ヲタク・マウンティングがやめられない

 

はじめまして、みにょーると申します。アドベントカレンダーにトンチキなアカウントで連携しているのは、匿名性が高くてマトモに動かしている公開アカウントがアレしかなかったというだけなので、あまり気にしないでください。

普段はほぼサークラには顔を出さない(というより諸事情で出せない)女ではありますが、「拗らせ自分語り」というテーマでブログを書いてみたい!という衝動だけで参加させていただきました。他の方のテーマやブログを拝見する限り、明らかに俗物的で短絡的なテーマ、そして小学生のような文章力で色々と語る事は恥ずかしさしかしないのですが、参加させていただいた手前、何とか語っていこうと思います。よろしくお願いします。

まず最初に、このような機会を設けて下さったサークラ関係の皆様、ありがとうございました。

 

 

 

この世に生を受けてから2X年、所謂ヲタクとして人生を歩んで15年以上経った。

 

小学校低学年の頃、不二先輩に憧れていつか自分も青学のマネージャーをするのだと信じて疑わなかったのが、ヲタクとしての最古の記憶であろうか。伊角慎一郎に憧れて囲碁を始めたり、アスランとキラの死闘で涙を流した結果お年玉でNewtypeを買ったり、小学校のクラブ活動で下手な絵を描いたり、エヴァにハマって考察サイトや2ちゃんねるに入り浸ったり、ファンロードの事典コーナーで爆笑したり、コードギアス厨二病を拗らせたり、ファンサイトのパスワードを解読したりして、私はいつの間にか中学生になっていた。

 

今思えば典型的な「イタい」田舎のヲタクであった。誰にも構わず大声でアニメの話をし、所構わずアニメグッズを持ち込み、ボサボサの髪とクシャクシャの制服のスカートを振り乱し、興奮のあまりジャンプをすれば、巨体で教室を揺らす。

自分でもこんなのはやめなければならない、ヲタクは忌避されるイメージなのだ、と気付いていた。当時のヲタクにおける勝ち組の代名詞である「電車男」はあの時代に確かに居たのかもしれないが、大半の「電車男もどき」は燻り続けたまま、教室の端でひたすらイラストを描くのを遠巻きに見られているだけの存在だったのだ。

極端な話、そのような「イタさ」に関して陰口を言われ、虐め紛いの事でもされていれば、私の人生は良くも悪くも変わったのかもしれない。しかし何の因果か、人並みに勉強ができて、人並みに快活だったかつての私は、生徒会長や委員長といった真面目カーストの頂点に立ち、教師からの評判も得たことで、中学生レベルではそれなりの存在になっていた。かつての私にスマホを持たせたら、確実にイキリヲタクとして伝説を残していた事だろう。

完全に厨二を拗らせた状態だったが、受験に向けてひたすら勉強している時、「ヲタクじゃなくなるかもしれない」と初めて思った。そもそも、勉強を頑張った理由は「頭の良い高校に行けば、顔も良くて頭も良い理想の眼鏡男子に会える」と思ったからで、受験直前、スタードライバーのスガタくんのキスシーンを見ただけで情緒不安定になり、一度不合格になった人間のコメントとは思えないが。

 

高校に入ってからもそんな生活をやめられるはずがなく、声優ヲタクを拗らせたり、ヴィジュアル系を嗜んだりしていた。進学校にありがちな、ヲタクに限らず拘りが多い人間が多いという状況も私のヲタク人生を加速させていった。周りは楽しく恋愛したり、部活で青春を謳歌していたりしたが、私にはそんな事は関係なかった。私の楽しい事はヲタクだったのだ。

そんな生活や生来のメンヘラ気質もあり、1年間浪人した。禁欲を迫られるクソみたいな生活だったが、朝比奈祈織さんへの愛で人間性を辛うじて保った。我ながら人並みには頑張って勉強した。祈織様は高学歴でイケメンで何でも持っていて、そして馬鹿な女の子が嫌いだったからだ。彼を好きでいるのに相応しい私でなければならない。外見に拘っている余裕はなかったので、勉強をするしかなかった。せめて頭くらいは祈織様に相応しい女になりたかった。

 

当時第一志望だった大学に入った。祈織様はいなかった。大学生になって、金と時間を手にした私は、狂ったヲタクとして生きていた。わざわざ歴史を専攻するような歴史好きなど、基本ヲタク気質の人間しかいないため、周りを見渡せばヲタクしかいない環境も幸いした。その中でも狂ったヲタクとしてそれなりに有名だったのだから、本当に人生の全てが好きなものに支配されていたのだろうと思う。

しかし、しばらく経った後、一度だけ本当にヲタクをやめよう、やめられる、と思った事があった。本命の某男性声優の言動に勝手に失望して、ファンやら本人やらに嫌気が差し、久々にメンタルも悪化したからだ。その時、偶然3次元アイドルの王道、ジャニーズと遭遇する。かつての私にとって、ジャニーズはスクールカーストの頂点にいる人々の嗜み、程度にしか思っていなかった。選ばれし者達の選ばれし遊び。しかし、いつの間にかジャニーズの彼らは、私が手を伸ばしても構わないモノになっていたのだ。

………いや、そうではない。「今頃ジャニーズなんて」などという言葉が全てである。世間の常識では、恐らくジャニーズは思春期女児の通過儀礼なのだろう。それに気付いていながらも、ライブで隣になったカーストが高そうな高校生と同じ位のテンションで大騒ぎするのだから、本当に救えない。寧ろ、10年以上ヲタクをしてきた今だからこそ、偏見なく素直に、かつて経験できなかったモラトリアムの延長感覚で楽しむ事ができているのかもしれない。

 

ここまで語っておきながら、これは経歴ではなく遍歴なのだ。某本命声優に関してはガチ恋擬きの存在になってしまったし、三次元アイドルに走った所で二次元アイドルの追っかけも辞めることなどできず、草鞋を履き続ける生活を送っている。そして、不思議なことに草鞋を履く足は足りている。

好きな事を「好きだ」と堂々と言って、素直に楽しむのは、想像以上に難しい。それを知っているからこそ、この言葉を盾にして人生の中で1番楽しくて忙しいヲタク生活を送っている。

 

 

ここまで長い自分語りをしてしまったが、結局1番自分の人生の中で特異だったのは、今までの人生の中でヲタクを隠して生きていく事をしなかった、という事だ。

私の中の面白い話はヲタクをしていく上での面白い話だし、嬉しい話はガチャで目当てのキャラを引いた話だし、悲しい話はガチャで爆死した話やチケットが御用意されなかった話だし、恋愛は乙女ゲームの中の話だし、涙を流すのはライブやゲームの「エモい」シーンだし、全てヲタクをしている中で生まれている感情なのだ。勿論、普段の生活で感情が生まれないわけではない。しかし、生活の大半の喜怒哀楽が、私の生活の大半を占めるヲタク活動に支配されている。

 

しばしば、ヲタクは隠すべきマイノリティとして語られ、それが美学だと言われるフシがある。しかし、私にはそんな事はできなかった。「休みに何してるの?」と言われて言葉を濁すくらいなら、「寝てるかソシャゲしてるかDVD見てるかライブ行ってる」と言うし、「趣味は?」と言われて「音楽鑑賞(ジャンルは不問)」と答える位なら、「趣味じゃないけど好きな事はいっぱいあるよ」と言うし、「好きなタイプは?」と言われたら堂々と自担の名前を言う。自分の事を隠した結果、つまらない人間だと勝手に判断されるなんて、たまったものではない。せめて自己アピール位させてほしい。ペラペラで在り来たりな人生を、「節操のないヤバいヲタク」というキャラ性のハリボテで何とか形にしてきた惨めな私を。

 

私からヲタクを取れば、恐らく何も残らない。残るのは、薄っぺらな人生経験と、申し訳程度の流行への関心と、共通項がなければロクに会話も続かない、ただのつまらない人間だ。

