著者:匿名。読了目安:10分。
女とは驚くべき存在だ。何も考えていないか、それとも別の事を考えているかのどちらかだ。(アレクサンドル・デュマ)
◆序◆
神なき時代に照らし合わせて現代を語られることが多いが、本作はまさに「神が失われつつある時代」に現代的な感性を持った人はどのように振る舞うのかが描かれている。
メザーテと言われる王国が周辺王国への権威誇示として利用していた古の巨獣が、謎の病気である赤目病を発症しメザーテ王国はたちまち権威の失墜に悩まされる。
また、周辺王国のメザーテ王国に対する反乱意識を押さえ切ることができずに、たちまち一国によって統治されていた社会システムは崩壊する。
このようなメザーテ王国の情勢の中で、数百年を生きる長寿の一族「イオルフ」の少女マキアとレイリアは、運命を振り回されることになる。
彼女たちはその特殊な生態から、絶対的な価値(彼女たちにとって一番大切にすべきもの)と常に迫られる忘却(「イオルフ」は他の一族と交わってはならないという掟)の中で生きなければならなかった。
本稿は「神が失われつつある時代」を迎えたメザーテ王国で、絶対的な価値を信じ続けられない現代的なメンヘラと言える彼女たちに焦点を当てていく。レビューの形式を取るため、散漫な文章構成や、本論を展開する上で必要な場面の抽出にご容赦いただきたい。
(特にネタバレを気にする方は、まず映画をご高覧いただきたい)
◆1◆
さて、「イオルフ」の少女であるマキアとレイリアをメンヘラと位置付けたのは、彼女たちが「本来的な意味で母親になっていなかった」からである。
マキアは息子として育てるエリアルを身籠っていないだけでなく、数百年という人並み外れた期間をほぼ同じ姿で過ごす特殊な生態から、後にエリアルの母親という役を放棄せざるを得ない状況を迎える。
マキア自身、エリアルの面倒を見続けることに精を出していたが、母親という役割に対しては寛容だった。「子供扱い」に反抗したエリアルに対して、マキアは自分自身の役割について問い続ける。マキアはエリアルの面倒を見るために、「母親」という役割を一時的に用いていたのだった。
対してレイリアは、一度は娘を身籠もるがメザーテ王国の企図により子育てをさせてくれない。娘であるメドメルとの隔絶を余儀なくされたレイリアは、成長を目にできないメドメルの姿を乞いながら孤独に生き続けるしかなかった。
彼女たちが「本来的な意味で母親になっていなかった」ことを象徴するセリフが、マキアとレイリアに共通して存在する。
炎の上がった赤いカーペットの横で、レイリアがメザーテ王国の軍人であるイゾルにすがる。そして、今までメザーテ王国での軟禁生活に耐えてきたのは、自分の娘であるメドメルがいたからだと告白する。
母親としての大義にふさわしいこのセリフは、一方で彼女たちがいかにエリアルやメドメルに依存してきたかを物語っている。
つまり、メンヘラは母親になれないということではなく、彼女たちは誰かへの依存を通じて生きるしかなかったという意味でメンヘラであり、母親としての存在意義に疑問符を投げ続けなければならなかったのだ。
◆2◆
本作では、マキアとレイリアを通して複数の家族の姿が描かれている。特にマキアは住居を転々とするシングルマザーとなり、レイリアは娘との隔絶によって幻想となった家庭に悶絶する。
十代なかばの若い姿で生きる彼女たちは、開放的な暮らしを送っていた故郷を去って「母親役」としての自立を余儀なくされる。この過程は、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』(2012)とは逆の方向性を貫いていると思われる。
『おおかみこどもの雨と雪』では、狼男と人間の間で生まれた雨と雪が、周りの人間とは違う境遇に悩みながら自分の人生の指針を見つけ出していく。
すなわち、『おおかみこどもの雨と雪』は子供達の母離れに焦点を当てていたのに対し、本作は母親たちの子離れを中心に描かれていたのではないか。
もちろん、この過程における母親(役)の成長や、子供達の自立を無視することはできない。母親と子供は、同じ時間を生きる中で常に表裏一体の関係にある。
しかしながら本作のマキアは、数百年という長い寿命の中で奔放な少女としての面を忘れていなかった。
場面が大きく切り替わる所で、特に別れを伴うシーンにおいて、似たような絵の構図を目にするだろう。
最初に挙げられるのは、マキアが古の巨獣に絡まった布に捕まりながら故郷を離れていくシーンだ。夜への別れを告げながら正面に昇りゆく朝日が、山々を目下に見下ろしながら新天地へ進む古の巨獣を照らしている。
そして象徴的なのは、足に怪我を負って倒れていたエリアルに別れを告げる時のカットだろう。薄く水を張った城の一角に足を入れたマキアは、アーチを描く石橋の桁下から覗く太陽に向かって歩いていくようだ。
これらの構図は、別れを通じて(そして、どちらも朝である!)彼女が持つ新しい世界への憧れを描いているとしたら大袈裟だろうか。
