世界一 可愛い子に 生まれたかった

ごきげんよう
@mira_yume_chanこと、さらです。


『世界一 可愛い子に 生まれたかった』
これは、みなさまご存知、田村ゆかりさんの名曲『fancy baby doll』のサビの部分の歌詞です。知らない方は、ぜひ検索してお聴きになってください。
初めてこの曲を聴いたとき、わたしは涙を流しました。これからわたしは自分の人生とめくるめく「かわいい」と「ブス」の遍歴について書いていこうと思います。そんなの誰が興味があるのでしょう。知らない。ただ、わたしが書きたいから書きます。

 


〈第一次かわいい期〉
この世に生まれて、わたしは「さら」と名付けられた。水が流れるような、絹糸がなびくような、美しい名だ。
わたしをさらと名付けた父は、わたしを蝶よ花よと可愛がった。家にはとんでもない量のわたしの写真が貼られたアルバムがある。わたしは一日に数え切れないほど「かわいい」と呼ばれて過ごした。それは空気のようにあるもので、なんら特別なものではなかった。
服飾学校を出た母は、フリルやレースのついた少女趣味たっぷりのスカートやワンピースをたくさん買い与えて、わたしを着せ替え人形にした。わたしは5歳で既に、母のマニキュアを自分の爪に塗れるようになっていた。保育園では男の子三人に求婚され、“ゆり組さん”で、わたしは三好くんと初めてのキスをした(ちなみに、三好くんは求婚三人組の中にはいなかった)

 


〈万能期〉
小学生のころ、わたしはよく勉強ができた。体育も図工もよくできた。俗に言う“優等生”の類だ。毎年、学級委員に選ばれて、児童会に所属する、真面目で目立つ、そんな子供だった。「かわいい」と特別もてはやされることはなかったけれど、わたしのことが好きだと噂される男の子は常に存在していた(小学生の“好きな人”なんて、クラス替えの度に変わってしまうようなものだけど)。
小学六年生のわたしは、中学受験をすることを決めた。いつごろか定かでないが、わたしをとろとろに甘やかしていた父は目の前から消えていた。母子家庭になった家にはお金がないので、某国立大学の付属中学校を一つだけ受験した。そして、合格した。

 


〈ブス期〉
進学した中学に、知り合いはほとんどいなかった。
一年生の一学期の始め、人間関係でつまずいてしまったわたしは、あっという間にクラス中、学年中からいじめられるようになった。
毎日のように「ブス」「死ね」などと言われた。
お弁当のときやグループ作業で班を作るときは、絶対に机をくっつけてもらえなかった。体育の準備運動では誰もペアを組んでくれなかった。遠足や写生会の際のお弁当は全て一人で食べた。運動会では本番ですら、誰もわたしと手を繋いでフォークダンスを踊ってくれなかった。机やノートへの落書き。いつだか「お前の顔が正面にあるとメシが食えない」と言って、クラスの男の子が、お弁当のネギだけを器用に摘んで食べていたのを思い出す。残りは飼っている犬に食べさせるのだと言う。犬はネギ食ったら死ぬからな、と。
「死ね」と言われたことは理解できた。でも死ぬのは怖いので、わたしは体を切り始めた。テンプレに従って手首を切っていると、わたしをひどくいじめている女に、ブラウスの袖をめくられて、手首の傷をクラス中に披露させられたので、それからは太股など、見えない部分を切ることになった。生徒手帳にカミソリの刃を挟んで、いつでもどこでも体を切っていた。

しかしながら、わたしは疑問だった。
二重のぱっちりした目を持ち、校則を守ってさらさらの髪を耳の下で髪を二つ結びにして、日焼けに気をつけている、ほっそりとした体形のわたしは、本当にブスなのか?
天然パーマでちりちりの髪、糸のような目をした、はち切れそうなふくらはぎを持つ、真っ黒に焼けた女の子たちでなく、なぜわたしが、わたしだけが取り立ててブスと呼ばれるのか?
客観的に見て、自分はそこまでのブスではないと思った。たとえ特別かわいくなくても、クラスで一番の、学年で一番のブスではないと思った。(この尊大な自意識が、いじめられる要因でもあったに違いない)