私はヲタクを自称する事で、「〇〇」というひとりの人間として認識されているのだと思う。「〜くん好きだったよね?」「〜ハマってたよね?」などと言われると、恥ずかしさもあるが、少なくともそのモノが覚えられているうちは私も覚えられているのだ、とどこか安心する。あるいは、人並み以下の外見や性格を、「ヲタク」という免罪符のようなキーワードで補っているだけかもしれない。

 

 

アイデンティティなどと大層な事を言うつもりはない。しかし、今までの私は「ヲタクであること」を個性に据えてきてしまった。そして何よりも、私自身がヲタクである事を楽しんでしまっている以上、これからもこの生き方を変えないだろうし、きっとヲタクも辞められないと思う。また、いわゆるヲタク趣味以外の人生の楽しみ方を知らないことも大きい。こんな女が万が一、今好きな物たちに関心を示さなくなっても、また新しい何かにハマって、何かの「ヲタク」になるだけだろう。

 

かつて、そして今も、社会の「ヲタク」に向けられる目はそれなりに厳しい。しかし、「パンピ」になったところで、キラキラした「普通の女」と認識される、とは私は全く思えない。それこそ本当に今以上に何も個性がなく、自己否定だけが募っていくようなつまらない人間で、大衆にも馴染めない、癌的存在になるだけだ。他人に溶け込む事も必要だと思うが、つまらない人間だからこそ、自分を殺してまで「普通の人」に見られたいと思わない。だったら私は動物園の見世物でいい。存在がエンタテイメントでいい。他人に笑われてバカにされようが、何を言われようが、私と関わってくれる一部の人たちに1人の人間として認識してもらえるうちは、「節操のないヤバいヲタク」として生きていきたい。それが20数年間で身に付けた、私の承認欲求を満たし、人並みに楽しく生きていくための処世術だ。世間の大抵のヲタクは、普通にそれを隠して当然の顔をしてアイデンティティや個性を確立しているのだから、月並みの言葉ではあるが、本当に凄いと思う。そんな生き方が出来たら良かったとのに、とも無い物ねだりで思ったりするが、そんな事ができていたら、とっくの昔にヲタクなんてやめているだろう。

 

 

「処世術」や「アイデンティティ」などと大層な理屈や言葉で当て嵌めてしまう程の拘りに満ちた、他人にとっては大抵大した事のないもの、これが私にとっての「拗らせ」である。

これが私にとっては「ヲタク活動」だっただけだが、ヲタクとして生きる事で、何とか社会性やらコミュニケーション能力やらその他諸々、人間らしい感情も教訓も得てきたのだから馬鹿にできたものではない。有り体に言えば人生と言っても差し支えないのだ。 

 

残念な人生、ヲタク事しか語ることがない。

だから、ヲタク・マウンティングがやめられない。

 

  

明日は高科さん(@zibun_gatari)です。よろしくお願いします。

そして拙い文ではありましたが、ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。

 

 

サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーがスタートします

初めまして、桐生あんず(id:kiryuanzu)と申します。最近サークルクラッシュ同好会の方で6号の会誌編集をやらせていただいた者です。

6号では、自分語り系の記事が多く寄稿されました。そこで、自分語り系の記事をまとめて順に掲載し「拗らせ男子の自分語り特集」と題して特集する形式で発表しました。

会誌の中では、童貞をアイデンティティーとしていた男が童貞を喪うまでの話(『喪失』-名称未定のユーレイさん)、サークルクラッシュ同好会初代会長の人生と比較しながら自分の今までの人生を語った話(『サークルクラッシュ同好会の会長になった彼とならなかった私−初代会長ホリィ・セン(脱)神格化への補助線』-Silloi)など、とても生々しくも心を打たれる面白い文章が掲載されました。

編集をしながらこのようなかなり踏み入った自分語りを色んな人にしてもらえたらすごく興味深い文章がたくさん生まれるのではないかと思いました。

そこで、会員の人たちに自分語りをしてもらうために、今回サークルクラッシュ同好会でアドベントカレンダーの企画をすることにしました。

adventar.org

アドベントカレンダーとは、元の意味はクリスマスまでの期間に日数を数えるために使用されるカレンダーのことです。「アドベント」とは、クリスマスを待ち望む期間とのことで、つまりは12月1日から25日までです。

ここで言われているアドベントカレンダーは、インターネットの界隈(特にエンジニア界隈)で流行っている「12月1日から25日まで、つまりはアドベントの期間に特定のテーマについて複数人でブログ記事を書いてリレーをつなげていく」といった企画で、クリスマスまでの期間のお祭りイベントのようなものです。

この文化を知って、各会員の人に自分語りをしてもらうのにちょうどいい企画だなと思い、早速今年やろうと思ったのが今回の流れです。

 

アドベントカレンダーに登録してもらったサークルクラッシュ同好会会員には、6号の特集名『拗らせ男子の自分語り」に倣って、「拗らせ自分語り」をテーマに記事を書いてもらいたいと思っています。

「拗らせ自分語り」をテーマに語るということで、登録者の人には一つお願いをしたいと思っています。

それは、あなたの中の「拗らせ」とは何か、ということに軽くでも触れてほしいと思っています。「拗らせ」はすごく曖昧な言葉だと思いますし、あくまでも「自分語り」(またはそれに準ずる何かへの語り)を思いっきりしてもらうことが今回の一番の目的なので、うまく表しにくいと感じたら深い言及はしてもらわなくて大丈夫です。*1

 

それでは、1日目ということで企画者の桐生あんずがトップバッターをやらせていただきたいと思います。 (これから文章レベルの高い方々に記事を書いていただくので初日の記事を飾るのはとても恐れ多いですが頑張らせていただきます…)

今回の企画の基本的な説明ということで敬語体の文章で今まで書かせていただきましたが、自分語りのしやすい常体文で書かせていただきたいと思います。それではよろしくお願いします。

 

 

私の拗らせとは、「自分が持っていないと思い込んでいる事象に対して執着的に考え続けてしまう」という思考そのものであったと思う。

私は大学1回生から3回生まで「普通の女の子」の扱いをされないことに悩んでいた。

私は小学生から喋り方が吃音気味で、言動の中身も良い意味で表すなら「天然」*2っぽく、「悪い子ではないけど、ちょっと変わってて面白い子だよね」と扱いをよく受けていたし、今でも受けている気がする。

実際、その立ち位置で私が好きなコミュニティに所属することに何ら問題はなかったけれど、「面白い子」という芸人枠的な扱いを受けていたとしても、ちゃんと「女の子」という扱いを受けているか不安であった。

なぜそこまで不安を抱えてしまうことになったのは、周囲の女性が私から見てもとても魅力的な人たちばかりだったというのがある。その女性たちが実際に男性から承認を受けていたり、女性として扱いをされているのを見て自分にそのような女性性は持てているのだろうかとすごく不安になってしまっていった。

私が悩んでいる時期の間、決して女性として扱われることが全くなかったという訳でもないのだが、飲み会やサークルの集まりで自分よりも可愛らしく周りからも女の子扱いをちゃんと受けている子がいると、自分がそういった振る舞いができないことに度々落ち込んでしまっていた。

 

具体的なエピソードを挙げるとしたら、サークルクラッシュ同好会で去年まで行われていた「ビンタ屋」を眺めていた時の感情を述べるべきだと思う。

私は「ビンタ屋」を任された女性たちが、男性たちからビンタを頼まれ生き生きとしビンタを行う姿に羨望の眼差しを抱いていた。その中で、「自分はきっとそうなれない」という自己嫌悪に苦しんでしまっていた。「ビンタ屋」に関わる人たちに罪はないけれど、ブースで行われているのを見ると、自意識を針でちくちくと刺されてしまうような感情に襲われていた。

「あんずさんもやってみたらどうですか」と促されたこともあったが、「私はそんなことができる女ではない」という自意識が邪魔をしてできる行為では決してなかった。*3

 