絶望的な状況であれ、自分が生きる意味を未来に托すマキアの姿は、忌々しいメザーテ王国での記憶を「忘れたがって」いるレイリアとは対照的である。
◆3◆
長寿の一族「イオルフ」を考える上で、ある重要な慣習について最近のアニメ映画と比較しながら考察を深めたい。
それは、序盤とエンディングで用いられていたヒビオルという機織のモチーフである。イオルフの長老によれば、「イオルフ」の織る白い布では縦糸は流れ行く月日、横糸は人のなりわいを表しているという。
日本で空前の大ヒットとなった新海誠監督の『君の名は。』で、宮水神社で織られている組紐とは、神の力による「結び」を意味していた。
糸を繋げること、人を繋げること、時間を繋げることは全て神の力であり、組紐(または、話題を呼んだ口噛み酒)の奉納は神に身を委ねる人々が代々続けてきた因習である。
私たちはここで、糸を紡ぐことにおける異なる二つのスタンスを目にしている。
本作においては止まらない時間の流れによる永遠性と、人間社会の流動性や断続性が機織に結実している。『君の名は。』においては、神の力による「結び」がのちに時間と空間を超える二人の運命を結びつける。
すなわち、『君の名は。』においては「結び」による神の力を信じること、運命に身を預ける人々の姿が描かれていたのに対して、本作においては運命を見届けるイオルフたちの姿が浮かび上がるだろう。
しかしながら、これは人間離れした特殊な境遇にあるイオルフだけの話ではない。勿体無いと評される、エリアルの子供が生まれるシーンを思い起こそう。
勿体無いと評される理由は、赤ん坊が生まれるショットと、反乱によって人が殺し合うショットを交互に入れることによって、生と死の二項対立を明確にしたからだ。
特に序盤から殺人や老衰による死が繰り返し登場し、マキアやレイリアを戸惑わせる。
生と死の連続を乗り越える中で、家族の形や異族種による交流に物語の焦点を当ててきたことを考えると、この演出は惜しいと言わざるを得ないだろう。
さらにこのシーンを家庭という視点から見れば、反乱で死と向かい合わせになって戦うエリオルの男性的役割と、赤ん坊を産むために奮闘するマキアたちの女性的役割を端的に描写している。同じ場面で苦しみ続ける両者の姿は、ジェンダーバイアスに対してどのようなメッセージを投げかけているのだろうか。
このシーンから浮かび上がるのは、機織のヒビオルが象徴する永遠性が持つ残酷な二面性である。
止まることのない時間の経過の中で、「人の排除と歓迎の繰り返し」が人間社会を成立させている。そこに経済や政治、宗教が発生するからだ。生態学的に述べるならば、死の連鎖と生の連鎖が人間社会を発展させるための必要条件なのである。
生と死の連鎖はランダムに、そして確実に訪れ人間は逃れることができない。
本作で描かれる人間たちは、「神が失われつつある時代」において、箱庭の中で蠢き続けるように、人間を操り続ける不可解な運命の下で人生を全うしなければならないのだ。
ヒビオルを織り続ける長寿の一族「イオルフ」は、このような人間の姿をただ眺めることしかできない。
マキアが人間の生誕から死去までを見送る時、神の視点を獲得したにも関わらず涙を堪えることができない。それは私たちが悲しい出来事に立ち会った時、または過去を振り返る時に、「ただ傍観者としてしか存在できない」私たちの苦しみを体現してはいないだろうか。
◆4◆
さて、マキアとレイリアが合流するシーンで、故郷を離れた後の出来事を忘れるか否かという会話がある。
忌々しいメザーテ王国での記憶を忘れたいと述べるレイリアに対し、マキアは忘れないと力強く宣言する。母親としての役割を離れた彼女は、記憶への依存を肯定せざるを得ない運命を受け入れていた。
筆者は、この態度は違った意味で彼女の人間(?)性を明らかにしているのではないかと考える。
そもそも、故郷を離れたマキアは自身の生業を失い自分の存在意義を問われることになった。
しかし盗賊に襲われ全滅した流れ者の部落で、刺殺された母親らしき人が抱いていた赤ん坊を引き取る為、赤ん坊を押さえる彼女の指を一本一本力を入れて曲げていく。
バロウの忠告をよそに、彼女は「おもちゃじゃない」と主張しながら赤ん坊を抱きしめた。これは、他の部族と会ってはならないという「イオルフ」の掟を犯す行為であった。
しかしながら、◆1◆で述べた通り彼女は一時的に「母親」という役割を用いたにすぎない。
彼女は人間とは違う生態から、歴史の傍観者として赤ん坊を見ることしかできない。
そして、その赤ん坊へ依存していくしかない彼女は「本来的な意味で母親になっていなかった」。
貧しい環境で生きざるをえない赤ん坊、すなわちエリアルの成長と衰弱の中で、彼女はただ自分の存在意義を見つめ続けることができたのだ。
まさしくエリアルはマキアによる人文科学的な観察対象であり、その意味で皮肉にもマキアはエリアルを「おもちゃ」として見てきたのではないか?
