言葉で人を傷つけること

 こんにちは!雪原まりもです。というか!このブログは去年の6月から更新されてなかったんですね!

さてさて。

去る3月4日、『触発する言葉』の読書会が大勢14人の方々とともに4時間にわたって行われまして、わたしも末席に連ならせていただきました。読書会は、主催者の方をはじめ、バトラーをかなり読んできている方が中心になりつつ、初心者の疑問も交えるかたちで進みました。わたしも、音に聞こえた難渋なバトラーは近くば寄っても難渋なものだと、眉間と脳みそにしわを寄せながら読んでいました。あ、バトラーを読むというより、みなさんのバトラー解釈を聞いていました。みなさんありがとうございました、そしてお疲れ様でした!

ええと。

こうした経緯でわたしはこの記事を書こうと思い立ったわけです。ですが、読書会のまとめをするのではなくて、そのときふと思い立ってそのあともごちゃごちゃ考えつづけていたことをしたいのです。というわけで、読書会に参加されたり、あるいはバトラーをある程度読まれた方向けの、ややハードルのたかい記事になっていると思われます。想定読者がめっちゃ少ない気もしますがご寛恕ください……

というわけで、いきなり本題に入ります。

モリスンは一つの寓話を持ちだして、そのなかで言語を「生き物」に譬えたが、この譬えは間違ったものでも、非現実的なものでもなく、言語についての真実を語っている。この寓話のなかで幼い子どもたちは悪ふざけをし、盲目の女に、自分たちの手の中の鳥が生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。盲目の女は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかってりうことは、それがあなたたちの手のなかにあることよ。それはあななたちの手のなかにあるのよ。

モリスンは、この寓話のなかの女を熟練した作家のように、鳥を言語のように語った。

(バトラー 2004,p.11)

 読書会のときはうまく考えがまとまらかったものの、この一節には個人的にいたく心を惹かれました。

まず断っておくのですが、このモリスンの寓話にまつわる部分は、ただでさえ読みにくい「言葉で人を傷つけること」のなかでもひときわ読みにくい部分でして、いったいバトラーはこの寓話をどう解釈しているのかをめぐって、参加した方々もちょっと困惑気味でした。

後日、モリスンのノーベル賞受賞講演

www.nobelprize.org

を調べてみたので、後付けですが、この寓話のおおざっぱな背景を紹介します。

モリスンは初の黒人のノーベル文学賞受賞者でした。受賞は1993年、モリスンは62歳です。講演は、この寓話を軸に話しをふくらませながら進みます。まず、この話は「むかしむかしonce upon a time」という言葉から始まります。たぶん、黒人の長い抑圧の歴史が意識されています。もしかしたら、キング牧師の「わたしには夢がある、いつの日かone day……」を意識して、今や抑圧の記憶は遠い昔話になってしまった(そのような日が来ようとしている)という含意もあるのかもしれません。

主人公の女は、盲目だが賢明な黒人の老女で、その敬虔さは遠くまで知れ渡っていました。そこに(白人の)子どもたちが、この老女をやりこめようとやってきて「おばあさん、ぼくの手のなかに鳥がいるよ。この鳥が生きているか死んでいるか言ってみて」と言います。老女は答えず、子どもたちは笑います。しかし、老女は沈黙を続け、子どもたちは戸惑います。そこで老女は落ち着いて、厳しく、わたしには鳥が死んでいるかどうかはわからないけど、それがあなたの手のなかにいることはわかる、と答えます。

この「手のなかにいる」とは、「生かすも殺すもあなたしだい」という意味だとモリスンは言います。子どもたちは力があり、老女は無力であるのにくわえて、さらに鳥の命を老女をからかうために使ったことによって、より残酷なのだと言えます。支配者はこのように、弱者を集団で、暴力で、残酷に痛めつけるということでしょう。抑圧に逆らおうとしても負けてしまいます。しかし、どのように抑圧するのかということに注意をむけさせることはできます。