そのような葛藤を抱えつつ無為に大学生活を過ごしていたが、大学2回生の時に、雨宮まみ著の「女子をこじらせて」というエッセー本をホリィセンに貸してもらったことで心境に変化が起きる。

 

女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 この本は、「こじらせ女子」という言葉の生みの親であるAVライターの雨宮まみさん*4の半生録である。当書において、彼女は自分の女性性へのコンプレックスに対してずっと訴えており、世間で言われるような「女の子」になれないことに対しての言及がされていた。

そこには、私が大学1年からずっと抱え込んでいた「ちゃんとした女の子になれないという葛藤」が言語化されていたのである。

私の抱え込んでいる解決しようのなさそうな感情はこの「こじらせ女子」という言葉を深く読み取ることで、分かるのではないかと当時躍起になってずっと考えていたと思う。

自分は本当に「こじらせ女子」なのか。「こじらせ女子」かもしれないけど、そもそも何をこじらせているのか。

自分が何者であるかもわからない大学生活の前半戦の時期に、自分が何をアイデンティティーにできるかを必死に捉えたかったのだと思う。だから、ジェンダー系の本を何冊も手にとって読んでみたり、デートDVを研究する教授の授業を真剣に聞き入っていた。

そんな生活を過ごしているうちに、自分の感情をもっと言語化したいと思い、大学3回生の後期にサークルクラッシュ同好会会誌5号で「あの子はずっと、『お姫様』だった。」という小説を発表した。その作品でも、「面白い女」にはなれても、「可愛い女」になれない葛藤やオタサーの姫になろうとしても本物の姫にはなれない葛藤を詰め込んでいたと思う。

その作品を読んでくださった方に「すごく共感しました」という感想を何度かもらうことができ、とても嬉しかったことを覚えている。

 

これ以上「こじらせてました」エピソードを述べても仕方ないので今現在の状態を説明するが、自分を「こじらせ女子」だと思うことはなくなったし、自分が女性性をこじらせているという自意識は殆ど消え失せてしまった。

あれほど、自分は何者なんだと考え込んで行動していたのに、なぜこのようなことになったのか。

一番大きな理由として「考える暇がなくなった」ことがあげられる。

私は3回生後期からプログラミングによるもの作りに興味を持ち、最近ではWebデザインなどにも多少手を出すようになった。

そういった創作活動をやることで人から承認を得られることや、勉強をすること自体の楽しさに夢中になり、気づいたら女性性がどうとか考えることが減り、ジェンダー論的な正しさを考えるセンサーもどんどんと薄くなっていってしまったと思う。

要は、女性性以外で承認を得られるアイデンティティーを見つけてしまったことで、女性というアイデンティティーに重きを置くことをやめてしまったのだ。

そうなったからといって、「女性である自分」を捨てたわけではないし、むしろ楽しむ(?)ようになった気がする。

具体的なエピソードとして、今年のNFで黒セーラー服を着て売り子をしたという話を挙げたい。

正直、大学3回生の時までだったら自意識に耐えられなくて着ることすらできなかっただろう。

だけど、開き直った今、「せっかく大学生で文化祭に参加できるのだから、多少痛くとも可愛らしいコスプレをしてみたい」という気持ちを抑えきれず衝動的に通販で注文をしていた。

実際着てみたところ、多少恥ずかしかったけれど人から可愛いと言われるのはすごく嬉しかったし、同じくJKのコスプレをした会員の人たちと写真を撮るのが本当に楽しかった。*5

大学生活の中で初めて、自意識に邪魔されずベタに文化祭を心から楽しめたと思う。

女性性をこじらせることから解放されて、やれることは増えたのではないかと思う。

解放されたのは、先ほど述べたプログラミング活動というアイデンティティーを得たのが大きな理由だが、他にも色々とある。

加齢による変化で、顔が多少小さくなって前よりも女性的な顔になったことや、体重の減少により痩せて体型に良い意味で変化がもたらされたこととか。

女性性に執着しなくなったうちに、結果的に自然と自分の女性性を楽しむことができるようになったと言えるのかもしれない。

「普通の女の子」には今でもなれてないと思うけど、私が欲しかったものはちょっとだけ手に入れられたような気がする。

 

最近見たプリパラの回でこのような話がある。

 「自分には夢がない」と常にネガティブ思考で自分に自信を持つことができない幸多みちるというキャラクターが今期のプリパラには登場する。

彼女はプリパラに入ることで「できるできるできるできるできる」が口癖の超ポジティブなクールビューティーアイドルの「ミーチル」に変身することができる。私が見た回では、幸多みちるは「私にはずっと夢がなかった」と言い、自己を否定し続けるが「ミーチル」の存在が自身の夢であり、子供の頃からずっと望んでいた姿であることが分かる。

本編の情報量がかなり多いため、全てを解説することは自重するが、幸多みちるとミーチルの名前の元ネタである「幸せの青い鳥」で示されるように、本当に望んでいたものはすぐそばに(自己の中に)隠されているのかもしれない。

 

そのような顛末で、今のところ女性性に過剰な執着をすることはなくなった。

でも、女性性に対するこじらせがなくなったところで、また何か自分に関わる要素に「こじらせ」の意識を向けてしまうだろうし、実際もうこじらせているかもしれない。

それでも、多少前より生きやすくなったことは素直に喜ぶべきだと思う。

 

それでは、2日目の方(サークラ姉さん)、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

*1:これは、会員の方から「拗らせ」の定義についてよくわからないから登録者の人々の拗らせの定義を記事で述べて欲しいという言及があったことでお願いすることにしました。難しいお願いかもしれませんがよろしくお願いいたします…。

*2:つまりはADHD特性の傾向がかなり見られる

*3:本質的にMの人間であるので、自意識が邪魔をしなくても人を殴る行為は進んでできなかったと今思う。

*4:とても胸が苦しい事実だが、昨年亡くなられた。先日一周忌を迎えたのもあり、追悼の意としてもこの本はちゃんと取り上げたいと思った

*5:Twitterにその時の写真を投稿したらfav数が50近く程になっていて色々と気が狂いそうになった。

サークラ合宿2017@白浜 総括

挨拶

こんにちは。サークラ同好会会員のSilloiです。

このたび和歌山県南紀・白浜における2泊3日の合宿を桐生あんずとともに企画・実施し、累計8人の会員が参加しました。

 

経緯

サークルクラッシュ同好会は2014年夏の白浜を最後に合宿を実施していなかった。8月ごろにSilloiがTwitter上などで再び合宿を実施したい旨を漏らす。桐生あんずがそれに賛同し、いくつかの候補地の中から、京都大学の施設に格安で宿泊できる白浜に決定。参加者を募ったところ、最大で計14人が参加を希望した。部屋の予約の都合で、期間は23日から25日、一泊目はAirbnbによる民宿に、二泊目は白浜海の家に宿泊することになる。参加者は計8人で、うち1人は二日目からの参加となった。

 

旅程

一日目、午前8時に白浜ブルースカイ号にて京都発、12時台に白浜着。昼食、白良浜で海遊びの後、民泊にチェックイン。休憩の後、スーパーで食材を調達し、ベランダで夜遅くまでバーベキュー。

二日目、午前11時に民泊をチェックアウト。日産レンタカーから廃車された車に荷物を積み白浜海の家に移動、チェックイン。1日遅れて到着した参加者を乗せ、とれとれ市場で土産や食材を購入、とれとれの湯で入浴。スーパーで食材を調達し、キッチンでカレーを調理、ダイニングで食事。その後、屋外で花火。

三日目、午前9時半に白浜海の家をチェックアウト。参加者のうち一方が南方熊楠記念館、他方が白浜水族館に分かれ、見学。バスでアドベンチャーワールドに移動し、入場。午後4時に白浜ブルースカイ号に乗車し、午後8時台に京都着。夕食の後、解散。

 

