして、ひとりの女に熱くならずに、ルーティーンを機械的に繰り返す僕を、なぜか彼女たちは愛してくれた」

「恋愛工学の理論通りじゃないか。何がおかしい?」

「僕自身は、本質的には昔と何も変わっていない。いや、昔の非モテ時代の僕のほうが、むしろ彼女たちにとっては都合がよかったはずです。決して裏切らず、誠実にひとりの女に尽くすことしか知らないわけですから。……なぜ、昔の僕を、彼女たちは愛してくれなかったのだろう、と。そして、恋愛をゲームのように考えるようになった僕を、彼女たちはなぜ愛するのだろう、と」

 永沢の答えは、一人の女性に深くコミットするのが愛なのではなく、複数の女性にゲーム感覚でアプローチするのが愛なのだ、ということでした。それに対してわたなべは、一人の特別な女性に尽くしたいと言い、永沢との師弟関係が終わります。そしてその後、その女性にラインしながら、わたなべは再びナンパを始めます。いったい、永沢に示した決意は何だったのか?

 目的を設定し合理的な手段を追求することが工学であるなら、この物語はまさに工学の破綻によって幕を閉じたのではないでしょうか。

 

コミュニケーション工学

恋愛工学のメソッドは男が女とセックスするためにしか使えない方法ではありません。職場で同僚とどう雑談すればいいか分からない、一緒に食堂でご飯を食べたけどお互い何も話さず気まずくなってしまった、そんな経験を頻繁にしているなら、恋愛工学を学ぶべきです。それは男の「股」を開くためにだって使えるのです!

それに、恋愛工学のACS(魅了し、和ませ、誘惑する)は、営業で契約をうまく取り付けるときにも当てはまるプロセスでしょう。自分の店の得意先になってもらうときにも当てはまるでしょう。大きな仕事を持ちかけるときにも、面接で自分を会社に売り込むときにも、自分を信頼しその人の資源を割いてもらうあらゆる場面に共通したプロセスではないでしょうか。

『僕は愛を証明しようと思う。』を読んだ私は、さっそく職場で実践してみました。

 

おはようございます(オープナー)今日はいい天気ですね

そうだね

ですよね(ラポール)最近天気がいいですね

そうだね

週末干し柿つくったんですよ

おっ、今年も作ったの

そうなんですよ。先輩にも差し上げますね(返報性の原理)

ありがとう

いつもこの時間に出勤ですよね

そうだね

今日は僕も同じ時間ですよ

そうだね(イエスセット)

 

たったこれだけの会話で、(直接的な因果関係ではないにしても)無口な先輩がこの後に突然仕事の話を振ってきました。このように、恋愛工学で職場の人間関係を円滑にすることができます。相手が進んで手伝ってくれたり、小さなミスを大目に見てくれたり、心のバリアを取り除くことが期待できるのです。それから、「定時で帰ります」(タイムコンストレイントメソッド)も使っていこう。だらだら残業をつづけることは自分の価値をさげ、仕事以外にすることがないんだなと思われ、たいしたことのない仕事をたくさん振られる可能性があります。というのは冗談ですが、雑談はこまめに、しかしだらだら続けず短いセッションで切り上げ、できるだけいろいろな人と話すのが理想だと思います。話すと決めた時間は集中して、ページング、ミラーリング、バックトラックも意識することにしてみました。

私はほとんどいつも男性同士で話していますが、決して自分からは話しかけなかったり、一方的に自説を開陳してしかも相手が同意するのは当たり前であるかのように振る舞ったりする人に出会います。そうした人にはずっと同調して聞き手に回ればいいのである意味楽ですが、会話をしている感覚がないことも事実です。恋愛工学の技術は男性同士の関係をより親密で相互的なものにすることができるでしょう。

ただし、恋愛工学の技術のうち「ディスる」のには注意が必要です。ディスは男のコミュニケーションの定番で、ディスる方が上、ディスられる方が下というマウントや権力勾配を確認する道具として極めて頻繁に用いられています(「いじる」と呼ばれることが多いです)。それを通して、オレはお前を気にかけてやっているぞ、お前をオレの縄張りの中に入れてやっているぞ、というメタメッセージを伝えます。

もちろんお互いディスり合う友人関係であれば、それは逆に信頼関係の証左でしょう。ディスりは自分と相手とが一歩踏み込んだ関係であることを示すでしょう。ただ、職場では必ず上司がディスり、部下が笑って場を盛り上げようとします。あなたがおしゃべり好きの上司なら、たいてい部下をディスっているはずです。自分がディスられる覚悟もなく。

私がディスペクトを良く思わないのは、「非モテ」はだいたいディスられる側だと思うからです。ディスりができるのはコミュニケーション強者の証です。原因ではなく、結果なのです。もし、あなたが周囲の人をナチュラルにディスれるようになっていたら、あなたは既にコミュニケーションの中心にいる。それに気づいたときは、積極的にディスを使っていくときではなく、自分を省みるときだと思います。

と、「ディスり」を盛大にディスってしまいましたが、その効用は確実にあります。それは、「異質なものを受け入れる」効果です。なぜ上司があなたのことをディスるのか?それは、あなたによくわからない、理解できない、奇妙で反発を感じる部分があり、それをストレートに攻撃するのを避けているのです。ディスはその後の笑いとセットです(笑いのないディスはただの攻撃です)。お前の異質さは許容範囲だよ、とこまめに示すことは、異質な存在をつなぎ止める効果があるでしょう。しかし、それは異質さを理解したり共有したりせず、表面的な笑いと思い込みでやり過ごす方法でもあり、濫用は人間関係の破綻につながります。ディスりはあくまでペンディングであって、リスペクトで補わなければ意味がないはずです。

そのうえであえて「ディスり」を持ちあげるなら、変だな、おかしいな、違うな、と思ったことを呑みこまずに積極的に言葉に出してもいいのだということです。緊張の後に弛緩(笑い)の花道を用意することで、自分の感じたことを素直に表現して盛り上がることができれば、コミュニケーションのストレスを大幅に減らすことになるでしょう。

どうして恋愛工学でディスりが重要なのかと言えば、女性にモテたいと思う男性は積極的に女性を褒めます。しかし、なんでもかんでもとりあえず褒めようとして無味乾燥な会話を繰り返してしまうのです。本心にないことまで褒めれば、どこか気持ちが乗ってこないのは当然です。浮ついた言葉ばかりで信用できないと思われたり、本音が言えない人だと軽んじられたりしかねません。あなたに好意がある(性的に興味がある)という前提を崩さない範囲で、自分の違和感や反発を表現することが、会話を盛り上げるためには不可欠ということだと思います。

 

RNAワールドからの脱却

わたなべはお友達フォルダに振り分けられることを「恐怖」と言っていますが、その恐れは私にはかなり見当はずれなように思います。ラポールで女として好きだということを伝えろ、手をつなぎ、キスしろ、拒まれたらラポールからやり直し、できるまで繰り返せと永沢はアドバイスしていますが、相手がこんな素振りをみせたら警戒するのが当たり前です。そこまでしてセックスに全振りするメリットがあるでしょうか。友達でもなんでも数を増やして女性との関係に慣れていくのがスタティスティカルアービトラージ(継続は力なり)戦略というものではないかと思います。