そこでモリスンは、鳥を言葉に、老女を熟練した書き手(おそらくモリスン自身)にたとえるのだと言います。生まれ持った、夢を描くための言語が、たとえ悪意によって奪われていたとしても、それをなんとか操ること、これが書き手がもっとも気にかけることです。これは、言いたいことを自由に言えないという言論統制の意味でしょう。言葉を奪われ、言葉を禁じられた中でいかに言葉を操るかということが、モリスンがその文筆活動を通して取り組んできたことだと言えるでしょう。

書き手として、彼女は言葉を、システムであると同時に人が操る生き物であり、しかし全体としては行為agency(さまざまな結果をともなうふるまい)であると考えます。だから、子どもたちの投げかける「それが死んでいるか生きているか」、という問いは、空想のことではなくて、極めて切実で実践的な問いなのです。言語が死んでいるということは、だれも話さないというだけではなくて、国家的統制によってその表現の可能性を奪われているのにもかかわらずあたかもそんなことはないかのように取り繕われているsummoning false memories of stability, harmony among the public.ということです。

モリスンは、いままで黒人には文学が、自らの思いを表わす言葉がなかった、それは黒人が語らなかったからだが、黒人に語らせないできた社会全体の責任なのだ、と言っています。ここが講演の前半の聞かせどころだと思います。盲目の老女の沈黙は、いままで存在を許されてこなかった黒人の文学を、老女をからかう子どもたちのおしゃべりは、抑圧に向き合わなかった白人たちの欺瞞を意味しているのです。

後半は割愛しますが、講演の最後は、沈黙を破った老女のことばで締めくくられています。「いま、わたしはあなたを信じます。わたしは、鳥はあなたの手のなかにはいない、と信じます。なぜなら、ほんとうにそれをつかまえているから。見て、なんてすてきなのでしょう。それはわたしたちが、いっしょに、行ってきたものなのです」。この意味は、いまや黒人の文学が世界に認められた、この黒人の言葉は、黒人と白人がいっしょになってかちとったものなのだ、ということでしょう。

ということで、「手のなかの鳥」の比喩は明瞭だと思います。それは「黒人の文学」の比喩なのです。

そう思って、バトラーの「言葉で人を傷つけること」を読み直すと、この「黒人の文学」という文脈が周到に抜き取られていることに気付くと思います。バトラー自身はそのことに意識的だったでしょうし、もしかしたら読み手にその程度の教養は前提していたのかもしれませんが。というわけで、会長の言葉を借りるなら

 ということになるでしょう。

これはわたしもたいへんもっともだと思うのですが、ことこの寓話に関しては思い切ってバトラーにのっかってみるのも「あり」だと思います。ということで、わたしはこの寓話をバトラーよりもさらにもっと過剰に冗舌に曲解したおしてみようと思います。ご照覧あれ。

バトラーは、モリスンは「言語を『生き物』に譬えた」「鳥を言語のように語った」と言っています。ということは、子どもたちはあたかもこんなふうに言ったのです。

「言葉が生きているか死んでいるか当ててごらん」

ここで、言葉が生きている、言葉が死んでいる、っていったいどういうこと? ってなります。読書会ではこんな意見があらわれました(どなたの意見だったのか覚えていません……複数の方の指摘だったと思います)。

  • 死んでいる、とは、承認されない、ということである。

「承認」にはさらに含みがあって、バトラーはこのちょっと前のところで、言葉によって中傷されることで名指された人は自分の「位置」を失ってしまう、と言っているのです。この「位置」というのは、自分がそうだと思っていた役割、自分が当たり前に思っていた所属、他人に自然に期待していた信頼、といったものがなくなってしまう、というように考えておきます。つまり、「承認されない」は「位置を失う」と考えるのです。そうすると、死んでいる言葉とは中傷(排除)の言葉、生きている言葉は承認(信頼、歓待)の言葉というふうに解釈されます。

これはとても冴えのある解釈です。わたしもこの解釈は悪くないと思うのですが、「この言葉が「中傷」か「承認」かをあててごらん?」という問いかけはこの寓話全体にはうまく当てはまらないように感じます。そこで、わたしはこの解釈のまえにもう一段階かませてみます。言葉が死んでいるというのは、言葉がうまくはたらいていないということではないでしょうか?