よかった点・参考にすべき点

  • 日程と宿の予約との調整に苦戦した。そのため、1泊目と2泊目の宿が異なるという厄介な事態になってしまったが、そつなく移動できたのでよかった。白浜海の家の予約は1ヶ月前からなので、なるべく早く押さえておくべき。なお後述のように、民泊を取る方が施設も豪華でよいかもしれない。
  • 今回のバス予約では複数名一括の予約が簡便でリスクも少なかった。またアドベンチャーワールド入場引換券とセットで購入すると千円ほど安くなり、大変お得感があった。
  • 旅程をちゃんと立てておいたことは、いくら強調してもしすぎることはない。今回は試みとして行程さんというツールを使ってみたが、参加者にも好評だった。この時間にこの観光地に行くなど、もっと予定を固めることもできたが、その場の空気や参加者の希望に沿って行くのが、柔軟に対応できてよいだろう。とにかくバスやチェックアウトの時間に遅れなければ、それで十分だ。
  • 白良浜では水着持参の参加者はトイレ等で着替えた後、すぐに泳ぎに出ることができた。9月も下旬なので寒いかと思ったがそんなことはなく、二日目には海水浴客も多く来ていた。レジャーシートをコンビニで購入したが、堤防に荷物を置いて見ておけば十分だった。周辺にはシャワーはもとより洗足場もなかったので、サンダルを履いておけば好都合だった。
  • 民泊が素晴らしかった。設備は必要十分以上に整っており、部屋数も多く各部屋にほぼ一人が寝ることができた。大浴場はお湯が溜められなかったため、プールとして遊ばれた。バーベキューが備え付けの設備でできたが、木炭の質が悪く火がなかなか点かなかったため、ドライヤーを使うなどの工夫を要した。
  • かしぱんがデジタル一眼レフのカメラを持ってきていたのは良かった。撮影した写真は桐生あんずのMacbook Proに取り込み、その日のうちにグループラインに共有された。
  • 就寝の遅い参加者は午前3時ごろに就寝した。起床の早い参加者は午前7時台には起きていたが、遅い者はチェックイン1時間前を過ぎても眠っており、起こす必要があった。2泊目の海の家では朝までカードゲームをしたり夜空の星を見るなどして過ごし、結果ほとんど徹夜に近い参加者もあった。
  • 民宿は坂の上にあったが、番地しか伝えていなかったためレンタカーが坂の下に配車され、運転者が取りに行くことになった。坂上の道が狭く急坂なのに対して、海沿いの道は道は広いがカーブが多い。観光客が行き来するため注意が必要。なお業務スーパーまでは歩いて20分あまりだった。
  • 一泊目、二泊目ともに虫(特に大型のカメムシ)が多く、光につられてしばしば室内に侵入してくるので困った。(追記:どうやらこの年は空梅雨のためにカメムシが異常発生していたそうである。)
  • 白浜海の家の最寄バス停は臨海(円月島)。
  • アドベンチャーワールド出園時に参加者の一人がコインロッカーのキーを紛失する事態が発生したが、サービス係員に相談したところ補償金を支払う形で無事バスに乗ることができた。

 

感想

とても楽しい合宿になりました。予定から外れることなく、計画通り事が運んだのも、共同企画者の桐生あんずをはじめ、参加者全員の協力のおかげです。ありがとうございました。

バスの乗車に全員が間に合うかどうか心配だったのですが、ちゃんと集まったのでホッとしました。バスは三列シートで間隔も広く快適で、喋ったり寝たりしながら移動時間を過ごせました。行きはともかく帰りはかなり疲れていたことを考えると、白浜までレンタカーではなくバスで来たのは正解だったと思います。

ご飯はどれも美味しかったです、カレーは少しシャバシャバになってしまいましたが。外で名物料理を食べるのも良いですが、みんなでバーベキューといった形で食事をするのも楽しくてよいと思います。

当初は1泊2日で考えていた予定を2泊3日に伸ばしたわけですが、時間が余るということはなくフルに使ったかなという印象です。むしろ三日目ともなるとさすがに参加者の中にも疲れがあらわになる者が出てきたので、泊数はこれくらいが適切かなと感じました。

今回の合宿では、記録をちゃんと残そうと考える者が十分いたようです。アルバムやTogetterまとめのような形で写真やアーカイブが残されました。一眼レフで精細な写真がたくさん撮れたのはよかったですね。

 次回に向けて

さっそく次の合宿を期待する声がありました。直近で最もありそうなのは、来年冬に長野あたりの雪山でスキー・スノーボードをやろうという企画です。というのも長野にも志賀高原ヒュッテという京大の施設があるのです。あるいは時期を問わずとも、Airbnbで民宿を取ると安くで上等な家屋を利用できることがわかったので、合宿でなくても時々こうして複数名で離れた場所に宿泊するのもよいと話していました。年に一度と言わず、レジャー気分で度々行けたらよいですね。

参考リンク

  • Togetterまとめ

togetter.com

6/21ネット経験をかたる当事者研究の記録

こんにちは~

京都は梅雨も真っ盛りですね。洗濯物を雨でもう一度洗濯しているまりもです。

先日はサークルクラッシュ同好会の例会で放課後当事者研究がおこなわれました。わたし、当事者研究に参加するの初めてでした!そしてこの報告を書いています。べんきょぅになります。ごりごり。

ということで、きのう話したことのまとめです。

わたしを入れて7人で、テーブルを囲んで話しました(わたしはメモばかりしていましたが。)最初に、当事者研究について簡単な説明がありました。それから自己紹介をしました。時計回りに、ハンドルネーム(ツイッターのアカウント名など)と、自分の生きづらさに名前をつける、というのと、あとは任意で自分について簡単に(学年など)紹介しました。そのあと時計回りで、「インターネット、SNSについて、初めて使ったときのことや、どういう使い方をしているのか」について一人ずつ話しました。これで半分くらいの時間を使って(1時間くらい)、残りの半分でそれぞれが気になったことを雑談しました。最後に、「自分についての発見」と「印象に残ったひと言」を、またもや時計回りに一人ずつ言っておわりました。時計仕掛けの当事者研究でした。

いちおう前提として、ネットやSNSが生きづらさを生み出しているという問題意識がありました。「ツイッターやめよう」という結論に至ったひともいました。「ツイッターやめろ」とつぶやく、という結論に至ったひともいました。わたしも定期でつぶやいていこうと思います。しかし、一方でSNSという、リアル(face to face)以外の人間関係がより所になっているというひともいました。「ツイッターが人生を変えた」という至言もありました。わたしもツイッターに人生を変えてもらおうと思います。

それぞれのネット・SNS経験について、簡単に紹介がありました。これ、なかなか興味深かったです。小学校低学年からチャットや掲示板に出入りしていた方が二人もいました。まりもさんの本格的なネット経験は中2くらいからで、中3が黒歴史のピークです。おもしろフラッシュ倉庫への言及多数。20代前半の世代の共通経験になっていることがうかがえました。

SNSの話題については、やはりツイッターが盛り上がりました。アカウント使い分けや鍵垢の技術が披露されました。アカウントが十進法で二けたに達している方までいらっしゃいました。ツイッターは個人が複数のアカウントを持つことができ、また、そのツイートを通知したり閲覧したりできる相手を、オープンにしたり限定したりすることもできます。こうして、フォロワーを増やしていろいろな界隈とつながったり、逆に仲間内で閉じたツイッターコミュニティを形成したり、リアルとネットとで別の人格をつくったり、いろいろできるわけです。

ツイートにfavをつける機能の役割については意見が分かれました。おもしろいツイートだったことを知らせるのが意図された機能だと思いますが、既読や後で読むためのメモとしての役割、相手に好意を伝える(媚を売る)、自分の存在を誇示する、ツイートが見られていることを示して威嚇する、といったさまざまな役割があるのでした。むやみやたらにfavをすることへの嫌悪感を持っている方もいました。

「ff外からリプ」することについても、肯定的な意見と否定的な意見がありました。こうした言語化されていないツイッターマナーがいろいろあります。こうして積極的に他のアカウントと関わる方もいれば、ロム専(他人のツイートを読むだけ)に徹するひともいました。