たとえ端からセックスの道を捨てたとしても、「男」ではなく「友だち」の道を歩もうとしたとしても、恋愛工学が味方になってくれることに変わりはありません。そして、恋愛工学の内部にはその契機があるのです。セックスにがつがつしすぎて警戒されているわたなべに、永沢は自分たちは女性の性欲に火をつけてそれを満たす「商品」なのだと諭します。

「恋愛プレイヤーは、人々をいい気分にするために街に出るんだ。俺たちは、出会った女を喜ばせるためにナンパしないといけない」

…中略…

俺たちは、自分という商品を必死に売ろうとしている。女は、ショールームを眺めて、一番自分の欲望を叶えてくれそうな男を気まぐれに選ぶ。

…中略…

俺たちができることは、自分という商品を好きになるチャンスを女に与えることだけだ」

 ここで永沢が語っていることはほとんどホストのメンタリティです。相手を楽しませることが第一であり、自分のセックス(ホストなら売上)の欲望を満たすのはある意味どうでもいい。そのような迂回アプローチが結果的にセックスに(ホストなら指名に)結びつくのだということです。もちろんそれは最終的な目的地がセックスだからでしょう。しかし、その目的をシンプルに、相手に楽しんでもらうこと(接客)に置いたらどうでしょうか。中島敦名人伝ではないですが、恋愛工学を極めて行きつく先がセックスの忘却であってもいいのではないでしょうか。

男がセックスにこだわるのはなぜか。最後にこの問題に対する私見を述べて、この長い記事を終わらせることにします。

「お前、素質あるよ」と永沢さんは言った。「結局のところ、女にモテるかどうかって、ビールを一杯飲みほした後に、臆面もなく『セックスさせてくれ』と言えるかどうかなんだよ。言えないやつは、いつまで経ってもダメだ。

 この本では、愛とモテとセックスはほとんど同義です。ヤリモクで女性にアプローチするのを「愛する」、女性が身体を許すことを「愛される」と表現するのです。それがこの本のテーマなので繰り返し出てきますが、そこは衒わず「セックスする」でいいんじゃないのか。永沢自身、恋愛に愛など必要ない、セックスするかどうかだと喝破していたはず。「愛を証明した」とか歯の浮きまくったせりふに逃げないで、正直に、皆が羨む女性とセックスできるようになるまでナンパのルーティーンを繰り返したって言いなよと思います。タイトルも『ぼくは皆が羨む女性とセックスできるようになるまでナンパのルーティーンを繰り返そうと思う。』でいいじゃんね。

この極端なセックス重視は何に淵源しているのでしょうか?

私はこのブログのひとつ前の記事「これからRNAの話をしよう」でナンパのRNAワールド仮説を提起しました。

ナンパを個人的な行動力の多寡に帰するなら、それは一般的なナンパのイメージとして間違っていると思います。私が考える「リアル」なナンパは、男性同士の絆(ホモソーシャル)に裏打ちされた組織的な行動というものです。ただただモテたいという内発的な動機からナンパの実行に至るわけではない。むしろ、モテたいという個人的な願望を越えた集団的な動機の中にナンパへ至る道があるのだ

 つまり、セックスすることで男社会から認められるということです。セックスそのものが目的ではなく、それによって男社会で一目置かれ発言権が増すからセックスが大事なのです。セックスは男社会における高額の通貨である。身体的な充足と社会的な充足とを同時に実現するのがセックスの威力なのです。それは相乗的であり、羨望の的になるセックスほど充実感も大きい。ここ一番の試合に勝ったような充実感です。反対に、誰でも平等にできる出来レースのセックスは虚しく、どこかプライドを傷つけ、自分の評価をさげることになります。セックスは戦いである。まさにそうです。それは男と女の戦いではなく、男と男の戦いなのです。

実際に、『ぼくは愛を証明しようと思う。』で描かれているのも男たちの集団的営為です。まずはじめに、永沢とわたなべの師弟関係が生まれます。それまでわたなべは一人でした。肩書は立派でも人間関係は貧困で、上司とも深い関係ではありませんでした。ところが、六本木でモデルとキスをする永沢に「セックスしたいんだろう」とマウントをとられ、「見どころがある」とおだてられ、二人の特別な関係が始まります。二人は連れ立ってナンパに出かけ、永沢から様々なテクニックが仕込まれます。まさにこのような上司を得たことによって、わたなべは徐々に女性に対する自信を深めていく。そして、ナンパ師として一人前になったわたなべを、今度は「先輩」と慕う勇太が出てくるのです。こうしてわたなべは部下を持つ立場になり、狙う女性のランクも上がります。クラブでは勇太との連携プレーで効果的に自分の魅力をアピールします。

 

「女は、単に他の女とセックスできている男が好きなのだ。」

 

RNAワールド仮説は、この命題を以下のように敷衍します。

 

「男は、多くの女とセックスできている男に従い、多くの男を従えている男が他の女ともセックスできているのだ。」

 

多くの男を従えているというのは、単純に部下が多いということではなく、上下関係をわきまえて従順に動く男が多いということであり、そのような上下関係を小規模な男性集団の中で作り出すことができるということです。もちろん、わたしたちは学歴や資産や教養や肩書といったさまざまなもので序列化されています。そこにふつうセックスは入ってこない。セックスをしまくったことで受賞したり社会的地位を得たりした人はいませんが、セックスがらみのスキャンダルで資格をはく奪されたり肩書を失ったり処罰されたりした人はたくさんいます。しかしそれはなんら矛盾するものではなく、セックスは小集団の中の権力関係において大きな威力を持つために不正と結びつきやすく、国家のような大集団における序列化とは根本的に相容れないのではないかと思います。反対に、一人一人の顔がわかるような小集団の中では学歴のような大集団を序列化する属性がかならずしも権力に結びつかないように思います。

男性のタテ社会とセックス志向とには極めて深い関係があると私は考えています。恋愛工学のセックス志向を女性の人権の観点から批判することは、例えば森岡の有名な批評によってなされてきました。しかし、RNAワールド仮説に準拠するなら、男性のタテ社会の解体もセックス志向の希薄な男女関係のために重要なのではないでしょうか。

最後に、RNAワールド仮説の反証事例を検討します。

わたなべはエピローグで永沢に初めて反論します。今度の彼女はずっと愛していたい、一人の女を愛し続ける恋愛工学を試してみたい。こうしてわたなべは永沢との師弟関係を解消します。そして、にもかかわらずわたなべは再びナンパを始めようとする。これはRNAワールド仮説ではもはや説明できない、非合理的な行動です。もちろん彼女との関係も早晩破綻して行くでしょう。エピローグのわたなべは性依存症であるというのが私の判断です。続編の闘病記に期待です。

これからRNAの話をしよう

 

ナンパのリアルを教えよう

RNAはリアルナンパアカデミーの略で、ちょうど一年前、女性を泥酔させ乱暴したとして準強制性交容疑で塾生大滝容疑者及び塾長渡部容疑者が逮捕されました。

ナンパをする人はどんな人だと思いますか。「女性にモテたい、女性とヤりたい男性」が路上で初対面の女性に声を掛けることを想像するかもしれません。もちろん見ず知らずの間柄からいきなり関係を始めようとするわけですから、はじめは失敗の連続ですし、要求されるのは並大抵の精神力ではない。でも、そこまでしてでもたくさんの女性からちやほやされたい、セックスしたい、それによって自分の性的魅力を確認し、優れた男性であることを証明し、あるいは奥手で消極的な自分を変えたい、そういう強い動機付けがあるのだろう。多くの人はナンパに挑む人のことをそうイメージしているのではないでしょうか?