言葉は「意味」や「感情」を相手に伝える、相手と共有するものだ、ということには多くの人が納得してくれると思います。では、言葉が死んでいるというのは、

  • 言葉が意味を伝えていない、言葉に感情がのっていない、言葉に心がこもっていない

ということにはならないでしょうか。そうすると、子どもたちが「自分たちの手のなかの鳥が生きているか死んでいるか」を当てさせようとするのは、

この言葉に心がこもっているかいないか、きみにわかる??

といった問いかけになります。これはとっても意地悪な問いかけです。なぜなら、その言葉をあなたがどういうつもりで、どういう感情から発したのかは、あなたにしかわからないからです。そんなことをきかれたってわたしは「しらんがな」としか答えられません。ここでわたしは、女が「盲目」であるという設定が効いてくると思うのです。わたしたちは誰もが他人の言葉に対して「盲目」なのです。

けれども、言葉が意味をもつためには、言葉に感情をのせるためには、言葉に心がこもっているためには、この壁をのりこえなければならないはずです。それはどういうことかといえば、あなたの言葉を承認すること、信頼することです。あなたの言葉にこめられた心はわからないけれど、反対に、わたしがあなたの言葉にこういう心がこめられていると思うことは、わたしにだけははっきりとわかるのです。言葉の「意味」とは、こんなふうに、お互いが「きっとこうだよね」と思い合っているところにしか生まれえないのではないでしょうか。これは言葉に限らず、人間のあらゆる関係に当てはまることだと思いますが、言葉とても例外ではないのです。「あなたの言葉にこういう心がこめられている」という「位置」(=承認)をお互いに与え合っているとき、その「位置」の上にはじめて言葉の「意味」が乗るのです。

ところでモリスンは寓話の前に、こんなことを言っていたそうです。

抑圧的な言語は、暴力を表象するだけではないのです。それ自身が暴力なのです。*1

表象する、とは「意味をもつ」ことでしょう。「キモい」という言葉は、「キモチワルイ」感じを表象する(=意味する)わけですし、より暴力的な「クズ」という言葉は、「廃棄物も同然」さらに言えば「わたしたちはあなたをごみくずのように排除する」という暴力を表象する(=意味する)わけです。でも、それだけではない、それ自身が暴力だ、とモリスンは言っているようです。

ふつう、言葉は「それ自身が暴力」とは考えられません。だって、「クズ」という言葉を発するよりも、握りこぶしや釘打ちバットで殴りかかる方がより直接的で、まさにそれ自身が暴力です。どんなに大声でツバキをとばして鬼の形相で「ク ズ !」と叫んでも、握りこぶしやバットに比べればたかが知れているというものです。だから、どんな汚い言葉でも実際になぐりかかるよりははるかにマシ、ということになりそうなものです。

ところが、バトラーはこんなふうに言っているのです。

文法的〔辞書的〕に分析しただけでは脅しと思えない言葉が、脅しとして語られることもある。……また、脅しが遂行的行為の効果として明瞭に提示されているにもかかわらず、結局は、発話行為が行う身体的身振りのために、無害になってしまうこともある。

バトラー 2004,pp.18-9

ところで、森見登美彦さんはその著『夜は短し歩けよ乙女』において握りこぶしに関する次のような考察を行っておられます。少々長いですが全部引用します。

「おともだちパンチ」を御存じであろうか。

たとえば身近な人間のほっぺたへ、やむを得ず鉄拳をお見舞いする必要が生じたとき、人は拳を堅く握りしめる。その拳をよく見て頂きたい。親指は拳を外からくるみ込み、いわばほかの四本の指を締める金具のごとき役割を果たしている。その親指こそが我らの鉄拳を鉄拳たらしめ、相手のほっぺたと誇り*2を完膚なきまでに粉砕する。行使された暴力がさらなる暴力を招くのは歴史の教える必然であり、親指を土台として生まれた憎しみは燎原の火のように世界へ広がり、やがて来たる混乱と悲惨の中で、我々は守るべき美しきものをたちをのこらず便器に流すであろう。

