死にたいということについての自分語り

 

注1:精神的に不安定な方は読まないほうがいいかもしれません。
注2:なにかしらの記憶違いが存在する可能性や、将来私が全然違うことを言っている可能性があります。

 

これはサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2020の21日目の記事です。(遅れてごめんなさい!)

adventar.org

 

この記事では死にたいということについて書いていこうと思います。
それほど暗い記事ではありませんが、なんかよくない感じだなと思ったらブラウザバックをお願いします。

 


はじまり:中学2年生ごろ

小学生の頃、自分が死についてどう思っていたのかはあまり記憶がない。
死にたいと思い始めたのはだいたい中学2年か3年ぐらいの頃だったと思う。中学2年の秋から、ガラケー(そう、当時はガラケーだった...)の未送信メールを日記帳にしていた。この日記の中に死にたいという記述があったことは覚えているのだが、それがどのような死にたさだったのかはよく覚えていない。ガラケーの電源を入れて見てみればいいのだが...。

 

転機:高校生

高校1年生の頃、生理不順で病院に連行され、薬を飲まされた。この薬が合わなかったらしく、母に「死にたい」と言っていたそうだ。自分ではこのときの記憶がない。(正確には、洗面所でドライヤーを見ながら喋っていたことと、母の反応がなんか微妙だったことだけを覚えている。)今思うと、母に死にたいと漏らすなど、大胆なことをしたものだなあと思うが、悩んだ末にこっそり打ち明けた、という訳ではない。当時の私にとっては自分が死んだ方がいいのは当然のことであり、そのことを淡々と述べたのに過ぎなかったのだと思う。医学的に根拠のある話ではないが、私はあのとき薬を飲まされたところから「死にたい」ということの輪郭がわかるようになってしまったような気がしている。


高校生の頃は、死にたいということ以外にも、感情がコントロールしきれずブチ切れることもよくあった。血の気が多かったから、鬱々とした死にたさではなく、「ああもう、わたしが死ねば全部解決するんだ、そうでしょう!」という、手段としての死にたさ、積極的な死にたさを感じることが多かった。自分が「死ぬ」ということに納得がいってしまったら速攻死んでしまうのでは?というコントロールできない恐れのようなものがあったし、どうしようもなく感情が理性を飛び越えてしまうような危機感を感じていた。

 

死ぬ死ぬ詐欺の話:1回生の頃


大学生になって一人暮らしを始めると、ほんとうに自分が突然死んでもだれも気がつかない状況になってしまった。その他いろいろ限界だったこともあり、この頃、地元の仲の良かった友人に月1ぐらいで死にたいという旨のLINEを送っていた。(私は高校生ぐらいの頃から彼女に死にたいと漏らしていたように記憶していたが、LINEの履歴を確認したところその形跡はなかった。人間の記憶は曖昧だ。)


死にたいと言うことは、相手に心理的負担を強いてしまう場合がある。距離が離れているなら尚更だ。だから、死にたいというときには、「あなたが死んだら寂しいよ」と返してね、とお願いをした。そして、勝手に黙って死なないこと、もし死ぬことを決めたなら、死ぬ前に必ず会いに行くことを約束した。
死なないという条件の元で死にたいと言うことを、私は「死ぬ死ぬ詐欺」と呼んでいる。死ぬ死ぬ詐欺をやっている限り、私は相手に心理的負担を強いているかもしれないと気に病まなくていいし、相手も真剣に返答しなければいけないというプレッシャーを感じなくていいよ、という仕組みだ。


「黙って死なない」というルールを既成事実にしておくことで、死ぬということが自分の中で正解になってしまったとしても、速攻死ぬということはないなと思えるようになった。当時のLINEを見返すと、死にたいということと一緒に日頃の悩みも聞いてもらっていて、そんな私の相手をしてくれた彼女には頭が上がらない。ほんとにありがとう。


歳をとればなおります?:2回生〜現在


2回生ぐらいになると、切羽詰まった死にたさを感じること自体がそもそも少なくなっていた。死にたいということにかかわらず、感情と行動が昔よりも切り離されている感じを覚えるようにもなった。腹が立っても物に当たらなくなったけれど、いい音楽を聴いて急に動き出してしまうこともなくなった。高校生の頃、「歳をとればなおります」という発言に怒りを覚えていたけれど、たしかに「歳をとればなおる」ものだったのかもしれない。(いまだに感情が暴走しがちなのは否めないので、わからないが。)


しかし、この頃から、鬱々とした死にたさに苛まれるようになった。自分は生きている価値がないとか、人に会ってもうまく話せないだろう、とか、そのような類のもの。文章がうまくまとまらず、大学の課題に余分に時間がかかったり、家事をしている途中にフリーズしてしまったり、まあそんな感じになってしまうことがときどきある。


鬱々とした死にたさの傾向と対策


こういう死にたさともしばらく付き合っていて、わかってきたことがいくつかある。
一つ目は、忙しさが一定量に達すると発生しやすいこと。自分のペース的には、週に一度は家に引きこもれる日を作るといいが、人間そうもいかず、ついつい予定を入れ、予定がふと途切れると家から出られなくなるのがオチだった。
二つ目は、だいたい月1で小さいものが、3ヶ月か半年に1回ぐらいひどいものが訪れるということ。忙しさ要因とも絡むので、必ず、というわけではないが、Twitterを見返すと周期的に同じようなツイートをしていることに気づいて笑ってしまった。
パターンがあることがわかると、「今だけだから」と考える余地が生まれてきた。そう思ったってしんどさは別に変わらない。でも、「きっと今だけだから、この課題は来週やろう」とか「きっと今だけだから、うまくできなくても仕方ない」など、休息を取ることやうまくいかないことに納得できるようになったことはよかったと思う。


三つ目は、普段気にならないようなことまで気になって仕方がなくなってしまっていること。もともと心配性な性格だけれど、いつも以上に神経質になっている。具体的には潔癖になってしまって手を洗いまくったり、ご飯を食べたら食中毒になるのではないかと過剰に心配したりしている。その他、注意力が散漫になり時間感覚が曖昧になることも重なって、家事をしている間に頻繁に手が止まってしまう。これにはあまり有効な対策を今のところ見つけられていない。まあ仕方ないなと諦めている。


「死にたい」という言葉の裏にあるもの


ここまで散々死にたい話をしてきたが、まとめると、私は本当に死にたくて死にたいと言っているわけではないのではないかと最近は思うようになっている。死にたいというわりには、死なないための方法をいろいろ考えているような気がするからだ。高校生の頃の死にたさは自分が突然死んでしまうのでは?という恐れを含んでいるし、1回生の頃に友達と死ぬ死ぬ詐欺を始めたのも明らかに死なないための手段だ。最近も、ほんとに死にたいなら潔癖症になんてならずにやばいもの食べて食中毒にでもなればいいと思う。


みんながそうというわけでは当然ないのだが、少なくとも私にとっては死にたさというものはなにかの代理なのだと思う。自己否定とか、不安とか、まあそういういろんなものの。まだその全容をはっきり掴むには至っていないけれど、これからもほどほどに付き合っていくしかないなと今は思っている。