circular,

(執筆:小林通天閣
 
主人公に憧れていた。中学生の頃からだ。ヘッセは本当に主人公だったろうか、1年4組のクラス文集には「1組の模範少年」という文章が載った。最初の定期試験で僕より1点高い点数を取ったサッカー部の彼は、いつも色黒の友人に囲まれ、2月には山ほどのチョコレートを受け取りながらそれをひけらかさないような人間だった。僕らのエーミールは今、お笑い芸人を目指しているらしい。勉強だけが取り柄の根暗な僕はといえば、黒ずんだ雑巾を、あるいは根に土を孕んだ丈夫な草を、色黒のスポーツ少年たちから投げつけられる日々を送っていた。
これはそんな少年の、それとは関係のないお話。
 
少年は母から障害者と呼ばれながら育つ。小学校入学から高校卒業まで一度も学校を休まなかった。学校も家も居場所ではなかった。よく泣く母は、よく叫びよく殴る母でもあった。血に汚れ歪んだ眼鏡を直しにオンデーズへ。店員はまず僕の眉間を消毒した。母の怒声は文化住宅の薄い壁を貫き、隣人の眠りを脅かした。警察はうちを何度も訪れたが、そのたび僕はにこやかに母を庇うのだった。家にはパソコンも漫画本もなく、母の教えによれば外出はやめたほうがよく、僕は母の不在にようやく目覚め、自分自身を愛し続けた。
これはそんな青年の、それとは関係のないお話。
 
気づけば京都大学にいた。親元をついに離れた僕は、手探りで何かを埋めようとする。憧れだったカラオケに行った。憧れだったパソコンを先輩から譲り受けた。XVideosは衝撃だったが、思春期を自己性愛に捧げた僕はもはやそんなものに惹かれなかった。青年は恋愛を試み、アームカットエスエスブロンを覚えた。とっくに学校には行けなくなっていた。18年間持て余し続けた快と不快と不可解は、こんなふうにしてようやく両手に収まり始めた。僕はセックスをする人間になったし、ならなくてもよかった。ただ母を求めていたし、今もきっとそうなのだと思う。
これは可愛いみどり児の、それとは関係のないお話。
 
みどり児は新しい母の手を引く。出掛ける母の足を引く。酒を飲んではその顔を打ち、首を絞め、そして失恋をする。何も分からなくなっていた。言葉を尽くしても分かり合えない。信じれば裏切られるし、信じられれば裏切ってしまう。僕は自分を責め、去った母をその倍責めた。死ぬこともできたのに死ななかった。死ぬことはできなかったが死ぬべきだった。母の残影を多くの女性に求めた僕は、多くの女性を傷つけながら、彷徨い歩いて今に至る。
これはそんな主人公の、それとは関係のないお話。
 
不可逆な時間軸を辿りながら、僕たちは可逆なるものの幻影を見出そうとする。僕たちが安心を求めて夢想する円環状の日常に、無慈悲な楔が突き立てられる。大切にしていたブレスレットもいつかは壊れる。通い慣れた店にはシャッターが下りる。恋人はきっと去り、もはや友人は遠くの誰かと笑い合い、愛憎むかうところの肉親は必ず死ぬ。日常モノの漫画は最終回を迎える、その時、日常のベールが後ろから引き剥がされる。じゃーん、実は全部不可逆でした。取り返しなんてつきませんよ。ストーリーというのは幻視される可逆と直視すべき不可逆との連鎖だ。僕たちは此岸から彼岸へと至るその縞模様の上を無邪気に歩く。
 
今日も今日とて京都タワー。高い建物が好きだ、夜闇に鮮明な白、ひとつまみ赤めいて、京都タワーはどう見てもラブホテルだ、僕はラブホテルが好きだし、将来はお城に住みたい。
 
これはそんなお話。
 
circular, circular, circular,
 
誰も遠くに行かないで。僕を絵本に閉じ込めていて。