しかしここで、いったんその拳を解いて、親指をほかの四本の指でくるみ込むように握り直してみよう。こうすると、男っぽいごつごつした拳が、一転して自身なげな、まるで招き猫の手のような愛らしさを湛える。こんな拳ではちゃんちゃら可笑しくて、満腔の憎しみを拳にこめることができようはずもない。かくして暴力の連鎖は未然に防がれ、世界に調和がもたらされ、我々は今少しだけ美しきものを保ち得る。

(森見 2008,pp.7-8)

 ふつう、殴るという行為は行為遂行的*3に考えられています。しかし、「行為の力」もまた「発話の力」と同じように文脈依存的であり、「行為がなされた全体の状況」に置きなおすならば、本来直接的な暴力であるはずのパンチが結果的に愛を生じる場合もあるらしいのです。先輩は、その頬に黒髪の乙女の拳をうけとめながら「脅しが遂行的行為の効果として明瞭に提示されているにもかかわらず、結局は、発話行為が行う身体的身振りのために、無害になってしまうこともある。」とつぶやくことができたでしょう。

「おともだちパンチ」は、発話と行為とは重なり合っていることを教えてくれると思います。発話行為とか行為的発話とか、そういう分類にはつっこみすぎないほうがいいと思います。そうではなくて、あくまで問題は、人間がお互いを理解し合ったり共感しあったりするということはどういうことなのかということなのです。発話とは、のどの筋肉を振るわせて、空気を使って、相手の鼓膜を振るわせる行為です。なでたり殴ったりすることは、腕の筋肉を動かして、手の皮膚を直接相手の皮膚に、そっとくっつけたりぎゅっとくっつけたりする行為です。そういういろいろな行為があるけれども、それによってわたしたちは承認しあったり排除しあったりするのです。グループに新しい人を入れたり、逆に、グループからある人を追い出したりするのです。

そして、どうしてそういうことが起こるかといえば、それは、わたしたちが徹頭徹尾、頭のてっぺんから足のさきっちょまで、わたし自身のことしか感じられず、考えられず、他人に対しては「盲目」だからではないでしょうか。他人とつながる唯一の方法は、わたしは「あなたはこう思っている、こう感じている」と思い合い感じ合うしかないのです。そう思い合っている、そう感じ合っている、ということももちろん思いこみ、感じこみではあるでしょうが、その思い込みや感じ込みだけが、相手とつながる唯一の回路であり、だからこそ、そこには必ず認識や共感のずれが、そうおもっていたのにそうじゃなかったという驚きや戸惑いや不安や恐怖や、また、それを逆手に取った嘘や裏切りや中傷がどこまでもつきまとうのでしょう。

わたしたちは確かに、ぶんなぐられたときの痛みそのものに恐怖するでしょうが、それと同時に、それが排除によるものなのか、それとも承認によるもの(あなたのためをおもってのこと)なのか、その文脈の方にも気をとられるものだと思います。言葉はせいぜい鼓膜をふるわせるくらいの力しか持たないために、にもかかわらず、大勢の人々や親密な人々の承認や排除を左右することがあるために、よりいっそう文脈*4の方に気を取られずにはいられないでしょう。

バトラーは、相互理解は思い込みでしかないのだから、どんな相互理解も必ず思い違いをしているので、それならせめて思い違いをプラスの方向でとっていこう、思い違いをマイナスの方向で取っていくと救いがなくなってしまう、といっているのではないかとわたしは思い込むのです。

話を引き回して恐縮ですが、ここまで周到に思い込むと、モリスンの寓話を言語の本質的な政治性を表わした「言語についての真実」であるかのように思い込むことができるのではないでしょうか。

幼い子どもたちは悪ふざけをし、盲目の女に、自分たちの心の中のことばが生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。盲目の女は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかっていることは、それがあなたたちの心のなかにあることよ。それはあななたちの心のなかにあるのよ。