こうした自己実現自己啓発的動機でナンパを始める人も、もちろんいるでしょう。そうした動機に支えられている人は、女性から好感をもたれるように、ファッションに気を使い、アクセサリーを身にまとい、髪型を工夫し、トーク力を磨き、テーブルマナーを学び、その他もろもろの自分磨きを敢行する。それはモテない自分との闘いです。その先には、性的魅力でどんな女性も引き付ける人格的に陶冶された男性がイメージされているのではないでしょうか。

しかし、そのような生粋のナンパ師は少数派であると私は考えます。ナンパを個人的な行動力の多寡に帰するなら、それは一般的なナンパのイメージとして間違っていると思います。私が考える「リアル」なナンパは、男性同士の絆(ホモソーシャル)に裏打ちされた組織的な行動というものです。ただただモテたいという内発的な動機からナンパの実行に至るわけではない。むしろ、モテたいという個人的な願望を越えた集団的な動機の中にナンパへ至る道があるのだ――本稿の眼目はここに存します。

 

ナンパは男を見てするもの

RNAは、セックスの回数を塾生同士で競わせていたことが注目を集めました。数を稼ぐためなら手段を問わず、いかに女性を泥酔させ、判断能力を失わせ、セックスに持っていくかのマニュアルを塾長が提示していました。セックスは個人的な満足を得るためではなく、RNAという組織の中で評価され、認められ、賞賛され、一目置かれるための方法でした。

RNAが提示していたマニュアルは相手の意思を無視した暴力的なもので、セックスのためには犯罪も辞さない極端なものでした。それを「和姦」だと言い聞かせる塾長を前に塾生たちはバランス感覚を失い、スポーツにのめり込むかのようにセックスにのめり込んでいったようです。

しかし、この転倒した方法論を取り除くなら、男性集団の中で評価を高めるために女性との関係を増やしていくという構造は決してRNAに固有のものではありません。初対面の人間にいきなり声をかけるのは誰だってそれなりに苦労します。それでも声をかけられるのは、それで女性を引き込むことができれば「下っ端」から抜け出せる、一人前としてまともに扱ってもらえる、発言権が増し、裁量が増え、周囲の信頼をかちとるという強烈な成功体験を伴うからです。そこで声をかけるのをためらい、いつまでたっても女っ気がないままでは、周囲から軽んじられ、居心地は悪くなり、そして自信が失われていきます。それは男性組織のなかで成功者と失敗者とを分ける分かりやすい基準です。

客引きやスカウトマンは「仕事」という要素がはっきりわかりますが、そもそもナンパには多かれ少なかれ「仕事」的側面があり、ナンパに成功することは商談をまとめることと相通じるものがある。ナンパとはある種の飛び込み営業なのです。自分を売り込む飛び込み営業であり、それが成功すればお前という商品には価値があるなと認めてもらえる。

ナンパ師の眼中にあるのは本当に目の前の女性でしょうか。目の前の瞳を見つめるそのまなざしは、背後にいる男性たちをこそ射抜こうとしているのではないでしょうか。

 

ホモソーシャルの真価

このようなホモソーシャルを背負ったナンパは女性をモノ扱いし、女性の意思を踏みにじるものでしょうか。イエスともノーとも言えません。というのは、女性をモノ扱いせず対等な人間として接するという言説に従う人よりも、ナンパする人の方が往々にして女性への接し方が洗練されていると思うからです。その特徴を列挙してみましょう。

・まず共感する、同調する、話しを合わせる

対等な人間として接するなら、意見や価値観が合わないこともあるし、それで不快になることもあるでしょう。ナンパのコミュニケーションはまず共感から入り、同調してテンションを上げるのが基本です。自分の意見や価値観は、あくまで話しのネタとして披瀝し、相手に同意をもとめたり説得しようとしたりはしません。

・相手のペースに合わせながら相手をリードする

対等な人間として接するなら、自分がリードすることもあれば相手がリードすることもあるし、リードしたい、リードしてほしいと要求しあうこともあるでしょう。ナンパはナンパする側が誘うのですから、誘った側がゴールをはっきり決めていなければいけません。しかし、それをいきなり押し付けられても不快です。相手の予算や体調や都合を確認しつつ、ペースは相手に合わせていくことが必要です。

・こまめに連絡を入れる

対等な人間として接するなら、双方都合がつかなければ連絡が遅れることもあるでしょうし、必要に応じてお互い連絡を入れ合うでしょう。ナンパではナンパする側が積極的に連絡し、相手の様子を確認します。落ち込んでいれば励まします。相手には、連絡を頻繁にもらえることで、自分を気にかけてくれている、興味を持ってくれている、大事にしてくれているというメタメッセージが生まれます。それが、次もその男性についていこうという動機になるはずです。

要するに、一緒にいるのが楽で楽しいと相手が思うからこそナンパが成功するのです。アクセサリーや香水や髪型で垢ぬけた感じを出すのも、そういう人が隣にいてほしいと思ってもらえるからこそです。

これらは悪名高い「フレンドシップ戦略」と違うのでしょうか。違います。フレンドシップ戦略はあくまで友人であり、モチベーションは対等な関係なのです。だから振られれば傷つきます。それに対して、ナンパの心がけはホストであり、ゲストを迎えるサービス精神に基礎づけられます。だからトライアンドエラーが可能なのです。では、なぜそのようなサービス精神が生まれるのか?もちろんゴールにはセックスという対価もあるかもしれない。しかし、それではフレンドシップ戦略から抜け出すことは難しいです。男性集団の中で認められるという、単に女性から受ける以上の対価があるからこそ、女性に徹底的に寄り添うサービスを磨く動機が生まれるのだと私は考えます。これは確実にミソジニーを含んでいます。女性そのものが目的ではないからです。カントなら、人間を手段として扱うなと言うでしょう(カントはミソジニーにまみれた人でしたが)。