この説は一族の掟を破った彼女の主観的選択から導かれる、一つの結果論であると言えよう。
しかし、SFと社会の関係を巡るよくある通説に従えば、私たちの社会が悪くなっていくこと、すなわちSFで描かれてきたディストピアの世界が現実味を帯びているのは、私たちの主観的選択の結果だからである……
ここで『君の名は。』における重要な展開、「結び」によって起きた主人公たちの体の入れ替えを思い出すのは有益だろう。
体が入れ替わった後で、温情を理由にして彼らは入れ替わった相手の人間関係を変えてしまう。
例えば、男子高校生である瀧と入れ替わった三葉が、瀧が勤めるバイト先の先輩である奥寺先輩とのデートをセッティングする。
初めてのデートに緊張し戸惑う瀧は、会話を続けることができずに、奥寺先輩から「別に好きな人がいるみたいね」と言われ別れてしまった。
この場面では、三葉が瀧の姿を借りて「奥寺先輩が興味を持つ瀧の像」を演じることにより、幸せを手にする瀧の像に理想を見出していた。
そして、糸守町で起きた彗星を巡る事件を機に、時空と現実を超えたカタワレドキの瞬間、三葉は「理想としていた瀧の像」に出会う。それは、もう手に入れることの出来ない、そして記憶に残すことも出来ないかもしれない他人の像だったからこそ理想として輝いていた。
したがって、二人の体の入れ替わりが招いたのは、運命的な出会いではなく、相手の「人となり」を操作し他人からの見え方を変えること、つまり他者の仮面を巡る闘争だったのではないか。
非現実的な境遇を理解していた三葉にとって、瀧と出会うことは「理想としていた瀧の像」に対峙すること、すなわち自分の垢にまみれた仮面を取り戻すことを意味していた。
これは、カタワレドキという瀧の像に対する理想が最も崇高な形で成立する時に実現したのだ。
『君の名は。』で起きた体の入れ替えは、入れ替えの記憶を通じて「求めざるをえない相手」を探し続けること、すなわち運命に身を委ね続けることで、逆説的に主観的選択としての未来を避けることができた。
しかしマキアは、歴史の傍観者あるいは運命を見届ける人として母親の役を引き受けていたにも関わらず、ある意味反現実主義者のように主観的選択に身を託した。だから、子育てや人間社会の生業を通じて壁にぶつかった。
自分の主観的選択によって巻き込んだ人間の運命を、科学の枠組みで捉え直すこと……これは彼女だったからこそ人間社会で行使できる、特権的な振る舞いだったのではないだろうか。
参考文献
岡田麿里(監督・脚本)、2018、『さよならの朝に約束の花をかざろう』P.A.WORKS。
新海誠(監督・脚本)、2016、『君の名は。』コミックス・ウェーブ・フィルム。
細田守(監督・脚本)、奥寺佐渡子(脚本)、2012、『おおかみこどもの雨と雪』スタジオ地図。
※本稿は、2018年2月に公開された岡田麿里初監督作品『さよならの朝に約束の花をかざろう』のレビューである。特に友人Kには、有益なアイデアを頂いたことに感謝する。