このとき、言語の政治性、つまり、言語がその意味と同時に、その意味が乗っている「位置」をどのように揺さぶり、 人間どうしの関係をどのように変化させるのかがわかってくるのではないでしょうか。モリスンは、言葉が言葉の前提となっている承認や信頼を揺さぶるような事態にたいして「それ自身が暴力」なのだと言っている(とバトラーに思い込まれている)ように思われます。

 幼い子ども」たちは「悪ふざけ」をし、「盲目の女」に、自分たちの心の中のことばが生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。「盲目の女」は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかっていることは、それがあなたたちの心のなかにあることよ。それはあななたちの心のなかにあるのよ。」

 この寓話はなぜ暴力的なのでしょうか?と問われたら、わたしはこう答えます。暴力性は、生きているか死んでいるかあててごらんという言葉の意味にではなくて、「幼い子ども」たちが「盲目の女」に「悪ふざけ」をしているという関係のなかにあります。そもそもこの寓話が寓話たるゆえんは、「幼い子ども」が幼い子どもを、「盲目の女」が盲目の女を意味しているわけではないからです。バトラーはこうも言っていました。

「モリスンは、この寓話のなかの女を熟練した作家のように……語った。」

熟練した作家!(と、わざとらしく驚いてみました!この驚きを共有してもらえているでしょうか?)「盲目の女」とは、言葉を自分の思っていることや感じていることによってしか使うことができないわたしたちを意味しているとわたしは考えたのでした。ところが、熟練した作家とは、その対極にある、読み手の心をわしづかみにできる言葉のプロ(というか、ノーベル文学賞を受賞したモリスン自身)のはずです。モリスンがほんとにそういうつもりで言ったのかどうかはわかりませんが、バトラー的解釈の風呂敷を広げに広げてみるならそうと読めないでもないのではないでしょうか*5

熟練した書き手を戸惑わせるのは、「幼い子ども」たちの「悪ふざけ」です。この解釈にはふたつあると思います。どんなに熟練した書き手であっても、他人の心をのぞきみることはできません。どんなに熟練したつもりになっても、どこかで思い違いがあって、それがどっと現れる可能性があります。だから、これは文学賞をとったモリスンの自制である、というのがひとつ。もうひとつは、書き手のどんな努力も「幼い子ども」の前には無力(盲目)だということです。子どもであるということは、「相手はこう思っているのだとわたしは思う」よりも「わたしはこう思う」ことによって、より素朴にふるまうということです*6。子どもたちは相手が盲目であることを知らないわけではないけれども、ついふざけて、「わたしはこう思う」だけで動いてしまう。それに対しては、あくまであなたがそう思っているだけなのだと気づかせるしかない。あなたたちとはちがって、わたしは「あなたが思っている」とわたしが思っているのだということをちゃんと知っている、ということを示すしかない。すると、こういう解釈になると思います。

「幼い子ども」というのは、「わたしはこう思う」だけで動いてしまう、それも、わかっていなかったわけではないけれどもつい、気づいたときにはもう行為してしまっている、そういう人々のことを指すのだと思います。そういう人々が、抑圧的に言葉を語る者です。というより、抑圧的な発話行為を行う者です。たとえば「馬鹿」と言うにしても、相手に嫌いだという意思を伝えたくて、あるいは相手に間違いを気づいてほしくて、「バーッカ!!」とか「ばかだなあ」とか言っているのだと、わたしがはっきり自覚しているなら、それは暴力を表象していてもそれ自体が暴力ではありません。けれど、そのことを自覚していなかったとき、「馬鹿」という言葉が排除なのか承認なのか、相手に謎をかけている(ダブルバインドに追い込む)のに、それに気づかないどころか、相手に正しく意思を伝えていると思い込んでいるときに、それはそれ自体が暴力になるでしょう*7

長くなってしまいました。そろそろまとめに入ります。

モリスンの語った寓話はもうすこしかんたんな解釈をしてもいいと思います。読書会では、例えば、手のなかの鳥を殺すという残酷な行為が、わたしはあなたにも残酷な行為をするかもしれませんよという示威になっているという解釈がありました。もっとかんたんに、手のなかの鳥が生きているか死んでいるかと言われれば、ふつうは「生きている」とか「死んでいる」とか答えるものを、機知をきかせて答えているけれども、これは文学のなかだからできることであって、実際にはこんなにうまくは答えられないだろう、だから「寓話」なのだ、という解釈もありました。もっと別の読み方もあったと思います。