で、わたしがおもしろかったのはネトストについて。鍵垢を「こじあけ」たり、裏垢を探し出したりする(してしまう)こと、そして得られる「表立っては絶対にわからなかった思考」を覗き見れてしまうことが、ネットのゲーム性であり、中毒性であり、しかし、どうみても、こうした負の感情(嫉妬、嫌悪、被害者意識、下心の曝露、支配欲など)に支えられた好奇心を満足させてしまうことこそ、ネットが産み出す「生きづらさ」の原因になっています。話しはここに尽きる。うむ。コミュニケーションを秘密にする機能は、親密さにはっきりと差をつけることで、承認欲求を挑発すると思います。会長もサークルクラッシュの要因がこのあたりにあると考えていたはず。

最後に、話がツイッターばかりになってしまったけれど、もっと他のサービスもあるよね、という意見がありました。そのとおりだ。ツイッターはすべてことば(記号)で伝えられますが、たとえば音声や映像によるコミュニケーションもSNSで可能になっています。それから、SNSで知り合った後のオフ会など、ネットとリアルの関係についても踏み込む余地がありそうでした。いろいろ比較してみると、ツイッターはあくまでつぶやきを発信するのであって、「会話」するサービスではないところに特徴があると思います。

当事者研究というよりSNSの使い方研究のようになってしまいました。今までの話題では、生きづらさをあまり浮き彫りにはできなかったかもしれません。

情報を広く発信したり、グループを作って共有したり、意見を戦わせたり界隈とつながったりするとき、こうしたときは、SNSのとてもポジティブな側面が光ると思います。しかし、親密さのコントロールをSNSでしようとするとき、そこには魔界が広がっています。「つきあいはじめたらブロックする」という過激な意見もありましたが、一理あります。恋愛中はSNSを断つというのは良い方法だと思います。しかしこうした泥沼にこそ、SNSの生きづらさに分け入るヒントもあるはずなのです。

人のセックスを直視せよ 3/21 AV鑑賞会報告

こんにちは、Silloiです。

先月21日にサクラ荘にて催されたAV鑑賞会について報告します。

1. 概要

3月21日26時頃からサクラ荘のリビングで、代々木忠監督によるAV作品『面接 VOL.121. セックス中毒の若奥さん 処女二年半のお姉さん これオモロイでぇ』、『ようこそ催淫(アブナイ)世界へ 13 野生が欲しい女たちとSEXきらいなAV女優』の二本を上映・鑑賞した。参加者は累計11人、うち8人が男性、3人が女性だった。夜が明けた30時頃に解散した。

2. 動機と狙い

今回の企画を立ち上げた動機、そして狙いについて説明しましょう。

動機は私個人が代々木忠監督作品を見たかったこと、そして他の人にも見てもらいたかったことです。

代々木忠はその監督作品の数と影響からして日本を代表するAV監督といってよい存在です。その作品の特色は、女性のオーガズムを撮ることへの執念にあります。

性愛は人間心理の深奥に関わることから、オーガズムの追求は個人のトラウマやコンプレックス、ライフスタイルなどに否応なくかかわります。それゆえその作品は一個の人間のドキュメンタリーとしての色合いを強くしています。AV鑑賞会を健全な形で行うことができると考えたのも、作品のこのような性質によります。

もう一点、この企画には裏の狙いがありました。それは参加者がともに「セックスを直視する」ことです。

我々には人のセックスを目にする機会がありません。より正確には、セックスの一部始終を学習する機会を与えられていません。

世間はセックスに対するイメージで溢れていますが、それらは断片的なものでしかありません。しかしセックスは過程であり、一つの貫徹したコミュニケーションです。一回のセックスに立ち会うことは、百冊のセックス投稿誌を読むより有益でしょう。

他方で、我々はセックスを忌避します。性的な体験が我々の日常に侵入してくることを惧れます。しかしセックスは日常の延長線上にあり、その間に橋を架けない限り向こう岸には行けません。男性の私としては、まず女体というものを聖から俗の領域に落とし込むことが、我々に必要と考えていました。

3. 実際

『ザ・面接』シリーズはやはり特筆すべきものがありました。AV女優の採用面接という設定で作品は展開されます。モデル一人につき二人の男優が応接し、うち一人と本格的な行為へと発展します。その周りでは面接官として制服の女性が5、6人程度、人物や行為の採点をします。このようなメタ的な舞台設定のなかで、カメラを回す代々木監督はモデルに相手の目を見るよう、二人の世界に没入するよう要求します(この辺りの様子に関しては代々木忠自身の著作を読むとよくわかります)。

参加者は予想した通りおとなしく作品を見ていました。モデルや男優のリアクションに会場からも反応が起こるのは面白い動きだったと思います。実際『ザ・面接』シリーズでは、モデルの経歴や志向への関心もさることながら、男優のキャラクターと彼らの掛け合いは多くの笑いを引き出しました。一方で『ようこそ催淫世界へ』の方はちょっと退屈だった感があります。時間が時間だったのもあり、多くの参加者がまどろんでいました。

参加者によって程度に差はありますが、客観的批評と主観的没入を参加者が相互に行き来したように見えました。その点においてこの試みは成功だったと思います。

4. 今後

今回、「就活のネタ作りとする」という口実でメンバーの皆さんに協力を仰ぎ、その実現に漕ぎつけることができてよかったと思っています。参加を希望していたにもかかわらずできなかった方、ごめんなさい。

最後に私が他に企画としてやりたいと思っていることをいくつか挙げます。

一つはクラブとかある種のバーに行ってみたいです。クラブはナンパ界隈では一つの拠点ですし、ハプニングバーはネットで面白い話をいろいろ聞きますが、それが実態かどうかも含めて謎の多い領域だと思います。どういう人たちがそこに出入りしているのかの調査も含めて、実地を踏んでみたいと前々から思っていました。

あるいはそれに近いものとして、相席屋にも行ってみたいですね。出会いそのものを提供するサービス業態としては、近年もっともジェントリフィケートされたものだと思います。これらは一人でも行けなくはないですが、同志がいれば心強いかなといったものです。

あと以前考えていたものとして、催眠誘導ワークショップを一時計画していました。準備とフィードバックが大変そうなので頓挫してしまいましたが。誰か他に主導してくださる方いませんかね…?

それから新入生を巻き込んでついでに加入させる企画ができるとよいですね。会内の多様性が増すことは我々にとっての利益だと思いますので。

言葉で人を傷つけること

 こんにちは!雪原まりもです。というか!このブログは去年の6月から更新されてなかったんですね!

さてさて。

去る3月4日、『触発する言葉』の読書会が大勢14人の方々とともに4時間にわたって行われまして、わたしも末席に連ならせていただきました。読書会は、主催者の方をはじめ、バトラーをかなり読んできている方が中心になりつつ、初心者の疑問も交えるかたちで進みました。わたしも、音に聞こえた難渋なバトラーは近くば寄っても難渋なものだと、眉間と脳みそにしわを寄せながら読んでいました。あ、バトラーを読むというより、みなさんのバトラー解釈を聞いていました。みなさんありがとうございました、そしてお疲れ様でした!