もちろんホモソーシャルミソジニーは、シンプルな男性中心主義と女性蔑視を帰結することもある。RNAインセルのような女性への暴力を引き起こすことも確かです。しかし、ホモソーシャルミソジニーをそこに矮小化するとしたら、なぜこのシステムが簡単には崩壊しないのか、その根深さを見失うのではないでしょうか。ホモソーシャルミソジニーはジェントルマンやナイトの基礎でもあると私は考えます。

 

夜這いのRNAワールド

セックスは太古からコミュニケーションの手段でした。そして同時に、集団的で組織的な営為でもあったと考えられます。

夜這いは村の青年宿で管理され、信頼できる年長者がセックスの手ほどきをするところから始まり、村の祭りの祝祭的な雰囲気の中で行われ、また他の村へ夜這いに行くことは禁じられるか、許可が必要だったと言われています。村のしきたりや習俗といった前近代的な法に基づいた、村ぐるみの統治の中にセックスも組み込まれていたようです。

しかし近代化とともに、セックスは夫婦の間の一対一の関係とされ、それに反する習俗は取り締まられます。そして現代では、セックスはプライバシーであり、一人一人の問題だと考えられています。

ここからRNAにひっかけて強引にまとめていくのですが、太古の生物はRNAが遺伝情報の記録も酵素反応も担っていました。これを「RNAワールド」と言います。しかし、しだいに遺伝情報の記録はDNAが、酵素反応はタンパク質が、RNAはその仲介を担うように分業されていきました。

リアルナンパアカデミーは、セックスが個人対個人の合意という契約モデルに基づかない、集団的な行動として現れることを物語っているように思います。RNAではセックスの画像や動画が共有され、塾生たちはその異質でカルト的な空間にはまりこんでいきました。まさに、セックスが集団的・組織的に、個人の意思や合意を踏み越えて行われていたのです。それは渡部のゆがんだ性規範の強要と塾生同士の競争から、女性への深刻な暴力を帰結しました。

私は、RNAは個人化を突き進むポストモダンのなかに出現した夜這いの焼き直しのようにも思われます。そこにはホモソーシャルミソジニーという、集団の中で醸成された価値観に基づく行動原理が存在します。そして、このような「RNAワールド」は様々な形を取りながら、これからも幾度となく回帰してくるのではないか。

現代に生きる私たちは、「RNAワールド」を早急に分解し個人の責任を問う作業を、これからも根気よく続けていく必要があるように思います。それが悪いものである場合はもちろん、一見して良いものと思われる場合についても、吟味が必要なのかもしれません。

gendai.ismedia.jp

夜這いと近代買春

夜這いと近代買春

 

 

 

雪原まりも

雪原まりもは異世界でホストになった

お盆休みは三途の川をわたって此岸と彼岸とが結ばれる時節です。異世界の扉が突如として大きくその口をあけ、

ごごごごごご・・・

気が付くと雪原まりもはホストクラブでアルバイトをすることになりました。

いずれ探訪のまとまった物語を書きたいと思いますが(書くのか?)、今回は備忘をかねてここに簡単な報告をしたいと思います。

 

ホストクラブはどんなところ? ―キャバクラとの対比―

まりもさんはキャバクラに三回しか行ったことがありませんが、ホストクラブのシステムやサービスはキャバクラと似ています。

まず似ているのは指名のシステムで、初回はフリーでキャスト(お客さんを直接接待する従業員)が交代でつき、次回から気に入ったキャストがいれば指名を入れて基本的にそのキャストとお酒を飲みながらお喋りします。初回の値段はキャバクラもホストクラブも安めに設定されていて、門戸を開いています。もちろん二度目の来店以降も指名を入れずにフリーで飲むことができます。また、チャージ料やお酒の値段もキャバクラとホストクラブとで大きな違いはないように思います。お店の雰囲気も似ています。暗めの店内に大音量の音楽が流れ、他の席の会話が聞きづらいようになっています。

そして、どちらも疑似「恋愛」を売っています。つまり、指名を入れて、特定のキャストとお店の中で個人的な関係を持つことを楽しみます。ただし、一対一で話すことよりも、ヘルプといってお酒をつくったりテーブルをきれいにしたりするキャストが一、二人付き、数人で会話を盛り上げることが多いです。

そういうわけで、男性の客を女性のキャストがもてなすのがキャバクラ、女性の客を男性のキャストがもてなすのがホストクラブと言っていいでしょう。そして、キャバクラが女性性を男性に、ホストクラブが男性性を女性に売る場所だと言っていいでしょう。普段の生活で得られない「たくさんの異性からちやほやされ、その中から自由にお気に入りを選べる」経験ができるのがキャバクラでありホストクラブです。

 * * *

違うところは、キャバクラは接待目的で職場の人間関係がそのまま持ち込まれることがありますが、ホストクラブは数人で利用する場合もプライベートな友人関係だという点です。ホストクラブを職場の同僚や部下と一緒に利用することはまずないでしょう。つまり、キャバクラではキャストを会話の「華」として利用することがあるのに対して、ホストクラブはあくまでキャストとの関係を楽しむ「恋愛」要素が強いのです。

これと関連して、キャバクラで大きなお金が落ちるのは接待目的の集団利用であるのに対し、ホストクラブで大きなお金が落ちるのは女性客個人が指名したキャストのためにシャンパンに代表される高額(数万から百万以上)のお酒を店内で購入するときです。シャンパンコールというダンスがあり、テーブルに高額ボトルが入ったときは従業員が一丸となってその場を盛り上げます。そして、その日一番の売り上げを達成したキャストは閉店前に独唱する等、店全体から称賛されます。この、女性が自分のお金でキャストをバックアップできるというところにホストクラブのエンターテインメントの最大の仕掛けがあります。これはキャバクラには存在しない仕組みです。

もちろんキャバクラのキャストにはまって大金を使う男性客も多く存在します。しかし、そうした男性客を狙った高額ボトルやそれを盛り上げるための演出はなされません。キャバクラとホストクラブとを単純なジェンダー反転とはみなせません。男性は公、女性は私という規範については、両者はむしろ一貫しています。

客層にも微妙な違いがあります。キャバクラを利用するのはサラリーマンが多く、あまり堂々とは言いにくいけれども成人男性の典型的な夜遊びの手段として知られています。対してホストクラブは、キャバクラと同じ仕事が終わる時間帯の営業時間の一部と、深夜営業の二部とに別れます。そして、一部はサラリーウーマンや大学生などの利用が多いのに対し、二部は風俗関係や高額収入のある女性も利用し、一部より大きなお金が動く傾向にあります。つまり、一部は平均的収入のある成人女性の夜遊びの手段として利用しやすいですが、二部は時間帯も客層も異なり、そしてこの二部がホストクラブのイメージを規定しているのです。ホストクラブを扱ったコミックや小説などは大都市の二部のホストクラブを想定しているでしょう。しかし、こうした特異なイメージに引きずられすぎないほうがいいと思います。予算一万以内~多くて数万程度の、異性と飲んでお喋りするという利用がホストクラブでも大きな割合を占めるからです。

 