その一方で、確かにそう言われればこの寓話自体はわかるけれども、知りたいのは寓話の内容ではなくて、この寓話をバトラーがどう解釈しているのか、バトラーがよくわからないことをいろいろ書いているのはよくわからないことで片づけていいのか、それともそれなりに筋を通しているのか、そこが気になるのだという意見もありました。わたしも正直に言って、バトラーはかなりよくわからない書き方をしていると思いますが、読者を煙に巻いているとまでは言い切れない程度には筋を通していると思います。

モリスンの寓話に関して指摘されているのは、

  1. 言語には、ものごとを意味するほかに、発話そのものがもつはたらきもある。ヘイトスピーチの規制は、暴力を意味する言葉は暴力そのものだということを根拠にしているが、言葉には暴力を意味していても暴力としてはたらかないときもあるし、暴力を意味していなくても暴力としてはたらくときもある。
  2. 言語は人間によって使われるだけでなく、言語じたいの自律的なはたらきによって、人間を縛ることもある。このことを比喩的に、言語は生き物であるという。言語は人間の行為だが、言語によって人間が行為させられることもある。
  3. 人間が言語の効果を完全にあやつることはできない。それは書くときでも同じで、書き手は、読み手がどう読むのか、どう解釈するのかを予想しつくすことはできない。そのかわりに、書き手は書いた内容だけでなく、それがどう読まれるのかも意識しながら書くことができる。

おおまかに、このみっつにまとめられると思います。あとは実際に読んでみて、そこから何を読み取るかは、読者の自由と言うよりは、テクストの自由とか何とか言ってかっこよくしめちゃおうかな!

 

 

 

アメリカの黒人演説集―キング・マルコムX・モリスン他 (岩波文庫)

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夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

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*1:Oppressive language does more than represent violence; it is violence.

*2:これはややミスリーディングだと思います。手加減された、甘くみられたことによって砕かれる誇りもあるでしょう。

*3:オースティンの分類に則れば、殴るという遂行的行為はふつう行為内行為(行為しながら行為することを行う行為であり、したがって行われているまさにその瞬間に行われる)ですが、「おともだちパンチ」の場合は行為媒介行為(行為の結果としてある行為を生む行為であり、何かを行為することによって、ある効果(例えば好意)が導き出される)ということになるでしょう。

*4:「文脈」という言葉を乱用するのがイヤなので、細かい説明をしますが、思いこみというのは一筋縄ではいかなくて、こう思い込むならああも思い込めるし、こう思い込んでいないならそうも思い込めないというように、思いこみどうしで絡み合っていて、そういう絡み合いを「文脈」というのだと思います。

*5:こういう表現のしくみがけっこう気になるのですが、

「「「「読む」めない」でもない」ではない」でしょうか?

の三重否定プラス反語で、実質的に肯定の意味になっているのですね。

*6:「子どものディスクール」では、「相手はこう思う」と「わたしはこう思う」とが区別できなくなってしまいます。例えば、

列車の中で独りのユダヤ人がもう一人のユダヤ人に尋ねた。

「どこへ行くのかね」

レンブルクさ」

すると尋ねたユダヤ人は怒って言った。

「いったいどうして、あんたは本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして、『レンブルクへ行く』なんて言うんだ!」

 というジョークでは、「本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして」いるということは質問者が思っていることなのに、質問者はそれに気づこうとしません。

*7:ヘイトスピーチの本質的な問題は、ヘイトスピーカーが主観的には正義に従っているところにあると思います。主観的というのは、ヘイトスピーカーであるひともそうでないひとも含めたときには、全体としてはヘイトスピーチは正しくないという立場をとっているにもかかわらず、ヘイトスピーカーにその「間違い」を説得できない状態、という意味です。それはおそらく、ヘイトスピーカーは正しくないと主張する人たちもどこかでヘイトスピーカーの正義感に共感していることと表裏一体でしょう