ええと。

こうした経緯でわたしはこの記事を書こうと思い立ったわけです。ですが、読書会のまとめをするのではなくて、そのときふと思い立ってそのあともごちゃごちゃ考えつづけていたことをしたいのです。というわけで、読書会に参加されたり、あるいはバトラーをある程度読まれた方向けの、ややハードルのたかい記事になっていると思われます。想定読者がめっちゃ少ない気もしますがご寛恕ください……

というわけで、いきなり本題に入ります。

モリスンは一つの寓話を持ちだして、そのなかで言語を「生き物」に譬えたが、この譬えは間違ったものでも、非現実的なものでもなく、言語についての真実を語っている。この寓話のなかで幼い子どもたちは悪ふざけをし、盲目の女に、自分たちの手の中の鳥が生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。盲目の女は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかってりうことは、それがあなたたちの手のなかにあることよ。それはあななたちの手のなかにあるのよ。

モリスンは、この寓話のなかの女を熟練した作家のように、鳥を言語のように語った。

(バトラー 2004,p.11)

 読書会のときはうまく考えがまとまらかったものの、この一節には個人的にいたく心を惹かれました。

まず断っておくのですが、このモリスンの寓話にまつわる部分は、ただでさえ読みにくい「言葉で人を傷つけること」のなかでもひときわ読みにくい部分でして、いったいバトラーはこの寓話をどう解釈しているのかをめぐって、参加した方々もちょっと困惑気味でした。

後日、モリスンのノーベル賞受賞講演

www.nobelprize.org

を調べてみたので、後付けですが、この寓話のおおざっぱな背景を紹介します。

モリスンは初の黒人のノーベル文学賞受賞者でした。受賞は1993年、モリスンは62歳です。講演は、この寓話を軸に話しをふくらませながら進みます。まず、この話は「むかしむかしonce upon a time」という言葉から始まります。たぶん、黒人の長い抑圧の歴史が意識されています。もしかしたら、キング牧師の「わたしには夢がある、いつの日かone day……」を意識して、今や抑圧の記憶は遠い昔話になってしまった(そのような日が来ようとしている)という含意もあるのかもしれません。

主人公の女は、盲目だが賢明な黒人の老女で、その敬虔さは遠くまで知れ渡っていました。そこに(白人の)子どもたちが、この老女をやりこめようとやってきて「おばあさん、ぼくの手のなかに鳥がいるよ。この鳥が生きているか死んでいるか言ってみて」と言います。老女は答えず、子どもたちは笑います。しかし、老女は沈黙を続け、子どもたちは戸惑います。そこで老女は落ち着いて、厳しく、わたしには鳥が死んでいるかどうかはわからないけど、それがあなたの手のなかにいることはわかる、と答えます。

この「手のなかにいる」とは、「生かすも殺すもあなたしだい」という意味だとモリスンは言います。子どもたちは力があり、老女は無力であるのにくわえて、さらに鳥の命を老女をからかうために使ったことによって、より残酷なのだと言えます。支配者はこのように、弱者を集団で、暴力で、残酷に痛めつけるということでしょう。抑圧に逆らおうとしても負けてしまいます。しかし、どのように抑圧するのかということに注意をむけさせることはできます。

そこでモリスンは、鳥を言葉に、老女を熟練した書き手(おそらくモリスン自身)にたとえるのだと言います。生まれ持った、夢を描くための言語が、たとえ悪意によって奪われていたとしても、それをなんとか操ること、これが書き手がもっとも気にかけることです。これは、言いたいことを自由に言えないという言論統制の意味でしょう。言葉を奪われ、言葉を禁じられた中でいかに言葉を操るかということが、モリスンがその文筆活動を通して取り組んできたことだと言えるでしょう。

書き手として、彼女は言葉を、システムであると同時に人が操る生き物であり、しかし全体としては行為agency(さまざまな結果をともなうふるまい)であると考えます。だから、子どもたちの投げかける「それが死んでいるか生きているか」、という問いは、空想のことではなくて、極めて切実で実践的な問いなのです。言語が死んでいるということは、だれも話さないというだけではなくて、国家的統制によってその表現の可能性を奪われているのにもかかわらずあたかもそんなことはないかのように取り繕われているsummoning false memories of stability, harmony among the public.ということです。

モリスンは、いままで黒人には文学が、自らの思いを表わす言葉がなかった、それは黒人が語らなかったからだが、黒人に語らせないできた社会全体の責任なのだ、と言っています。ここが講演の前半の聞かせどころだと思います。盲目の老女の沈黙は、いままで存在を許されてこなかった黒人の文学を、老女をからかう子どもたちのおしゃべりは、抑圧に向き合わなかった白人たちの欺瞞を意味しているのです。

後半は割愛しますが、講演の最後は、沈黙を破った老女のことばで締めくくられています。「いま、わたしはあなたを信じます。わたしは、鳥はあなたの手のなかにはいない、と信じます。なぜなら、ほんとうにそれをつかまえているから。見て、なんてすてきなのでしょう。それはわたしたちが、いっしょに、行ってきたものなのです」。この意味は、いまや黒人の文学が世界に認められた、この黒人の言葉は、黒人と白人がいっしょになってかちとったものなのだ、ということでしょう。

ということで、「手のなかの鳥」の比喩は明瞭だと思います。それは「黒人の文学」の比喩なのです。

そう思って、バトラーの「言葉で人を傷つけること」を読み直すと、この「黒人の文学」という文脈が周到に抜き取られていることに気付くと思います。バトラー自身はそのことに意識的だったでしょうし、もしかしたら読み手にその程度の教養は前提していたのかもしれませんが。というわけで、会長の言葉を借りるなら

 ということになるでしょう。

これはわたしもたいへんもっともだと思うのですが、ことこの寓話に関しては思い切ってバトラーにのっかってみるのも「あり」だと思います。ということで、わたしはこの寓話をバトラーよりもさらにもっと過剰に冗舌に曲解したおしてみようと思います。ご照覧あれ。

バトラーは、モリスンは「言語を『生き物』に譬えた」「鳥を言語のように語った」と言っています。ということは、子どもたちはあたかもこんなふうに言ったのです。

「言葉が生きているか死んでいるか当ててごらん」

ここで、言葉が生きている、言葉が死んでいる、っていったいどういうこと? ってなります。読書会ではこんな意見があらわれました(どなたの意見だったのか覚えていません……複数の方の指摘だったと思います)。

  • 死んでいる、とは、承認されない、ということである。

「承認」にはさらに含みがあって、バトラーはこのちょっと前のところで、言葉によって中傷されることで名指された人は自分の「位置」を失ってしまう、と言っているのです。この「位置」というのは、自分がそうだと思っていた役割、自分が当たり前に思っていた所属、他人に自然に期待していた信頼、といったものがなくなってしまう、というように考えておきます。つまり、「承認されない」は「位置を失う」と考えるのです。そうすると、死んでいる言葉とは中傷(排除)の言葉、生きている言葉は承認(信頼、歓待)の言葉というふうに解釈されます。

これはとても冴えのある解釈です。わたしもこの解釈は悪くないと思うのですが、「この言葉が「中傷」か「承認」かをあててごらん?」という問いかけはこの寓話全体にはうまく当てはまらないように感じます。そこで、わたしはこの解釈のまえにもう一段階かませてみます。言葉が死んでいるというのは、言葉がうまくはたらいていないということではないでしょうか?

言葉は「意味」や「感情」を相手に伝える、相手と共有するものだ、ということには多くの人が納得してくれると思います。では、言葉が死んでいるというのは、

  • 言葉が意味を伝えていない、言葉に感情がのっていない、言葉に心がこもっていない

ということにはならないでしょうか。そうすると、子どもたちが「自分たちの手のなかの鳥が生きているか死んでいるか」を当てさせようとするのは、

この言葉に心がこもっているかいないか、きみにわかる??