ホストになるってどういうこと? ―キャバクラとの相違―

今まで、キャバクラとホストクラブとを対照しながらジェンダー役割の反転を念頭にホストクラブを説明してきました。繰り返せば、客が異性を選ぶという構図は両者で共通しており、まさにこの選ぶ・選ばれる側が反転したのがキャバクラでありホストクラブだということです。

しかし、キャストとして生活しようとするとき、両者には大きな違いが現れます。そこではジェンダー役割の反転と言うより、むしろ一貫性が強調されなければなりません。

キャバクラでは、キャストは女性ですが、経営者は男性であることが多いです。対して、キャストは男性だが経営者は女性と言うホストクラブを寡聞にして知りません。これは決定的な違いです。というのも、キャストから身を立ていずれキャバクラを経営しようという女性は皆無と言ってよく、30代後半までには結婚等の理由でキャストを引退する者が多いのに対し、ホストクラブは売り上げでナンバーワンを取るなど成功したキャストがそのままホストクラブを経営し身を立てていく立身出世のサクセスストーリーが存在するのです。もちろんキャバクラでもホストクラブでも人の出入りが激しく、多くのキャストは短期やめていきます。しかし長期的にホストクラブで働く場合、売り上げがそこそこあり周囲から一目置かれるようになれば経営に参加するという選択肢がはっきり提示されます。

キャバクラでは、経営者と従業員とは雇用者と被雇用者という関係がはっきりしています。ホストクラブでは、ある意味全員が仲間であり、雇用者と被雇用者の境目があいまいです。それと同時に、いかに指名を獲得し売り上げを伸ばすかという点では全員がライバルで、それぞれに男性としての魅力を競います。それに成功すれば経営者の資格ありとなりますから、全員が自分を売り込む工夫を凝らします。

もちろんキャバクラにキャスト同士の競争が存在しないとは言いません。しかし、売り上げは店からの給与として支払われ、事業の成功という意味合いはありません。詳細はよくわかりませんが、キャバクラはキャストが雇用保険に入る(その分が給与から天引きされる)のに対し、ホストクラブは各人が個人事業主扱いになるようです。この点はむしろ性風俗のキャストと似ているでしょう。ただし、報酬の支払いは性風俗が日払いであるのに対し、ホストクラブは月払いが多く、店舗の従業員という意味合いが強められています。

 * * *

ホストクラブとキャバクラとで、キャストの仕事は大きく異なっています。もちろん、テーブルで会話を盛り上げる、身だしなみを整え、テーブルマナーや接客意識を持つことは両者とも同じであり、店で働くにあたって必要とされるスキルに違いはありません。しかし、キャバクラは店に出勤してお客がキャストを選ぶのを待てばよいのにたいし、ホストクラブは店で働くだけが仕事ではない、店にいる以外の「営業」が重要です。つまり、多くの女性と連絡先を交換し、女性のメンタルのフォローをして、自分の魅力を売り込み、その関係から自分のお店に来てもらうようにする、この努力が必要なのです。キャバクラも、お客の求めに応じてキャストが店外で会い、そのままお店に行く同伴入店は可能ですが、キャストから営業時間外で積極的に客引きをすることはないでしょう。

このため、キャバクラは「パート」的な働き方が主流であるのに対して、ホストクラブは全人格を仕事に投入していく「正社員」的な働き方が主流です。営業時間外で多くの女性と連絡を取り合い、人間関係を広げ、一緒に食事をするなど時間やお金を使うことが、お店に来てもらい自分を指名してたくさんお金を使ってもらうために必要な努力です。そしてこれができない場合、店内でたまたま気に入られて指名をもらうという可能性にあまり期待できないので、指名をもらったキャストの補助をするヘルプの地位から抜け出せないのです。キャストの働き方には、女は受動的に、男は能動的に、というジェンダーロールが一貫して存在します。

キャバクラで雇用者と被雇用者とが情緒的な絆をむすぶことはほとんどないでしょう。あくまで店という場を経営しお金を支払う側と、そこで雇用されお金を受け取る側とに分かれた関係です。対して、ホストクラブではキャストは経営者の卵でもあり、異性愛男性同士の強い連帯感、ホモソーシャルが生まれます。キャストは先輩と後輩との間で多かれ少なかれ情緒的な絆を結ぶことが常です。それができる経営者こそ有能であり、キャストも営業努力の甲斐があり、ホストクラブを成功へと導けるのです。

ホストクラブの労働環境はまさに体育会系の運動部のそれです。大きな声の挨拶、厳しい上下関係、そして徹底した実力(売上)主義です。そこは社会の通念から一つ距離を置いた、実力主義の理想を追求できる場所です。体育会系の運動部で過ごした経験はホストクラブで大いに役立つでしょう。逆に、そうした暗黙のルールを知らずにこの世界に入ろうとしても、周囲から反感を買って孤立し、長続きはできません。

 

ホストから示唆されるもの

ホストは典型的な感情労働です。相手の感情を害さないよう、同調し、共感し、話を合わせて盛り上げることが徹底されます。感情労働は女性に典型的な労働形態とされ、それが男性中心社会のために不当に評価されずにいることが指摘されて来ました。その文脈からはホストは男性性(マスキュリニティ)に対するアンチテーゼです。しかし、どうでしょうか。対人関係を主とする営業のような仕事では男性でも感情労働に従事し、そしてそこに多額の報酬が発生します。ホストもまた、女性から承認を受けることが多額の報酬として返ってきます。

また、男性集団を組織するときに感情は重要な手段です。感情を表出する技術、それをコントロールする技術、適切なときに喜び、怒るアメとムチの技術は周囲の人望を得るために必要です。また、ホストは他の風俗営業と同じく、低い階層に門戸を開いており出自で差別することはまずありません。それぞれに複雑な事情があることがお互いわかっているのです。例えばホストの重要なルールに、偶然知った他人の出自をばらさないというものがあります。したがって、ホストクラブの経営ではこうしたキャストの事情にさりげなく配慮する努力が欠かせません。従業員同士の相互扶助の絆は強く、面倒見がよいことは経営者にとって必須の資質です。

ホストの世界は非常に感情豊かなホモソーシャルの世界です。そして、それは決して覇権的な男性性と矛盾するものではないはずです。もしかしたら、従来の研究は男性性のモデルを社会的中・上流階層に求めすぎていたのかもしれません。そこでは確かに、感情労働に大きなリソースを割く必要はないことも多いでしょう。だが、それを男性性に共通する性質と見なすことはできない。ホストクラブはそれを示しているように思います。

 

最後になりましたが、志田の論説「女性の主体性に関する一考察 -「ホストクラブ」という場から 」は非常に参考になりました。ホストの世界に興味のある方は一読をおすすめします。

ただし、志田はホストを女性から男性への性的商品化という、従来のフェミニズムの視点を利用しジェンダー構造を反転させた論を展開しています。もちろんその側面は大いにあります。しかし同時に、私はホストの世界が典型的なホモソーシャルであり、むしろ男性性の王道を研究するのに適している可能性を提示したいとも思います。