それでも、教室に一歩足を踏み入れると「ブス」のシャワーがわたしに降り注ぐ。だんだんとわたしは頭がおかしくなった。鏡が見られなくなり、持っている手鏡をすべて油性ペンで真っ黒に塗りつぶした。今まで撮った写真やプリクラをハサミで切り刻んだ。

そして14のとき、わたしのことを「かわいい」と言ってくれる21歳のおにいさんとセックスをした。
そのころのわたしは学校では一切口がきけなくなっていた。場面緘黙というものだ。なにも言えないわたしに、クラスメイトたちは卑猥な言葉を投げかけるゲームを始めた。「さらさん、〇〇って知ってる?」「××って知ってる?」数名の女子たちがわたしの机に群がって、言いたいだけ言って、笑いながら去っていく。その様子をクラス中が好奇の目で見つめている。

「全部、昨日やってきた」

心の中で小さな反抗をする。それだけがわたしの心の拠り所だった。クラスメイトより性的に進んでいること、単語を単語で終わらせないこと。おにいさんはわたしに川本真琴を聴かせた。「成長しないって約束じゃん」おにいさんはセックスのたび、わたしの太ももの傷を舐めた。内緒の共有。わたしのことをわかってくれるのは、この人だけだと固く信じていた(後に、彼は自分と同じ年くらいの彼女を作り、紙くずのようにわたしを捨てる)。

 


〈マンネリ期〉
中学のクラスの約半分が隣にある高校に進学するような学校だったので、待遇はほとんど変わらなかった。わたしをひどくいじめていた人たちはあまり勉強ができなかったので、レベルの低い高校へ進学し、物理的に離れはしたが、わたしが中学でどのような扱いをされていたかは、なんとなく広まっていくものだ。
高校に入って、わたしはぷつりと糸が切れたように学校に通えなくなった。高校三年になる前の春休み、トラベルミンシニアを十箱飲んで、初めての自殺未遂を図った。失敗して半年くらい幻覚が見え続けた。それくらいしか高校時代の記憶はない。
ただ、卒業の際に有志が作った小冊子に「なんでもランキング」というものがあったのを覚えている。クラスで一番かわいいと思う人、かっこいいと思う人、おもしろいと思う人などなどさまざまなランキングがある中、わたしは「大学デビューしそうな人」二位として名前が挙げられていた。薄ら寒い嫌がらせだ。しかしこれが、わたしの後の人生を暗示しているとは、夢にも思わなかった。*1

 


〈第二次かわいい期〉
わたしは第一志望だった東京の公立大学に落ちて、京都のd女子大に入学した。そこは成金の女の子にあふれていて、授業もつまらなく、わたしは共学のd大学の演劇サークルに入り浸ることになった。わたしの通っていたキャンパスは京田辺京都府奈良県との境目、とてつもない田舎)にあったのだが、稽古場は京都市内の今出川キャンパスにあった。近鉄と地下鉄を乗り継いで、授業が終わると毎日千円以上かけて、往復をした。
不思議なことに、わたしはそこでふたたび「かわいい」と言われ始める。ちょうどAKBが流行っていた時代だった。黒い髪を胸まで伸ばし、前髪を斜めに流していたわたしは、やれ、まゆゆに似てる、やれ、ゆきりんに似ている、と先輩や同期にかわいがられるようになった。頻繁に美少女役をあてがわれた。そのあたりからお化粧を覚えた。BBクリームを塗り、おしろいをはたき、ベージュのアイシャドウをしてマスカラを塗る。ささやかなものだった。それでも「目が大きいね」「まつげが長いね」と言われるのは、うれしかった。
夏に、恋人ができた。恋人は一日に100回くらいわたしのことを「かわいい」と呼ぶので、辟易してしまった。もっとかわいい人はいる、モデルの〇〇とか、女優の××とか、と言うと、彼は「さらが世界で一番かわいい」と間髪入れずに答えた。幸福だった。そのような生活の中で、だんだんと、自分はやはりかわいいのでは? と思うようになった。
演劇サークルは週に五日、本番前は毎日練習がある。小屋入り*2の一週間は、授業に出ることも許されない。あれはサークルというよりほぼ部活だった。アルバイトをする時間がないけれど、家賃も払うのも苦しいような状態だったわたしは、手っ取り早くお金を稼ぐため、祇園の会員制ラウンジに応募をした。面接はあっさりと受かった。