といった問いかけになります。これはとっても意地悪な問いかけです。なぜなら、その言葉をあなたがどういうつもりで、どういう感情から発したのかは、あなたにしかわからないからです。そんなことをきかれたってわたしは「しらんがな」としか答えられません。ここでわたしは、女が「盲目」であるという設定が効いてくると思うのです。わたしたちは誰もが他人の言葉に対して「盲目」なのです。

けれども、言葉が意味をもつためには、言葉に感情をのせるためには、言葉に心がこもっているためには、この壁をのりこえなければならないはずです。それはどういうことかといえば、あなたの言葉を承認すること、信頼することです。あなたの言葉にこめられた心はわからないけれど、反対に、わたしがあなたの言葉にこういう心がこめられていると思うことは、わたしにだけははっきりとわかるのです。言葉の「意味」とは、こんなふうに、お互いが「きっとこうだよね」と思い合っているところにしか生まれえないのではないでしょうか。これは言葉に限らず、人間のあらゆる関係に当てはまることだと思いますが、言葉とても例外ではないのです。「あなたの言葉にこういう心がこめられている」という「位置」(=承認)をお互いに与え合っているとき、その「位置」の上にはじめて言葉の「意味」が乗るのです。

ところでモリスンは寓話の前に、こんなことを言っていたそうです。

抑圧的な言語は、暴力を表象するだけではないのです。それ自身が暴力なのです。*1

表象する、とは「意味をもつ」ことでしょう。「キモい」という言葉は、「キモチワルイ」感じを表象する(=意味する)わけですし、より暴力的な「クズ」という言葉は、「廃棄物も同然」さらに言えば「わたしたちはあなたをごみくずのように排除する」という暴力を表象する(=意味する)わけです。でも、それだけではない、それ自身が暴力だ、とモリスンは言っているようです。

ふつう、言葉は「それ自身が暴力」とは考えられません。だって、「クズ」という言葉を発するよりも、握りこぶしや釘打ちバットで殴りかかる方がより直接的で、まさにそれ自身が暴力です。どんなに大声でツバキをとばして鬼の形相で「ク ズ !」と叫んでも、握りこぶしやバットに比べればたかが知れているというものです。だから、どんな汚い言葉でも実際になぐりかかるよりははるかにマシ、ということになりそうなものです。

ところが、バトラーはこんなふうに言っているのです。

文法的〔辞書的〕に分析しただけでは脅しと思えない言葉が、脅しとして語られることもある。……また、脅しが遂行的行為の効果として明瞭に提示されているにもかかわらず、結局は、発話行為が行う身体的身振りのために、無害になってしまうこともある。

バトラー 2004,pp.18-9

ところで、森見登美彦さんはその著『夜は短し歩けよ乙女』において握りこぶしに関する次のような考察を行っておられます。少々長いですが全部引用します。

「おともだちパンチ」を御存じであろうか。

たとえば身近な人間のほっぺたへ、やむを得ず鉄拳をお見舞いする必要が生じたとき、人は拳を堅く握りしめる。その拳をよく見て頂きたい。親指は拳を外からくるみ込み、いわばほかの四本の指を締める金具のごとき役割を果たしている。その親指こそが我らの鉄拳を鉄拳たらしめ、相手のほっぺたと誇り*2を完膚なきまでに粉砕する。行使された暴力がさらなる暴力を招くのは歴史の教える必然であり、親指を土台として生まれた憎しみは燎原の火のように世界へ広がり、やがて来たる混乱と悲惨の中で、我々は守るべき美しきものをたちをのこらず便器に流すであろう。

しかしここで、いったんその拳を解いて、親指をほかの四本の指でくるみ込むように握り直してみよう。こうすると、男っぽいごつごつした拳が、一転して自身なげな、まるで招き猫の手のような愛らしさを湛える。こんな拳ではちゃんちゃら可笑しくて、満腔の憎しみを拳にこめることができようはずもない。かくして暴力の連鎖は未然に防がれ、世界に調和がもたらされ、我々は今少しだけ美しきものを保ち得る。

(森見 2008,pp.7-8)

 ふつう、殴るという行為は行為遂行的*3に考えられています。しかし、「行為の力」もまた「発話の力」と同じように文脈依存的であり、「行為がなされた全体の状況」に置きなおすならば、本来直接的な暴力であるはずのパンチが結果的に愛を生じる場合もあるらしいのです。先輩は、その頬に黒髪の乙女の拳をうけとめながら「脅しが遂行的行為の効果として明瞭に提示されているにもかかわらず、結局は、発話行為が行う身体的身振りのために、無害になってしまうこともある。」とつぶやくことができたでしょう。

「おともだちパンチ」は、発話と行為とは重なり合っていることを教えてくれると思います。発話行為とか行為的発話とか、そういう分類にはつっこみすぎないほうがいいと思います。そうではなくて、あくまで問題は、人間がお互いを理解し合ったり共感しあったりするということはどういうことなのかということなのです。発話とは、のどの筋肉を振るわせて、空気を使って、相手の鼓膜を振るわせる行為です。なでたり殴ったりすることは、腕の筋肉を動かして、手の皮膚を直接相手の皮膚に、そっとくっつけたりぎゅっとくっつけたりする行為です。そういういろいろな行為があるけれども、それによってわたしたちは承認しあったり排除しあったりするのです。グループに新しい人を入れたり、逆に、グループからある人を追い出したりするのです。

そして、どうしてそういうことが起こるかといえば、それは、わたしたちが徹頭徹尾、頭のてっぺんから足のさきっちょまで、わたし自身のことしか感じられず、考えられず、他人に対しては「盲目」だからではないでしょうか。他人とつながる唯一の方法は、わたしは「あなたはこう思っている、こう感じている」と思い合い感じ合うしかないのです。そう思い合っている、そう感じ合っている、ということももちろん思いこみ、感じこみではあるでしょうが、その思い込みや感じ込みだけが、相手とつながる唯一の回路であり、だからこそ、そこには必ず認識や共感のずれが、そうおもっていたのにそうじゃなかったという驚きや戸惑いや不安や恐怖や、また、それを逆手に取った嘘や裏切りや中傷がどこまでもつきまとうのでしょう。

わたしたちは確かに、ぶんなぐられたときの痛みそのものに恐怖するでしょうが、それと同時に、それが排除によるものなのか、それとも承認によるもの(あなたのためをおもってのこと)なのか、その文脈の方にも気をとられるものだと思います。言葉はせいぜい鼓膜をふるわせるくらいの力しか持たないために、にもかかわらず、大勢の人々や親密な人々の承認や排除を左右することがあるために、よりいっそう文脈*4の方に気を取られずにはいられないでしょう。

バトラーは、相互理解は思い込みでしかないのだから、どんな相互理解も必ず思い違いをしているので、それならせめて思い違いをプラスの方向でとっていこう、思い違いをマイナスの方向で取っていくと救いがなくなってしまう、といっているのではないかとわたしは思い込むのです。

話を引き回して恐縮ですが、ここまで周到に思い込むと、モリスンの寓話を言語の本質的な政治性を表わした「言語についての真実」であるかのように思い込むことができるのではないでしょうか。

幼い子どもたちは悪ふざけをし、盲目の女に、自分たちの心の中のことばが生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。盲目の女は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかっていることは、それがあなたたちの心のなかにあることよ。それはあななたちの心のなかにあるのよ。

このとき、言語の政治性、つまり、言語がその意味と同時に、その意味が乗っている「位置」をどのように揺さぶり、 人間どうしの関係をどのように変化させるのかがわかってくるのではないでしょうか。モリスンは、言葉が言葉の前提となっている承認や信頼を揺さぶるような事態にたいして「それ自身が暴力」なのだと言っている(とバトラーに思い込まれている)ように思われます。

 幼い子ども」たちは「悪ふざけ」をし、「盲目の女」に、自分たちの心の中のことばが生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。「盲目の女」は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかっていることは、それがあなたたちの心のなかにあることよ。それはあななたちの心のなかにあるのよ。」

 この寓話はなぜ暴力的なのでしょうか?と問われたら、わたしはこう答えます。暴力性は、生きているか死んでいるかあててごらんという言葉の意味にではなくて、「幼い子ども」たちが「盲目の女」に「悪ふざけ」をしているという関係のなかにあります。そもそもこの寓話が寓話たるゆえんは、「幼い子ども」が幼い子どもを、「盲目の女」が盲目の女を意味しているわけではないからです。バトラーはこうも言っていました。

「モリスンは、この寓話のなかの女を熟練した作家のように……語った。」

熟練した作家!(と、わざとらしく驚いてみました!この驚きを共有してもらえているでしょうか?)「盲目の女」とは、言葉を自分の思っていることや感じていることによってしか使うことができないわたしたちを意味しているとわたしは考えたのでした。ところが、熟練した作家とは、その対極にある、読み手の心をわしづかみにできる言葉のプロ(というか、ノーベル文学賞を受賞したモリスン自身)のはずです。モリスンがほんとにそういうつもりで言ったのかどうかはわかりませんが、バトラー的解釈の風呂敷を広げに広げてみるならそうと読めないでもないのではないでしょうか*5