メンヘラがマシになった話

注意―――WARNING―――注意

 

注意注意注意注意注意注意注意

 

この筆者には現在恋人がいます。やはりメンヘラを治すのには恋人が必要なのかという典型例を話すつもりはありませんが、「恋人のいるメンヘラの話なんか聞きたくねえぜ」という人はブラウザバック推奨です。

 

***

 

「なぜ私がメンヘラになったか」がないと始まりませんよね。

私の母は毒親です。どこに出しても恥ずかしくない、アダルトチルドレン兼メンヘラ兼毒親という由緒正しい毒親です。不運なことに私から見ても学があり、スパルタ教育という名の精神的虐待をしていました。いわゆる教育虐待ですね。最先端な毒親でした。とてもうれしくない。

テストでどんな点数をとっても褒められた記憶はありません。悪い点を取ったら泣くまで怒られるのは目に見えるんですがね(笑)要領の悪いこどもと言われ、公文の宿題も英語の単語を覚えるのも、ピアノを練習するのも、ずっと私は泣いていました。

家というところでは私は悪い子だから毎日泣くのが普通だと思っていました。

小4の時にいじめによる自殺が世間を騒がせていました。不謹慎ですが正直に言うと、自殺できた子供たちがニュースで見るたび「勝ち組だな」とその当時の私は思っていました。私は頭が悪くて、度胸もなかったので、心の中でずっと自殺する妄想をする小学生でした。

 

中学になってもあいかわらずで、自分の部屋は勉強の邪魔になるから作らないとか、校則に違反していないのに「ロングヘアは時間の無駄」と泣くまで言い合いになったり。あの頃、家では勉強することによってかろうじて私の人権が保たれていました。

 

高校になるともっとひどくなり

・起床時間6:30、食卓に着く時間7:00

・布団に入る時間10:30、就寝時間11:00

(それらを守らなければ休日のインターネット各一日一時間は却下)

・学校の予習3時間

・数学の予習2時間(平日はなし)

・公文の勉強2時間

・ピアノ2時間(平日は30分)

手を止めてたら休憩し過ぎといわれ、ピアノの練習では「泣いて上手くなるならいっぱい泣けばいい」

と言われ、休日が怖かったです。将来の夢なんか、大人受けする言葉でスラスラ言えたけれど、本当は今日のお母さんの機嫌と問題の難易度だけが心配でした。いつ死んでもいいやと思っていました。

 

***

 

授業中に自傷しないと席に座っておれない状態が続いていたそんなある日。

何もないのに涙が止まらず保健室に行き、初めてサボりというものをしました

家には帰らず、私の身内の中で唯一頭が柔軟な叔母さん(母の妹)に今の状況を伝えました。その時食べたイオンモールサーティーワンのアイスは冷たいのに、なぜか暖かい味がしました。

 

***

 

病院に行くと適応障害(のちにうつ病と診断されるので、この後はうつ病と記す)と診断され親公認の不登校になりました。

・謎のキリキリした頭痛

・夜眠れない。

不登校になって一か月たったくらいでしょうか。両親が急に私の部屋を作り始めました。私はその時の記憶はあやふやです。

 

***

 

うつ病になって二か月目

・朝ごはんのリンゴとヨーグルトしか食べられない

・体が鉛のように重い

・ずっと頭が痛い

・暗いところでパニックを起こす。蛍光灯をつけないと眠れない

・苦しい

・こんなに苦しかったら死にたい

一番びっくりしたのは字が読めなくなったことです。私は本や漫画も入れたら文字は読むほうだけど、その時期は握った砂のようにさらさらと単語も意味も頭から流れてしまうのです。

 

案の定高校二年生は留年しました。

 

***

 

うつ病になって5か月目、やっと文字が少し読めるようになり、親にヘッドセットを買ってもらい、チャットパッドやスカイプ掲示板、メール掲示板などありとあらゆる方法で誰でもいいから人と繋がろうとしました。

はた迷惑な持論ですが「うつ病は孤独で悪化する」そのことを何となく私は気づいてたのかなと思いました。

掲示板関係で続いた人はいい人達でお互いに情緒不安をさらけ出して通話した人もいていい経験になりました。

 

***

 

二回目の高校二年生

 

少し学校にも行くことができて、相変わらず情緒不安定で希死念慮に囚われて「17で死のう」とか思いながら生きていました。

 

その頃某ソシャゲ全盛期で、私はゲームには興味を持たず、オタクでカラオケするオフ会というものに行ってみました。みんな優しくて、学校のカーストで言ったら真ん中より下の層の人たちだったのかもしれません。ですが、それが逆に心地よくてオフ会に通うようになり、またオフ会で知り合った人たちと遊ぶようになりました。オフ会の人たちは私を人間扱いしてくれました。しかし、オフ会あるあるですが、恋愛沙汰でもめ事が起きました。

 

「クズ男」←好き←「私」←好き←「めっちゃ派手な男」

(当時の不毛な三角関係)

 

クズ男はFFに出てくるぐらいイケメンなのでほかに狙っていた女の子もいました。クズ男と仲良くすればするほど、女の子があからさまに態度が冷たくなっていました。それでも、クズ男はクズ男で目があったら笑って手を振ってくれました。

 

私はなぜこんな話をしたかというと、モテたことを自慢したいわけじゃありません。私より美人でスタイルが良くてうつ病じゃない人間はごまんといます。

でも、私はオフ会で「他者から求められる」経験をしました。

もしかしたら、それは体目的だったのかもしれません。

でも、私に女性として価値があることがほぼ初めて知れた、それが寛解への第一歩だったと思います。

「自分に価値を見出す」手先が器用、走るのが早い、やさしい、アイディアマン…

なんでもいいから自分に価値を見出すことは重要だと私は感じます。

「オタクのオフ会でモテた」という井の中の蛙の体験、人によったら顔をしかめるエピソードですが、「他者から求められ、そして、自分の価値を見出す」という体験は重要だと私は認識しています。

 

***

 

私は友達に誘われてツイッターというものを始めました。しかし、高校ダブった私の日常など人様に見せられるようなものでもなく、アカウントを作ったまま放置していました。

そこで私は病み垢ツイッターという概念を知りました。少しの闇を抱えたポエムや、ブラックデビルっていうタバコを指に挟んだ写真をあげたり、時々リストカットをする、スタイリッシュ病み垢にあこがれて、私も病み垢なるものを始めてみました。早々に闇ポエムは飽きたし、スタイリッシュ病み垢はお手上げになります。そして、学校の愚痴や、昔嫌だったこと、トラウマになって動けないこと、電車に乗れなかったこと、自分の状況を文字にして吐き出しました。私は字書きとしてメンヘラ神をとてもリスペクトしていました。最初はメンヘラ神のマネをしてメンヘラエピソードを笑いに変えていこうとしました。そして、我流でつらかったことも、泣きたかったことも何回も何回も書いて、時にユーモアも交えて書いています。