〈混乱期〉
周囲からふたたび容姿を褒められるようになったことは、初めは確かにうれしかった。でも、次第に、わたしはこの世のことが信頼できなくなった。自分は本当はかわいいのか、ブスなのか、どっちなんだ?
演劇にのめりこんだわたしは、次第に大学に通わなくなった。3年で40単位くらいしか取れなかった。ああだこうだしている内に、恋人が死んだ。精神科の閉鎖病棟に入った。大学を辞めた。そしてサークルクラッシュ同好会に入会した。なにがサークルクラッシュや。サークルどころか人生がクラッシュしていた。元々精神不安定だったわたしはさらに精神不安定になり、さまざまな男の子と“親しい仲”となった。×××なんて当たり前 とても人に言えないような 酷いことならなんでもやった*3

彼らはこぞってわたしのことを「かわいい」と呼んだ。荒んだ生活の中で、それだけが唯一の心の安寧だった。


〈安定期〉
長い混乱期を経て、わたしは今年で28になった。

インターネットで原料を取り寄せて化粧水を作り、一週間で使い切る。最近、右目の下と右唇の下以外のホクロを全て取った。月に一度、毛穴を目立たなくさせるためのレーザーを当てている。なかなか強い施術で、一度当てると一週間は人と会えないようなボロボロの状態になる。肌によいとされる漢方を一日に三度飲み、使っている化粧品のほとんどはデパートで揃えたものだ。美容院では、生まれつき色素が薄い人みたいな色にしてください、とオーダーする。美容院専売のシャンプーとコンディショナーとトリートメントを使っている。至近距離で見られても気づかれないようなサークルレンズを入れている。塗っているとわからないような薄桃色のマニキュアを塗っている。残した目元と口元のホクロを、化粧の最後に茶色のアイライナーで、より印象的になるように書き足す。

きっと、わたしは同じ年の平均的な女性よりも、美への関心が高いのだろう。今年の春に京都から東京に引っ越した。現在は週に数回、銀座のミニクラブで働いて生活をしている。
どうしてだろう、今は自分のことを特別かわいいとも、ブスだとも思っていない。このパーツは優れているが、このパーツはイマイチだ、でもトータルで見るとまあ見られない顔ではない、と判断している。ただ、化粧の技術は格段にアップした。ものすごい手法でありえないほどの胸の谷間を作れるようにもなった。「AKBにいそう」から「女子アナにいそう」になった。外出してから家に帰るまで何度もナンパに遭う。でももう、いやだともうれしいとも感じない。東京はそういう街だと思っている。


『世界一 可愛いって 今日も言ってね』
そのような気持ちはまだ、存在している。
でも、それは『何万回 言われても まだ不安』なのだ。
出勤前、カシミアの白いコートをまとって鏡に向かってほほえむわたしは、女子アナのようにも悪魔のようにも見える。一見すると清楚だがよく見るととても性的に感じるように作りあげられたわたしの容貌。「かわいい」という言葉は、もはやわたしを表さない。ふと、わたしは自らが「かわいい」から「うつくしい」の世界に足を踏み入れたことに気がついた。

 


これを人*4に読ませると「当たり障りがない、本当にやばい部分は書いてないね」と言われた。そんなの書くわけないじゃん。
このようなナルシスティックにも程がある自分語りを最後まで読んでくださって、ありがとうございます。わたしは自分のことが大好きみたいです。そして、わたしのことが好きでも嫌いでもいい。どんな感情でもいいから少しでもわたしを想ってくださる、わたしのことを考えて時間を費やしてくださった、あなたのことを愛しています。

*1:ちなみにランキングの一位であった女の子は、某有名国立大学に進み、ベトナム語を身につけ、今は現地で日本語学校の先生としてバリバリと働いている。大学どころか世界にデビューした彼女のことを、わたしは心から尊敬している。

*2:公演直前に、ホールに入って舞台を作ったり、照明や音響の準備をしたり、幕を張ったり、実際に舞台で稽古をしたりすること。

*3:友達なんて誰も居ない わたしきっと死んだら絶対地獄に堕ちるわ

*4:意味深でしょ。