熟練した書き手を戸惑わせるのは、「幼い子ども」たちの「悪ふざけ」です。この解釈にはふたつあると思います。どんなに熟練した書き手であっても、他人の心をのぞきみることはできません。どんなに熟練したつもりになっても、どこかで思い違いがあって、それがどっと現れる可能性があります。だから、これは文学賞をとったモリスンの自制である、というのがひとつ。もうひとつは、書き手のどんな努力も「幼い子ども」の前には無力(盲目)だということです。子どもであるということは、「相手はこう思っているのだとわたしは思う」よりも「わたしはこう思う」ことによって、より素朴にふるまうということです*6。子どもたちは相手が盲目であることを知らないわけではないけれども、ついふざけて、「わたしはこう思う」だけで動いてしまう。それに対しては、あくまであなたがそう思っているだけなのだと気づかせるしかない。あなたたちとはちがって、わたしは「あなたが思っている」とわたしが思っているのだということをちゃんと知っている、ということを示すしかない。すると、こういう解釈になると思います。

「幼い子ども」というのは、「わたしはこう思う」だけで動いてしまう、それも、わかっていなかったわけではないけれどもつい、気づいたときにはもう行為してしまっている、そういう人々のことを指すのだと思います。そういう人々が、抑圧的に言葉を語る者です。というより、抑圧的な発話行為を行う者です。たとえば「馬鹿」と言うにしても、相手に嫌いだという意思を伝えたくて、あるいは相手に間違いを気づいてほしくて、「バーッカ!!」とか「ばかだなあ」とか言っているのだと、わたしがはっきり自覚しているなら、それは暴力を表象していてもそれ自体が暴力ではありません。けれど、そのことを自覚していなかったとき、「馬鹿」という言葉が排除なのか承認なのか、相手に謎をかけている(ダブルバインドに追い込む)のに、それに気づかないどころか、相手に正しく意思を伝えていると思い込んでいるときに、それはそれ自体が暴力になるでしょう*7

長くなってしまいました。そろそろまとめに入ります。

モリスンの語った寓話はもうすこしかんたんな解釈をしてもいいと思います。読書会では、例えば、手のなかの鳥を殺すという残酷な行為が、わたしはあなたにも残酷な行為をするかもしれませんよという示威になっているという解釈がありました。もっとかんたんに、手のなかの鳥が生きているか死んでいるかと言われれば、ふつうは「生きている」とか「死んでいる」とか答えるものを、機知をきかせて答えているけれども、これは文学のなかだからできることであって、実際にはこんなにうまくは答えられないだろう、だから「寓話」なのだ、という解釈もありました。もっと別の読み方もあったと思います。

その一方で、確かにそう言われればこの寓話自体はわかるけれども、知りたいのは寓話の内容ではなくて、この寓話をバトラーがどう解釈しているのか、バトラーがよくわからないことをいろいろ書いているのはよくわからないことで片づけていいのか、それともそれなりに筋を通しているのか、そこが気になるのだという意見もありました。わたしも正直に言って、バトラーはかなりよくわからない書き方をしていると思いますが、読者を煙に巻いているとまでは言い切れない程度には筋を通していると思います。

モリスンの寓話に関して指摘されているのは、

  1. 言語には、ものごとを意味するほかに、発話そのものがもつはたらきもある。ヘイトスピーチの規制は、暴力を意味する言葉は暴力そのものだということを根拠にしているが、言葉には暴力を意味していても暴力としてはたらかないときもあるし、暴力を意味していなくても暴力としてはたらくときもある。
  2. 言語は人間によって使われるだけでなく、言語じたいの自律的なはたらきによって、人間を縛ることもある。このことを比喩的に、言語は生き物であるという。言語は人間の行為だが、言語によって人間が行為させられることもある。
  3. 人間が言語の効果を完全にあやつることはできない。それは書くときでも同じで、書き手は、読み手がどう読むのか、どう解釈するのかを予想しつくすことはできない。そのかわりに、書き手は書いた内容だけでなく、それがどう読まれるのかも意識しながら書くことができる。

おおまかに、このみっつにまとめられると思います。あとは実際に読んでみて、そこから何を読み取るかは、読者の自由と言うよりは、テクストの自由とか何とか言ってかっこよくしめちゃおうかな!

 

 

 

アメリカの黒人演説集―キング・マルコムX・モリスン他 (岩波文庫)

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夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

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*1:Oppressive language does more than represent violence; it is violence.

*2:これはややミスリーディングだと思います。手加減された、甘くみられたことによって砕かれる誇りもあるでしょう。

*3:オースティンの分類に則れば、殴るという遂行的行為はふつう行為内行為(行為しながら行為することを行う行為であり、したがって行われているまさにその瞬間に行われる)ですが、「おともだちパンチ」の場合は行為媒介行為(行為の結果としてある行為を生む行為であり、何かを行為することによって、ある効果(例えば好意)が導き出される)ということになるでしょう。

*4:「文脈」という言葉を乱用するのがイヤなので、細かい説明をしますが、思いこみというのは一筋縄ではいかなくて、こう思い込むならああも思い込めるし、こう思い込んでいないならそうも思い込めないというように、思いこみどうしで絡み合っていて、そういう絡み合いを「文脈」というのだと思います。

*5:こういう表現のしくみがけっこう気になるのですが、

「「「「読む」めない」でもない」ではない」でしょうか?

の三重否定プラス反語で、実質的に肯定の意味になっているのですね。

*6:「子どものディスクール」では、「相手はこう思う」と「わたしはこう思う」とが区別できなくなってしまいます。例えば、

列車の中で独りのユダヤ人がもう一人のユダヤ人に尋ねた。

「どこへ行くのかね」

レンブルクさ」

すると尋ねたユダヤ人は怒って言った。

「いったいどうして、あんたは本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして、『レンブルクへ行く』なんて言うんだ!」

 というジョークでは、「本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして」いるということは質問者が思っていることなのに、質問者はそれに気づこうとしません。

*7:ヘイトスピーチの本質的な問題は、ヘイトスピーカーが主観的には正義に従っているところにあると思います。主観的というのは、ヘイトスピーカーであるひともそうでないひとも含めたときには、全体としてはヘイトスピーチは正しくないという立場をとっているにもかかわらず、ヘイトスピーカーにその「間違い」を説得できない状態、という意味です。それはおそらく、ヘイトスピーカーは正しくないと主張する人たちもどこかでヘイトスピーカーの正義感に共感していることと表裏一体でしょう

6/17 例会報告

そういえば例会報告とかいうのもあったな。ホリィ・センです。

なんかこの日はungame(アンゲーム)っていうアメリカで30年以上親しまれているコミュニケーションゲームをやりました

 

アンゲームポケットサイズ家族向け J1325

アンゲームポケットサイズ家族向け J1325

 

まあ簡単に言ったら、カードをめくって書かれた質問に答えていく、というだけのゲームです。たまにジョーカーがあって、ジョーカーを引くと自分の話をするか誰かに自由に質問することが可能。もちろんパスあり。 

 

なんか、家族に関する質問が多くて「アメリカ的だな~」みたいなこと言ってたんですが、これ今見ると「家族向け」なんですね。「カップル向け」とかも売ってる!たのしそう!

あとは会誌のこととか決めました。今回のサークラ会誌(3.5号)はA5サイズです多分。外部の方でも寄稿したい方がいればぜひcirclecrush@gmail.comとかツイッターとかに連絡ください。締め切りは7月24日。もう三週間もないのか~、大変だ。

 

ホリィ・センは「メンヘラの自分語り」について書きます多分。出版されている「自伝」(とりわけメンヘラ要素の高いもの)を分析の対象にします。24日までに書けるかしら……