ある日メンヘラ神が亡くなりました。字書きとしての彼女を尊敬しているので、彼女が亡くなった後届いたメンヘラリティスカイは大切にしようと心に決めました。

「自分と向き合う」それはつらくて苦しいこともあるでしょう。私は何回も同じエピソードをツイッターに投稿しています。私には「自分と向き合う」ツールとしてツイッターが向いていたのでしょう。

 

***

 

高校三年生のクラスは留年した私にも優しく接してくれました。でも。受験が待っています。私は高校一年までしか碌に勉強をしてなかったがふらふらのまま受験して合格した大学に入りました。そして、一人暮らしを始めました。

その頃強迫観念がひどくて、頭の中でお母さんに脅されているような錯覚を覚え、駆り立てられるように課題を終わらせられるまで寝なかったり、暇さえあれば勉強し、勉強しないことにそわそわと不安を覚えていました。一緒に住んでいないのに、まだ、心はお母さんに縛られていました。

また、サークルに入ると、女の先輩に振り回され、セクハラ、モラハラすれすれのことをされて、サークルは楽しいのに女の先輩に会うことを考えるだけで吐き気がしました。

 

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1人暮らしを始めると、アマゾンの古本通販を知り、危ない一号、ねこぢるやたまを好み順調に何かを拗らせていきました。

学生の時にしかやれないバイトと言い張り、寂れたラウンジで一か月バイトしてすぐ辞めました。

また、脱法ハーブを買おうとして駅で待ち合わせしたお兄さんにお金を渡してモノを貰うとき、なぜか「大丈夫?」って聞かれました。

私はアマゾンで5000円のぶら下がり健康器具を買って、泣きながら組み立てました。

ぶら下がり健康器具ともやい結びしたロープの前で夏休みの宿題を泣きながらやりました。

そして、泣きながら首を吊ろうとしてもできませんでした。ただ怖かったです。私は臆病者なのです。

 

そして、今住んでいる学生寮の9階から飛び降りようとして、最後になぜかやはりお母さんに電話しました。

その時お母さんに私のこと好きか聞いたら

「好きかどうか答えられへん」という答えが返ってきました。

依存していたからもはや好きかどうかわからないそうです。誰も喜べない返事すぎて今では笑うしかありません。

そして、私は実家に強制送還されました。

 

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それから、実家から大学に行こうと、心がボロボロながら努力しましたが、ほぼ不可能でした。そして、大学に行かなくてはいけないという強迫観念とその他の焦った気持ちと気まぐれで

実家の二階から飛び降りました。

両かかと骨折、背骨骨折して入院しました。

入院している時に三回ぐらい

「なんで、死のうとしたらだめなんですか」

ってお医者さんに泣きながら話した。でも、お医者さんはなだめるだけで、安定剤の注射を打ちます。

そうこうしているうちに退院しました。また、ちゃんと歩けるようになったのは運が良かったのでしょう。

 

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ホストというものに行ってみました。私は20万使いました。ホス狂さんと比べたらとてもはした金ですが、無職ニートにとっては大金です。

ホストの人の高校無法地帯エピソードがおもしろくて、ホストに行くたびその話をしてもらっていました。私はホストの人たちを最初は元ヤンとかDQNとか見下そうと入店していた節もあったけれど、話していることに嘘がまじっていてもいい人はいい人なんだなと感じました。私の育った家では大学に行くのが普通。高卒なんて考えられない。という家でした。でも、お金を払って、少し文化の違う人の話を聞くために使った20万、私は後悔していません。高卒コンプレックスが少し解消された気がします。

しかし、毎日血を吐くのでタバコは一本しか据えないオラオラ営業のホストとぬいぐるみを背負ったブサメンホストに囲まれた午前3時はさすがに、私、何やっているんだろうと思いました。

 

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作業所を見に行ったけど行きたくないのでやめました。そして半年かけて同人誌を作ったけど、イベントでは全く売れず、めまいがしながら帰路につきました。

 

年末、やっと母とほぼ縁を切りました。

 

***

 

最近、やっと希死念慮とうまく付き合えるようになりました。

生きる理由もねーんだけど、死ぬのはめちゃくちゃめんどくさいということに気づいたのです。あとは、低気圧の死にたいはバグです。速やかに酔い止めを飲みましょう。こんな安定した状態が長く続くとは到底思えないので、また「死にたい」が芽生えたら、「VS希死念慮」2週目のスキルを活かして戦わなきゃいけないのです

私のうつ病には

・孤独にならない。(大勢でいるのも疲れるけども)

・自分に価値を見出す

・自分と向き合う

が効果的だったようです。

リストカットチキンレースや私は文章で喧嘩して恨みも買っています。ツイッターをしなければ避けられたことです。でも後悔はしていません。どうせ私はスタイリッシュと程遠い人間なんです。

ツイッターを始めてから、若くしてフォロワーさんがなくなることが何回もあります。その人たちが悪かったのか、違います。ただ、はずみだったり、とっても運が悪かっただけなのです

だから、生きるのが苦しいメンヘラのみなさんには無責任にも次の幸せのためにどんなことをしても生きて欲しいです。

私もカミソリでアムカしたり、二階から飛び降りしながらも生きてきました。

メンヘラツイッタラーからただのメンヘラに詳しいツイッタラーになりたい人間より。

 

P.S.練炭自殺するときは警報器をはずそうな!わっ自殺教唆で逮捕されちゃう!

なんか言えないね、なんか足りないね

この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12/23分です

おはようこんにちはこんばんは

かしぱん(@pankashi )です

こっちは去年のアドベントカレンダーの記事です。よかったら去年のも読んでみてください

今年は去年と比べて文章が散逸しちゃった感があります

読みにくかったらすみません

それでは始めようと思います

よろしくお願いします

 

 

///// 

自分がつらいとき、その痛みを誰かにわかってほしいと思ってしまう
自分の傷、痛みにしか目がいかなくなり、他人の都合が考えられなくなる
「どうして私のこと大切にしてくれないの?」
それきっと、相手も同じこと思っているよ
 
まだ僕は子どもだから、他人にも大切なものがあるって気づいていなかった
僕のことや、僕が信じてきたものを蔑ろにしてくるのが、
君の大切なものを守るためだってことを知らなかった
僕も同じように他人を傷つけてしまっているかもしれない、自分(の大切なもの)を守ろうとして
そして、これからもきっとそうして/されてしまう
 
人は自分の生き方を正当化し続ける
 
 
 /////
今年の10月に、2月から付き合っていた恋人と別れました
 
会わなくても生活ができてしまっていた
近くに住んではいるけど会っていたのは週に1,2回で
LINEも、僕が返信サボり気味だったので向こうに気を使わせていた
付き合っているという手応えが少ないような状況だった
 
僕と相手ではそういう状況に対する捉え方が違っていたんだと思う
僕はこういう状況に対して「でも別れる理由はない」と考えていたけど
向こうは同じ状況について「だから付き合う理由がない」と感じたんじゃないかと思う
 
もちろん他にも理由は(いろいろ)あるけど、その違いは大きかったと思う
崩れかけたバランスはふとしたきっかけで保つことを諦めてしまう
 
 
///// 
私たちの生活は毎日の選択の積み重ねでできている
朝起きてから寝るまでのあいだ、できることは無限にある
今日何をするかから、1つ1つの細かな身体の動きまで
 
誰だって、選べない状況よりは選べる状況のほうがいいと言うと思う
(朝起きる時間が決められている平日より、好きな時間に起きれる休日のほうが私は好きです)
 
でも、選ぶことは意外に消耗する
毎晩の献立を考えるのは結構めんどくさい
結局、楽なほうに流されてしまう
 
選ばない理由がないものに私は流されてしまう
馴染みのある場所のほうが行きやすい
親しい友人と喋っているほうが気楽
YouTubeの自動再生を止める理由がない
Amazonのおすすめリストを見てしまう
ユーザーストリームで流れるTwitterを閉じる理由がない
自分の部屋で寝転がるのに理由はいらない
 
人間関係も同じで、
能動的であるより、受動的であるほうが楽である
たまに自分から誘っておきながら、当日になるとそれほど気が乗らないことがある
むしろ、やりたくない気持ちにさえなってしまう
(自分から何かすることの面倒くささ)
 
だったら流される仕組みを作ろう、
流されることを選べるようにしよう、
能動的に受動的になれるように*1
 
選ばないで流されることと、選んで流されることは違う
後者は身を任せることになる
自分の欲望を満たすために、自分を預ける
そこには確かに私がいる
 
 
/////
人間関係についても能動的な受動性を肯定したい
単に受け身でいることはマイナスイメージで語られがちだが、僕は受け身でいてもいいと思うから
 
よくよく考えてみると、会話が話すのと話される(聞く)のを繰り返すように、関係性の中では能動と受動が何度も入れ替わる
興味もない話をずっと聞かされる、あるいはこちらが無理して喋る、のはしんどい
自分がちょうどよく喋れるような会話は心地がいい
いい関係性を感じられる相手には能動でも受動でも心地よさがある
というより能動の中にも受動が、受動の中にも能動があるように感じられる
相手が待っていることに気づいて私は応答するし
私が待っていることに相手も気づいてくれる
相手のされたいことが私のしたいことになり、私がされたいことが相手のしたいことになる
能動と受動が混ざり合っている状況
少し誘えば乗ってくれるし、誘われたら容易にそれに乗る
それは相手のためにやっていることではなく、自分のためにやっていること
自分のために相手を愛し、相手のために自分を愛する
そういう関係性が、私の思ういい関係性なのかもしれない
 
/////
私もあなたも、もう大人だから、
どこかへ行くことも行かないこともできて、
一緒にいることもいないこともできるの。
それってとっても愉快で、とっても寂しいことだと思わない?
バーヨコハマ/姫乃たま
 
 
好きな歌詞です
選ぶこともできるし、選ばないこともできる
その選択を自分のために行使すること
それは愉快で、とても寂しい
でも、それがいいね
 
私(の好きな人たち)が、幸せでありますように
幸せになろうな
 
 
 

*1:この考え方は私が同好会をやっていく上でよく考えることです

瀕死状態擬似恋愛

こんにちは。紺野と申します。
ほとんどの方は初めましてだと思いますが、「サークルクラッシュ同好会」の会誌に一度載せていただきました。誤字だらけの短い文章でしたが…。

さて、簡単な自己紹介はこのあたりにしましょう。
これから私に起きた最近の出来事を記述していきます。




2018.12.9

私はドラッグストアで購入できる某カフェイン剤を大量に購入し、飲みました。
それはなぜか。
もういいかな、と思ったのです。人生。
人を殺すくらいなら、私が死んでやる、と。
ああでも、もう一度だけでもいいからあの人に会いたかったな……。

気が付いたら国立病院のICUに。ぼんやりと意識がありました。何故。最後の記憶は左手。そう、左手の指先があらぬ方向を向いて痙攣していました。あれからどれだけ時間が経ったのかはわかりません。

胃洗浄をされたようで、私の体には活性炭がこびり付いていました。尿道に挿れられたカテーテル。右足の管から出ていく血液と入っていく誰かの血液。
そう、私は毒素を減らすために人工透析を受けていたようなのです。


2018.12.10

一睡も出来ないまま朝が来ました。昨日嘔吐しすぎたせいで喉が荒れていました。当然食事なんて摂れない状態でした。
そもそも自分の体を自分で動かすことが出来ませんでした。当たり前です。血清CKの値が3000を超えていたのですから。
ああ、生き延びてしまったのかと、絶望しました。

透析も終わったので一般病床に移りました。24時間されっぱなしの点滴のテープが痒いな、なんて思いました。生死の狭間にいたのに悠長なものです。ちなみに看護師や家族によると、私はずっとわけのわからない独り言をぶつぶつ呟いていたそうです。おそらく、他人格と会話でもしていたのでしょう。


2018.12.11

ようやく少しだけ眠れました。おはよう、と他人格に挨拶をしました。寂しい場所ですね。病院というのは。相変わらず自力で寝返りをうつことさえ出来ず、看護師さんに体を拭かれ、もはや羞恥心なんてものはなく、ただただ、死にきれなかった自分を殺したいと思いました。それはなぜか。

私には私を守る為に他者を殺そうとする人格がいます。それが生まれたのは、おそらく幼少期のトラウマが関係しているのでしょう。
「殺される前に殺さなければ」「でも殺したくない」「殺したら俺は‘アレ’と同じになってしまう」
そう泣き叫ぶ人格に私はそっと囁くのです。

「じゃあ誰かを殺してしまう前に死んでしまおうよ」と。


夜、眠れずに思考に耽っていると、ふと、会いたいな、と思いました。ある人に。
そうだ、私はあの人に会いたくて、助けを呼んで病院に来たんだ。その時確かに死にたくないと思った、そうだった、そうだった……。
これが擬似恋愛でも構わない。

私は、あの人が好きだ。

会いたいと、ひとりで泣きました。


個室のロッカーを漁り、メモ帳とボールペンを見つけました。
まりもさんに会いたい、と何度も書きました。そうでなければこんな犯罪者予備軍が生きていることに耐えられなかったのです。


まりもさんに、会いたい






それから、自力で体を起こせるようになったり、自分で食事を摂ることが出来るようになったり、歩けるようになったりと、徐々に回復していきました。血清CKの値も少しずつですが下がっていきました。現在は退院して、スローペースで生活を送っています。


まりもさんに会いたい

まりもさんに

まりもさんに


これが擬似恋愛だとしても。私はこの気持ちを大切にしたい。そう思うのです。
だって、その人のおかげで私は生き延びて、楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや苦しいこと、色んなことをまた経験できる状態にあるのですから。


まりもさんに会いたい

まりもさんに……




Twitter:@ccccconno